monologue
夜明けに向けて
 

加賀  



1960年代、毎日テレビ放送に「みんなの広場」という音楽バラエテイ番組があった。坂本スミ子が司会を務めジャズサックスの古谷充とザ・フレッシュメンなどがレギュラーで出演して、トランペットの日野皓正のバンドも出演して先鋭的なロックフィーリングの演奏を披露していた。この番組は日曜朝の楽しみだった。やがて時代がベンチャーズやアストノーツなどのエレキブームを迎え番組でもエレキバンドをデビューさせると宣伝した。芸能事務所「ターゲットプロダクション」の社長古川益夫がジャズ・ギタリスト加藤ヒロシにエレキバンド結成を指示して加藤が京都のダンス喫茶シアター「田園」に出演していたバンドのメンバーを集めて65年8月に「ザ・リンド」を結成した。ザ・リンドは「みんなの広場」にレギュラー出演して人気を博したが時代はビートルズの登場からヴォーカルグループサウンドに移行した。それで「みんなの広場」の番組中にザ・リンドにもヴォーカル部門「リンダース」を作ると宣伝した。視聴者は楽しみにして何週間も待った。そしてついに67年2月にヴォーカル部門「リンダース」の加賀テツヤのソロ名義で「ギター子守歌」をリリースした。それで演奏部門とヴォーカル部門を合わせて「ザ・リンド&リンダース」という形のバンドになったのだった。
●加藤ヒロシ(リーダー、リード・ギター)
●島 明男(ドラムス)
●宇野山和夫(ベース)
●高木和来(カズキ)(ギター、ボーカル)
ヴォーカル部門「リンダース」
●加賀テツヤ ●榊テルオ
その加賀テツヤは1979年に渡米してロサンジェルスでわたしのバンドSFの相棒中島茂男の住んでいた長屋の一室に居を構え自動車の整備工として働いていた。中島とわたしと加賀の3人でギターのセッションをしたこともあった。1981年1月のわたしたちSFのジャズクラブ「処女航海」でのコンサートに加賀テツヤも色々と手伝ってくれたものだった。加賀テツヤは1994年に帰国したようで14年間ほど米国に滞在してそして帰国後音楽活動を再開してしばらく活動しているうちに肺の持病が悪化して2007年(平成19年)12月30日に持病の悪化による肺病で61才で急死していている。合掌…。
fumio

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )