monologue
夜明けに向けて
 



 わが国の七福神の嚆矢が遣唐使であった最澄が唐から日本に戻ってきて天台宗を開くとき、守護神として大和三輪山の三輪明神、饒速日尊(ニギハヤヒ)を勧請して、大国主命の神霊として大黒天を天台宗の守護神に位置づけたことであったのならつぎに祀られた恵比須についても知りたくなる。
 昔「恵比須迎え」という行事があったという。『近世、奈良で正月二日の早朝、吉野の村民が恵比須の絵像を売り歩いたこと』(小学館、大辞泉より)
 なるほど、この神様の奈良、吉野での人気の程がしのばれる。えびすにはざっと「恵美寿、恵比寿、恵比須、夷、戎、蛭子、胡」と何通りかの書き方があるが、「夷、戎、蛭子、胡」の文字には異なる国からの漂着神という意味がこもっている。古来、様々な神に比定されてきて様々な人が説を立てている。大国主と習合された大黒天と並び信仰されるので大国主命の子、事代主であるとされたり、彦火々出見尊という説もある。『南総里見八犬伝』で出雲の八の復活を描いた滝沢馬琴は『烹雑(にまぜ)の記』中巻で日本書紀を引用して次のように説明している。
『神代巻云伊奘諾尊、伊奘冉尊、巳生大八洲国及山川草木於是生日神次生月神次生蛭児雖巳三歳脚猶不立故戴之天磐橡樟船而順風放棄。
これ日神は第一にをはします。月神は第二、蛭児は三郎なり、故に夷三郎と称す』
 イザナギイザナミの国生みのあと、日神月神の次に生まれた第三子で三歳になっても脚の立たなかった、蛭児(ひるこ)が恵比須であるというのだ。この説は馬琴にとどまらず巷間に広く伝承している。その夷三郎の話を要約して以下に掲げる。
『夷三郎は三歳になっても立ち上がれないので小さな葦舟で九州日向の里から海へ流されてしまう。順風に流されて東へ進み、摂津、西宮の武庫(むこ)の浦に漂着した。海から来たということで人々の尊崇を受け没後、廟が建てられた。それが現在の西宮神社である。』
馬琴が引用した部分のあとを書紀にあたって抜き出すると
『日神次生月神次生蛭児雖巳三歳脚猶不立故戴之天磐橡樟船而順風放棄。次生素戔鳴尊』
 このようにヒルコを風のまにまに樟(くす)船で流したあとスサノオが次に生まれている。「恵比『須三郎』」この名をよく見ていただきたい。エビのスサ郎なんと巧妙にこの名に『須佐男』は隠されていたことか。かれは生まれたとき丁度、海老(エビ)のような姿形であったようだ。かれは遺伝子の関係で立ち上がれない素抜きのスサノオであったのだ。その理由を記した部分を書紀から引用する。
『一書に曰はく、日月生まれたまひぬ。次に蛭児を生む。此の児、年三歳に満りぬれども、脚尚し立たず。初め、伊奘諾・伊奘冉尊、柱を巡りたまひし時に、陰神先ず喜の言を発ぐ。既に陰陽の理に違えり。所以に、今蛭児を生む』
 柱を廻って、まずイザナミ神が先に声を発したことが陰陽の理に反して蛭児がうまれたという。しかし、原因はそれだけではなく回転の仕方にもあった。はじめにイザナミが柱の左から廻り、イザナギは右から廻った。それではうまくゆかなかったのでフトマニ占いなどで天意をはかって時日を決めてもういちど交合を試みた。その部分を抜き書きする。
『改めて復柱を巡りたまふ。陽神は左よりし、陰神は右よりして、既に遭ひたまひぬる時に、陽神、先ず、唱へて曰はく、「妍哉可愛少女を」』
 今度は柱の周りの廻り方をお互いに逆にしたのだ。なぜそうしなければならなかったのか。この記述が意味するところは遺伝子DNAの二重螺旋の矯正である。陽神は左より、が『左縒り』のことで陰神は右より、は『右縒り』ということになる。こうしてエビスの遺伝子の二重螺旋は矯正されたのであった。こうしてたどり着いた大黒天がニギハヤヒであり恵比須がスサノオという奇妙な結論の先にはなにが待っているのだろうか。
fumio

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 七福神の福神の数をなぜ七と限らねばならなかったのか。
その理由の出典とされるのは、仏教教典『仁王護国般若波羅密経』受持品(ニンノウゴコクハンニャ ハラミツキョウ ジュジボン)の次の箇所である。『南閻浮提(エンブダイ)には十六大国・五百中国・十千小国有り。その国土の中に七災難有り。一切国王この難のための故に、般若波羅密を購読す。七難即滅、七福即生、萬姓安楽、帝王歓喜す』
(佐藤達玄・金子和弘著『七福神』木耳社より)
この七難七福という句が七福神の数の根拠とされている。
 日本に第一の福神、大黒天をもたらしたのは伝教大師、最澄という説がどの書物にも認められて有力である。最澄が唐から日本に戻ってきて天台宗を開くとき、守護神として
大和三輪山の三輪明神を勧請したという。それで大黒天の形をとった三輪明神が叡山に招かれ大国主命の神霊として、天台宗の守護神に位置づけられるようになった。
最澄はその姿を叡山、止観院を創設したとき政所(まんどころ)の大炊屋(おおたきや)に安置した。このときの大黒は、弁才天、毘沙門天との三面大黒天と言われている。
以来、天台寺院には厨房の神として大黒天像が置かれることになった。筑前の観世音寺には伝教大師作と伝わる国宝の二臂の大黒天立像が安置されている。 
 それでは七福神がどのように成立してきたのか、その過程を「宮田登著『江戸の小さな神々』青土社」の記述を参考にして考察してみたい。
 まず、はじめに十六世紀末から十七世紀初頭に比叡山の厨房の神としての大黒天が里に伝わり、京都を中心に家の福の神として祀られる。その後、海からの幸を携える恵比須と並べて、より福運を願うニ神並祀になる。それだけに満足せず、三番目の福神として水神である女神弁才天が並べられた。これで三福神となって納まりがよくなった。それに三面大黒の毘沙門天も加わえると四福神となるはずだが四の数を嫌って四福神とはしなかった。そこで五番目に布袋和尚を含めて「大黒、恵比須、弁天、毘沙門天、布袋」の五福神が京都では一般的になった。
 ところが、江戸では十八世紀の半ばにかけてまだ増やそうとする動きがおきた。いろいろとあったらしく福助とお福という女中さんも候補に挙がったがはねられた。なぜか中国道教から福禄寿という馴染みの薄い南極星の神を加えられた。京都の五福神に福禄寿を加えただけなら六神となるので福と禄を福禄寿にまかせ、寿だけを独立して寿老人にというように二体に分ける細工をして無理矢理に七神にしたらしい。そのため、寿老人と福禄寿の違いが今でもはっきりしない。寿老人の代わりに吉祥天を入れたり、なんと酒好きの霊獣、猩々(しょうじょう)を加えていることもある。福の神候補だった吉原、桔梗屋の主人、叶福助は文化元年(1804)、福助人形を売り出して八福神にしようとしたが結局、福神の仲間入りは果たせなかった。八の数では福神の封印とはならなかったのだ。

 福神の変遷を辿ると一神から二神、三神、五神、七神、と遷(うつ)ってきた。やはり、四と六をとばして八に達することのない七五三の封印であった。七福神の詣り方は恵方参りになっていてその年の吉方に参ることになっている。神様神様にはそれぞれ縁日があってその日に詣る習慣があるのだが福録寿と寿老人と布袋には縁日がないことを考えると
ただの数合わせのために入れられた可能性が強くなる。無理に七(四、三)に福神を閉じこめるためにはかなりの苦心があったようだ。七転び八起き、七で転んでいた福神たちも八で起きあがろうとしている。
fumio



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 ふと思う。七福神とはなんなのだろうかと…。。それは土地によって変動や入れ替えなどによる諸説があってどの順番が正しいのか、わからないが一応、七福神を挙げておくと
『大黒天、恵比寿、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋』となっている。
寿老人と福禄寿は同体異名であるとして、寿老人のかわりに吉祥天が入ることもある。まず、七福神の代表のような『大黒天』について笹間良彦著『大黒天信仰と俗信』雄山閣出版をひもといて、その名前の由来と出自を調べてみる。   
          ‐ ‐
その名は梵語、Mahakala(マハーカーラ)、摩訶迦羅の訳とされる。
マハーは大で、カーラは黒暗あるいは時間なので大黒は黒の方をとった直訳である。
 『理趣経釈』には「摩訶迦羅は大時の義なり、時は三世無障碍という義なり。是れ毘盧遮那法身の無所不遍なり」とある。 大黒は大時でもあってヴィシュヌの法身というのだ。A(誕生)、ヴィシュヌU(維持)、シヴァM(破壊)に当てはめるとシヴァ(湿婆、Siva)神の夜の姿がマハーカーラである。インドではそれは破壊、死を意味する暗黒の神である。シヴァはあまりにも変身と別名が多く特定が困難なのだが仏教に取り入れられたときの異名、大自在天、摩醯首羅(マケイシュラ) Mahesvaraは三目八 臂(はっぴ)という目が三つで肘が八つのおどろおどろしい姿で三叉戟(さんさげき)を手にして白牛に乗る。(戟は刃が股になった矛の一種)ここまでの情報を吟味してもうすでになにを言わんとしているのか思い当たられた方もあろう。
そう、その通り…。大黒天とはギリシャの時の神、黒の主(クロノス)そのものなのだ。
ウラノスの正当王位継承の印、三叉の鉾は、クロノスに伝わり、現在はポセイドンの象徴となっている。シヴァという名からは富士山の精、シバの女王らしい想定がなされる。
となれば、大黒天=シヴァ=クロノス=シバの女王=コノハナサクヤヒメというおよそこれまで思いもよらなかった奇妙な等式が導かれる。これでは男神も女神も一緒くたでなにがなにかわからない。 神に性別があるのかどうか、heで指すべきかsheを使うべきかあるいはitなのか、といつも迷う。神話学者、故ジョーゼフ・キャンベルはテレビ・シリーズ『神話の力』でシヴァを女神と言っていた。それなら、シヴァがシバの女王であってもかまわない。ところが、シヴァには多くの妻がいる。昼の妻はデーヴィー(Devi)系でその代表がパールヴァティーであり、夜の妻はカーリー(Kari)系で代表は地名カルカッタの由来とされる、カーリーガット(Calighatta)大黒天女である。妻がいるのならシヴァは男神としか思えない。しかし、 大本教の出口ナオは男「厳の霊」(イズノミタマ)を宿し、王仁三郎は女「瑞の霊」(ミズノミタマ)を宿していたという。男は常に完全に男の性だけであるとはいえず何割か女の性質を有している。女もまたしかりであろう。現代においては男より男らしい 女はざらである。大極図にみるように陰陽は互いを包含し合ってひとつの○を形成している。シヴァはその役柄に応じて性別を変え姿を変え現れるのだ。日本に現れたシヴァの一つの姿、大黒天の姿形に注目してみよう。右手に小槌を持つ以前の鎌倉時代から室町にかけての像を見ると親指を人差し指と中指の間から覗かせた女握り、マノフィカ(Manofica)という印を結んでいる。
 その女握り大黒天像の安置されている主な寺社名を以下に挙げる。奈良県生駒郡矢田の松尾寺、奈良県奈良市興福寺南円堂脇の納経所、滋賀県蒲生郡平田村下羽田の光明寺、静岡県田方郡の修善寺、そして、やはりというべきか、饒速日尊(ニギハヤヒ)の奈良県磯城郡三輪神社も。世界各地でグッド・ラックであったり、時には侮蔑的であったり女陰や性交を意味したりするこの不思議な寿力(呪力、珠力)を秘めた拳印相がどうして打ち出の小槌に変わったのか。喜田貞吉博士は『大黒神考』において、女握りは土の印相でツチが槌に変わったという。小槌の面には武道館の屋根に乗せられているようなタマネギ形の火焔球、如意宝珠(チンタマニ)が描かれている。それをフルことは生殖による万物の生成をあらわす。よく知られている正面から見た柔和な作り笑いオジサンの大黒天は仮面で本当の姿は後ろから見ると現れる。まるで道祖神のような屹立する男根そのままで頭巾が亀頭であり、二俵の米俵が睾丸になっている。米俵は子種を内蔵していることの象徴である。背中の袋は全体を包んでいる袋であるが女性の子宮を表すという説もある。逆卍と卍が重なって『田』の字を形成して各地の「田の神」となっても大黒天と見間違(まご)うものがある。インドでシヴァがシヴァ・リンガ(Linga)と呼ばれる陽根そのままの性神として表象されることと通ずる。このことを農耕神としてのクロノスの話に読み替えるとローマではサトウルヌス(Saturnus)と呼ばれたクロノスがウラヌスの陽物を切ってその精液であらゆるものの種を蒔くことで農耕を始め海に落ちた精液からアフロディテ(ビーナス)が誕生したことを思い出す。チタン族の長クロノスはティタノマキアと呼ばれる戦いに敗れて地端(チタン)に追いやられたが再び活動を開始した。クロノスは地の底に追いやられても世界各地でシヴァ神や万物生成の神大黒天の姿やさまざまな仮面をつけて活躍してきた。かれはふたたび立ち上がろうとしている。
fumio


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<夏休み昔話料理講座第十一回>
  献立「桃太郎」その三


 わたしたちにいつとはなく刷り込まれている桃太郎のイメージは鉢巻きと陣羽織姿だが出雲族の象徴数は「八」なので桃太郎の鉢巻きは八を巻くということで羽織は八を折るという意味であった。
 ここでこのシリーズでこれまでみてきたように様々な昔話に潜む出雲と日向の諍いの元を辿ると日本建国の頃に始まる。
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 紀元の始まり頃、中央アジア、パミール高原に天降(あも)りした、天(あま)族は二手に分かれて東方の約束の地を目指した。その地で大同団結をしてマホロバとするために。イザナギ、イザナミを長とする一隊は陸づたいに日本に達して九州日向地方に居住して一人娘ヒミコを設けた。かれらは日向族と呼ばれて象徴となる数は三で、トーテムは八芒星であった。
 一方、別の一隊は海洋を旅して出雲地方に上陸した。こちらは八の数で表され、トーテムは三日月である。このようにどちらの隊も三と八の数を象徴に持ってお互いの数霊の力を分け合っていた。出雲の首長、布都(ふつ)は斐伊(簸)川の流域、鼻高山のふもとでスサノオを生み出雲近隣諸国の平定を終え、やがて大同団結のための九州遠征が始まった。

 日向族は九州の豪族としてあたりを統治していたが、そのころ実質的に日向を治めていたのはすでにイザナギイザナミではなく、ヒミコとかの女を傀儡として操るその義弟達であった。出雲族の、スサノオとヒミコの結婚に義弟達は猛烈に反対したが大同結婚が成立するとかれらは瀬戸内海を渡って四国に逃げ込んで時を待った。そしてスサノオの息子の饒速日尊(ニギハヤヒ)が大和建国のために九州を離れスサノオが亡くなると日向に帰った。かれらの象徴数は四であった。そして、呪術によって日本全国に様々な封印を貼った。『記紀』編纂もその一つである。
しかしそういういきさつを乗り越えて最後には出雲と日向は大同団結してこのカリマホロバを真のマホロバにしなければならない。それが天降(あも)りしてきた目的なのだから…。
fumio



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<夏休み昔話料理講座第十回>
  献立「桃太郎」その二


 『古事記』「黄泉の國」の条

黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本(さかもと)に到りし時、その坂本にある桃子(もものみ)三箇(みつ)を取りて、待ち撃(う)てば、悉(ことごと)に迯(に)げ返りき。ここに伊邪那岐命、その桃子に告(の)りたまひしく、「汝(なれ)、吾(あれ)を助けしが如く、葦原中國(あしはらのなかつくに)にあらゆる現(うつ)しき青人草(あをひとくさ)の、苦しき瀬に落ちて患(うれ)ひ愡(なや)む時、助くべし。」と告(の)りて、名を賜ひて意富加牟豆美(おほかむづみ)命と號(い)ひき。


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 これは「桃太郎」の下敷きになった日向族の祖、伊邪那岐命が黄泉國から逃げ帰る場面である。この時点で日向族にとって桃は一族の守り神になっていたのである。

結論から述べると「桃太郎」はその日向族が出雲族を鬼になぞらえて征伐する説話であった。
老夫婦が桃を割ると中から男の子が生まれた。それが「桃太郎」なのだが「桃」を割ると「木」「兆」が生まれるがそれ以上のことが見えない。そこで「百(もも)」を割ってみる。すると「一」と「白」が生まれる。「白」は九十九(ツクモ)と読み一を上にひくと「百」になってモモと読む。 この世は「白」の世界であり、その白に一を加えた「百」をかれら日向族は象徴にしていたのだ。「白」の世界の王は文字通り重ねると「皇」となる。それが日本一の「桃太郎」の由縁であった。
鬼は、「鬼門(丑寅)北東」の存在で裏鬼門は坤(ひつじさる)で南西であるので桃太郎の従者には羊と猿がふさわしかったが当時、九州は西州と呼ばれ、筑紫の國(筑前筑後)、豊の國(豊前豊後)、火の國(肥前肥後)、日向(日向、大隅、薩摩)の國の四つの國が存在した。出雲は東の方角の寅、卯、辰とみて日向は西州であるから西の方角にある申(サル)、酉(キジ)、戌(イヌ)を対抗する従者に選んだのだ。
fumio

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<夏休み昔話料理講座第九回>
  献立「桃太郎」その一

 今回は国民的お伽噺としてあまりにも有名な「桃太郎」を採り上げることにする。
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あらすじ

 老夫婦の妻が川で洗濯をしていると、大きな桃が流れて来たので、夫と二人で桃を割ると中から男の子が生まれ、「桃太郎」と名付けて育てる。桃太郎は、鬼ヶ島の鬼退治をするために両親からもらった黍団子でイヌ、サル、キジを家来にして鬼ヶ島で鬼と戦い、勝利を収め、鬼の財宝を持ち帰り、故郷に帰る。
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 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の解釈によると
「鬼は、風水では丑と寅の間の方角(北東)である「鬼門」からやって来ると考えられている事から、桃太郎はそれに対抗して、裏鬼門に位置する動物(申(サル)、酉(キジ)、戌(イヌ))を率いた、という解釈があるがしかし丑と寅の逆の方位に当たるのは、申、酉、戌ではなく、未と申である事から、率いている動物には別の意味があるともされる。」とある。

 なるほどそうかもしれない。すこし時間をかけてじっくり料理してみたい。
どんな風味に仕上がるか…。
fumio


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<夏休み昔話料理講座第八回>
  献立「浦島太郎」その三

「御伽草子」原文
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昔丹後の國に浦島といふもの侍りしに、其の子に浦島太郎と申して、年のよはひ二十四五の男ありけり。あけくれ海のうろくづを取りて、父母(ちゝはゝ)を養ひけるが、ある日のつれづれに釣をせむとて出でにけり。浦々島々入江々々、至らぬ所もなく釣をし、貝をひろひ、みるめを刈りなどしける所に、ゑじまが磯といふ所にて、龜を一つ釣り上げける。浦島太郎此の龜にいふやう、「汝生(しゃう)あるものの中にも、鶴は千年龜は萬年とて、いのち久しきものなり、忽ちこゝにて命をたたむ事、いたはしければ助くるなり、常には此の恩を思ひいだすべし。」とて、此の龜をもとの海にかへしける。
かくて浦島太郎、其の日は暮れて歸りぬ。又つぐの日、浦のかたへ出でて釣をせむと思ひ見ければ、はるかの海上に小船(せうせん)一艘浮べり。怪しみやすらひ見れば、うつくしき女房只ひとり波にゆられて、次第に太郎が立ちたる所へ著きにけり。浦島太郎が申しけるは、「御身いかなる人にてましませば、斯かる恐ろしき海上に、只一人乘りて御入り候やらむ。」と申しければ、女房いひけるは、「さればさるかたへ便船申して候へば、をりふし浪風荒くして、人あまた海の中へはね入れられしを、心ある人ありて自らをば、此のはし舟に載せて放されけり、悲しく思ひ鬼の島へや行かむと、行きかた知らぬをりふし、只今人に逢ひ參らせ候、此の世ならぬ御縁にてこそ候へ、されば虎狼も人をえんとこそし候へ。」とて、さめざめと泣きにけり。浦島太郎もさすが岩木にあらざれば、あはれと思ひ綱をとりて引きよせにけり。
さて女房申しけるは、「あはれわれらを本國へ送らせ給ひてたび候へかし、これにて棄てられまゐらせば、わらはは何處(いづく)へ何となり候べき、すて給ひ候はば、海上にての物思ひも同じ事にてこそ候はめ。」とかきくどきさめざめと泣きければ、浦島太郎も哀れと思ひ、おなじ船に乘り、沖の方へ漕ぎ出す。かの女房のをしへに從ひて、はるか十日あまりの船路を送り、故里へぞ著きにける。さて船よりあがり、いかなる所やらむと思へば、白銀(しろがね)の築地をつきて、黄金の甍をならべ、門(もん)をたて、いかなる天上の住居(すまひ)も、これにはいかで勝るべき、此の女房のすみ所詞にも及ばれず、中々申すもおろかなり。さて女房の申しけるは、「一樹の陰に宿り、一河の流れを汲むことも、皆これ他生の縁ぞかし、ましてやはるかの波路を、遙々とおくらせ給ふ事、偏に他生の縁なれば、何かは苦しかるべき、わらはと夫婦の契りをもなしたまひて、おなじ所に明し暮し候はむや。」と、こまごまと語りける。浦島太郎申しけるは、「兎も角も仰せに從ふべし。」とぞ申しける。さて偕老同穴のかたらひもあさからず、天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝とならむと、互に鴛鴦のちぎり淺からずして、明し暮させ給ふ。さて女房申しけるは、「これは龍宮城と申すところなり、此所に四方に四季の草木(さうもく)をあらはせり。入らせ給へ、見せ申さむ。」とて、引具して出でにけり。まづ東の戸をあけて見ければ、春のけしきと覺えて、梅や櫻の咲き亂れ、柳の絲も春風に、なびく霞の中よりも、黄鳥(うぐひす)の音も軒近く、いづれの木末も花なれや。南面をみてあれば、夏の景色とうちみえて、春を隔つる垣穗(かきほ)には、卯の花やまづ咲きぬらむ、池のはちすは露かけて、汀(みぎは)涼しき漣(さゞなみ)に、水鳥あまた遊びけり。木々の梢も茂りつゝ、空に鳴きぬる蝉の聲、夕立過ぐる雲間より、聲たて通るほとゝぎす、鳴きて夏とは知らせけり。西は秋とうちみえて、四方の梢紅葉して、ませのうちなる白菊や、霧たちこもる野べのすゑ、まさきが露をわけわけて、聲ものすごき鹿のねに、秋とのみこそ知られけれ。さて又北をながむれば、冬の景色とうちみえて、四方の木末も冬がれて、枯葉における初霜や、山々や只白妙の雪にむもるゝ谷の戸に、心細くも炭竃の、煙にしるき賤がわざ、冬としらする景色かな。かくて面白き事どもに心を慰め、榮華に誇り、あかしくらし、年月をふるほどに、三年(みとせ)になるは程もなし。浦島太郎申しけるは、「我に三十日のいとまをたび候へかし、故里の父母をみすて、かりそめに出でて、三年を送り候へば、父母の御事を心もとなく候へば、あひ奉りて心安く參り候はむ。」と申しければ、女房仰せけるは、「三とせが程は鴛鴦(ゑんわう)の衾のしたに比翼の契りをなし、片時みえさせ給はぬさへ、兎やあらむ角やあらむと心をつくし申せしに、今別れなば又いつの世にか逢ひまゐらせ候はむや、二世の縁と申せば、たとひ此の世にてこそ夢幻(ゆめまぼろし)の契りにて候とも、必ず來世にては一つはちすの縁と生まれさせおはしませ。」とて、さめざめと泣き給ひけり。又女房申しけるは、「今は何をか包みさふらふべき、みづからはこの龍宮城の龜にて候が、ゑじまが磯にて御身に命を助けられまゐらせて候、其の御恩報じ申さむとて、かく夫婦とはなり參らせて候。又これはみづからがかたみに御覽じ候へ。」とて、ひだりの脇よりいつくしき筥を一つ取りいだし、「相構へてこの筥を明けさせ給ふな。」とて渡しけり。
會者定離(ゑしゃぢゃうり)のならひとて、逢ふ者は必ず別るゝとは知りながら、とゞめ難くてかくなむ、
日かずへてかさねし夜半の旅衣たち別れつゝいつかきて見む
浦島返歌、
別れゆくうはの空なるから衣ちぎり深くば又もきてみむ
さて浦島太郎は互に名殘惜しみつゝ、かくてあるべき事ならねば、かたみの筥を取りもちて、故郷(ふるさと)へこそかへりけれ。忘れもやらぬこしかた行末の事ども思ひつゞけて、はるかの波路をかへるとて、浦島太郎かくなむ、
かりそめに契りし人のおもかげを忘れもやらぬ身をいかゞせむ
さて浦島は故郷へ歸りみてあれば、人跡絶えはてて、虎ふす野邊となりにける。浦島これを見て、こはいかなる事やらむと思ひける。かたはらを見れば、柴の庵のありけるにたち、「物いはむ。」と言ひければ、内より八十許りの翁いであひ、「誰にてわたり候ぞ。」と申せば、浦島申しけるは、「此所に浦島のゆくへは候はぬか。」と言ひければ、翁申すやう、「いかなる人にて候へば、浦島の行方をば御尋ね候やらむ、不思議にこそ候へ、その浦島とやらむは、はや七百年以前の事と申し傳へ候。」と申しければ、太郎大きに驚き、「こはいかなる事ぞ。」とて、そのいはれをありのまゝに語りければ、翁も不思議の思ひをなし、涙を流し申しけるは、「あれに見えて候ふるき塚、ふるき塔こそ、その人の廟所と申し傳へてさふらへ。」とて、指をさして教へける。
太郎は泣く泣く、草ふかく露しげき野邊をわけ、ふるき塚にまゐり、涙をながし、かくなむ、
かりそめに出でにし跡を來てみれば虎ふす野邊となるぞかなしき
さて浦島太郎は一本ひともとの松の木陰にたちより、呆れはててぞゐたりける。太郎思ふやう、龜が與へしかたみの筥、あひ構へてあけさせ給ふなと言ひけれども、今は何かせむ、あけて見ばやと思ひ、見るこそ悔しかりけれ。此の筥をあけて見れば、中より紫の雲三筋のぼりけり。これをみれば二十四五のよはひも忽ち變りはてにける。
さて浦島は鶴になりて、虚空に飛びのぼりける折、此の浦島が年を龜が計らひとして、筥の中にたゝみ入れにけり、さてこそ七百年の齡を保ちけれ。明けて見るなとありしを明けにけるこそ由なけれ。
君にあふ夜は浦島が玉手筥あけて悔しきわが涙かな
と歌にもよまれてこそ候へ。生あるもの、いづれも情を知らぬといふことなし。いはんや人間の身として、恩をみて恩を知らぬは、木石にたとへたり。情ふかき夫婦は二世の契りと申すが、寔まことにあり難き事どもかな。浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。龜は甲に三せきのいわゐをそなへ、萬代(よろづよ)を經しとなり。扠(さて)こそめでたきためしにも鶴龜をこそ申し候へ。只人には情あれ、情のある人は行末めでたき由申し傳へたり。其の後浦島太郎は丹後の國に浦島の明神と顯はれ、衆生濟度し給へり。龜も同じ所に神とあらはれ、夫婦の明神となり給ふ。めでたかりけるためしなり。

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この「御伽草子」では舞台は丹後の國で主人公は「浦島太郎」という名前をもち、年は二十四五の男性となっている。この名は「浦々島々入江々々、至らぬ所もなく釣をし」というように海辺の不特定の地域の長男というだけで特別な情報を排除してあるようにみえる。それでもこの名前をつけた真意を探ると結局、「裏島太郎」ということである。つまり裏の世界に行った男という意味。龜を一つ釣り上げる「ゑじまが磯」は「會者定離(ゑしゃぢゃうり)」の「會島(ゑじま)」であるのだろう。つまり太郎と亀が会った島としてその名前をつけたのだ。龍宮城とは裏の世界、(隔り世、シャンバラ)。ここにはなぜかヒロインの名前は出ていないがわたしたちはかの女の名前が乙姫であることを知っている。乙姫とはもちろん「音秘め」ということ。龍宮城の主「音を秘めた亀」は○の存在で北の玄亀、われらが母、イザナミ。太郎は最後に鶴になって、虚空に飛びのぼるが鶴のイメージは一。夫婦の明神となれば一○の最高神となる。かれらには七百年を玉手筥の中にたゝみ入れることも容易であったと思える。
fumio




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<夏休み昔話料理講座第七回>
  献立「浦島太郎」その二

 では料理の下準備に原文を以下に仕込もう。

『万葉集』(萬葉集)巻九、高橋虫麻呂の水江(みづのえ)の浦の嶋子(しまこ)を詠む歌原文
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春の日の 霞める時に 墨吉(すみのえ)の 岸に出で居て 釣舟の とをらふ見れば 古(いにしへ)の ことそ思ほゆる 水江(みづのえ)の 浦の島子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり 七日(なぬか)まで 家にも来ずて 海界(うなさか)を 過ぎて榜ぎゆくに わたつみの 神の娘子(をとめ)に たまさかに い榜ぎ向ひ 相かたらひ 言(こと)成りしかば かき結び 常世に至り わたつみの 神の宮の 内の重(へ)の 妙なる殿に たづさはり 二人入り居て 老いもせず 死にもせずして 永世(とこしへ)に ありけるものを 世の中の 愚か人の 我妹子(わぎもこ)に 告(の)りて語らく しましくは 家に帰りて 父母に 事も告(の)らひ 明日のごと 我は来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺(とこよへ)に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この篋(くしげ) 開くなゆめと そこらくに 堅めし言(こと)を 墨吉(すみのえ)に 帰り来たりて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三年(みとせ)の間に 垣もなく 家失せめやと この筥(はこ)を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉篋(たまくしげ) 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走(はし)り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消(け)失せぬ 若かりし 肌も皺みぬ 黒かりし 髪も白(しら)けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて のち遂に 命死にける 水江の 浦の島子が 家ところ見ゆ

反歌

常世辺に住むべきものを剣大刀(つるぎたち)汝(な)が心から鈍(おそ)やこの君


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 反歌で常世辺(あの世、隔り世、シャンバラ)に住んでいれば良かったのに自分の心からこんなことになってしまった、というようになるほどこの話しは常世辺での夢のような生活とこの世に帰って現実に目覚めることが主題になっている。

 舞台は日本書紀や丹後国風土記では丹後国(京都府北部の日本海に面したあたり)だが、この歌では摂津国住吉のあたりの入江ということになっている。「水江浦嶋子」は丹後国風土記逸文では「嶼子(しまこ)」。墨吉は今の大阪市住吉区あたり。その摂津国は長髓彦が九州からやってきた饒速日尊(ニギハヤヒ)に妹、三炊屋姫(みかしぎひめ)を娶(めあわ)せて統治させた土地である。かなり奥が深そうだ。
次回は御伽草子の原文も材料に入れて料理してみたい。
fumio


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<夏休み昔話料理講座第六回>
  献立「浦島太郎」その一

 今回は『浦島太郎』を採り上げようと思う。
 まず、あらすじを提示しておくと

『万葉集』(萬葉集)巻九、高橋虫麻呂の水江(みづのえ)の浦の嶋子(しまこ)を詠む歌では、

 水の江の浦島の子が七日ほど鯛や鰹を釣り帰って来ると、海と陸の境で海神の娘、と出会い、常世にある海神の宮で暮らす。三年ほどして、父母に知らせたいと、娘に言うと「これを開くな」と化粧道具を入れる篋(くしげ)を渡され、水江に帰ると三年の間に家や里はなくなり、箱を開けると常世との間に白い雲がわき起こり、白髪の老人になって息絶える。

『御伽草子』のあらすじでは、

 浦島太郎は丹後の漁師で釣り糸にかかった亀を逃がしてやる。数日後、一人の女人が舟で姫の使いとして浦島太郎を迎えに来る。亀を逃がした礼に宮殿に迎えられ三年暮らした太郎は両親が心配になり帰りたいと申し出ると、姫は自分は助けられた亀であったことを明かし玉手箱を手渡す。太郎が帰ると村はもうすでになく近くにあった古い塚が太郎と両親の墓だと教えられる。太郎が玉手箱をあけると、三筋の煙が立ち昇り太郎は鶴になり飛び去る。
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 これは本当に名作で人々のイマジネーションを刺激するよくできたストーリーなのでタイムパラドックスや円盤、アブダクションなどSF的な様々な解釈が展開されているがそちらの方面に足を踏み入れると出られなくなるのでここではSF的な読み方は差し控えたい。
 この料理にはすこし時間がかかりそうだ。まともに仕上がるかどうか…。
fumio


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<夏休み昔話料理講座第五回>
  献立「したきりすずめ」
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 これは『宇治拾遺物語』の「雀報恩の事」の二人の老婦人の話しで雀を助ける婦人のひょうたんからは米がたくさん出て怪我をさせる婦人のひょうたんからは蜂、むかで、とかげ、蛇などが出てきて刺され、死ぬという説話が元になったというのだがまず、以下にその「したきりすずめ」のあらすじを載せておく。
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 ある老夫婦の夫が山で、柴刈りをして弁当を食べようとすると雀がすでに食べて寝ていた。おじいさんは雀に「ちょん」と名づけてかわいがる。
 「おじいさんが家に「ちょん」をおいて山へでかけたとき、おばあさんは洗濯のりを「ちょん」に番させて洗濯に行く。帰るとのりが舐められてなくなっていたので、かの女は「ちょん」の舌を切り、追い出した。
おじいさんは「ちょん」を探しに出る。川で牛洗いにたずねると「牛の洗い水を七杯のまないと教えない。」と言われ飲む。そして馬洗いに「馬の洗い水を七杯のまないと教えない。」と言われ飲むと「竹やぶに行けば、雀の宿がある。」と教えられ竹やぶでついに「ちょん」に出会う。おみやげに大きなつづらか小さなつづらか、どちらかを「ちょん」に選ばせられ小さいほうを選んで帰宅してつづらを空けると宝が詰まっていた。
おばあさんはそれを聞いて大きいつづらを貰うために出かける。途中出会った牛洗いのいうことも馬洗いのいうこともせず竹やぶに入って「ちょん」に会う。おみやげには大きなつづらを選び帰りの道中でつづらをあけると、蛇や百足や化け物が出てくる。
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 まず老夫婦には特定の名前はなく「おじいさん、おばあさん」であるのに対して主人公の雀に名前がついているのが面白い。「花咲爺」の愛犬も不特定の犬ではなく「ボチ」という名前があった。もちろんそれは意味があるからに違いない。この雀の名前は「ちょん」である。なぜか「ボチ」と似ている。金銀財宝や化け物をコントロールする力を持つことなどをみてもこれは神の仮の姿としか思えない。その神の名前が「ちょん」だったのだ。老人は「ちょん」の神探しの旅に出る。それは艱難辛苦を乗り越えて進むわたしたち人類の姿のようだ。
雀が舐めた「のり」とはなにか。他のバージョンでは障子の「糊」の場合もあるようにそれは「のり」と読めなければならなかった。結論をいえばそれは「法」であった。おばあさんは法を「ちょん」に番させて洗濯に出かけた。すなわち「ちょん」は法の番人になって国を治めたのだ。しかしかの女はそれが気に入らず「ちょん」の舌を切り、追い出した。食べたことに腹を立てたのならくちばしを壊すはずだが舌を切ったのは政治への発言を封じたということ。
「雀」とはなにか。「素主目」であったり主皇(スメ)であり、解字すれば少名彦名のフルトリである。フルトリはニギハヤヒであるからやはり反対勢力がかれの影響を排除した裏の歴史が浮かび上がってきた。
fumio



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<夏休み昔話料理講座第四回>
  献立「かちかち山」

 今回は「かちかち山」をまな板に乗せよう。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば
「この話は、もとはウサギがタヌキを散々いじめる後半部だけの内容で、同じような動物説話は世界各地に見られる。江戸時代になって、前半部である、タヌキが悪事を働く部分が付け加えられ、ウサギの行為を正当化する、いわば仇討ちの物語になった。これが勧善懲悪や忠義を重んずる江戸時代の人々に受け入れられ、広まったと考えられる。」という。
 地域によって違うバージョンが多くて混乱するがだいたいのあらすじは以下のようなもの。
 「ある老夫婦の夫が畑を耕しているとタヌキがやってきてまいた種や芋をほじくり返して食べてしまうので、老人はタヌキを捕まえて、老婆に狸汁にするよう言う。タヌキは老婆をだまし、殴り殺して老婆に化けて老人に老婆の肉を煮た料理を食べさせる。老夫婦と親しかったウサギはタヌキを成敗するために柴刈りに誘い出す。ウサギはタヌキの背負う柴の束に火打ち石で火をつける。ウサギが背後で火打ち石を打つ音を聞いたタヌキが「かちかち言うのは何だ」と聞き、ウサギが「かちかち山のかちかち鳥だ」と答える。そしてやけどの薬と偽って芥子を渡す。最後にウサギは木の舟に乗りタヌキは泥舟に乗りたちまち沈み、ウサギはタヌキを櫓(かい)で沈める。」
とこのままではずいぶんおぞましいストーリーなので最後にタヌキが改心して仲良くなるバージョンもある。

 まず「タヌキ」とはなにか。それは「田」を抜いた存在。「狸」から逆卍と卍を重ねた「田」を抜くとケモノ偏と土が残る。ツチは生物を形成する元になるDNAなど。この話しのタヌキはそんな存在なのだ。
ウサギとはツキヨミとしてのニギハヤヒの使者。「火打ち石」は父スサノオが創ったとされている。「かちかち山のかちかち鳥」とは可血可霊山の可血可霊鳥。
最後にウサギが木の舟に乗ることでウサギの正体が明かされるが「木の舟」とは貴船のことでそれは京都市左京区鞍馬貴船町にある貴船神社の神で貴布禰明神、またの名はクラオカミなのである。
日本書紀を参照すると、妻、伊奘冉尊が軻遇突智(かぐつち)を生んで死んだ時にイザナギが軻遇突智を三段に切り分けた剣の頭から滴った血がクラオカミになったという。
そのクラオカミは「小学館、大辞泉」には「くら、は谷、おかみは、龍神の意。記紀神話で、高オカミとともに水を司る龍神。京都の貴船神社奥宮の祭神」とある。高オカミはスサノオのことだからこの話しにもまたスサノオ、ニギハヤヒ親子がかかわっていた。
fumio




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<夏休み昔話料理講座第三回>
  献立「さるかに合戦」

 今回は「さるかに合戦」をまな板に乗せよう。
だいたいのあらすじは以下のようなもの。

 おにぎりを持っている蟹に猿が柿の種との交換を迫る。蟹は交換した柿の種を植えて「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌うと柿がなるが柿が取れない蟹の代わりに猿が木に登り青くて硬い柿の実を蟹に投げつけると蟹は子を産んで死んでしまう。子蟹達は仲間の栗、臼、蜂、牛糞と図って、栗は囲炉裏の中に、蜂は水桶の中に、牛糞は土間に、臼は屋根に隠れる。やがて猿が囲炉裏で身体を暖めると栗がはじけて水で冷やすとき蜂に刺され、牛糞に滑りころげると、屋根から臼が落ちてきて猿は潰れる。
牛糞はきたないので登場しなかったりクリではなく卵が登場して爆発したり牛糞の代わりに昆布に滑るなど様々なバージョンがある。

 さてこの中に盛られた象徴を材料として並べる。
「蟹に猿、おにぎり、柿の種、栗、臼、蜂、牛糞。」
これは申し訳ないが料理するまでもなくお湯をかけて三分間待てばできあがってしまうインスタントラーメンのようではないか。ではお湯をかけて三分間待とう。するとこれらの材料からできあがったのは出雲と日向の闇の歴史。

 「蟹」とは解字すればわかるように「虫」を解けばそれは竜蛇で海洋民である竜蛇族の出雲。出雲の象徴数は八、頭領であったスサノオは牛頭天王というように方角は丑、、その子ニギハヤヒの象徴数は九。日向の象徴数は三で方角は申、それでこの話の「猿」とは申で日向族を示唆している。「おにぎり」とは「鬼剪り」で日向から見てスサノオは怖い鬼でその影響を切ってしまいたい存在だった。「柿」とは市の木で数霊一のカイのこと。

スサノオが植えたカイの種(シュ)すなわち主が立派に育って実(数霊三)をつけると日向族が奪ってしまった。仇討ちをする子蟹(ニギハヤヒ)の仲間は栗(九理)、臼(キュウ)、蜂(八)牛、糞(九祖)とすべて出雲族の象徴で統一されている。クリではなく卵が爆発したり牛糞の代わりに昆布に滑るのでは裏の意味が不明になってしまう。

「さるかに合戦」はただの仇討ちものと思ってでだれでも簡単に色々と違うバージョンを考えそうな話しだが創作過程ではかなり慎重に登場する物を設定してわかるものにだけ伝わるように制作されたようだ。今回の料理は三分間クッキングのようだったけれどお口に合っただろうか…。
fumio



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<夏休み昔話料理講座第二回>
  献立「一寸法師」

 今回は、「一寸法師」を取り上げようと思う。
話の創作意図が他のお伽噺とは別にあるようで興味を覚えるのだ。
    
    <一寸法師>
 これは本当はどう読むのだろう。ギャグでよく言うチョットボウシじゃないだろう。現代人はイッスンボウシと発音しているが室町時代の御伽草子のひとつだからその頃の読み方が正しいのだろうか。    
 古代、寸はキという長さの単位だった。「寸」は見れば解るように十字のチョンということなのである。その意味は「尋」ねる、そして「壽」にも使用されていることでわかる。双方に共通するエとロはべつにエロでスケベということではない。「尋」のヨは手を開いた形である。手にエで左の字、ロで右。古代の巫術(フジュツ)の左右に持つ呪器(ジュキ)のこと。「右」の口はサイというお椀の形。「左」の工はなんと呼ぶか知らないがお椀に入れた占いの紙片を突き刺すもの。「巫」の字の人を除くと工が残る。尋ねるとは左右の手を掲げて「寸」=チョンの十(カミ)に尋ねることであった。「壽」はヨの代わりに十が屋根の上に乗っている。これはめでたいはずだ。ということで、「寸」が長さの単位だけで使われるのではないことがわかる。スンという読みになってもSUNという発音でスのカミの意は残された。さて、長さの単位としての「寸」は後には馬の高さを測るのに用いられた。四尺を基準としてそれより、一寸高ければ一寸(ヒトキ)と呼んだ。
とすれば一寸法師の本当の背丈は四尺一寸、約123センチであったということになる。
小学生並の身長である。同時代の人の平均よりはかなり低い人だったのだろう。現代でも「こびとの国プロレス」などでmidget(ミジット)と呼ばれる方たちが活躍している。そんな背の低い人の話と考えれば、ただの一寸、約、三センチの人の話とするよりは現実的である。だが、現実的だから良いということはない。やはり、お伽噺は夢がふくらむ方がいい。ファンタジーなのだから。一寸法師についても色々仮説を立てている方がある。
 作家の高橋克彦氏は確か、お椀を空飛ぶ円盤に見立てて一寸法師は小さな宇宙人であり、大国主尊の手助けをした少名彦名尊(スクナヒコナノミコト)であると推理していた。
それはそれで面白いとは思うが、その説に踏み込むことは今回の本意ではない。
 ここでは一般的な話を元にして考察する。ご存じない方のために簡単にあらすじを紹介しておく。 
 「指にも足りないような小さな人がお椀の舟に箸の櫂で京(みやこ)へのぼった。
 そして、三条の公家にめしかかえられる。姫のおともで清水へと行く。その帰りの清水坂で鬼に遭遇する。法師は鬼の口に飛び込み、腹の中を針の剣で突く。
 鬼は法師を吐き出して逃げる。鬼の置き忘れた打ち出の小槌をフルと背が伸びて立派な若者となり姫と結ばれ中納言にまで出世した」
 
 さて、一寸法師の話に込められているさまざまな象徴の示すイメージを見てみよう。
 「お椀の舟に箸の櫂」お椀は○のイメージ、そして、箸の櫂は一のイメージがある。 
さきほど見た「尋」と「壽」の文字の元になったサイという巫術からの発想が感じられる。口のお椀と工の突き刺す棒。それを操る寸(き)。壽からエとロをとってしまえば「寺」が残る。主人公は自然に法師が選ばれる。つまり、一寸法師とは、壽法師なのだ。川を上るのはわれわれ人類の霊的生長を暗示している。京へ上るのは双六の上がり。「京」の文字は口であらわされるミヤコに下からのぼってくる形である。
「清水寺」「三条の公家」「法師」「打ち出の小槌」「お椀の舟に箸の櫂」などの意味するところをみると。
 
 「清水寺」清水寺は798年に坂上田村麻呂が創建したとされる。能楽の世阿弥作「田村」では田村麻呂の霊が清水寺のいわれをはなし、観世音の功力(くりき)によって武功を立てたことなどを語る。清水寺の山号は音羽山。ここには「音」が深くかかわっている。これでは清水坂で遭遇した鬼とは怨霊となった田村麻呂としか思えない。
素盞鳴尊→饒速日尊→田村麻呂という鬼の系譜がある。「坂上田村麻呂」の坂と田をとって金太郎、坂田金時の苗字とされたとも考えられる。金時の「時」には日と寺があり、一寸法師の作者と金太郎の作者の創作過程に共通する何かを感じる。

「三条の公家」三の数霊の九家=日向
「法師」「法」は水を去ること、三を去るためにやってきた師。
「打ち出の小槌」この話では「打ち出の小槌」がもっとも大切な要素である。それはもう小道具の域を超えている。一寸法師=打ち出の小槌をフル話といっていいほど。
「お椀の舟に箸の櫂」お椀は○のイメージ、そして、箸の櫂は一のイメージ。○の中で櫂を漕ぐのはセックスのイメージも含む。

 これらの材料を料理すると。
 一寸法師の作者は壽にちなんだめでたい出世噺を書こうとした。そこにはそれまでの陰陽思想を超える究極の真理を伝えようとする創作意欲が感ぜられる。それはまるにチョンを入れることである。 
 まず「壽」から浮かぶイメージを組立て主人公を寸の人(一)として一寸という背丈に設定した。お椀の舟と箸の櫂も巫術の道具と壽の字の関連から発想した。川を上り京へ入ることで一○となっている。待っていた姫は日目で亀であり○の文様。一寸と結ばれると一○。三条の公家は三の支配が終わり三を去る法師によってとってかわられることを暗示して配した。清水坂の鬼は坂鬼で坂上田村麻呂を登場させた。それは法師に打ち出の小槌を与えるための重要な配役。打ち出の小槌をフルことによって人(一)は霊的に完成し○と交(カイ)の一体となることができる。新たな時代への転換点にはフル=饒速日尊の霊力が必要なのである。一○では一と○が離れて見えるが○にチョンが入る日の元の字でなければいけない。そのことによってついに真のアマテラスの時代が始まる。一寸法師はそのことを知らせるメッセージを託して創作されたのであった。
今回はこれまで。
fumio

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  夏休みの季節になったので以前書いた文章を載せておく。
当時より十種神宝についての認識が深まったのでその意味がよく伝わるかと思う。
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<夏休み昔話料理講座>
  献立「花咲爺」
 今回は五大昔話の一つといわれる「花咲爺」を料理してみたい。
 材料となるストーリーをおおまかに書いておく。 
「愛犬家の正直な老人がポチという犬に教えられて、(ダウジング犬なのであろうか)ここ掘れワンワンと、きっと尻尾もちぎれるほど振って「尾もワン」というような状態だったのであろう。裏の畑を掘って大判小判の宝物を掘り当てる。それを見た隣の強欲老人がポチを借りて瓦や貝殻のガラクタを掘り出す。今度は正直老人が掘り出した臼で餅をついたら、また大判小判が出てきた。強欲老人が臼を借りてつくとふたたび、貝殻などガラクタが…。そして、正直老人が枯れ枝に灰をまくと、花が咲き殿様に褒美をもらう。強欲老人が灰を撒くと殿様の目に入って牢屋にいれられてしまった」 
 と、ごく一般的な道徳修身説話のようである。 
   さて、この噺に包丁をいれよう。切り方は不揃いでもご賞味いただきたい。   
 まずポチという犬の名前はあまり耳にすることがなく、昔そんな発音が普通だったように思われない。小さな点のことをポチというらしい。そうすると大の右上に乗っている点のことで点(天)の使いぐらいの意味を含めているのだろう。
 犬が吠えるとわたしなら叱って殴るぐらいで畑を掘り返すことはない。犬がうるさくて閉口して頭にきたのか、やけくそで掘って見せたのか。ほら、なにもないだろう、とでも言おうとして…。それでもとにかく宝を掘り当ててしまった。
 「正直」老人の意味するところは「正」当な「直」系の継承者。その人に宝が与えられる。これは正当な皇位継承の徴、十種神宝であろう。 
  ポチは皇位継承の神璽を与えるために送られた天の使いだったのだ。
  伊波礼彦(神武天皇)に十種神宝を与えたウマシマチのような役割を担ったとみられる。となると、隣の不正直な老人は「正」当な「直」系の継承者でないのに横取りを企んだ者ということになる。隣国、任那からきた崇神天皇一族を示唆しているのだ。
 かれがポチが示したところを掘り返すと瓦や貝殻のがらくたが出てきた、というが実は正直老人と同じ宝を掘り当てたのだろう。かれらにはその価値がわからなかったので捨ててしまった。十種神宝を石上神社に返してしまったのである。  
 臼で餅をついたら、また大判小判が出てきた、というのは錬金術のようである。
これは古代の金属の精錬技術のことだがそれも、直系でない者には伝わらず、銅鐸文化は姿を消した。ただのガラクタを産む技術にみえたのだ。 
  最後に枯れ枝に灰を撒くのはなぜか。「枯」とは古の木、すなわち、布留(フル)、ニギハヤヒの木なのである。それが隣の老人に横取りされて日本という大木の支線、枝が枯れてしまった。しかし、枝は枯れても根(音)は腐っていない。最後に真の皇、灰(カイ)を撒くことによって再び花が咲くのである。
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真の皇(スメラ)は今目覚めようとしている。
fumio



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 紀伊國屋文左衛門の元姓は五十嵐氏。名は文吉。幼名文平。俳号は別所千山。
なにか意味のありそうな名前である。
かれが名をあげ巨万の富を築くことになる紀文伝説プロジェクトに裏から関与したのはだれかを探ろう。
 紀文伝説は、陰暦の11月8日に行われる鍛治、鋳物の商売繁盛を祈願する「鞴(ふいご)祭り」にばら撒いて振る舞うミカンが嵐で海路が閉ざされていたので当時江戸では不足して価格が高騰していたことに始まる。
そこで主人公、五十嵐文吉は蜜柑運搬を決意して蜜柑調達資金を稚日女尊や、絶世の美女、衣通姫を祀る玉津島明神の神官で舅の高松河内から借りて得る。
そして○に十のマークをつけた蜜柑船で嵐の海を艱難辛苦の末乗りきり運搬に成功したのである。
 このプロジェクトには初めから嵐の神と鍛冶屋の神「金山彦」が大きくかかわっていたことがわかる。「金山彦」とは伊邪那美神(いざなみのかみ)が、火之夜芸速男神(ひのやぎはやおのかみ)またの名を火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んだときに陰部に火傷をしてそのときの排泄物から生まれた神、金山毘古神(かなやまひこのかみ)、金山比売神(かなやまひめのかみ)のことである。

 このプロジェクトに裏から関与したのは、資金調達に働いた稚日女尊はイザナミの仮面のひとつであるし、暴風雨の神スサノオ、タタラの神金山彦ニギハヤヒ。かれらは三位一体となって紀州に祀られているがチームワークよくこんな形で陰で支えていたのだ。「一無信士」という墓碑銘、○に十のマーク、「千山」という俳号の「千」は十が回転する印。紀伊國屋文左衛門という人物はかれらの構築した傑作のひとつのようだ。実在性が疑われても伝説としては残り続ける。
fumio



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