monologue
夜明けに向けて
 

isi  



大ヒットアニメ「ケイオン」のモデルになった十字屋楽器店からスタート。
1960年代後半のある日曜日、京都市内に遊びに行っている弟から電話があった。「今からギターを持って十字屋の二階に来い」という。京都の三条通にある十字屋楽器店が主催する音楽サークルの演奏会があったのだ。わたしはギブソンハミングバードギターを携えて三条通り新京極角の十字屋に入った。階段を登って会場に着くと多くの人々が楽しそうに演奏会を盛り上げている。ただのコンサートではなくコンテストのようだった。
わたしは弟を見つけて隣に座った。次々にバンドが出てきて得意曲を演奏すると作曲家の山室紘一がパフォーマンスを批評してゆく。先日は大阪で演奏会が開催されて谷村新司のアリスを見出してデビューさせることを決めたらしかった。
出演バンドのひとつに同志社大学在学中の学生たちの「ザ・ヴァニティー」というフォークバンドがあった。メンバーはギターとヴォーカル石塚成孝(いしづかしげたか),ギターとヴォーカル越智友嗣(おちゆうじ)、ウッドベースとヴォーカル井上博(いのうえひろし)の三人。得意曲サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」で聴かせた石塚のリードヴォーカルと切れの良いギターストローク、越智の柔らかいハーモニーの組み合わせは抜群だった。
そして、かれらは日本コロンビアからカレッジフォークとして「ザ・バニティー 愛に吹く風」 というシングルを発売したのだった。十字屋のサークルグループの演奏会は当時のミュージシャンの登竜門となっていたのだ。
fumio


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1965年、男性向け月刊ファッション雑誌「MEN'S CLUB」の募集欄で龍谷大学生加藤和彦がフォークグループ結成を呼びかけ、下京区在住の北山修が妹の自転車で七条通りを東に走り交差点で右に折れて南下して伏見区深草の加藤の自宅を訪ねた。それがフォーククルセダーズの始まりだったのである。
北山修の自宅の北にはジローズの杉田二郎の自宅の金光教島原教会があった。わたしはその近くの島原裏片町に住み高校三年になっていた。北山修の自宅の東の酒屋からのちに「ケメコの歌」でダーツが出てきた。中京区の北野中学校の同級生たちがコメディアン、ジェリー・ルイスの息子のバンド「ゲイリーとプレイボーイズ」の名前をもじった「サリーとプレイボーイズ」を結成してライブ喫茶「ナンバ一番」でグループサウンドの先駆けリンドアンドリンダースに名付けられた「ファニーズ」から東京で「タイガース」へと変貌していった。京都の呉服屋のボンボンの加賀テツヤもリンドアンドリンダースに加入し、その頃の京都には右を見ても左を見てもアマチュアとプロの境ぐらいのバンドがうろうろしていた。演歌界でも西陣出身の都はるみが64年にデビューしていた。運とやる気と才能の量でその後の運命が左右されていった。
そして、わたしが高校を卒業して洋楽にのめりこんでいた頃、京都駅前の「丸物(まるぶつ)」というデパートの屋上に海外ニュースのコーナーがあって、ミッキー・カーチスとサムライというバンドが海外ツアーをしている、という記事がよくあったので憧れた。外国で音楽のツアーをするというのはすごいことのように思ったのだった。
fumio

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