monologue
夜明けに向けて
 



籠屋の娘である「かぐや姫」が籠屋姫ではなく「家具屋」の娘であるかのように「かぐや」と名付けられた謎をバイオテクノロジーの遺伝子工学から読み解くためにDNAについて以下に簡単に説明しておく。
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 DNAとはデオキシリボ核酸(deoxyribonucleic acid)の略語のことで、
生物の細胞の主成分である蛋白質を合成するためのプログラムを記した譜面あるいは設計図である。
DNAを構成するのは糖とリン酸と塩基。そのうちの塩基が譜面で言えば音符のような符号であり書類なら文字。
DNAの塩基は、A(adenine)アデニン、T(thymine)チミン、 G(guanine)グアニン 、C(cytosine)シトシンの四種類。
その四つの塩基からたとえばATGのように三つ選んで並べた塩基配列(コドン)を遺伝暗号(gene code)と呼んで塩基配列(コドン)の数は六十四種類ある。
それらを様々に組み合わせて設計図は描かれている。 塩基配列によって指定されたアミノ酸を順に使用して蛋白質を合成する。

DNAに書き込まれた設計図を読みとるとき、まずDNAからRNA(ribonucleic acid)、リボ核酸に遺伝情報が転写される。
DNA上ではチミンの配列場所にRNAではU(uracil)ウラシルが組み込まれ、 四つの塩基はAアデニン、Uウラシル、Gグアニン、Cシトシン、となる。
DNA上でATGという開始暗号ならRNA上ではAUGと転写される。このAUGという開始の合図になる塩基配列に対応するアミノ酸はメチオニンで
これが蛋白質合成に指定されて使用されることになる。
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かぐや姫は遺伝子の構造を象徴する竹の節と節の間から見出される。かの女は不死と不死を繋ぐ遺伝子情報「八かける八の64種類」の塩基配列を組み合わせて書かれた設計図を秘めていた。諸説入り乱れて意味不明であった「かぐや」の「かぐ」が示唆しているのはDNAからRNA(ribonucleic acid)に遺伝情報が転写された時の塩基「Cシトシン、Aアデニン、GグアニンUウラシル」の「CAGU」で、あらゆる生物の設計図に使用する塩基を名前にして永遠(不死)を象徴していたのである。ということで「かぐや姫」とは「CAGU八秘め」だったのである。時代が進みDNAの仕組みが解明される時が来ればわかるように仕組んであったのである。どうして竹取物語の作者が現代の遺伝子工学でわかったDNAから転写されるRNAに使用される塩基の名前を知っていたのかといえば、この作者が人ではなく過去、現在、未来の時空を超える存在であるから。
fumio


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かぐや姫伝説について遺伝子工学との関わりを指摘されたので以前書いた「竹取物語」についての考察を載せておく。
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 まず、だれでも知っている梗概を「小学館、大辞泉」より抜き出して記しておく。
『竹取の翁によって竹の中から見いだされ、育てられたかぐや姫が、
五人の貴公子の求婚を退け、帝の召命にも応じず、八月十五夜に月の世界へ帰る』

 とまあ、このような話である。冒頭の部分からじっくりと考察してゆこう。
「いまは昔、竹取の翁といふものありけり、
野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使いけり」
 と「いまは昔」で始まるのは後の『平中物語』や『今昔物語』と同じであるが
その嚆矢(こうし)がこの物語であることは興味深い。
その意味については様々な説があるが、今でもあり、昔のことでもある、時間を超越した普遍的な物語、ということ。

 竹取の翁の名は「さかきのみやつこ、さるきのみやつこ、さぬきのみやつこ」である。
「讃岐造」と書くという。
この名前を覚えておいていただきたい。
「新潮古典文学アルバム3竹取物語・大和物語・宇津保物語」における藤井貞和氏の説によれば翁の仕事は籠作りなので根元の光る竹の筒の中から三寸ほどの人を見つけた時
「わたしが朝ごと夕ごとに見る竹の中にあらっしゃるによって、分かったぞ。
子(こ)とおなりになる人であるらしい」と思う。
この「子(こ)とおなりになる人」の子が籠(こ)とかかっているしゃれ、という。
「籠(こ)とおなりになる人」ということである。
この物語には、軽妙なことば遊びがあちこちにしかけてある。
 
 もしそうであれば、タケノコが生長して籠になることのようだ。 導入部ですでにこの竹の精が実は龍であり、最後に竹冠を脱いで天に昇ることを暗示している。見事な書き出しである。
「竹取」ということばに秘められているのは竹鳥であるらしい。この鳥は飛び立って仲秋(穐)八月十五夜に月に帰ることになる。三ヶ月で竹のように成長して一人前の成人女性の儀礼である、髪あげと裳着(もぎ)をして名付け親「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」に『なよ竹のかぐや姫』と命名される。
この名は一般には若竹のように輝く姫であるから、と解されているが実は、この名は結末の重要な伏線としてあるのだ。 籠造りの籠屋の姫であるからカゴヤヒメ、とも思える。
 なよ竹は、弱竹や萎竹とも書かれるが、三ヶ月や三室戸斎部にみられるような三の数霊の使い方からから考えるとこれは七世(なよ)竹ではないかと思う。この七は七五三の封印の七で四と三に分かれる。となれば四三、世竹であろう。この世のものではない黄泉の世の竹と四三の桔界の中の竹という意味が考えられる。
姫の名前は「籠八秘め」であった。出雲の数八を籠の中に秘めている。
 さて、この象徴的な名を付けた名付け親「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」とはどんな人物であろうか。
ここからは「人文書院、梅山秀幸『かぐや姫の光と影』」を参照しながら論を進めよう。
忌(斎)部氏とは竹取物語の作者と想定されている宗教的な祭祀を司った氏族であるとされる。
平安時代の『古語拾遺』には讃岐の国の忌部氏は毎年朝廷に竹を八百竿献上していた、とある。この八百という数で忌部氏が出雲の霊統であることがさりげなく知らされる。
昔から、嘘の三八(さんぱち)とか嘘八百といって、この数が嘘の代表のように理由(いわれ)なく貶められている。
 江戸時代の国学者、加納諸平は『竹取物語考』において以下に引用するように「三室戸」を三輪山に比定している。
『神南備、三室は、いづれ神地にても有りべけれど、都より遠からず、はた、名も高く聞きたればなり、然らば、三輪大明神は、産土神にて、其社の祝部の中にて、親族なる斎部氏をよびたるにあらん。
抑人生まれて、氏神、産土神に詣づる事は、中古の書にも見え、今も然にて、いと古くよりの例なめれば、其社の祝部して祷言して、名を付けさするも、亦、古例なるべきを、
今はをさをさ聞えず』
 ということは「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」とは大神神社の祝部ということになる。「あきた」は穐田とかかれるのであろう。
なんとここでも三輪山の祭神、大物主、饒速日尊が隠していた姿を現した。
この物語はニギハヤヒの霊が忌部氏にチャネルして書かせたらしい。
竹取の翁の名は讃岐造(さかきのみやつこ、さるきのみやつこ、さぬきのみやつこ)であった。「さかきのみやつこ」を「酒鬼(穐)の造」ととれば酒の神、大物主(ニギハヤヒ)である。「さるきのみやつこ」は「去る鬼の三八つこ」でAMATERASUの逆読み「う去れ霊」を思い出さされる。讃岐(さぬき)なら日向の数霊三を抜く宮つ子となる。
どうしてニギハヤヒがこのような物語を忌部氏に書かせたのかと考えるとその時代の為政者たちの愚かな行動を戯画化した風刺であったらしい。
 加納諸平は求婚する五人の皇子を
石つくりの御子-丹比真人島
くらもちの御子-藤原朝臣不比等
右大臣あべのみむらじ-阿部朝臣御主人
大納言大伴のみゆき-大伴宿禰御行
中納言石上のまろたり-石上朝臣麻呂
と比定して、みかどを707年に二十五才で夭折した
繊細で感性豊かな天皇、文武天皇とみている。
かれはそのたよやかな性ゆえにかれらの傀儡にされていた。
この竹取物語の原典らしい民話を百田弥栄子氏が発見して話題になったことがある。それはチベット地方の説話『班竹姑娘(はんちくこじょう)』という求婚難題譚であった。
内容はほとんど変わらないが大きな違いはチベットでは富士山が関わらないことである。
 竹取物語の結末はなぜか唐突に富士語源説話となり、それゆえ、かぐや姫はその神、
木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)とみられている。ここで、かぐや姫の正式名が「なよ竹のかぐや姫」であったことを思い出していただきたい。
「なよ竹の」は「よ(節、夜、世」「ふし」にかかる枕詞なのだ。
なよ竹のかぐや姫とは富士(不死)の姫ということを暗示する名前であったのである。
そのことが結末において露(あらわ)にされる。最後に、昇天するかぐや姫は不死の薬をおいてゆくがみかどはかぐや姫がいないこの世で不死の薬をのんで、長生きしてもしかたないので焼かせてしまう。そのことが文武天皇の夭折と重なる。不死の薬を飲んでいれば死ななかったかのようだ。実際は傀儡を必要としなくなった者たちの呪術によって斃(たお)されたらしい。この時代の皇位継承者たちは傀儡を操る者たちの策謀によってつぎつぎに夭折していった。
結末の原文を以下に掲げる。
『逢うことも涙にうかぶ我身には死なぬ薬も何にかはせむ
かの奉る不死の薬に、又、壷具して、御使いに賜わす。
勅使には、つきのいはかさといふ人を召して、
駿河の国にあなる山の頂にもてつくべきよし仰せ給ふ。
嶺にてすべきやう教へさせ給ふ。
御文、不死の薬の壷ならべて、火をつけて燃やすべきよし、仰せ給ふ。
そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、
その山をふじの山とは名づけゝる。
その煙いまだ雲なかへたち上るとぞ言ひ伝へたる。』
(日本古典文学大系『竹取物語・伊勢物語・大和物語』岩波書店より)

 以上のように最後に富士の語源が語られる。
士(つわもの)に富むからということと不死の二つの意味がかけられている。
その富士山の精、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の名を調べてみよう。「コノハナサクヤヒメ」コはすでにみたように子であり、籠であろう。数霊では五である。
とすれば「五の花咲くや姫」のようだ。かの女はこの世に五の花を咲かせるために地上に降りてきた。みかど(直角三角)の封印の四を不にすれば五の花が開くはずであった。
しかし、みかど(三角)は不死(不四)の薬を拒否した。そのために、四の世が続いた。
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これが遺伝子工学とどのように関係があるのだろうか。
fumio

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出雲の長スサノオの家督を継いだ須勢理比売(すせりひめ)の夫、通称、大国主(オオクニヌシ)と呼ばれている人につけられた「大己貴」という神名の己は「おのれ」「つちのと」「コ」「キ」片仮名の「コ」平仮名の「こ」の元字なので大己貴ならオオコムチやオオキムチと読むはず。大己貴という名前は大己と貴で貴は敬称。スサノオはかれに家督を継がせるとき自分の名前も継がせた。スサノオを音霊逆転法でみるとOONASUSとなる。つまりスサノオは「オオナ主」なのだ。ナは土地を表すので広い地域の主ということ、大国主というのは広い世界の統率者という意味の役職のようなものでスサノオは初代大国主だった。その名前から「オオナ」を継いだが漢字で大名とせず己を入れたのはかれの本名が己等(コト)であったから。普通、神名には尊や命をつけてミコトと読むので普通なら大己尊となるはず。ところが日向からの入植者であったので女王卑弥呼の敬称「大日霎貴(オオヒルメムチ)の貴を使用して日向出身であることを示したのだった。
fumio

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少名彦名は大己貴と対にするために少彦名という名前になったというが
少彦で良いのにどうして名がついているのか。
sukunabikonaと発すると天では音霊を逆転したanokibanukusと響く。
どんな意味があるかと探ると「あの牙抜く主」と一応意味があることばになる。
しかし「牙抜く」がどうもしっくりこない。それで「あの氣場貫く主」としてみる。
そして「あの」がすべての始まりのaと終わりのnではないかと気づいた。
つまり、宇宙の初めから終わりまでの氣を貫く主。そんな秘密が少彦名という名前に込められていた。
少名彦名の最後の「名」はただでたらめにつけてあるわけではなくAからNという重要な音霊を示すためにつけられていたのである。
fumio

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大己貴は変わった名前に見えるが音霊逆転法で調べるとその意味がわかる。
スサノオはsusanooで逆転すればoonasusオオナスス
大己貴はオオナムチでムチの部分だけが違う。
そのoonamutiを逆転すればイツマのオつまり出雲の王という名前なのである。
fumio

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オホナムチ(大己貴)とともに国土を造成し終えて常世の国に行ったはずの少名彦名がなんの用があるのだろう。
大己貴は大国主として出雲大社に祀られて冥界の王となったが現界となんらかの関わりをもとうとしているのだろうか。
fumio

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このところ、少名彦名が気になる。
天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(=ガガイモの実とされる)に乗って波の彼方より来訪しオホナムチ(大己貴)とともに国土を造成した。
『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされるが一般には一寸法師のモデルとして知られている。西欧ではピクシーらしい。

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昨日の「GRACEofJAPAN」はアマテラスの鳥居とされる
夫婦岩で有名な「二見興玉神社」を採り上げていた。
神社本庁昭和37年発行の神社名鑑から「二見興玉神社」 の項を以下に引用する。
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二見興玉神社 旧村社
度会郡二見町江 参宮線 二見浦駅より一キロ
祭神 御食津神 猿田彦大神
例祭 七月 十五日
本殿 神明造 一坪半
由緒沿革 往昔水荒神、三狐神社とも称され、
興玉と三宮社を合祀しもの。
天平年中僧行基が此の地に勧請すと云う。
古来参宮の前にこの浜で沐潮し、これを浜参宮と称す。
明治四十一年二見興玉神社と単称した。
***********************

伝承によれば、二見浦ではニギハヤヒの長男サルタヒコはヒラベ貝に「手」を挟まれて海に沈んでしまい興玉(おきたま)石になったという。どうして興玉石という名前がついたのか。二見興玉神社はサルタヒコがアマテラスである父ニギハヤヒとともに祀られている社でアマテラスのAMATとサルタヒコのHIKOを仲良くつなぐと天ではAMATHIKOとなってこれを地上で読むために逆に直すとOKIHTAMAで興玉となったのである。つまり興玉神石とはサルタヒコひとりの変身した姿ではなくニギハヤヒとの親子二柱の魂が依り憑いている。ニギハヤヒを祀る和歌山の「玉置神社」ではOKIには「置」を使っているがここでは「興」という文字を使用している。「興」は大修館新漢和辞典によると同と舁(二人が両手で物を抱え合う意)の合わせ字で力を合わせて物をかかえおこすことと記されている。すなわち二見興玉神社ではとにかく親子が力を合わせてことに当たっていらっしゃるということを示している。
由緒沿革には「往昔水荒神、三狐神社とも称され、興玉と三宮社を合祀しもの。」と書かれているがその水荒神とはわれらが母イザナミなのである。つまりここにはニギハヤヒ、サルタヒコとイザナミが合祀されている。
fumio

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日曜日の「GRACE of JAPAN」は香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1 の金刀比羅宮(ことひらぐう)を採り上げていた。全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮。
主祭神
大物主命
(相殿)崇徳天皇

主祭神の大物主命とはもちろん天照国照彦天火明櫛玉饒速日(にぎはやひ)命だが、神職の説明は、いつものようにオオクニヌシと混同していた。

それはそうと面白かったのは広沢虎造の浪曲「清水次朗長伝」の「寿司食いねえ」のセリフで有名な「石松金毘羅代参」では、
文久二年の三月半ば、花見時。 次朗長が遠州森石松に、 代官と久六を斬った刀を讃岐の金毘羅様にお礼に納めに行く使いを頼み、翌日石松は清水を発って、真っ直ぐ金毘羅様へ行き 無事に刀「五字忠吉」を納めて、四国を出て大阪見物したということになっているのだが、実は石松は大門を入って、道なりにずっと歩いて境内の途中にある旭社という立派な建物を見て金毘羅大権現本殿と思い込み刀を奉納して引き返したという逸話だった。「バカは死ななきゃ治らない」という石松の代名詞が思わず浮かんだ。さすがは森石松…。
fumio

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昨夜の「GRACE ofJAPAN」は
静岡県熱海市西山町43-1の来宮神社(きのみやじんじゃ)を採り上げていた。

祭神
大己貴命(おおなもちのみこと)
五十猛命(いたけるのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)

社伝によると和銅3年(710年)、熱海湾で網に木の根が掛かる事が三度重なり、漁師があらためると神像のようであったので、近くの松の下に祀って、持っていた「麦こがし」を供えたところ、その夜の夢に五十猛命が現れ、潮騒が耳障りであるとの神託があり、現在地に遷祀し木の根を神体としたので「木の宮」と称したという。五十猛命が姿をあらわす伝承は珍しい。

五十猛神(イソタケル)とは、『日本書紀』『先代旧事本紀』に登場する素戔嗚尊(スサノオ)の子で「イタケル」とも読まれ、、『古事記』では大屋毘古神(オホヤビコ)と呼ばれる。かれ五十猛神は紀伊国「木の国」で林業の神として信仰される。『古事記』で大穴牟遅神(オオナムジ、後の大国主)が逃げ込んだ木国の大屋毘古神なので大己貴命(おおなもちのみこと)と関わりが深いのである。
現在の来宮神社(きのみやじんじゃ)という表記では五十猛神の存在には気づきにくいだろう。
fumio

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今は昔、ある日。見えない衣装をまとった王様がパレードをしていると小さな子供が、「王様は裸だ」と叫んだ。役人が抑えようとしたがついには見物人みんなが「王様は裸だ」と叫びだしたので役人も「そうだ、王様は裸だ」と言った。そこへ警察がやってきて「それは大臣により特定秘密に指定されている。秘密を洩らした政府役人も洩らさせた者も逮捕する」とその場の全員を逮捕した。その後も王様はなにごともなかったかのように裸でパレードを続けているそうな。
fumio

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日曜日の「GRACE ofJAPAN」は愛媛県西条市に鎮座する「石鎚神社」を採り上げていた。その石鎚山には「大天狗」の伝説が伝わりその石鎚山の大天狗を山を開いた役の行者「役小角(えんのおづぬ)」と特定していた。一般にそう信じられているということだった。

ところがこの山には、三十六王子社があり、その三十三番「早鷹王子社」に、代々、石鎚神社の神職を勤めている十亀家に伝わる伝承がある。その神職が語るところでは、
「ある人が女人禁制の石鎚山に十歳になる娘を連れて登山中、早鷹王子社のあたりで弁当を食べようと暖をとるために薪を拾っている間に娘の姿が消えてしまった。そして三年経ったある日、遙拝所の前に、ぼうぼうの髪の女の子が現れた。その 娘の話では自分を連れ去ったのは、鼻が高くて顔の赤い大きな男で、羽根の下に抱えて連れ去られ、大事に育てられたが月のものが始まったので、家に帰された」という。

この「早鷹王子」という名前は早が八々の出雲で鷹はそのハヤがつくニギハヤヒの象徴ということで、ここでもやはりニギハヤヒの影が射す。ニギハヤヒは全国に謎の天狗伝説を残し笑っている。「早鷹」王子などというちょっとしたヒントはスルーされてしまうようだ。なぜかれが三十三番という数を選んだのか。それは
             三
             十
             三
とたてに並べると「王」の字が隠されているのが見える。つまり隠された王、ニギハヤヒだから。そんなジョークめいたヒントをばらまいて煙に巻くのがお好きなようだ。
fumio

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昨夜、つまり八月十五日の夜は有名なかぐや姫が月に帰った夜なので以前書いた「竹取物語」についての考察を載せておく。
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 まず、だれでも知っている梗概を「小学館、大辞泉」より抜き出して記しておく。
『竹取の翁によって竹の中から見いだされ、育てられたかぐや姫が、
五人の貴公子の求婚を退け、帝の召命にも応じず、八月十五夜に月の世界へ帰る』

 とまあ、このような話である。冒頭の部分からじっくりと考察してゆこう。
「いまは昔、竹取の翁といふものありけり、
野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使いけり」
 と「いまは昔」で始まるのは後の『平中物語』や『今昔物語』と同じであるが
その嚆矢(こうし)がこの物語であることは興味深い。
その意味については様々な説があるが、今でもあり、昔のことでもある、時間を超越した普遍的な物語、ということ。

 竹取の翁の名は「さかきのみやつこ、さるきのみやつこ、さぬきのみやつこ」である。
「讃岐造」と書くという。
この名前を覚えておいていただきたい。
「新潮古典文学アルバム3竹取物語・大和物語・宇津保物語」における藤井貞和氏の説によれば翁の仕事は籠作りなので根元の光る竹の筒の中から三寸ほどの人を見つけた時
「わたしが朝ごと夕ごとに見る竹の中にあらっしゃるによって、分かったぞ。
子(こ)とおなりになる人であるらしい」と思う。
この「子(こ)とおなりになる人」の子が籠(こ)とかかっているしゃれ、という。
「籠(こ)とおなりになる人」ということである。
この物語には、軽妙なことば遊びがあちこちにしかけてある。
 
 もしそうであれば、タケノコが生長して籠になることのようだ。 導入部ですでにこの竹の精が実は龍であり、最後に竹冠を脱いで天に昇ることを暗示している。見事な書き出しである。
「竹取」ということばに秘められているのは竹鳥であるらしい。この鳥は飛び立って仲秋(穐)八月十五夜に月に帰ることになる。三ヶ月で竹のように成長して一人前の成人女性の儀礼である、髪あげと裳着(もぎ)をして名付け親「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」に『なよ竹のかぐや姫』と命名される。
この名は一般には若竹のように輝く姫であるから、と解されているが実は、この名は結末の重要な伏線としてあるのだ。 籠造りの籠屋の姫であるからカゴヤヒメ、とも思える。
 なよ竹は、弱竹や萎竹とも書かれるが、三ヶ月や三室戸斎部にみられるような三の数霊の使い方からから考えるとこれは七世(なよ)竹ではないかと思う。この七は七五三の封印の七で四と三に分かれる。となれば四三、世竹であろう。この世のものではない黄泉の世の竹と四三の桔界の中の竹という意味が考えられる。
姫の名前は「籠八秘め」であった。出雲の数八を籠の中に秘めている。
 さて、この象徴的な名を付けた名付け親「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」とはどんな人物であろうか。
ここからは「人文書院、梅山秀幸『かぐや姫の光と影』」を参照しながら論を進めよう。
忌(斎)部氏とは竹取物語の作者と想定されている宗教的な祭祀を司った氏族であるとされる。
平安時代の『古語拾遺』には讃岐の国の忌部氏は毎年朝廷に竹を八百竿献上していた、とある。この八百という数で忌部氏が出雲の霊統であることがさりげなく知らされる。
昔から、嘘の三八(さんぱち)とか嘘八百といって、この数が嘘の代表のように理由(いわれ)なく貶められている。
 江戸時代の国学者、加納諸平は『竹取物語考』において以下に引用するように「三室戸」を三輪山に比定している。
『神南備、三室は、いづれ神地にても有りべけれど、都より遠からず、はた、名も高く聞きたればなり、然らば、三輪大明神は、産土神にて、其社の祝部の中にて、親族なる斎部氏をよびたるにあらん。
抑人生まれて、氏神、産土神に詣づる事は、中古の書にも見え、今も然にて、いと古くよりの例なめれば、其社の祝部して祷言して、名を付けさするも、亦、古例なるべきを、
今はをさをさ聞えず』
 ということは「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」とは大神神社の祝部ということになる。「あきた」は穐田とかかれるのであろう。
なんとここでも三輪山の祭神、大物主、饒速日尊が隠していた姿を現した。
この物語はニギハヤヒの霊が忌部氏にチャネルして書かせたらしい。
竹取の翁の名は讃岐造(さかきのみやつこ、さるきのみやつこ、さぬきのみやつこ)であった。「さかきのみやつこ」を「酒鬼(穐)の造」ととれば酒の神、大物主(ニギハヤヒ)である。「さるきのみやつこ」は「去る鬼の三八つこ」でAMATERASUの逆読み「う去れ霊」を思い出さされる。讃岐(さぬき)なら日向の数霊三を抜く宮つ子となる。
どうしてニギハヤヒがこのような物語を忌部氏に書かせたのかと考えるとその時代の為政者たちの愚かな行動を戯画化した風刺であったらしい。
 加納諸平は求婚する五人の皇子を
石つくりの御子-丹比真人島
くらもちの御子-藤原朝臣不比等
右大臣あべのみむらじ-阿部朝臣御主人
大納言大伴のみゆき-大伴宿禰御行
中納言石上のまろたり-石上朝臣麻呂
と比定して、みかどを707年に二十五才で夭折した
繊細で感性豊かな天皇、文武天皇とみている。
かれはそのたよやかな性ゆえにかれらの傀儡にされていた。
この竹取物語の原典らしい民話を百田弥栄子氏が発見して話題になったことがある。それはチベット地方の説話『班竹姑娘(はんちくこじょう)』という求婚難題譚であった。
内容はほとんど変わらないが大きな違いはチベットでは富士山が関わらないことである。
 竹取物語の結末はなぜか唐突に富士語源説話となり、それゆえ、かぐや姫はその神、
木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)とみられている。ここで、かぐや姫の正式名が「なよ竹のかぐや姫」であったことを思い出していただきたい。
「なよ竹の」は「よ(節、夜、世」「ふし」にかかる枕詞なのだ。
なよ竹のかぐや姫とは富士(不死)の姫ということを暗示する名前であったのである。
そのことが結末において露(あらわ)にされる。最後に、昇天するかぐや姫は不死の薬をおいてゆくがみかどはかぐや姫がいないこの世で不死の薬をのんで、長生きしてもしかたないので焼かせてしまう。そのことが文武天皇の夭折と重なる。不死の薬を飲んでいれば死ななかったかのようだ。実際は傀儡を必要としなくなった者たちの呪術によって斃(たお)されたらしい。この時代の皇位継承者たちは傀儡を操る者たちの策謀によってつぎつぎに夭折していった。
結末の原文を以下に掲げる。
『逢うことも涙にうかぶ我身には死なぬ薬も何にかはせむ
かの奉る不死の薬に、又、壷具して、御使いに賜わす。
勅使には、つきのいはかさといふ人を召して、
駿河の国にあなる山の頂にもてつくべきよし仰せ給ふ。
嶺にてすべきやう教へさせ給ふ。
御文、不死の薬の壷ならべて、火をつけて燃やすべきよし、仰せ給ふ。
そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、
その山をふじの山とは名づけゝる。
その煙いまだ雲なかへたち上るとぞ言ひ伝へたる。』
(日本古典文学大系『竹取物語・伊勢物語・大和物語』岩波書店より)

 以上のように最後に富士の語源が語られる。
士(つわもの)に富むからということと不死の二つの意味がかけられている。
その富士山の精、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の名を調べてみよう。「コノハナサクヤヒメ」コはすでにみたように子であり、籠であろう。数霊では五である。
とすれば「五の花咲くや姫」のようだ。かの女はこの世に五の花を咲かせるために地上に降りてきた。みかど(直角三角)の封印の四を不にすれば五の花が開くはずであった。
しかし、みかど(三角)は不死(不四)の薬を拒否した。そのために、四の世が続いた。
竹取物語の時点ではコノハナサクヤヒメは一応成女とはなったが大地の掟を統べることはできなかった。しかし、月に帰った後ついに、大地の掟を統べる様になったのである。
 コノハナサクヤヒメに比定されるシバの女王とは数霊的には「四八の女王」なのだ。
四から八へ末広がりに開く女王である。
 霊峰富士はこの世と霊界にかけて六芒星、ソロモンの封印を形づくっている。そしてその中は士(つわもの)に富んでいる。霊界で修行を積んだ士(さむらい)たちは今、
封印を解かれて出番を迎えた。
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世界からみれば9月2日が終戦の日だが日本では八月十五日がなぜ終戦記念日になったのか。
それは七五三(しめ)を足せば十五になるから。
fumio

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今は昔、ある所に旭屋という勾玉(まがたま)屋があった。その店の看板は白地に旭であった。
その店の角さんという番頭が人々を高める力を持つ最高の勾玉を作ろうとしてイチローとカズという職人を選んだ。

二人は毎朝、二時に起きて勾玉を磨いた。イチローは機を見るに敏で、旭屋での自分の将来に危惧を抱き、腕を生かして世間に出て他の店を渡り歩いて成功した。
カズの方はその後もひたすらその店で勾玉を磨き続けた。初めは不細工だった勾玉は何年も磨く内に次第に光り始めた。人々はやっとその光に気付きカズの勾玉のまわりに集まった。
そして二十年の月日が経った。 その間にさまざまなことがあり旭屋は経営が苦しくなった。そこで丸さんという番頭が名乗りでて改革に乗り出し、材料費を削った「勾玉増(プラス)」という新製品を売り出した。人々はこの二十年間、カズの本物の勾玉を見てきたので「勾玉増」を「勾玉もどき」と非難した。
 旭屋の店員たちは首をひねった。朝三暮四の猿程度に見なしていた客たちにどうして自分たちにも違いのわからない「勾玉増」を「勾玉もどき」や「勾玉まがい」「勾玉減(マイナス)」と見破られるのかと。
それは、自分の店の勾玉の放つ光が長い間に民衆を照らして高めていたのに、灯台元暗しで旭屋の中の店員たち自身はあまり照らしていなかったからだった。旭屋はどのようにすれば目覚めふたたび栄えるのだろうか。
fumio

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 「卑弥呼」は天照大神とされ「大日霎貴(オオヒルメムチ)尊と表記された。
「霎」(ルメ)は靈と女が重なった文字で一字で霊の巫女であることを示している。
彼女は日霊女(ひみこ)日巫女であって真の天照太神ではなかったが霊をルと読むかミと読むかでヒルメとヒミコに分かれる。するとヒルコとは日霊子なのである。
岩波文庫の注ではルは「神魯岐、神魯弥(かむろき、かむろみ)、神留伎、神留弥(かむるき、かむるみ)」のロやルと同じく助詞のノの意味の古語と見られている。すなわち、ヒルコとは『日の子』のことである。女神の天照大神が日霊女(ひみこ)で卑弥呼であり、男性神である真の天照太神が日の子、ヒルコであった。しかし成長して日となるべきヒルコが頚椎や脊椎の椎(つち)の不備のために立てなかった。
 そこで金星の王子サナート・クマラが約650あるいは450万年前に人類初めの人(ヒルコ)の遺伝子治療のために下天して遺伝子の矯正に乗り出した。
『是に、陰陽始めて遘合して夫婦と為る。産む時に至るに及びて、先ず淡路洲を以て胞とす。意に快びざる所なり。』(岩波文庫 日本書紀)
 記紀におけるイザナギイザナミ両神の生殖行為を表すと思われることばはミトノマグワイで書紀では「遘合」あるいは「為夫婦」または「合為夫婦」という文字を使用して(みとのまぐわい)と読んでいる。『遘』はあうの意で邂逅の『逅』と同じである。古事記の原文を調べると『美斗能麻具波比。此七字以音。』となっていてこの七字を漢字の音で書いてある。美斗能麻具波比という音に意味があるようだ。岩波文庫の注では「『みと』は御所で、ここでは性交の場所、『まぐはひ』は『目合ひ』から転じて交接の意に用いられる。」とある。小学館、大辞泉で『みと』をひくと『(「み」は接頭語。「と」は男性・女性の象徴部・陰部の意)陰部を敬っていう語』と出ている。これが一般的な解釈のようである。このことを生物学から透かし見ると細胞内のミトコンドリア(糸状体)などの語を構成するmito(糸)が蠢きだす。そう、ミトとは糸なのである。神糸(みと)と書けば生物を創造するために神が暗号で描いた不思議な設計図、遺伝子の鎖のループ状の糸、染色体を意味すると思われる。マグワイとはその遺伝子鎖の二重螺旋の糸の縒り合わせのことのようである。文中に失敗の例として淡路洲(あはじしま)が出てくるのは縒り合わせがうまくゆかなかったことを「合わじ縞(シマ)」と象徴的に示しているようだ。
 DNAとはデオキシリボ核酸(deoxyribonucleic acid)の略語のことで、生物の細胞の主成分である蛋白質を合成するためのプログラムを記した譜面あるいは設計図である。
DNAを構成するのは糖とリン酸と塩基である。そのうちの塩基が譜面で言えば音符のような符号であり書類なら文字である。DNAの塩基は、A(adenine)アデニン、T(thymine)チミン、G(guanine)グアニン 、C(cytosine)シトシンの四種類である。その四つの塩基からたとえばATGのように三つ選んで並べた塩基配列を遺伝暗号(gene code)と呼んで塩基配列の数は六十四種類ある。それらを様々に組み合わせて設計図は描かれている。塩基配列によって指定されたアミノ酸を順に使用して蛋白質を合成する。DNAに書き込まれた設計図を読みとるとき、まずDNAからRNAribonucleic acid)、リボ核酸に遺伝情報が転写される。DNA上ではチミンの配列場所にRNAではU(uracil)ウラシルが組み込まれ、四つの塩基はAアデニン、Uウラシル、Gグアニン、Cシトシン、となる。DNA上でATGという開始暗号ならRNA上ではAUGと転写される。このAUGという開始の合図になる塩基配列に対応するアミノ酸はメチオニンでこれが蛋白質合成に指定されて使用されることになる。

 さて、書紀の本文ではヒルコを船に乗せて流してしまったあと、次に火神軻遇突智(かぐつち)を生むことになる。この名前に秘密があって。バイオの方面から見るとわかる。
すなわち軻遇突智とはRNAの四塩基CAGU(カグ)ツチなのである。ツチとは生物の体の生成原料を指すことばである。イザナミはあらゆる生物に肉体を与えるために四塩基のツチを遺して黄泉に去った。イザナギは「唯、一児を以て、我が愛しき妹に替へつるかな」といって泣き十握(とつか)の剣で軻遇突智(かぐつち)を三段(みまた)に斬る。イザナミの提供した原料を前にしてバイオ・テクノロジーに腕を揮ったのだ。これは四つの塩基、A(adenine)アデニン、U(uracil)ウラシル、G(guanine)グアニン 、C(cytosine)シトシンを三つずつの単位(トリプレット)にきったということである。こうしてできた遺伝暗号の一つの配列(コドン)を神とみなして斬った刀の血から八神が化成(な)る、と表現し、そして、斬られた軻遇突智の体からもう八神がなった、と八で括って表現する。八かける八と考えると塩基配列の総数、六十四種類のことを示唆している。ありとあらゆる生物はこの暗号の組み合わせによってできあがるのだ。
 イザナミがミトノマグワイにおいて先に声を挙げたのが失敗の原因とされるのは開始信号の間違いを指している。スタートコードはAUGあるいはGUGなどのような数種の配列のコドンでなければならないのだ。設計図のプログラムの読みとりがうまくできず頚椎あたりの神経の蛋白質合成が不調に終わったのだ。サナート・クマラはデバグに追われて大変だったが成功した。「十握(とつか)の剣」とは制限酵素のことで塩基配列を切るときに使用する酵素である。たとえばEcoRIという制限酵素は5'-GAATTC-3'という塩基配列だけを認識して、この剣(EcoRI)で切断されたDNAは、必ず同じ形の末端を持っていて、 DNAリガーゼという別の酵素で、同じ形の末端をもつDNAどうしをくっつけることができるのである。これが現代の遺伝子組み替え食品や遺伝子治療の基本的技術なのだが サナート・クマラすなわちニギハヤヒはこれらの酵素を使用してヒルコの脊椎の遺伝子の不具合を矯正したのであった。人類はかれの援助によって肉体的自立を果たしたのである。
それが大黒天があの万物生成の女握りの拳相や打ち出の小槌をフルことの意味であった。
fumio





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