てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第9回シネマdeてつがくカフェ報告―『FAKE』 

2016年07月31日 14時22分38秒 | シネマdeてつがくカフェ記録
第9回シネマdeてつがくカフェ記録:『FAKE』 2016年7月29日 フォーラム福島


森達也監督を招いてのシネマdeてつがくカフェが、フォーラム福島で行われました。
視聴作品は、佐村河内守氏をめぐってのドキュメンタリー映画『FAKE』です。
参加者数はこれまでの「ハンナ・アーレント」の最多記録を抜き約110名です!
ほとんどの方は森さん目当てだったと思いますが、それにしても驚異的な数字ですね。
今回は、館内で「SAKAMOTO COFFEE」さんと「RIVER BEACH COFFEE」さんに出店いただき、本格的なコーヒーを淹れていただくことができました。
また、聴覚障害の方々も参加されて、手話通訳付きという哲カフェ初の試みも為されました。
参加された方の中には、健常者の方々の考えを聞くことができてとてもよかったというご感想をいただくと同時に、今回に限らず字幕スーパーによる上映がもっと増えれば聴覚障がい者の世界がもっと広がるので、その機会を増やしてほしいとのご要望もカフェの中で提起されました。
色々な意味で初の試みとなった哲カフェでしたが、議論もまた刺激的なものになりました。

カフェの冒頭、森さんより昨今の正邪、白黒をつけて二項対立的に流布されるメディアの言説への危うさにふれながら、しかし、「この映画のテーマは何か」ということについては自分では答えられない、それは映像の中にあり、観る側に判断してもらうしかないということを語っていただきました。
この映画を撮るきっかけについては、はじめは佐村河内問題について本の出版のオファーを受けたのだけれど、佐村河内氏本人と話す中で「映像向きだな」と思い映画化することにしたとのことでした。
では、その映像の中から哲学カフェの参加者たちは何を探り当てていったのか。
以下、ネタバレに注意しながら世話人から「見えた」対話の過程を記します。

森さんの挨拶の後、30分程度映画に関する質疑応答が交わされました。
「佐村河内氏を信じていたか?」という質問に対しては、森さんは信じるか信じないかは、どちらか100%ということはありえず、そのあいだを絶えず揺らいでいたとおっしゃいます。
たとえば、彼の聴こえ具合もその日の体調によって変わることもあるし、口の動きで言葉を読み取るのも、日常をともにする香さん(佐村河内氏の妻)であれば可能だけれど、他人であればわからないということもある。
聞こえているのかと思えばそうではないかもしれないと思う信と不信の「あいだ」があり、悩みながらどちらでもないと思ってくれてよいとの答えが出されます。
今回の対話の中では、この「あいだ」はしばしば「グラデーション」という言葉にも置き換えられました。
別の参加者から、「映画の冒頭で森さんが佐村河内氏の『悲しみ』を撮りたいと語っていたがそれは達成できたのか」と問いかけがありました。
それに対して、森さんは逆に「撮れていると思いましたか」と問い返すと、「撮れていなかった」という答えがあり、基本的には森さん自身それに同意するとのことでした。
では、この映画では何が撮れていたのか?
この森さん自身の観客への問い返しから、『FAKE』の中にある哲学的テーマを探り当てていくことに移っていきました。

この映画では、嘘か本当かを問うことの中で「失われた想像力」がテーマになっているという意見が挙げられます。
また、この映画のメインは実は妻である香さんであり、彼女と佐村河内氏との関係を観るにつけ、人は根拠があって人を信じるというよりも、むしろ「覚悟を決めて信じる」ということを考えさせられたという意見も挙げられます。
さらには、「自分自身で判断すること」を観る側に突きつけている点が、この映画のテーマではないかという意見も出されました。

想像力、信じること、自分の判断力。
これらの真偽を定める上でのキーワードは、「客観的」に証明されるとされる、いわゆる科学的な真実(事実)とは別の位相を言い当てています。
しかし、これに対して別の参加者は、むしろこの映画はそれらの限界を超えた「平面」においてこそ、拡がりがあるということを表現しているのではないかと述べます。
なるほど、真実は想像力、信じる力、自分自身の判断力に基づくのかもしれないけれど、実は真実はむしろそれを超えるほどに奥行きがある。
逆に言えば、それらをもってして真実と判断してしまうことは、「実は本当はわかっていないんじゃないか?」という自己反省を失っていることになるというわけです。
これについて別の参加者は、「FAKEって悪いの?」と問いかけながら、世にFAKEがいっぱいあるのに佐村河内氏だけがなぜ叩かれるのか、この社会にどれだけ本物があるのか?と問います。
この問いの前提には、偽物に対する「本物」があることが仄めかされています。
「本物」はあるのか、それともFAKEだけで現実は構成されているのか。

すると、「FAKEが真実になるのは何によってか?」という問いが提起されます。
それは私たちの中に「真実めいたもの」を「信じたい」という心があって、それが真実や事実を成り立たせているのではないか。
それを得られなければ、私たちは不安に駆られてしまうし、それが現代社会においては狂気に結びついてしまってはいないだろうか。
だから、真実をファッションのように身につける仕方が、現代社会において蔓延しているという意見も出されました。
これに関しては、やはり「香さんの愛は100%で、本物である」と思ったという参加者から、みんな何かを愛したいから偽物でも真実であると見なすものだと思えたし、そう考えると、結局は嘘でも本当でもどちらでもいいんじゃないかと思えてきたと言います。
そして、「最終場面で流れた音楽」を聞いて涙が出たときにそれを確信したと言うのです。
この「香さんの愛」や「最終場面で流れた音楽」は、今回の対話の中でしばしばキーワードとして登場したものです。

一方、この「嘘でも本当でもどちらでもいいんじゃないか」という意見に対しては、それはそう思うところもあるけれど、嘘にまみれた福島で生きている身としてはどこか違和感があるという意見も出されます。
たしかに、いま生きている世界に嘘も真実もないとなったら…、実は後でだまされていたと知ったら…、果たしてその世界に生きている価値はあるのか。そんな疑問も払拭できません。
しかし、これに対して佐村河内問題のように被害者がいない事件のレベルと、原発事故のように国家の嘘によって被害者が出た事故のレベルを混同すべきではないという意見も出されます。
真実を明らかにする必要があるケースもあるけれど、様々なレベルがある。
その手前でいったん考えよう。
果たして、それは真実なのか、と。
森さんはこのように応えられました。

映画撮影に関わる別の参加者は、映画を観る側としては信じたくなるけれど、ドキュメンタリーを撮る側の立場としては嘘をつきたくなると言います。「ドキュメンタリーは嘘をつく」とはまさに森さんの言葉ですが、編集作業それ自体が嘘になるということでしょうか。
これに対して森さんは、真実は100人いたら100通りあると言います。
観る立場の分だけ真実はあるのであり、全てが真実だったら世界はつまらないというわけです。
ここで、解釈された事実と科学的事実という、二通りの真実が混同されていることを指摘する意見が挙げられました。
今回のテーマに関して言えば、それは前者に関して議論してきたことになるはずです。
そうであるがゆえに、真実を決めるのは自分の判断であり、そこに責任が伴うという意見も出されます。
森さんはドキュメンタリーの演出は、撮る側と撮られる側の相互作用で生まれる化学実験のようなものだと言います。
そして、映画という手法へのこだわりについて、活字は直接話法だけれど、映像は多義性を持つ間接話法だという点を重視します。
つまり見る側に解釈や判断の余地を与えることで、まさに自ら考えさせることを要求するのが、映画等の表現だというわけです。
自ら考えるとは疑うことだと言ってもよいでしょう。
そして、それが真実の前提にあるのではないか。
それに関して、3.11前に原発を100%信じていたという参加者が「だまされた」という怒りをもってあの出来事を捉えたと語りました。
私自身は、3.11以前から原発の安全性を疑わしいと思っていたにもかかわらず、あの出来事に直面したときに覚えたのは「ありえないことが起こった」というものでした。
すると、これは自分で考える=疑うということに値しなかったと言うべきか。
今回、参加された聴覚障害者の方からは、感音性難聴を持つ人が、果たして音楽を創れるのか疑問に思うところもあるというお話をいただきました。
佐村河内氏と同じ感音性難聴を持つ立場から、そうした意見を聞かせていただけるのは、また新しい視点を持てた気がします。
そして、それはやはり誰も証明できないという点では、「わからない」ということでもあるのでしょう。
この「わからなさ」と「疑う」ことのあいだに佇むことの難しさもあらためて感じさせられました。

さて、終盤、私の方から佐村河内問題に被害者はいないというのは果たしてそうなのか、という疑問を呈しました。
問題が起こる以前に彼を扱ったNHKスペシャルの中に登場する人物たちを指してのことです。
これ自体は今回の映画とは関係ないところでの話なので、取り上げることも不適切な面もありましたが、それ以上にある参加者の方から痛烈なご批判をいただきました。
この問題は「佐村河内氏の音楽」が美しいということだけでいいだけのはずなのに、それを後から嘘をついていたとあげつらうのはお門違いだ。少なくとも、彼らは傷ついていないにもかかわらず、「差別的でおかしい」人間が彼らを傷つけるのだというわけです。
残念ながら時間もなかったので、それに対する応答はしませんでした。
録音からも聞き取れないほどの激烈な彼の批判を聞くにつけ、なるほど、私の方に本人たちの与り知らないところで、安易に「被害者」と名指す迂闊があったかもしれないと反省させられたものです。
それにしても私の偽善的な発言を批判しながら、この場面において、彼が「差別的でおかしい」人間というあげつらい方を彼自身に許すのはどういうわけなのか。
真実のグラデーションにおける「他者」との「対話」の難しさを痛感させられるばかりでした。

最後に森さんに議論をふり返っての感想をいただきました。
東北の人たちは寡黙だというイメージとは裏腹に、こんなに福島の人たちが語ることに驚かれたとのこと。
また、自分では気づけなかった『FAKE』のテーマがいくつも提示されたこと。
はじめは「哲学カフェ」と聞いてもピンと来なかった対話の展開に、今までにない新鮮さを感じたという最大級の賛辞をいただき、今回のシネマde哲学カフェを閉じることができました。
私自身、カフェを終えてから森さんに尋ねたいことがいくつも出てきました。
それはおそらく参加された皆さんも同じでしょう。
それだけ『FAKE』の奥深さに感嘆しながら、なお私たちの思考は森さんの問いかけに刺激され続けていくわけです。
どうでもいいことですが、初めて森さんにお会いした瞬間、予想に反するほど背丈がありながらも少年のようなハーフパンツスタイルに、一瞬驚きましたが、やさしい語り口の中にある鋭い思想に参加者一同魅了されたものです。
遠路福島までお越しいただいた森さんにはもちろんのこと、長時間にわたって手話通訳をしていただいたお二人の方々には感謝の念に堪えません。
また、今回初めて聴覚障がい者の方々にご参加いただき、健聴者には理解できないことをいくつか教えていただけました。
今後、こうした機会をまた設けていただき、相互に「他者」理解を図れれば望外の喜びです。
フォーラム福島の阿部さんには、いつもながら会場の提供、監督とのコーディネート等並々ならぬご配慮をいただきましたこと、あらためて御礼申し上げます。これを機に、これからてつがくカフェ@ふくしまは、ますます「他者」との交流の機会を企画していきたいと思います。
次回は県立図書館で「図書館とは何か?」を問います。
多くの方々にご参加いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。

なお、今回参加された皆様からいただいた感想を、氏名を伏せて「コメント欄」にアップさせていただきました。
当日、ご意見・ご感想をお書きになられなかった方でも、よろしければぜひコメント欄にお書きいただければ幸いです。