第8回てつがくカフェ@ふくしまは、雪が降りしきる中、サイトウ洋食店に21名の方にお集まりいただいて開催されました。
テーマは「幸せって何だろう」。
誰でも話しやすいテーマだろうし、震災以来〈幸せ〉をめぐって考えない人はいなかったのではないか。
そんな思いでこのテーマを設定させていただきました。
さて、割とハッピーな気持ちで対話が交わされるかなと思われたこのテーマですが、思いのほか対立点が際立つ話し合いとなりました。
まず〈幸せ〉については2つの〈幸せ〉概念が挙げられました。
一つは、過去の不幸だった自分と比べることでわかる〈幸せ〉です。
それは過去の自分をふり返ることによって認識できる「考える幸せ」であり、時間的な距離を置いて対象化できる〈幸せ〉のことです。
すると、〈幸せ〉とは不幸な状態があってはじめて成立するものということになりそうです。
「〈幸せ〉と不幸は表裏一体である」、あるいは「〈幸せ〉と不幸は段階的に連続しているものだ」との意見も同様の趣旨として理解してよいでしょう。
ただし、それは必ずしも自分の不幸な状態との比較に限られず、たとえば戦争のニュースなど外部情報との比較を通じて認識できるものだとの意見も出されました。
一方、〈幸せ〉は不幸があってはじめて際立つのかといえば、そうではない〈幸せ〉の瞬間もあるようです。
たとえば、ある晴れた日に縁側でぽかぽかした太陽にあたっているときに「しあわせだなぁ~」と、ふと感じる瞬間などがそうでしょう。
その瞬間は何かとの比較ではなく、それ自体としての〈幸せ〉というべきものです。
そして、それは不幸との比較ではなく、「自然」と心にわいてくるものであり、その意味で「瞬間的な幸せ」と名づけられました。
一見、この〈幸せ〉観は〈幸せ〉は持続するものではないという定義にもつながり、したがって人生はこの〈幸せ〉と不幸をくり返す不断のプロセスであり、絶頂期に行ったかと思えばそこから不幸に移り変わるいう〈幸せ〉観とも結びつきそうです。
しかし、その意見によれば、そのようなプロセスとは切り離された「絶対的な〈幸せ〉」があるというのです。
この他にも、「やりたいことができる状態」、あるいは「やりたいことがある状態」が〈幸せ〉であるとの意見、さらには「家族のためにする満足が〈幸せ〉」との意見も出されました。
そこで共通するのは「満足感」あるいは「自己満足」というものです。
すると、それは「家族のため」と称しつつ、実は家族にとっては傍迷惑な場合もあるのではないか。
つまり、本人と家族とのあいだに〈幸せ〉感のズレがあるのではないか。
そのような疑問に対して、そこにズレが生じることが認められ、その意味で「家族のための〈幸福〉」とは、すなわち自分にとっての満足であるとの意見が示されました。
ここから「〈幸せ〉とは本人がその事柄についてどう思うかの問題である」という明快な命題が引き出されます。
そして、その根底には〈幸せ〉とは人によって感じ方が異なるものであり、人の数だけ〈幸せ〉感(観)があるということになります。
ところが、この命題が確定された直後、異論が提起されました。
それによれば、各人がそれぞれの〈幸せ〉を追求していったとき、他人の〈幸せ〉が衝突することで不幸な事態が生じる問題もあるのではないかとのことです。
さらにいえば、これは「他人に迷惑をかけても幸せは成り立つのか」という問題に突きあたることになります。
この問題については、たとえばストーカーの例が挙げられました。
ストーカーは追いかける相手に執着することを〈幸せ〉と感じているかもしれないが、相手にとってそれは迷惑以上の不幸に他なりません。
果たしてこれを〈幸せ〉といえるのか。
あるいは、パレスチナ問題に対して、お互いが領土確保によって〈幸せ〉を得ようとするなかで、凄まじいまでの殺戮がくり返される状態を、私たちは〈幸せ〉と呼ぶことはできないでしょう。
ここには「他者の了解」を得ることで成り立つ〈幸せ〉もあるのではないかということになりそうです。
さらには、〈幸せ〉という言葉が自分の気持ちを表現することに違和感を覚えるとの意見も出されました。
あくまで、それはある事柄や事態を客観的にみて評価する際に用いる言葉ではないかというわけです。
すると、「第三者的な視点」によって〈幸せ〉は評価されうるのかもしれない。
そのような視点も浮かび上がりました。
両者の〈幸せ〉観の相違を言い表せば、「主観的な〈幸せ〉」と「客観的な〈幸せ〉」、あるいは「自分にとっての〈幸せ〉」と「みんなにとっての〈幸せ〉」ということになりそうです。
さらにいえば、前者の〈幸せ〉観が個人の心理状態の評価を指すのに対して、後者が「事柄の状態」の評価を指す点に相違があるようです。
さて、こうした異なる〈幸福〉観が明確されたことで、議論は相互に何が違うのかについて展開しました。
まず、「みんなの〈幸せ〉」を想定した場合、結局それは「最大公約数」を集約することになるだけであって、小数の〈幸福〉を疎外しかねないし、無理が生じるという意見が出されました。
また、〈幸せ〉を決めるのは「方向性」の問題であり、その「方向性」を決められるのは結局本人しかできないという意見も出されます。
これについてストーカーの例を考えてみれば、ストーカーにとっての〈幸せ〉は「追いかける」という「方向性」に〈幸せ〉が見出されるのであって、追いかけられる相手と結ばれること、つまり「他者(相手)の了解」を獲得することが〈幸せ〉になる条件ではないということになります。
結局は、その人が〈幸福〉になるためには、その人がどのような対象に向かっていくか選択するものであるし、その意味で言うと「自分がやりたいことができる状態」という〈幸せ〉の定義がしっくりくるとのことです。
さらに、その状態が実現するために自由な場や環境という下地が必要であるとの意見も付け加えられました。
ここには〈幸せ〉とは本人にしか知り得ないものであり、持続できるかどうかは「個人の基準」や取り組み次第ということになるとの考え方が示されています。
そして、そこにおいて「他者(第三者)の目(評価)」は自分の〈幸福〉に対して限界づけるものでしかないということになります。
ここには〈幸せ〉が「自由」と関係することが示されているようです。
個人の選択の自由を保障することが、結局は「みんなにとっての〈幸せ〉」になるのではないかという意見もこれに近いでしょう。
ただし、これに対しては自由の保障が必ずしも〈幸せ〉を可能にする必要条件ではないとの意見も出されました。
たしかに、自由が保障されている社会は〈幸せ〉を可能にする十分条件ではあるかもしれないけれど、それによって皆がみんな〈幸せ〉になっているとは限らないというわけです。
では、そうであるとすれば〈幸せ〉は何によって可能になるのでしょうか。
このあたりから議論は、「〈幸せ〉は個人的なものだから国が何をしなくてもよいのか?」という「みんなにとっての〈幸せ〉」の問題にシフトされました。
たとえば、民主党の管直人政権は「最小不幸社会」の政策的実現を標榜しました。
そこには、たしかに〈幸せ〉は個々人によって異なるのであろうけれども、やはり客観的にみて「不幸」であるものを放置しておいてよいのかとの問いがあります。
憲法25条には「最低限度の生活」の保障が規定されています。
それは「衣食住」の確保というレベルかもしれませんが、たしかに客観的な〈幸せ〉を確保するための条件が示されているものともいえます。
また、自分の力で〈幸せ〉は実現するものという意見に対しては、個人の力ではどうしようもない「不条理」による不幸を個人の問題に還元することに違和感を覚える意見が出されました。
それによれば〈幸せ〉は個人の力で何とかなるとしても、不条理に襲ってくる不幸はいかんともしがたい問題をどのように考えるべきかという視点です。
これに対しては、それは受け入れるべきものであって、いちいち不条理を理由に「他者の評価」が介入すべきではないという意見も出されました。
では、いったい政治は何を目指すべきなのか。皆が目指す〈幸せ〉というものはないのか。
「みんなの幸せ」を放棄することへの違和感が、やはり示されます。
そこにはすべてを自己責任に還元して、他者に関与しないことをよしとする社会への違和感が表明されているように思われました。
しかし、一方で「〈幸せ〉は個人の基準である」という考え方を放棄してしまえば、社会すべてが一方向の価値に向くように強制される全体主義的な違和感も残るでしょう。
個人の〈幸せ〉の追求を阻害しない形で、しかし誰にとっても共有できる〈幸せ〉を政府が必要最低限補完できるような社会は可能だろうか。
果たせるかな、〈幸せ〉の問題は政治的な自由と平等の問題へと接続していくような展開となっていきました。
ファシリテーターから見れば、この両者の立場は対立しつつも、どこか共有している部分があるように思われ、その異同について、もう少し明確化できればよかったのですが、残念ながら毎度のこと時間切れとなってしまいました。
消化不良感は毎度のことですが、ぜひこれをきっかけに〈幸せ〉について考え続けていき、また新たな考えが思いついたときブログのコメントにでもお考えをお寄せいただければ幸いです。