てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.5.18.「宇宙開発」

2024年05月19日 12時41分22秒 | 定例てつがくカフェ記録
5月18日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には17名、オンラインでは7名の計24名の方にご参加いただきました。






・今日は「宇宙開発」というテーマです。1月にテーマ決めずに、皆さんからテーマ出していただいて、そのテーマの中から決めて話すなんてことやってるんですけども、その1月に出たテーマを参考に一年間の計画を立てていまして。何年も前からずっと「宇宙開発」「宇宙」について話し合いたいと仰っていて。本当申し訳ないですけど、私が何の興味も無くてですね、ずっと先送りしていたんですけども。その都度毎回毎回言われるのでもう早くやっちゃおうということで今日この「宇宙開発」というテーマにさせて頂きましたが。今日はテーマを出した方と僕しかいないんじゃないかと思って心配していたんですけども。結構ここ最近で一番人数いるんじゃないかなと思って、実は待望されていたテーマだったのかなと。皆とこのことを考えたかったんだなと思ってですね、本当に反省しております。本当申し訳ありません。今日は「宇宙開発」というテーマで考えていきたいというふうに思っておりますので、後はもう皆様に任せますので、発言のある方は挙手をお願いいたします。では始めていきましょう。

・「宇宙開発」という言葉を聞くと「開発」というのが、明るい未来があるような気がするんですね。で、それはきっとそういうものも沢山含まれてるいるだろうと思うんですが、アポロ11というのが月に到着して2人の人を宇宙飛行士を降ろして戻ってきて。で、その後に「月の石」を持って帰って、それが万博で非常に賞賛を受けたみたいなとこありますよね。近い所だと「はやぶさ」という日本の衛生ロケットがどっかの石の欠片を持って帰った。ほんで、最初のアポロが降りた頃は僕も「すげえな」と思ったんです。まあ、その程度という感じだけど、ここ最近「開発」というものの、疑問と言うか。ある意味では、どっかの石を盗んできて、その石には何が入ってるのか、それが役に立つものがあるんじゃないかとか、それをいかに持って帰るかみたいな研究をしているとこもあると思うんですけど。それが僕が割と最近気になる事でして。短く言ったら、「地球をここまで潰しといて、宇宙までそれを持って行くのか?」という気がするんですよね。ところが「宇宙」というと、皆「はやぶさ」みたいにもう新聞には大きな記事が出る。僕の知ってるほとんどの人は褒めてたけど。だから、そういう具合に騙してるのかどうか分かんないけど、そういう見方も出てくるんじゃないかと。「宇宙は広いから何してもよろしい」なんて言う人も居るみたいね。で、それは別にそれでいいんじゃないかと思うんですが、ただ僕は地球をここまでのものにして宇宙まで潰すのかというのに気掛かりなんです。

・言葉の確認なんですけれども、今の話を聞いてる限りだと、「宇宙開発」を「宇宙という場所を開発する」というような意味で使っていて、「宇宙に行くための技術を開発する」という話ではないっていう理解で良いですかね。

・勿論宇宙まで行く、乗り物をこしらえるということで含んでいると思ってます。

・あの「宇宙開発」というのが、「どこまで現実的なの話なんだろうか?」というのを考えた時に、要するに「宇宙を開発していく」というような話だと、まだ具体的にはほぼ何もできないのかなというふうに考えていて。かつだからその宇宙が誰のものであるのか自体もよく分からない。それこそ「宇宙人は本当にいるのか」論争みたいなもので。結局、誰から搾取することになるのか、よく分かんないなと思っていて、それに対して「宇宙に行くための技術の開発」という意味であるのならば、すごく世の中住進んでいるのかなと。で、多分それだけの話をしても、なんかすごく時間かかりそうだし、勿論、その前者の話だけしてもすごい時間かかりそうで、どこに焦点がおきたいのかなと。勿論皆の意向で決まってくると思うんですけれども、どういう所に力点を置いて考えればいいんだろうと、ちょっとあやふやだったので質問してみました。

・「宇宙」という言葉ですが、マスコミなんかでは「宇宙開発」という言葉使われるし、宇宙船に滞在している人を宇宙飛行士と言っている訳です。で、その「宇宙」という言葉の問題はともかくとして、私は最近の新聞報道なんかによると、ついこの間中国が月に探査衛星を発射したと。狙いはなんか月の「極北」と言うのかな、月は一面しか見られないんだそうですけど、その裏側。非常に寒冷な所に水があるのではないかと言うようなことを言われてるし、それの確認とかというようなことを言ってるわけですよね。でまあ、月についても今探査衛星なんかやってるのは、アメリカとロシアと中国ぐらいだろうと思うんですが。ただ、気になるのは例えば、どこかに着陸させて、そこをその国の領土にしようというような魂胆もあるのではないかというふうに思います。要するに地球でのアメリカ、中国、ロシアの覇権争いが月にまで持ち込まれつつあるのかなという、そういう心配を私がちょっとしてるし。それと人類は未知のこと絶対に追求して行くという事はもう抜けられないと言うふうに思うんです。「宇宙開発」という言葉を使って言えば、「月への衛星探査の発射」なんて言うのも、要するに宇宙へもっと先に広がっていく手始めみたいな。次の段階は火星ですよね。火星に行ってどういう居住ができるかという真剣に、技術者、政治もそうですけど考えている訳で。月の場合は何十日間で到達するらしいですけど、火星だと五年ぐらいかかかると。そうするとどういう風にしてそこまで到達するか。まあ、衛星だけだと火星にも行っている訳で。ただ、人間を載せた宇宙船を到達させるためにはまだまだ時間がかかるのかなと言う風に思います。それと、もう一つ気になってるのは、今の月への探査衛星の発射なんか、私は地球の14 5世紀の頃、大航海時代があって新大陸を発見した。あの時はスペインやポルトガルが新大陸で領土争いをした訳ですけど。それが今レベルが違うけど、味わっているのかなというような気がしております。

・今の意見で「覇権争い」というのは本当にそう思います。「宇宙開発」と言う以上「開発」と言うと難解なんだけども、結局人間が「住める」か「住めないか」を見てるような気がするね。「開発」なんて言ってて、最終的に人間がそこに行くというのが目的のような、ゆくゆくはそれが目的で覇権争いで早い者勝ち、そんな感じ。それが本音のような気がします。

・「宇宙開発」はなんて言うのかな、イーロンマスクみたいな金儲けが好きな企業家みたいな人がなんかどうも宇宙が好きなんですよね。僕の友達の起業家みたいな人も宇宙だとか言ってて、なんでそうなんだろうというのは不思議なんですけど、まぁそれは置いといてですね。さっきも仰っていてたように、地球上の問題をそのまんま宇宙に持っていく。例えば覇権争いみたいなことであるとか。まぁ「宇宙に核兵器を置きます」とかね、あるいは「月の土地は俺のもんだ」みたいな。そういう風に地球上の問題を宇宙に拡大していくという方向はですね、本当にダメで全く意味がないと思うんですけれども。そうじゃないやり方もきっとあるんじゃないのかなというか、そうじゃない方向に希望が持てるんじゃないのかなという気がします。政治的・経済的に例えば、エネルギーだって太陽光のエネルギーが地球にいっぱいありますけども、なんかどっかで読んだんですけども、上手い事そういうのを利用すればかなり地球のエネルギー問題が解決するんじゃないかと。素人で分からないですけども、そんな話もありますし。なんで、まぁ否定することなんじゃないかと思います。で、それよりも僕は思ったのは、さっきの世話人が「宇宙開発に全然興味ない」と仰っていて、文系の人で特に人文系の人間は、「宇宙開発」と言っても全然ピンとこない人が意外と多いのだろうなと思うんですけど。僕が思ったのは、例えば今人間は地球に住んでるから重力がある訳ですね。それの中で生活せざるを得ないし、空気があるから音が聞こえるわけですよね。それで、そういう意味で僕らの「人」の認識っていうのが、地球上の環境に支えられてる訳ですよね。それで、この中でしか我々の今の認識の形というのはありえない訳ですよね。なんで、例えばそういう意味で宇宙に出るという事は、我々の認識がどういうふうに認識するのかという事が、多分色々変わってこざるを得ない。まぁ、環境が地球上に近い様にされた宇宙ステーションの中とかでさえもですね、そこは明るくて空気があるけれども、重力がほぼないとかですね。あるいは放射線ががんがん来てるとかですね。色んな事がありますので、我々のモノの見方が変わるし、そうすると生き方も変わらざるを得ないということが絶対あると思います。なので、ちょっとそういう意味で「哲学」という事を考えた時に、何かそこで変えなくちゃいけないとか、何とかじゃなくて、もし宇宙に人が出てくるようになるとすると、変わらざるを得ない所が出てくるんではないのかなという気がしました。

・話聞いたら私も本当に同じの感じで。「宇宙開発」というテーマを挙げたのは、ちょっとびっくりしてて、「宇宙は開発できるんですか?」と。宇宙開発は人間には出来ないのではないかと思います。地球でも出来ていないのに、なんで「宇宙開発」が出来ると思っているのかと逆に聞いたんですね。「宇宙」とは結局じゃあ何なのかと皆よく知ってますかと、「宇宙って何?」と。例えば重力のない空気もないというそういう所で人間はどうやって暮らして行くんですかと。同時に開発となると、それが私には理解できません。もし、そのような開発力があったなら地球に回した方がいいと思います。結局「宇宙開発」というのは私は出来ないと思います。

・僕もですね「興味がない」と言いながら、とは言え、今僕がここでGPSを使えばここにいるという事が分かるというのは、人工衛星があって、宇宙が既に開発されているからな訳ですよね。だから、まぁ「開発」と言うのは全ての意味を含んでいると思っていて、やっぱり「行く」技術がなければ「開発」は出来ないから、「行く」技術と「開発する」というのはセットだと思っていて。だから、先ほど「新大陸の発見」の話がありましたけれども、海を越えてどこでも行けるという技術が出来たからこそ、新しい領土を取るという植民地化するみたいな話も出てきた訳で、それが今度宇宙に行くという事はもう可能になった所で、そこから「じゃあ、どうするんだろう」「どうしよう」という話は当然問題として出てくるんだろうなとは思っている所です。

・基本的に人間は幸せになる為に生まれてきて生きてるんだと思うんですね。だけれども、宇宙を開発する事とか、宇宙に移住するとか、そういうこと人間にとって幸せなことなのかなというふうに思うんですね。もう既に宇宙には宇宙のゴミとかがすごい本当に小さなゴミが一杯地球の周りを回ってるって聞いた事があるんですけれども。それがいつ何時、どういう事が起こるか分からない状況というのも聞いたことあるんですね。私は「宇宙開発」とそれから科学とか医学もそうですけど、学者のエゴがあると思うんですよ。さっきどなたか仰っていたように、知らない事を知りたい。出来かった事を出来るようにしたい。だから。宇宙に行きたいとかというのをやれそうだからやりたいと、歯止めがきかないというのは私は怖いと思うんですね。今、地球の温暖化とか色んな問題がある。それを誰も止められないし、なんのいい対策も出してないじゃないかと。先ほどの方もお仰っていましたけど、人間にとっては地球が一番居心地がいい場所だし、そういう生き物はな訳ですよね。私達はそれなのに、地球を捨てて移住をしようとか、とんでもないことだと私は思うんです。それよりも、私たちのこの地球をもっと住み心地の良い安心できる場所にどうしたらできるのか。エネルギーもそうですけれども、原子力に頼らないでもっと自然のエネルギーを活用するとか、もっともっと考えるべき事が沢山あるのにもう地球を捨てて火星に移住とかとんでもないと私は思いました。

・そちらの方も仰っていましたけど、「宇宙開発」はとてつもなく、行くにしても乗り物を開発するにしても、もの凄い時間がかかるっていうふうに仰っていたんですけど、私もずっとそう思ってたんですね。もうとんでもない技術を開発しなきゃなんないし、もの凄い時間がかかるもんだというふうに思ってましたけど、最近のAIは爆速で発展してますよね。それがちょっと、こんなにあっという間に開発されてしまうものなのかというふうに思った時に、これは宇宙を開発するスピードというのがもうどんどんどんどん早くなってくんじゃないかなという。もう地球に住んでいる私達が宇宙に行って、そこのリソースを掘り尽くしてしまうような、そういう時代というのは、もう何年も後の事ではないのかなというふうに私は思ってたんですけど。それがどんどんどんどんそのAIの発達によって、なんかもうあれよあれよという間に開発されちゃったらどうしようというふうに思うように最近なってきて。彼女が仰るようにそういう守るべき地球も守らずに開発を急ぐというのに凄い多分女の人は特にそうなんだと思いますけど凄く危機感、むしろロマンよりも危機感を感じるこの頃です。

・今日は「宇宙開発」がテーマになってるんですけども、「宇宙」と「開発」というのちょっと分ける必要があるんじゃないかなと僕は思います。なぜかというとですね、「宇宙」と言っても非常に広い空間。「開発」というのは何らかの人為的な作為をするというのが「開発」であって、「宇宙」というのはもしかすると無限かもしれない。あるいは「宇宙」と地球というのはどういう関係で存在するのかという、そういう非常に難しい空間のような気がするんですね。実はちょうど1週間ぐらい前に、私の大切な友人が若くして亡くなってですね。で、その亡くなった事によって、「人間の生存とは一体なんだろうか?」というふうに考えた時に、宇宙における人間の存在みたいなのもちょっと感じたもんですから。今日参加させてもらいました。「宇宙」という無限あるいは存在という空間で捉えるのか、あるいは手が届く宇宙空間という月とかですね、そういうふうな手が届き得る開発エリアと捉えるかによってだいぶ違うんじゃないかなという気がします。私は今の「開発」という言葉の前に、例えば宇宙探索とかですね、探検とかが昔僕等の子供時代にあって。宇宙探検があってこそ今、人工衛星もある。あるいはGPSもあると言う事態に至ってるんで、どういう空間なのかという事を考えることが必要なんじゃないかなと思います。

・「宇宙の問題」と私もこうやって提起されるまで、本当に勉強不足でして。ただ、提起されてみて、やっぱりちょっとかじると、これはもの凄い問題なんですよね。私達人類が生きれるかどうかというような軍事的な問題も絡んできてるいう事が言えるので、もの凄く大切なテーマだなというふうに思いました。それで宇宙法というのが、国際法としてありまして。それは誰の物でもないというね。月なんかも誰の物でもないという事が決まってるんですね。ところがですね、アメリカとかが法律の一部を変えて月で採れた物というのは、その企業がそれを取ったとすればそれは売買も出来る。それで商売が出来るという法律を勝手に作ってるんですね。それで日本も、「宇宙資源法」というものを作って同じような事をやってるわけなんですね。そうすると、「宇宙法」にこれは違反しているのではないかという事がやはり問われる訳なんですね。

・今の話聞かせてもらって、「宇宙開発」が凄いギャンブルみたいなものだなと思って。宇宙に出れば、宇宙という環境が人の環境として広がってくるから、それで人の認識というのも変わってくるというようなところの話が出てきたんですけど、果たして本当に宇宙に出て認識が変わるのか。認識が変わるとして、今まで出てきた問題の領土化とか、あとエネルギー問題や所有権の問題とか、環境の問題とかが、果たして解決に向かうようなものになるのかなと。そこで思うのが今凄い地球の方に目を向けた話が一杯出てきたんです。結局、私達の地球というのも、全然全く今だに解明できて無くて。地下の話もそうだし、海中の話であったりとか大気圏の話とか。更に言うと、凄い私達自身の体や細胞とか、細胞を形作る原子の話とかというのも未知な部分というのは多いにもかかわらず、そうした未知が私達の前に現われた時に、そんなに何か大きくどこ認識が変わったのかと。確かに歴史的に見ると人の考えで変わってるかもしれないけど、結局、領土問題、エネルギー問題とかって昔だと食糧問題になってきますけど、そういうのがずっと(問題として)停滞し続いているようにも見える。果たしてそれを覆すだけの環境というのが宇宙の広さにあるのかなというのは、私は懐疑的ではあります。なので、私が考える宇宙というのは、宇宙が私たちの認識や問題を解決できる程に至るような空間的な広さとか、後は未知というのを持っているのかなというのが、今話を聞いて思いました。


・大分前に戻るんだけども、さっき世話人が「人工衛星が宇宙開発だ」みたいなことを言っていたけれども、本当なんだろうかというのは疑問に思っていて。宇宙を利用してるけれども、要するに例えば船を使って船がその辺を浮いていて、何か我々が使ってる時にこれは「海洋開発」は言わないですよね。海を使ってる、で同じように考えると宇宙と分かってはいるけれども、宇宙自体は開発されていなくて。例えば、月から何か何か持ってきたと。それは開発の方に入るのか入りかけている可能性はあるなと思うんだけれども、本当に開発と言えるようなものなのかと。単に海とかだったら利用としか言わないもの。それとの間のその辺の差とのは考えた方がいいのではないかなという気がしました。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.5.18.「宇宙開発」

2024年05月06日 19時00分59秒 | 開催予定
秒速8キロ―― 宇宙(ここ)ではネジすら凶器になる

ー幸村誠『プラネテス』(講談社)ー


てつがくカフェ@ふくしま2024.5.18.
【テーマ】「宇宙開発」
【日 時】2024年5月18日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/85860605211?pwd=HZA8XQaluZYDoRRrna76zszCDy2WXi.1
        ミーティングID: 858 6060 5211
        パスコード: 5t8V5M

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマはリクエストにあった「宇宙開発」となります。

宇宙開発(英語: space exploration)とは、

宇宙空間を人間の社会的な営みに役立てるため、

あるいは人間の探求心を満たすために、宇宙に各種機器を送り出したり、

さらには人間自身が宇宙に出て行くための活動全般の事を指す言葉だそうです。



日本では、9月12日が「宇宙の日」と定められているそうで、

1992年に毛利衛さんが日本人として初めて

スペースシャトルで宇宙に旅立った日を記念して制定されたとの事です。



宇宙空間を探索・利用・開拓する人類の活動を

描いた作品は映画や小説にも数多くあります。



冒頭で紹介した文言は

漫画家の幸村誠氏の『プラネテス』という作品に登場するとあるキャラクターのセリフです。

この作品は、2075年の近未来を舞台に、あまり顧みられることのない

宇宙開発によって生まれたスペースデブリ(宇宙ごみ)問題を取り上げており、

その回収業者(サラリーマン)が主役のSF漫画ですが、本作の特徴のひとつに、

作者の愛好する宮沢賢治の詩や物語が、時折引用される形で作品に登場します。



「宇宙人とコンタクトするとしても、そこでどう行動すべきか」「火星を開発するのは良いことか?」

といった「宇宙倫理学」という分野もあるそうですが、

そうした倫理的指針についての考えを宇宙にまで規模を広げて問う議論などを

参加者の皆さんと一緒に行っていければと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.4.20.「常識ってなに?」

2024年05月05日 13時31分50秒 | 定例てつがくカフェ記録
4月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には17名、オンラインでは5名の計23名の方にご参加いただきました。






・それでは本日のてつがくカフェに入って行きたいと思います。本日は「常識ってなに?」という事で、これは1月にテーマを決めずに話し合いした時に話し合いたいテーマという事で、皆さんから出していただいた中の一つが、「常識について問う」というか「常識について考えたい」という事で。「常識」は良い意味でも使うし、上司とかに「常識に縛られるな」というふうな使い方をされたり、「常識に縛られちゃいけない」みたいなそういうふうにも使います。色んな意味で使うんですけども、ブログの方では「交通ルールを守らない=常識の無い行動」をする人がいるなみたいな例を出していたかと思いますけれども、それらも含めて「常識って何なんだろうか?」あるいは「常識は身に付けるべきなのかどうか?」とか「常識って良いものなのか?それとも常識じゃダメなのか?」とか。そういったような事も含めてですね「常識」について今日は考えていただければと思っております。

・取り敢えず皮切りにありきたりな話ですけど、ウィトゲンシュタイン(1889年~1951年)の「論理的な判断能力」に基づいて行われる理論形成とか、言語とかコミュニケーションのやり取りにおける前提を判断して行く能力みたいなものが、まず具体的な表現として挙がるのかなと思って挙げさせていただきます。

・「論理的前提の判断能力」と言うことですね。

・まぁ「常識」と言っても、「誰にとっての常識か?」というのが一番大本にあると思うので個人の「常識」、その人一人の「常識」というのはその人に限定されると。「社会の常識」というのは、個人個人が集まった社会のそれぞれの人が全て納得するようなものが「常識」であるというように思うんですが。結局、「社会規範」というものが「常識」ではないかなと。社会規範が文(文字)として現れたのが法律では無いのかなという感じで思いますがいかがでしょうか?

・今の発言についての質問ですが、「個人一人ひとりの方は常識ではない」というふうな捉え方でよろしいでしょうか?

・私の考えとしては個人の考えというのは「常識」ではなくて、あくまでも個人個人の考え方、それは「常識」と呼ぶものではないのかと。その人の「常識」と言えるかもしれませんけれども、社会的な「常識」とはかけ離れていると私は思います。

・「常識」という言葉なんですが、これいつ頃からできたのかなと思ったんです。勝手に考えたんですけど、多分明治維新頃、色んな言葉(外国語)を漢字化(日本語化)したんですが、これもその一つかなという感じがします。つまり、「コモンセンス(common sense)」という事から来てるのかなと。「コモン」ということは「共通」という意味で、「センス」は感覚。共通感覚あるいは共通認識と訳された。どこで「共通」かと言うと、コミュニティという共通な一体化された団体というか。ある地域なりコミュニティに行って、共通に認識されるあるいは感覚されるものということが「常識」というものの理解で良いのかなと私は考えたんです。

・いくつかあるんですけど、一番最初の方の仰ってた「論理的前提の判断能力」でしたっけ?えっと、ちょっとこれが良く分からないんですけど。僕が理解するに「論理的前提」というのは、例えば三段論法みたいなものがあったとしたら、それは正しいですよとか。あるいは色々ありますけど、「理学的な功利」みたいなものとか。要は「論理語」で「且つ」や「または」とか、そういうものを使った時にこうなりますよという論理計算をした時の筋道みたいなものだと理解しているんですけれども、そういう意味でしょうかというのが一つ。それから二番目の方と仰っていた「個人の常識は常識では無い」というのは、その通りであって、個人の思ってることを「常識」というのは、それは「常識」と呼べないものだと端的に思います。それは三番目の方も仰っていたんですけれども、「個人の常識」というのは言葉の誤りで「常識」というのは常に「共有されている」という事が前提の話だと理解しています。もう一つ、三番目の方の仰っていた「コモンセンス」の「センス」というのがどういう意味でという所で、一つはやっぱり「感覚」というのがありまして。「コモンセンス」に関して言うと、要するに我々が一般的に言う「常識」、例えば社会的な規範のような意味での「常識」だったりという事ではなくて、ものの感じ方、空を見たら大体皆青く見えますよとか、そういう感覚が人々に共通しているというような意味での「コモンセンス」だと思うんですね。そうすると、それは我々が今、日本語で「常識」と言って問おうとしているものとはちょっと違うのかなという気がします。以上です。まず、「論理的な云々」というところ、もうちょっと詳しく知りたいなと思うのですが、いかがでしょうか?

・僕の件で恐縮ですが、お答えいたします。というのは、今仰ったように論理手段としての論理、三段論法であるとか「且つ」「ならば」とか集合的な関係を整理するにあたって、「ある目的に対しての手段が使えるか?」「ある目的を使ってその論理を使った時、どういう結果が導き出せるか?」というような所を判断していく能力なんじゃないかなと。その目的と結果の因果関係を整理することによって、前の方が仰った「コミュニティの共通認識」というものが出来上がってくる。その「コミュニティの共通認識」を作るにあたって、論理という手段を使っていく。その目的をどう選んでいくかという能力が「常識」になるんじゃないかという考え方です。

・すごく難しくなってて、皆さんぽかんとしてるんじゃないかな?

・ちょっとよく分からないですが、取り敢えずまた機会があれば伺います。

・僕は、「常識」とか「当たり前」という言葉をあまり好きじゃないんですよ。というのは、教師とか上司といった上の立場の人が「お前、これ常識だろ?」とか「それが当たり前なんだよ」みたいな感じで結構𠮟られてきたというか、怒鳴られたという経験があるんです。なので、あんまり好きな言葉じゃ無い訳ですが。自分は言われた際に「これ、当たり前なんですか?」とか「それが常識なんですか?」というふうに聞くと「いや、そうに決まってんだろ!」みたいな感じで答えられて、結局何の説明も無く、具体的な説明も無いままで。「常識だ!」と言ってくる側の語彙力が無いのか、上手く説明できないのか理由は分かりませんが、とにかく「常識」だと言ってくる側から納得いくような説明を受けた経験が無くて。「つまり、こういうことですか?」とか聞くと、「それは、自分で考えろ」というふうに突き放されるという経験が結構ありまして。「常識だろ!」というふうに言ってしまえば、そこで説明終了の免罪符というか、水戸黄門の印籠という感じで、「常識だろ!」と言われた側は黙っちゃう。でも、それって言われた側の自分には共有されていない認識ですから、その部下(先生)と上司(生徒)の間で共有されていないんだから、最早それは「常識」という事にはならないんじゃないかな?ということを先ほどまでの話を聞いていて考えました。改めて「常識って何だろうな?」「どういう事なんだろう」というのが僕の意見です。

・私は「常識」は場所とかコミュニティによって変わるものだと思いました。

・「常識」はですね「破るもの」もしくは「破られるもの」。最初にその常識に触れるのは、決まってる物を受け入れる所から「常識」が「常識」として成り立つんですよね。元々自分がそこに参加した時には、もう常識が決まってて自分が参加して何かを「常識」を決める訳ではなくて、自分が順応するしかない。だから、その先ほど言われたように疑問を持つ訳ですよ。かつて疑問を持って常識を打ち壊して生きてきましたけれども、流石に今の社会に自分が常識に捉われているようになって、誠に残念だなというふうに思っています。

・「常識」が個人の中にあるかどうかという問題なんだけれども、僕は基本的に「常識」というのは個人の中でしかないと思っていて。個人がある社会に参加した時に、その社会を皆がこのように考えているであろうと考えているものという形でしか存在し得なくて、その皆が「これが常識だ」というふうに、皆で共通に決めたものは多分有り得なくて、そもそも無いのではないかとしか思えないところがあり。だから「これ、常識でしょ」というような「常識論争」が起きてしまうのは、誰一人としてその「常識を作る」というところに、積極的に参加して「これが常識だ」ということを作り上げる場に参加したことが無く、ただ皆で「多分こんな感じだよね」「相手もきっとそう思ってるよね」みたいな中で何となく出来上がってしまったものに過ぎないから。恐らくそのような問題があるんだろうと思って。一方で、その「常識」とするものはやはり必要なんだろうなと思うのは、例えば学術的な場で何か議論する時に、皆で共通に「この言葉は常識と認めた上じゃないと話できないよね」ということを無視して、誰かが話し始めたら完全におかしなことが起きてしまうというのは実際起こる話で。その時に、このコミュニティで何かやるのであれば「まぁ最低限これぐらいは共通認識として持ってるとか良さそうだ」というのも、これも別に皆で作った訳ではないような気がするけれども、少なくとも例えば自分が学会に行く時に「これが常識です」なんて決める会議なんて見たことないし。そのようなものであるけれども、でもなんとなく皆がそういうのがあるということを前提にして議論するから、だから議論がまとまる。まぁ、その程度のものなのかなと思ってます。

・「集団」という問題が出てきますと、これまた別なテーマになってしまうので、今のご意見も検証したいんですけれども、私個人としましては、簡単に言えば「常識」というのは皆が知っている事でいいんじゃないかなと。皆さん、この間ちびまる子の声優の「TARAKO(タラコ)」さんが亡くなったのを皆さんご存知ですか?「タラコ」とか「イクラ」とか言ったら、食べる物と通常は思いましたよね、まぁ「常識」として。私、音楽ユニットの「YOASOBI (ヨアソビ)」が好きなんですけれども、そのボーカルが「ikura(イクラ)」だと知ってましたか?音楽好きな方にとっては「常識」ですよね?私ついこの間まで知らなかったんです。あの「YOASOBI(ヨアソビ)」は好きなんですけども、ボーカルが「ikura(イクラ)」だっていうことを知らなかったんです。結局、それは「常識を知らなかった」ということにもなるのかな?だから、「常識」というのは、それぞれの分野とか文化で変わる可能性があるので、皆が知っているか知らないかということもあると言うことを思い出しました。

・私は「常識」については三つに分けて考えてるんですね。まず一つ、例えばこの社会で生活して行くの上で「環境」についての「常識」。二つ目は、この社会で働いていく上での「社会としてのルール」。色んな会社に行くとそこには色んなルールがあって、そのルールに対しての「常識」ではないかなと思っています。三つ目は、人と人の「コミュニケーションを取る」上での「常識」になるかなと思います。「常識」について皆が知っている、ただ知っているということだけでなくて、やはりそこには評価や価値観というものが含まれているのではないかなというふうに思います。だから、「常識」は元々変わりうるもので、時代や社会や人の中で。それらのことを要素として成り立っているから、それらは当然変わる訳で。当然そこで出来上がった「常識」というものが変わっていくであろうということになるんだというのが私の考えです。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.4.20.「常識ってなに?」

2024年04月19日 14時01分30秒 | 開催予定
常識というものは世間一般に信じられているほどの根拠をもたない。
ーアルベルト・アインシュタインー


てつがくカフェ@ふくしま2024.4.20.
【テーマ】「常識ってなに?」
【日 時】2024年4月20日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/87860136066?pwd=VEmhQbjtfpmAZWDyqdunqsw4aAr3Qq.1
        ミーティングID: 878 6013 6066
        パスコード: 6K6g42

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回の「常識ってなに?」は、

1月に行われた「てつがくカフェ」で

参加者から募集したテーマの中から選んだものとなります。



まず、「常識」という言葉を調べると下記の文章が掲載されておりました。

常識…一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。
「常識がない人」「常識で考えればわかる」「常識に欠けた振る舞い」「常識外れ」
[補説]common senseの訳語として明治時代から普及。
[類語]通念・良識・思慮・分別ふんべつ・知識・教養・心得こころえ・コモンセンス

【引用:デジタル大辞泉】
URL:https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E8%AD%98-79273



今回のテーマである「常識」と聞いて、

個人的に思い浮かんだ事柄は「歩行者の信号無視」についてです。



先日、車の走行中

青信号だったので交差点を直進しようとした際に

信号待ちをしていた一人の年配女性の様子が挙動不審だったので、

徐行して交差点に進入しました。

すると、その年配女性は突然、信号を無視して道路を渡ろうと歩き始めました。

私は慌ててブレーキを踏み車は完全に停止しました。

幸い対向車も停車したため、年配女性は道路を渡りきりましたが、

この時、私はその年配女性に対して「非常識な人だな」と感じました。



調べてみると、道路交通法第7条では

「道路を通行する歩行者または車両等は、

信号機の表示する信号または警察官等の手信号等に従わなければならない」

と規定されています。

罰則も定められているため、信号無視をすれば歩行者であっても、

最大2万円の罰金もしくは科料に処される可能性があるそうです。



上記のような事例もあり、私は

「交通ルールを守る」=「常識」

「信号無視をする」=「非常識」と捉えてしまいましたが、

皆様は「常識」あるいは「非常識」についてどのようにお考えでしょうか?



4月は進学、就職、職場の人事異動や転職といった環境や立場が変わる時期でもあります。

そうした環境や立場が変わればこれまで自身が常識と思っていた事が通じなかったり、

戸惑いを覚えたりといった事が起こるのではないでしょうか?



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告3.11特別編2024「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」

2024年03月31日 12時53分39秒 | 〈3.11〉特別編記録
大変遅くなりましたが、3月9日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には14名、オンラインでは4名の計18名の方にご参加いただきました。









・まず最初第一部ということで、永幡さんご提題いただきます。永幡さんは、ご存知の方はご存知だと思いますが、ほぼほぼ毎回のようにこの「てつがくカフェ@ふくしま」に参加してくださっている常連さんなんですけど、僕の同僚で福島大学の共生システム理工学部において、音響学の専門家でいらっしゃって。3.11の後ですね、ずっと福島市内のあちこちで録音を続けていらっしゃいまして。その音をずっと13年間分撮り溜めてきた記録をもとに今日は提題を発表いただきたいというふうに思っています。

・皆さん、こんにちは永幡です。座って喋るのに慣れていないので、授業とかといても立って喋ってるので立ったまま進めて行きたいなと思っています。今日のタイトルは「沈黙の春ー再考 サウンドスケープの視点から」となります。今映しているスライドの写真っていうのは、これから色々と出てくるところですので、今ここで説明するのは省いていきなり話に入ってきたいんですけれども、話を始めるにあたって多分サウンドスケープという言葉をあんまりご存知ない方の方が多いのかなと思います。ちなみにサウンドスケープという言葉にピンと来る方ってどれぐらいいらっしゃいますか?会場の中でも、極めて少数派なのでまずはその説明からにしたいと思います。「サウンドスケープ」というのは音響学の分野で定義されている言葉なんですけれども、「あるコンテクスト(背景、状況、場面、文脈)の中で個人または人々が近く経験・理解した音環境」という風に、とてもややこしい定義になってます。何故こんなややこしい定義するかというと、古くから音響学の中でその音の問題を考える時に、あんまり人がどう聞いて音を聞いているかどうかってことを意識することなく、機械で測るとか、そういうようなことで、なんか音の環境の事はちゃんと分かったような気になってる時代が長く続いたので、それじゃまずいでしょっていうところから、こういうふうに人が一体どうやって音の関係を聞いてるんだろうかってことにも注目しましょうということで立ち上がったからです。あんまりこの話を長くするとややこしくなってしまうので、ごく簡単なところだけ一言二言説明しておくと、人あるいは人々と音環境との関係性を読み解く分野なんだって思っていただけると、大きな間違いはないだろうと思っています。その音環境っていうのは、物理的な特徴の把握をすることを主としますし、人々っていう部分に関しては心理的あるいは社会的な反応なんかを記録しながら、それらの関係性を見て行きましょうというような研究を普段はしています。このサウンドスケープという概念は元を辿るとマリー・シェーファーという人、2021年に亡くなってしまいましたけれども、カナダの作曲家の方が作り上げた概念だと言えます。言葉自体は、それより前に使ってる人がいるっていう報告が最近色んな所でされてるんですけれども、多分それはそうなんだろうと思いますが、実際にその言葉を学術的な意味づけを初めて付けた人は誰から言うと、このマリー・シェーファーに遡るのが正しいだろうと思ってます。この方はカナダを代表する作曲家でなんですけれども、1965~75年ぐらいまでサイモンフレーザー大学というカナダのバンクーバーの隣町だったと思いますけれども、バンクーバーから電車に乗って行くことができますが、そこで教えて方です。この人の主要な著書というのが『チューニングオブザワールド』は日本があって、日本語では『世界の調律』と訳されておりますが、こんな本です。今、手に入りやすいのはこの一番右側に文庫版と言っても分厚い文庫なので、すごく値段は張るんですけれども、それだけの読む価値はある本だと僕は思っていますけれども、そういう本があります。この話にも少し後で出てきますけれども、もう一個の大事なキーワードは『沈黙の春』です。『沈黙の春ー再考』というタイトルで出てますから、『沈黙の春』なんですけれども、『沈黙の春』っていうのはレイチェル・カーソンという人が書いた本のタイトルです。新潮文庫から出版されていて、今日会場で持ってきてるのは、古いので表紙が違ってますが、中身はどちらも同じです。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』というのは、国際的に環境問題に関心が高まったきっかけの一つと言われていて、いわゆる名著と呼ばれているような本の一冊です。『沈黙の春』というのを読んだ事ある方ってどれぐらいいますか?結構皆さん読んでますね。でも、読んでらっしゃる方もいるだろうと思ったので、持ってきていて今日の話を進めるのに、必要な所だけ少し朗読したいかなと思います。冒頭の部分なんですけれども、「明日の為の寓話」というふうにタイトルが付いています。
(以下朗読部分)


1.明日のための寓話

 アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つ
だった。町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘
がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のか
すみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあやを織りなし、松
の緑に映えて目に痛い。丘の森からキツネの吠え声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見え
つかくれつ音もなく駈けぬけた。
 
 道を歩けば、アメリカシャクナゲ、ガマズミ、ハンノキ、オオシダがどこまでも続き、野花
が咲きみだれ、四季折々、道行く人の目をたのしませる。冬の景色も、すばらしかった。枯れ
草が、雪のなかから頭を出している。その実やペリー(奬果)を求めて、たくさんの鳥が、やっ
てきた。いろんな鳥が、数えきれないほどくるので有名だった。春と秋、渡り鳥が洪水のよう に、あとからあとへと押し寄せては飛び去るころになると、遠路もいとわず鳥見に大勢の人たちがやってくる。釣りにくる人もいた。山から流れる川は冷たく澄んで、ところどころに淵をつくり、マスが卵を産んだ。むかしむかし、はじめて人間がここに分け入って家を建て、井戸を掘り、家畜小屋を建てた、そのときから、自然はこうした姿を見せてきたのだ。

 ところが、あるときどういう呪いをうけたのか、暗い影があたりにしのびよった。いままで 見たこともきいたこともないことが起りだした。若鶏はわけのわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。どこへ行っても、死の影。農夫たちは、どこのだれかが病気になったという話 でもちきり。町の医者は、見たこともない病気があとからあとへと出てくるのに、とまどうばかりだった。そのうち、突然死ぬ人も出てきた。何が原因か、わからない。大人だけではない。子供も死んだ。元気よく遊んでいると思った子供が急に気分が悪くなり、2、3時間後にはもう冷たくなっていた。

 自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に
思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、
死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の
春だった。いつもだったら、コマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声
で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つし
ない。野原、森、沼地 みな黙りこくっている。

 農家では鶏が卵を産んだが、雛は孵らず、豚を飼っても、何にもならなかった。小さい子ば
かり生れ、それも 2、3 日で死んでしまう。リンゴの木は、溢れるばかり花をつけたが、耳を
すましてもミツバチの羽音もせず、静まりかえっている。花粉は運ばれず、りんごはならない
だろう。

 かつて目をたのしませた道ばたの草木は、茶色に枯れはて、まるで火をつけて焼きはらった
ようだ。ここをおとずれる生き物の姿もなく、沈黙が支配するだけ。小川からも、生命という
生命の火は消えた。いまは、釣りにくる人もいない。魚はみんな死んだのだ。

 ひさしのといのなかや屋根板のすき間から、白い細かい粒がのぞいていた。何週間まえのこ
とだったか、この白い粒が、雪のよう、屋根や庭や野原や小川に降りそそいだ。

 病める世界 新しい生命の誕生をつげる声ももはやきかれない。でも、魔法にかけられたのでも、敵におそわれたわけでもない。すべては、人間みずからまねいた 禍いだった。
 
 本当にこのとおりの町があるわけではない。だが、多かれ少なかれこれに似たことは、合衆
国でも、ほかの国でも起っている。ただ、私がいま書いたような禍いすべてのそろった町が、
現実にはないだけのことだ。裏がえせば、このような不幸を少しも知らない町や村は、現実に
はほとんどないといえる。おそろしい妖怪が、頭上を通りすぎていったのに、気づいた人は、ほとんどだれもいない。そんなのは空想の物語さ、とみんな言うかもしれない。だが、これらの禍いがいつ現実となって、私たちにおそいかかるか 思い知らされる日がくるだろう。

 アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。そんな町や村がいっぱいある。いっ
たいなぜなのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。

(レイチェル・カーソン著『沈黙の春』新潮文庫、新潮社、1974 年。)

というふうに今読んだところなんですけれども、「春が来たが沈黙の春だった。今は物音一つしない。野原は森、沼地、皆黙りこくっている」というところからこのタイトルがきてる訳ですね。これ、なんで鳥も何でもかんでも、皆が黙りこくってしまったか。これは化学物質、農薬とかですね。それをバンバン使うようになって、その結果として生き物がみんな死んでしまった。実際にアメリカで今みたいにすごく本当にそういうような町がある訳ではないんだけれども、タイトルは「明日の為の寓話」と付いてましたけども、色んな所で起きている事をどんどん足し合わせていって、なので全てが同時に起こっているような所ってのはその当時もなかったようですけれども。なんだけれども、一個一個の話っていうのはあるような感じで。今のままほっとくとこうなるよってことを警告したそういう本です。その化学物質で生き物がいなくなった春を描写したので、そこから始まってる。コレだけ今日認識して頂けると、この後の話に付いていけるのかなと思っています。それと、録音を聞いてもらう前にもう一言だけ付け加えてお話しておきたいのがサウンドスケープについて。僕の分野の研究分野において、「沈黙」というキーワードは結構大事なキーワードなんだよってことを人と話したいと思います。『世界の調律』という本の中では、「沈黙(サイレンス)」というのが一番最後の一個前の章にあります。その「沈黙」について色々語られていますが、そこから大事なことを抜き出しておくと「心と精神の落ち着きを取り戻すためには、静寂な時間が必要だ」てのが、「沈黙」を考えるとキーワードです。もう一個のキーワードとして、大事なことは「生命と繋がる概念であり、死と繋がる否定的なものと捉えられる傾向にある」と。だから今の『沈黙の春』というのは、正に後者の方のパターンで書かれている。なので、この『沈黙』には二つの意味があるんだという事をまず最初にお話ししておきたいと思います。今日この後、20分から30分ぐらい音選んで聞いてもらおうと思ってるんですけれども、原発事故後に福島市内の定点観測をずっとしていました。大体同じ場所で音を取っています。その音がどのように変わっていったのかっていうのを、是非聞いていただきたいなと思ってるんですけれども。録音を始めたのが2011年5月1日です。なぜ5月1日かというと、その前日まで福島大学で避難所やってました。避難所を手伝っていてなんか気分が録音しようという気分になってなかったっていうのが一つ。あともう一つは、僕の研究室が酷いことになっていて、今日レコーダー持ってきてますけどこれの風防が見つからなかったんですね。この風防がないと風がちょっと吹いたらもう音は取れません。現実的に取れなかったというのも実際あります。「なんでもっと早く取らなかったんだ」というのを色んな事で色々言われたりするんですけれども、そういう二つの事情から録音始めたのはその辺になってしまいましたという所です。この後、いくつか音を選びながら聞きたいと思います。


~録音再生/10分休憩~

・それでは、第二部の「てつがくカフェ」を始めていきたいというふうに思います。第一部で永幡さんから「福島サウンドスケープ」をご提題いただきました。『沈黙の春』ということに関しても色々とお話いただいたんですが、それを踏まえて13年間振り返るとということで、まずは聞いてみての感想でも構いませんし、最後に永幡さんからいくつか今日皆さんに考えていただきたいテーマみたいなこともやらせていただきましたので、それらもぼんやりと考えていければというふうに思っております。

・今「小鳥の森」を意識してなかったという話が出たんですけど僕はですね、小鳥の森いつ行ったんだったかな?多分(震災から)一年経ってないぐらいで行った記憶があるんですけども、あそこだけはちょっと異様に怖かったっていうか。行って凄く「何かあるなぁ」と感じるぐらい。だから、見えない放射線を感じるぐらい僕はなんか凄くここに長居してはいけないと感じるぐらい。 なんか恐ろしさがあったかなというのは、それを急に思い出しました。

・永幡さんの説明をお聞きして、単純な感想なんですけどタイトルに書いてる「耳で振り返る震災原発事故後の13年間」ということなんですが。これ「耳で13年間を振り返るって難しいなぁ」と思って。結局の所、音だけでは中々理解できないかな。「サウンドスケープだけでは理解しづらいなぁ」と思って聞いてました。要するにサウンドスケープ=音風景と(動画を)見合わせて聞き合わせないと中々理解できないのかなという。そうすると、単純に耳で振り返ると書いてあるんだけど、中々それは理解できなかったかなというのが私の感想。それと「小鳥の森」について今ちょっと話題になってましたけど、私は原発事故前から偶に「小鳥の森」に行ってたんですが、画面に出て小鳥たちの鳴き声が聞こえる場面も出てきましたけど。原発事故前も別に人の出入りってあんまり無かったような場面にしょっちゅう出くわしてたんです。私の行く時間帯が悪かったのかもしれませんが。ということで、人はあんまり出てなかったし、それに対して小鳥は盛んに囀っていたという状況は変わってなかったから画面を見てて、そういう印象を受けました。ただ、場面を見て音と重ね合わせて理解しますと。やっぱり原発放射線の線量が高くて、人手が少なくなったと。その辺はよく理解できたかなと思いますし、あとコロナ禍が始まってからも、あまり外出しなくなったということで人手が少ない場面があってそうだったなという感想です。

・あの「小鳥の森」に関しては、多分時間帯によるんだと思います。あそこはやっぱり学校の研修で行くとか、そういうのが多かったりとか、元々子どもたちがよく行くような場所。子連れで行くような場所だったので、そういう時間帯に行くと常に誰かいるんだけれども。あんまり子どもが来ないような時間帯を狙っていけば確かに。元々少ないと言えば少ないのかもしれないですね。

・貴重な資料ありがとうございました。あんまりよく理解してないので、単純な質問なんですけども、『沈黙の春』だと動物のようなものが沈黙するじゃないですか。水俣も猫から沈黙していくじゃないですか?今回福島の資料を見た時におり、「アレ?沈黙してないじゃないか」というか。「えっ?全然沈黙してないじゃん?」という感じで思ってて。でも、人間は沈黙してるんですけど、そのギャップっていうか。どういう風に捉えればいいのかなっていうのが、今日見せてもらった資料をレイチェル・カーソンの『沈黙の春』とか水俣と比較してギャップが捉え方を教えていただければなと思ったんです。

・基本自由に捉えてもらったらいいなと思ってるんですけれども。僕自身の捉え方としては、レイチェル・カーソンが言ってる『沈黙の春』とは違った沈黙が起こってるんだと思っていて。コロナで起こった沈黙もやっぱりレイチェル・カーソンの言っている事とは違った事が起こっていて。なので、20世紀に起こった『沈黙の春』、あるいは「沈黙」というものと、21世紀に我々が今経験している「沈黙」というのは同列では語れないだろうなと僕は考えています。

・さっきの『沈黙の春』というのは、あれは実際にあったこととまた違うんですか?じゃあ、まず質問で人間もアレだし動物もアレだって『沈黙の春』で、最初説明あったんですけど、あれは実際にあったことなのかな?まずそれ一つね。そして、あとこちらの方も言った通り、私も一番最初「小鳥の森」とか、人はね、あの出てこないんだけども、結局原発もやっぱり科学のアレですよね。それなのに小鳥とか、そういうの沢山鳴いているでしょ?だから、こちらの方も言っているように、私もそこで「アラっ?」て一瞬思ったんですよね。あの原発の近くでなくて、「小鳥の森」はかなり離れているから、鳥は色々飛ぶからね。だから私、最初の一つとあと二つ目の質問は相馬市の原発があった所は、そこの野生の鳥というのはどうなのかしらなと思ったの。「小鳥の森」みたいに騒々しく鳴いてるのかなって。それ2つ目の質問なんですよね。そして、あくまでも。鳥はあくまでも野生だからね。野生だから別にその辺はどうなのかな?例えばだよ、鳥かごに常にね、野生じゃなくて鳥屋さんに売ってる鳥かごにね、売ってるペットセンターで売ってるね鳥をどこを原発の放射線の高い所に置いたら、その辺は野生の鳥と変わるのかな?って。この三つね、私それさすごくね感じたの。その三つの質問ちょっとお願いします。

・まぁ、答えられる方がいらっしゃったらどなたでも。永幡さんいかがでしょうか?

・レイチェル・カーソンの『沈黙の春』はあれ、あのままのことが起こっている所はまず無いと著者自身が書いていて。ただ、色んな所で起こったことを重ね合わせて行くとああいう風な事に、最終的になってくんじゃないかっていう問いかけで書いています。なので、完全に全てが黙りこくった所というのは無いと思います。野生の生き物がどうかという話については、多分世話人とかあれだよね相馬市に近いから、後で補足してもらえればと思うんですけども、基本的に少なくとも耳で聞こえる範囲では鳥は減ってないんではないかと思います。色んな仕事で相馬市の方に行くことあるんですけれども、別に普通に鳥は鳴いているし。あとチェルノブイリの時の記録っていうのは、これもCDが出てるんですけども、やっぱり録音した人が居て。チェルノブイリの場合は、本当にもうチェルノブイリのかなり近くで録音してるんですけれども、やっぱり生き物の声はちゃんと聞こえてるし、むしろチェルノブイリに関しては、人が完全にあの日本以上にその広い範囲に渡って住むことが出来なくなったので、なんか野生の王国になってるというような報告もあるようですから。その意味で例えば、遺伝子レベルで何が起こってるかとかっていうのを厳密調べ始めたら、もしかしたら何かあるのかもしれないですけども、少なくとも耳で聞こえる範囲、目で見える範囲で見る限りにおいては、生き物は生きてますよね。それは間違いないと思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま3.11特別編2024「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」

2024年03月18日 12時38分26秒 | 開催予定
てつがくカフェ@ふくしま2024.3.9.
【テーマ】「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」
【日 時】2024年3月9日(土)
     14:00~15:00 提題/「沈黙の春」再考:サウンドスケープの視点から
     15:10~17:00 てつがくカフェ
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/86379270927?pwd=NL3KZaC50BwCVYhfxBfC1bU5Wc3R2y.1
        ミーティングID: 863 7927 0927
        パスコード: 1gu5e7

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp(世話人/石井)





てつがくカフェ@ふくしまの常連参加者のお一人である永幡幸司さんは、

福島大学共生システム理工学類の音響学の専門家として、

2011年5月8日より福島市内の各所で継続的に音を録取し、

「福島サウンドスケープ」として発信し続けています。

「サウンドスケープ」とは音の風景という意味で、

環境のなかで軽視されがち、ないしは後回しにされがちな音に注目し、

音が織りなす環境にスポットを当てていこうとする概念です。

13年にわたって録音された福島サウンドスケープは、

震災・原発事故が福島市民に及ぼした影響や、

その後少しずつ復旧・復興していく様子、

さらに、コロナ禍がもたらしたまた少し異なる変化などを、

克明に記録しています。



当日はいつもより1時間早い、14時00分スタートで、

永幡氏より約1時間ほど、編集された「福島サウンドスケープ」に基づいて、

「『沈黙の春』再考:サウンドスケープの視点から」というタイトルで、

ご報告いただきます。

それをじっくりお聴きいただいたあと、

「耳で振り返る震災・原発事故後の13年間」というテーマで、

哲学カフェを行っていきます。

これまで映画などを題材に、映像を見ての特別編は何度か企画しましたが、

音を聴いての特別編というのは初めての試みです。

是非皆さまご参加いただき、福島の音に耳を傾け、

感じたこと考えたことを自由に発言してみてください。



今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.2.17.「てつがくに何を求めているのか?」

2024年03月17日 14時38分56秒 | 定例てつがくカフェ記録
2月17日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には13名、オンラインでは5名の計18名の方にご参加いただきました。





・今回のテーマは「てつがく」は平仮名にさせていただいて、ダブルミーニングというかいわゆる「哲学」ですね。哲学という学問に対して何を求めるのかっていうことと、この哲学カフェは福島をここでやってるわけですけども、その「てつがくカフェ」とか「てつがくカフェ@ふくしま」とかに何を求めるのかと。そういうようなことでダブルミーニングで「哲学」に何を求めるのかと言うことで、本日のテーマとさせていただきたいと言うふうに思います。

・あの哲学というものがなぜ必要になるのかということは、人間がまずいろいろ疑問を持つからではない。というのが始まりだと思いますが。「なぜ私がここに居るのか?」「なぜ世界があるのか?」ていう風な意味で疑問を持ち始めたことが哲学の始まりかなと思います。日々何も考えずにその日、その日流されて生きている方には哲学は必要はないのかなと。だから、自分自身が疑問を持つことが一番初めではないかなと思います。

・まず哲学の始まりという話いただきました。

・続けてそうですね、若い頃にいろいろ本読んだり、形而上学とか読みましたがもう五十年前のことでもう忘れました。その後も色々論理学とかチラチラとこう齧っては来たんですけれども。一番疑問に思ったのは「なぜあのこの世の中に悲しいことが多々あるのか?」ということ思って。まあ、若い頃ですから20代ぐらい?それを個人の力ではどうすることもできない。どうすることもできないけど、見てるしかないんだけれども、まあ悩んでどうにかしたいんだけど。多分ですね今回の石川県の被災でも、それなりの個人個人ができることはあると思うんですけれども。でも全世界の人々を救うことはできない。ということは、疑問に思って日々悩んか悩んだこともあります。ということをお伝えしたいと。

・今日は「哲学になにを求めているのか?」っていうことなんですが。要するに「哲学って何だ?」ということだと思うんです。で、色んな学問「哲学」も学問の一つかなということなんですけど、経済学にしろ法律学にしろ(学問の)対象があるんだと思うんですね。で、哲学の対象と何かというと「哲学だよ」って言われると、もうそうかなって気がしないでもないんですけど。まぁ、私はざっくばらんに言って哲学の対象っていうのは考え方っていうか、真相。神の問題も含めて「神ってなんだ?」というか。ちょっと前に神の問題を(てつがくカフェで)話し合いしたんだけど、世話人から「神が存在するのか?しないか?」非常に大きな問題、そういうの考える分野として「唯心論」ってのがあるって言われたんですけど。でそういう意味での神なんかも哲学の対象かなと風に思っているんです。だから大雑把に言葉の使い方として、東洋哲学とか西洋哲学とか、場合によってはギリシャ哲学色んな言われ方をするんですよね。法律学は法律を対象としてる。でも、法哲学っていうのもありますよね。学生時代に習ったような気もしないでも。あるいは経済学にしたって、ものすごく細かく行くと色んな風に分かれてるわけですけど。で、哲学についてはニーチェの哲学とか、マルクスだとか、あるいはスピノザだとかデカルトだとか、カントだとかヘーゲルだとか。まあ、そういうのを取り上げて、ヘーゲル哲学、カント哲学とか個人個人の考え方も含めて、哲学っていう風に呼んだりしてるわけだけど。まあ。大雑把に言って、考え方や思想を対象にしてるのかなというふうに思っているんです。哲学の役割とか哲学の狙いっていうのは、これも非常に曖昧な言葉ですけど「本当の事を追求する」。「本当の事ってなんだ?」っていうことになるとまた問題なんですけど、真実だとか事実とかいろんな形で言い換えられると思うんですけど。要するに「本当の事って何?」っていうことそれを主に追求するのかなというふうに思っております。

・ええ今日の「何を求めるのか」というのが議題になってますけども、結局「何を求める」っていうことは、あのうまぁ哲学の場合は「真理」が一応の究極の目標だと言われてはおります。それであの先ほど。ああ、前回ですか?前々回かその前か「神」についての対話もありましたけれども結局ね、哲学は心理を求めて神の神学、宗教神学は神の存在を求める。結局、それは自分が救われるということにつながる。というか、それを求めているのかなと。結局、哲学は心理を求めて、その心理によって自分自身が、まあ世界も合わせてかもしれませんが、救われるということ。宗教はまぁ、自分自身もまた世界も神によって救われるのではないかということを求めているのではないかと思います。

・私、あの哲学が何を求めるかっていうのはちょっと私お話ししないんだけども。あのー、デジタルクーポンってありますよね。スマホ持ってる人はデジタルクーポンを手続きして5000円で、で1500円とかね。あれさ、スマホ持ってる人は5000円で1500円、1万円で2,500円。それ全部さ、補助はさ税金でやってんだよ。いや、それは別に構わない。こっから私の言いたいことはスマホとかさ無い人ね。わざとそういうのない人ね。全くのゼロだよ。これはひどいじゃないですか?本当にひどい。補助はなんでも税金からやるよ。けどさ、スマホのない人はゼロだよ。ひどいよこれは。そして私もちょっとその話しをしたらば、みんなそれさ不満持ってさ。電話ジャンジャンいったみたいね。そして、初めて2回目にデジタルのあれ紙になったのね。前は紙クーポンだったんだよ。最初この人は二期目だからね今度。最初は紙クーポンだったんだから平等に。そして二期目選挙に受かった途端には、全くのもうこれはひどいよ。すべて税金でしょ?機械の無い人がゼロだって?ちょっとそれでジャンジャン苦情がいっぱいいったみたいね。それで2回目そうなったみたいね。紙クーポンでっていうこと。あれさ、なんにも言わないで黙ってね、お上の言ってることだから何でもハイハイって聞いてみな。そのまま行っちゃうから。あんまりキャンキャン皆が騒いだもんだからそうなったんだ。だからね、我々はね。まともな人選ばないとダメ、本当に。誰とは言わないけれども。野球だって監督が変わればチームも変わっかんね。トップが変われば変わるんだから、なんつったって。そう、私はね、モヤモヤをね。もう本当に私の言ってた事に対してね、あなた達はでどう思うか、そういうのも聞きたいですよ。本当になんでもかんでもうんうん。あのこの人はさあまあ、色々決める人がさ、もういいとこのまあアレだから、もう田舎のこっちに来ては皆逆に舐めて馬鹿にしてんだよね。そんなことしないからね。最後ちゃんと平等に紙クーポンでやったんだ。全くねえダメだまともな人を選ばないと。あとね、とても変だなと思うと騒がなきゃだめ、私一人でどうしようもないけど、みんなでガンガン騒いだからそうなったんだからね。私考えて。まあいろいろ考えて、これでもうすぐあと、あのね、なんか先進国だかなんだかね、日本はねまあ豊かなんだけど。自殺率がナンバーワンのね。自殺率ナンバーワンだよ。先進国だか世界だかなんだかで何か言ってたんだ。ラジオで言ってましたラジオ。結構ね、テレビだとね。案外制限されて本音は言わないんだよ。ラジオだと結構本音で言うんだ。市議会でだっけ?自殺率で言ってた。ねぇ?まあ、政治家はすごいと思う。政治家になって金が入ったら、もうそういう所に頭ばっかり行ってるから、そっちの方ににばっかり政治家は行ってんじゃないの、政治家は?30年間ずっと一般庶民の人がさ、全然戦前から豊かにならなくてね。だからなれの果てそうなったでしょ?政治家はね、もういい加減金取る方にばっかり頭行ってんだ。いかに国民のことを考えててとか、そうじゃないよ。まあ、あの政治の人見てて、分かるでしょ。だから、本当にもうそれを選んでいるのは我々だから、もうちょっと利口になきゃならないと思います。私、今三つ言いましたけど、これに対してまあね、いろいろ考えて。まあそれに対してどう考えているか聞きたいなと思いまして、終わります。

・デジタルクーポンが出てきて、めちゃくちゃ面白いなって思ったんですけど。まあ、実際そのスマホがないと言う点で政策の利益を受けるかどうかが決まってしまうっていうのは、デジタル化を推進していこうっていう政策の不備があるかなっていう。それをまあ、政治主導で行うか、公共の場で行うかわかりませんけども、まあ、スマホの復旧とかデジタル機器の利用を推進して行くという政策も含めて行うべきだったなって言うことは僕も感じております。で、でその後、広くまあ哲学というところに結びつけるのであれば、その政治の進め方ということについても、まあギリシャ哲学も然りですし、あとフランス革命当時ギュスターヴ・ル・ボンとかの辺りの人は民衆と政治の関係ですよね。その辺りもまあ、話してる人も結構いるので、今の話も全く哲学とは無縁ではなくて、関わりのある話かなと思って伺ってました。それで、自殺率が多いというところで、まあそこでもこう社会においてどう生きるかであるとか、社会における人はどういうものを求めているか、何をする人かっていうのを考えるっていうところも、やっぱりその哲学のフィールドにあがってくるのかなというふうに感じています。だからその辺り、ちょっと深めると面白いかなって思うます。

・今回参加は2回目になります。まず私の方から考えとしてお伝えしたいのが、二つ大きくありまして、一つが「哲学をするってどういうことなのかな」っていうことです。私は元々福島大学出身で世話人の倫理学の授業とか、あと哲学の他の先生の授業とかも受けたことがあるんですけど、哲学と倫理学ってなんかどう違うのかなっていうのが私よくわからなくて。哲学も専門で勉強してきたことはないんですが、道徳的なものとかとあと哲学するってどういう?違いがあるのかなっていうのがあんまり分からないので、まあそこを皆さんにお聞きしたいなって思ったっていうことと。あともう一つが、「哲学に何を求めるのか?」っていう今回の議題についてなんですけれども、自分のことについて言った時に考えられるのが、私の話になっちゃうんですけど、私は自分が分からないし、他人のことも分からなくて、自分と他人を理解するため、結局自分って何なんだろうとか、他人がわかんないから。わかることは絶対できないんですけど、でも、その足しにするために哲学するっていう行為、ちょっと本を読んだりとか、そういう本当に勉強ってほどではないんですけど、そういうことをしているんだろうなって。そして今、こういうふうにZoomを通して哲学カフェに参加させていただいて、皆さんのご意見とかを聞かせていただいて。じゃあ自分って何なんだろう、「どういう考えを持ってるんだろうっていうのを深めたいのかな?自分は」って言うふうに思っています。

・今日のテーマ「哲学に何を求めているのか?」ってこれ主語がないじゃないですか?だからいろいろ広いなあと思っているんですけど。まあ、でもやっぱり「誰が」によって答えは結構変わるもんだなぁっていうのが、まず最初に思ったことですで。またですね。この哲学がひらがなになってるっていうところも、まあ学問としての哲学じゃなくて、哲学カフェとかそういった試みについてもあるというお話ありましたけど。そうすると「哲学カフェ」とか、「哲学対話」と呼ばれるものに求めるものっていうのが、哲学に求めてるんじゃない場合っていうのも当然あるのかなと思うんですね。例えば、その人が集まる場を求めているので、別に哲学カフェじゃなくてもよかったとか。あるいは、そういう機会を求めている、そういう哲学的な話とか、ちょっとなんか小洒落た話とか、カッコつけた話とかをしたいな。人にかっこいい、頭いいって思われたいなっていう。そういう機会とか承認とかを求めたりする場合も、あるんじゃなかろうかと思うんですね。純粋にと言っていいのかどうか、分かんないですけど、哲学に求めているそういう気持ち、「哲学やりたい」「哲学的な話に触れたい」というので求めているのは、やっぱり知的な刺激を求めているんじゃないかなと思うんですね。で、それはなんなのかっていうと、やっぱり「分からないことの答えを何かしら求める」っていうのが人間の中には共通してあるんじゃないのかなって気がします。で、「分からないの答えを求める」っていうものなんだとするとですね。俺は分かってんだぞっていう人にはその欲求が多分ないんだと思うんですね。だから、分かってるつもりの人には哲学は多分魅力のないものなんだと思います。でも子供がまあ、三歳とかぐらいの子供が家の中のことがだんだん分かってきて。あっちに行ったらそのお水があるとか、あっちに行ったら遊ぶ場所があると。家の中のこと全部わかったぞといざ外に出てみると、知らない世界がそこに広がってるわけですね。で、幼稚園に行くとか、ご近所が広がっていって、いつも行く場所から今度かなり遠い場所に行く。大人になって見ると、近くのスーパーだったりするんですけど。でもちょっとした冒険だったりしますよね最初の頃。それが市内とか県内とかそういう風に広がっていくと分からないことだらけになっていて。で世界の他の国があるっていうことを知ると、さらに分からないことが広がって分からないことだらけは、もっと広がる。それを分かったつもりにならないっていうことをしないと哲学って何の意味もないのかなって言うような気がします。「哲学に何を求めているのか?」っていうのは、だから、分からないと思うことに対しての答え、純粋なその好奇心を満たすものなんじゃないのかなと思います。

・最初に今日のテーマが「哲学に何を求めるか?」ということだったんで。それは哲学っていうのは、他の学問も色々と対象に思ってるでしょう。だから哲学の対象って何かっていうことを言ったんですが。求めてるもの、哲学の対象は哲学かっていうと、なんか訳分かんなくなるんですけど。物事の本当のこと、真実とか事実とかって言い換えてもいいと、そういうものを求めるのかなと言うふうに思うんですが、今日のテーマ「哲学に何を求めるか?」ということで出されているわけですが、これについてはここに出席する、あるいは参加する人が、哲学それなり哲学というものを考えて、その哲学に何を求めるのかっていうことの意見を求められているのかなというふうに思ったんですが、先ほど終了が出てないんじゃないかということだったんですが、我々出席者が哲学について考えて、その哲学に何を求めるかっていう意見を求められているということ。あるいは視点を変えて、社会から見て哲学はどういうことを求められてるのかっていう、そういう考え方もできると思うんです。まあ、そういうことで主語の問題、哲学とか倫理の人が出てきたんですが。まあ、哲学と倫理の違い、まあ私やっぱり、単純な頭で考えて倫理というのは、いわば哲学の一つの分野と考えていいのかな?中身は人と人との関係で望ましい。それはダメなものも悪い場合も含んでいるわけですが、望ましいあり方を倫理学かなと考えています。ということで、倫理学は哲学の一分野と考えて良いのではないかな?世話人が倫理学の教授ということであれば、その点、哲学と倫理学の違いをどう考えなってるのか、お聞きできればいいなというふうに思ったんです。

・それは答えなきゃいけないだろうなと思っておりました。まあ答えるっていうか、僕なりの考え方ということですけども。哲学というのは、先ほど皆さんがおっしゃってくださっているように、その分からないものを求めて行く。だから、正にソクラテスは「無知の知」って言ったわけですけど、自分は知らない、答えを知らないんだと。皆その当時のソフィストと言えば、知恵がある者、知識のある者、知恵を持っている者っていう人たちがソフィストなんですけど、ソフィストたちは「自分たちは答えを知っているぞ」っていうふうに言ってたんだけど、自分は全然答えを知らないのに。それで、とある神殿の信託によってソクラテスが一番知恵があるんだっていう風に、そういう信託があった時にソクラテスは「でも、私は何も知らないのに」と。そこではたと考えて、「自分は知らないということを知っている」「答えを持っていない」「答えを知らないからこそ、知りたくてたまらない」と。だから、哲学は「フィロソフィア」っていうわけですけども、これ要するに知を愛するって何かっていうと知りたくて知りたくてたまらない、自分は知らないので知りたくて知りたくてたまらない。そういう意味じゃ心理とか本当のことを求めていくっていう営みが哲学の出発点にあったんだろうなと。で、僕は哲学っていうのはあまり良い訳語(翻訳)だと思っていなくて。経済学は経済を学ぶし、心理学は心理を学ぶんだけども、哲学の哲って何だろう?「聡い」とか「賢い」とかっていうような言葉なんですけど、もともと「希賢哲学」っていうふうに訳されたのは明治時代に。つまり「希」は希望、「賢哲」は要するには知恵ですね。知恵と賢さ、賢さを望む=「フィロソフィア」。まあ、賢さを望むっていう風に訳して「希賢哲」と訳したんだけど、それがまあ略されて「哲学」になったわけですが。「哲学」って僕意味分からないなっていうふうに思っていて。僕は「フィロソフィア」は「哲学」なんて言う変な言葉じゃなくて、「学問」って訳せば良かったんだと僕は思ってます。実際に18世紀19世紀の初めぐらいまでは全ての学問は「哲学」というふうに呼ばれていて。つまり、「ナチュラルフィロソフィー」「モーラルフィロソフィー」。全ての学問が「フィロソフィー」だったんですね。で、それは何かっていうと、正に皆知らないから、自分で考えて答えを提示するんだけども、その弟子たちはそれを信じるのではなくて、それをまた疑ってかかると。「本当にそうなんですか?違うんじゃないの?」と。で、また自分で考えると。だから、哲学は本当に哲学者の数だけ哲学があって、思想家の数だけ思想はあると。そうすると、その考えた人が沢山いれば、それだけ沢山のデカルトの思想やライプニッツの思想とか色んな人が沢山出てきちゃうわけですけれども、まあ学問をずっとそんな感じで、それまではそうだったんですけど、近代以降、学問がそれでも「皆が勝手に色々言ってるだけじゃダメでしょ」って話になって。やっぱり、データと言うか、つまり、私たちが見たり聞いたりできる私たちの経験によって、きちんと「確かめられる事だけでやっていきましょうね」っていう形になって、それが実証科学っていう話なんですけど、実証的にデータに基づいて観察したり、実験やったり、それに基づいて分かることだけは分かるようにしましょうと。それで、「見えない神様とかなんか、そういうようなもので説明するのはやめましょうね」と。それが実証科学っていう運動が起こって学問のあり方が実証科学によって全然ガラッと変わって、そっからだんだんこう「知」を積み上げていくことができるんです。皆分かってることじゃなくて、段々「知」を積み上げていくことができるようになったっていうのがまあ。16~17世紀ぐらいから始まったのかな。そういうのが、どんどん実証化が進んでいくと、どんどん発見がた沢山あって。で、発見が沢山あるともう昔は、哲学者ってのは全ての学問を全部やったんですね。『アリストテレス全集』なんか見るともう天文学から心理学から生物学から法学から、全部一人でやってるわけです。それはもうずっとカントもそうだし、ヘーゲルもそうで。18~19世紀の初めですかね、ぐらいまでは全ての学問は一人で全部やると。哲学者と呼ばれる人が全ての学問全部やるっていうふうにやっていたんだけども、ただやっぱそのヘーゲルのちょっと前ぐらいから、やっぱその凄く実証化が進むともう知識がどんどん積み重なって、それによってもあの一人でやりきれないっていう風になってて。じゃあ、もう「私はこれだけ専門になります」みたいに段々分かれていって。それが分業化ってことが起こっていて。それはつまり、学問が科目に分かれていく。つまり科学になっていくとで実証科学っていうのは実証できる。事柄や実験を通して実証できることできちんと積み上げていこうということになって。そうすると、その個別の一個が持ってるのが、まあ独立して、まだ全て学問が別だったんだけど、そっからだんだんこう色んな学問が実証化がうまく行ったところは、どんどんまあ哲学が独立して行ったっていう感じだと僕は思っています。で、だから結局今、現代の哲学というのは、その実証化できなかった部分。実証的に研究できなかった部分だけが残ってしまって。で、ついこの間までやっぱ哲学の一番主要な部分は認識論っていう「どうやって私たちは心理を知るのか?」「心理はどうやって知ることができるのか?」っていうことを考える部分だったんですけども、実は最近そこも実証化されてきていて。つまり大脳生理学とか認知心理学とかみたいなものは、どんどんは分かって、脳の中で何が起こっているのかっていうのは、昔は全くブラックボックスで分かんなかったんだけども、脳の中でどういう活動が起こってるかって言う脳の部位とか、その活動とかも分かるようになってきて。その認知の仕方、認識の仕方に関しても、もう結構実証的に分かるようになってきていてっていうような時代になってきて、だからそういう意味では哲学に残されているのは実証できないと言ってるのが、だんだん減ってしまってるんだけど、それでも実証できないと言っても、「神様いるのか?」っていうふうな経験を超えて、前世とか来世とか死んだと魂どうなるのかとか神がいるのかいないのかって話は実証的には分からない。私たちの経験によっては分からないわけで。そういう問いが残っているっていうのと、哲学と倫理学の関係で言うならば、倫理学は「私たちはどう生きるべきか?」とか、「何が正しいことなのかとか?」っていうのもこれも実証できない。つまりアンケートをとって、皆がどういう風に考えてるかっていうのは分かるんだけど。それはアンケートで何パーセント、何が正しいって考えるみたいなことは、実証的にデータを集めることができたとしても、じゃあ70%の人がこれが正しいって考えているからといって、それが正しいと言えるかっていうとそれは言えない。つまり、人間の生き方とかに関わってくることっていうのは、実は実証的には今の現段階においてはまだ「どう生きるべきか?」とか、「何をどんなルールを守るべきか?」とか「どんなルールに従うべきか?」っていうのも、今のところまだ分かっていなくて、そういうまだ実証できていないっていう問いが残っていて。だから、多分哲学の中で倫理学って、やっぱその哲学もも勿論実証ができなかったと意図して一つ大きく残っていて。倫理学も哲学の一部分だけど、「哲学」は別にその人間の生き方とか、それだけにかかってるわけじゃないので、さっきの「心理とは何か?」とか「神がいるのか?」とか、「時間とは何か?」とか、そういったような理論的な哲学問題ってのは、どちらかというと「純粋哲学」とか「理論哲学」と言いますけど。「倫理学」の方は、割とその人間の行動とか行為とかに関わってくるところと思っています。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.2.17.「てつがくに何を求めているのか?」

2024年01月25日 20時10分18秒 | 「てつがくカフェ@ふくしま」について
偉大な哲学者ほど、一般民衆の質問に答えるということがむずかしくなる。
ーヘンリク・シェンキェヴィチー


てつがくカフェ@ふくしま2024.2.17.
【テーマ】「てつがくに何を求めているのか?」
【日 時】2024年2月17日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】ホットコーヒー無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/86189918602?pwd=nQVIadjcDV1V6KOCuD9vWVQRBRmflJ.1
        ミーティングID: 861 8991 8602
        パスコード: 8nh290

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマである【てつがく】ですが、

学問の一つの分野である「哲学」としての意味と

「てつがくカフェ」の略称としての意味の

二通りに解釈可能な言葉として捉えて頂き、

参加者の皆様がそれらに何を求めているかについて語り合います。




つまり、「哲学」という学問に対して具体的に何を求めているのか?

哲学に「人生の救い」を求めているのか、

あるいは何かしらの「発見」や「知見」を求めているのかという問いと

「てつがくカフェ」という活動(対話型のイベント)や

「てつがくカフェ@ふくしま」という団体の運営に関して、

改善や要望として、どのようなことを求めているのか?

といったことをテーマとして議論していく回となります。



「てつがくカフェ@ふくしま」は2011年5月から始まり

これまでの12年9カ月で延べ2800人を超える方が参加し、

今現在10~20人くらいの方がイベントに参加しています。



10年以上も活動を続けていると、

当然のように出会いや別れといった体験を繰り返していきます。



何年も参加し続けてくれる常連の方もおられますが、

延べ2800人以上の参加者のうち、

そのほとんどは初参加あるいは途中から「来なくなった方」が占めています。



なぜ、来なくなってしまったのか?

理由は人それぞれあるかと思います。

自分の考えていたものとは大幅に違っていた。

「何も得られそうにない」と失望して去って行ったなどなど。



そうした個々人の求めているものと違ったことで、

「哲学」あるいは「てつがくカフェ」から離れていくのだとしたら、

何も言わずに離れていくのではなく、

せめて何を求めていたのかを伝えていってから去って欲しいという想いで、

今回のテーマを選んでみました。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.1.20.「        」

2024年01月24日 11時56分01秒 | 定例てつがくカフェ記録
1月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11名、オンラインでは4名の計15名の方にご参加いただきました。





ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今日はですね、年に一回テーマを決めないで、この場でテーマを決めて話し合うというそういう回になっておりますので、まず最初20分ぐらいで、テーマを皆さんからどんどん出して頂いて。それで、その中から今日はどういう話し合いをしようかということを決めたいと思います。あと最近はずっとやってるんですけども、今日いろいろテーマが出た中で、じゃあ来年度っていうか、4月以降まだ何もテーマが決まっておりませんので、今日取り上げなかったテーマを見ながらですね。来年度以降のテーマを決めていきたいというふうに思ってますので、とりあえず何でもたくさん色んなことを話し合ってみたいというテーマを出していきたいというふうに思います。

・世話人が子どもを連れてきたんで思いついたんですけど「子育て」なんてどうかな、あとはそうですね、この頃よく「生きづらさ」とかっていうことを新聞なんかマスコミで取り上げられたんですけど、「生きづらさ」っていうことと、あとはスマホ社会ですけど、「スマホの利用」とかね。

・今の「子育て」をテーマとしては、問いにするとしたらどんな感じなんですか?

・「男の育児休暇」とかね。そういうの非常に少ないということなんですけど、まあ子供の育て方について非常に困ってるっていうか悩んでる人がなんか世の中多いようなんですよね。だから、子育てどういうことに気をつけて、あるいはどういう風にしたらいいのかってことあたり考えたらどうかなと言う風に思います。あと「生きづらさ」ですね。時々、新聞で見るんですけど。生きづらさを抱えている人が多いっていうのは、特に女の人がよくそういうことをおっしゃってるようなんですが。ええ、今あのそれぞれ。生きていて、「どんな生きづらさあるのかな?」とそれはどういうところから来てんのかなと言うようなことです。あと、スマホについては、私はスマホ使ってないんですけど。どこに行ってもバスに乗っても電車に乗ってもどこでもみんな。まあ、昔だったら私の若い頃は電車に乗ってると週刊誌とか新聞の見てたんですけど、今はもうそういう奴ほとんどいなくて。まあ、中学生ぐらいからお年寄りまでみんなスマホを使っているようなことなんですけど、どんな使いかたをしてるのかなというようなことです。

・今年みんなで議論してみたいなと思ってたテーマですが、方向性を絞っての話ではなくて、大きな言葉単位で3分くらいちょっと記載していただければと思います。20ちょっとあの読み上げますのであの書いて頂いてもよろしいでしょうか?「愛」が一つで目す。2つ目が「人生」です。3つ目が「人格」。4つ目が「世界」。

・「世界」っていうのはどういう意味の世界でしょう?

・この世界ですね。まあ地球、まあ、現世でもいいです。この世とかでいいですね。

・色んな国があるっていう世界ではなくてではなく?

・この世で結構です。あと次に「刹那」もしくは「今」と書いていただいても結構です。次が「価値」。次に「宗教観」、「宗教」でも結構です。次に「死生観」「人生観」「正義」「笑い」「競争」「孤独」「常識」「自由」「光と影」。

・「光と影」というのは、これはどういうニュアンスでしょうか?

・そうですね。生き方についての「光と影」っていうような意味合いで。あと「家族」「仕事」「幸せ」「お金」。最後に「魂」。

・単語的な形でたくさん出していただきました。

・大きく考えて、議論ができればと思っております。

・何回も今まで言ってきたんですが、「宇宙の開発」って。特に今行われてる月面に到着したりして、色々競争してますよね。特にJAXAが昨日かなんかにあの小さなロケットあれを落としたとかね。全くルールらしいルールっていうのがないんですよね。宇宙はベーシックなやつあるみたいだけど、その抜け目みたいなのがたくさんあって。なんとなく遠い世界だけどという気ですよね。それといつも出てくる「多数決」っていうのですよね。

・私も考えてきて、一番目が「天皇」っていうか、まあもうちょっと具体的に言うと「皇位継承問題」。大きく天皇のことでいいと思いますけど。次先ほど収束したみたいな話ありましたけれども、「コロナ」を総括しないわけにはいかないだろうみたいな。この四年間の出来事でこれ憲法問題っていうと、みんなの苦情に直結して考えちゃうんですが、最近ちょっと一部のSNS上のごく一部にしかすぎないと思うんですが、緊急事態条項がどうのこうのって言ってる人たちがいて、どうしても気になってしょうがないんで、まあ。憲法の中でも特にその緊急事態条項。一般的に興味ない人はもう全く興味無いと思うんですが、いわゆる「陰謀論」。これはもうね、なんの興味もない人もね多いと思うんだけど、興味ある人はもうのめり込んじゃって。次広い意味で「日本人論」ですね。もう歴史的な経緯も含めたトータル的な「日本人論」ですよね。今の日本を見ているだけではなくてですね。次「マスコミ論」ですね。メディア論とテレビ論って言ってもいいんだけど、まあ大体こんな感じですね。

・最近読んだ本の中で刑法39条心神耗弱の減刑理由、それが不必要だという学説を拝見しまして、まあそれについてちょっと皆さんのご意見賜れればなぁなんて思います。

・一つは「文春砲の功罪」。マスコミの中に入るのかもしれないですけど、ああいう風になんだろうな特定なものを狙って、あの暴き立てることがもちろんいい面もあるんでしょうけども、問題点もあるだろうし、それが。あの。なんだろうな世の中に蔓延ってるってことはどういう意味があるっていうのは、ネタとして面白そうだなと。あともう一つは、これも時事ネタであのあれですね「派閥」。結社の自由という観点から見ると、禁止っていうのはおかしな話だし、であのあの「派閥が悪いんじゃないとか?」って言ってる政治家もいる。まあ、いろんな立場がありえると思うので、どう見るのかっていうのを考えてみると面白いと思います。

・テーマに「自由」と出てるんですけど、「自由と平等」ということで議論したどうかなと?それともう一つは「社会的格差」。まあ、これは「経済格差」が。一番根っこにあるんだと思いますけど、そういう意味での。社会的格差の実態と、どういう所から出てきてるのか、どうしたらいいのかっていうようなことについて議論したらどうかな?

・「戦争」ですね。「戦争」と何か組み合せようと思うといろんなものが組み合わせられるんで、例えば「戦争と自由」とか、「戦争と平等」とか「戦争と格差」とか、「戦争と憲法」とかっていうのはあるので。「戦争とは何か?」あるいは「戦争はどうして起きるのか?」

・補足的にあのその私が言った「マスコミ」ってのだと「文春砲」とか、まだまだご存じない方多いと思うんですが、あの「キャンセルカルチャー」って言葉があるんですが。「キャンセルカルチャー」というこの言葉がどんな意味なのか聞きなれない言葉だと思うんですが。まあ、一つのテーマとして最近去年起きたジャニーズとか、あと宝塚とか最近では松本人志とかに関係する言葉なので、ちょっとキーワードとして言葉だけちょっと述べさせて頂きます。

・せっかくだから簡単に説明していただけますか?

・「キャンセルカルチャー」っていうのは2010年代ぐらいからアメリカでちょっとこう出てきた、なんというか社会的な風潮みたいなもので。結局キャンセルってのは、取り消すとかね。あの除外するとか削除するとか、いろんな意味があるんですが、結局ズバリ言っちゃうと、大衆やマスコミが自分の気に入らない有名人や成功者にいちゃもんつけて引きずり下ろそうとする。その社会的な風潮みたいなものをウィキペディアでね。あの興味ある方、調べれば出てくると思いますけど。そういうの「キャンセルカルチャー」って言います。だから、去年からのジャニーズから起こっている出来事を、あの社会科学的な用語を使って言えば、「キャンセルカルチャー問題」なのかなっていうことです。とりあえず以上です。

・もう一つ、あの「民間人」っていう言葉よくいろいろ最近戦争を見てると全く無知の人みたいな感じで言われてるんで、ちょっと気になってました。

・「民間人」が出てたら、「一般人」はなんだろう一般じゃない人ってなんだっていうんですね。

・じゃあまぁ、あのだいぶ出るには出たので、ここからはとりあえず今日何をしゃべるかっていうことで絞っていきたいと思いますが、今日お話しするのはどれがいいですかね?あまりにもたくさんありすぎて見えない。

・あの天皇とか憲法の問題はなんか5月とかとあの憲法の日とか、あるいは11月の文化の日も憲法がらみですかね。あるからですかね、なんかそういう風に合わせた方が、話したい人がたくさん来てくれて盛り上がるのかなっていう意味でなるじゃないほうがいいかなと。

・今ですね。あの社会的にクローズアップされているのは、パレスチナの問題とか、あとはハマスの問題だなと思ったんですけど、それだけです。

・先ほどあの「天皇の問題」と「憲法の問題」っていうのがこうなんかこう、まあ一体のものであるみたいな話になっちゃったんだけども。あくまでも私があの「皇位継承問題」って言ったのは、「憲法問題」というよりも、もう純粋に「皇位継承問題」ですっていうこと。天皇の話は天皇の話で一年を通じていつでもいいかなみたいなふうにちょっと思ったもんね。

・最初からずっと読んでいくと「子育て」「生きづらさ」「スマホ」「愛」「人生」「人格」「世界」「今世」「宗教」「宗教観」「死生観」「正義」「笑い」「競争」「孤独」「常識」「自由」。「自由」には「自由と平等」みたいなのがでてましたね。あとは生き方としての「光と影」。「家族」と「子育て」はまあ半分似てるところもあるかもしれないですね、含まれるという感じがある。「仕事」「幸せ」「お金」。「自由」は昨年確かとりあげていたし。「仕事」だと「お金」なんかも最近やってたかもしれないですね。「魂」というのは話したことがないかもしれませんね。「心はあるのか?」でまあ、「魂」の話を若干だから。「宇宙開発」は確かに前から出てるんですけど、僕が興味なくて。後回しにしちゃうところがあるので、この後また一年間のテーマを組む時に僕が中心になって考えちゃうとまた外れちゃうから今日宇宙開発やっちゃうっていうのがあるかもしれません。「多数決」とかってのは、この物事の決め方っていうのは結構重要な問題で前やってないかな。「天皇」とか「皇位継承皇位継承」ね。皇位継承の話って結構、まさに天皇制ありきですよね。天皇制は認めた上でっていう話で、僕はというと天皇制はアリなのかっていうところから話したくなっちゃうので、まあでも皇位継承に絞ってっていうのもあるかもしれません。「コロナの総括」はしてないのかな?やってないかな。ここから「憲法」で特に「緊急事態条項」ですね。「緊急事態条項」に関してっていう話ですね。ちょっとそういうのが最近話題になってるって知らなかったんですけれども、「陰謀論」ね。これも多分。僕に選ばれたら「陰謀論」とか最初から関係ない思っちゃいがちなので、今日やっちゃうっていうのはあるかもしれません。「日本人」ってなんか去年だか一昨年やったような気がしなくもないですけど、まあ、あの何回でも行ってもいいので。これ「マスコミ」とか「文春砲」の話、これも面白いですね。また「キャンセルカルチャー」っていうそういう側面からとらえていくっていうのはなるほどなと思いました。あと「心神耗弱」ですね。これもそうだね取り上げたことないけれども結構話してもいい問題かもしれませんね。「文春砲」はあの今、非常にホットな話題ではあるかもしれませんが。「派閥の問題」「社会的格差」。「戦争」の定義だったり原因であったり、民間人とか一般人とかからパレスチナの問題というのが出てきます。

・「戦争」についてはちゃんと自分で勉強してきて、「ハマス」でも「パレスチナ」もそうですかね。「パレスチナ」もちょっとやっぱりポットではあるけれども、ちょっともうある程度知識というか、勉強が必要な感じはしなくもないですよね。

・勉強が必要っていう意味で、「宇宙開発」も多分何が行われているのかっていうのをある程度分かってないと話にならない気もするので。だったら事前に勉強の時間が欲しいです。勉強したくないなら知ってる人に話してもらうみたいな。

・どうしようかなどこら辺で落とそうかな?えっと。確かに「パレスチナ」の話。まあこれ、政治のこと、勉強しなきゃなって言うと「派閥」もそうで。もう30分以上時間とっちゃってますので、まあそんなに長く話せないっていうのもあって。まあ、いつもだからこの会話割と軽めのにしましょうねっていう風に行ったりもしなくもないんですが。

・としては、テーマとして「文春砲」とかね「派閥」なんか面白いなと、あとその他いっぱい出てるんですが、全部やってればいいと思うんです。それぞれおもしろいこと話せると思うし、話し合えると思うので。ただ今日話したいということであると、まあ、今申し上げたと「文春砲」とか「派閥」とかかなと。

・まあ、そうですね。僕も「文春砲」の功罪はまあもうこの場で話せるかもしれないなというふうに思っているところもあって。まぁ、マスコミ一般に広げてもいいので、「文春砲」を代表とするまあマスコミみたいな話で今日話していくのはいかがでしょうか?


・結構みんな会場の方はうなずいたいただいた方多いんですけども。ズームの方もよろしいでしょうか?ありがとうございます。じゃあ今日はですね、いろいろ出た中で「マスコミ」。特にその「文春砲」に代表される、現在のマスコミの活動というか、そういうものについて語り合っていきたいと思います。「マスコミの功罪」ということで、「マスコミ」や「文春砲の功罪」ということで話し合っていきたいというふうに思います。









上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.1.20.「        」

2024年01月07日 10時21分18秒 | 開催予定
1月のてつがくカフェはテーマを決めずに、当日の参加者同士で話し合ってテーマを決める回となります。

てつがくカフェ@ふくしま2024.1.20.
【テーマ】「      」(当日の話し合いで決めます)
【日 時】2024年1月20日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】ホットコーヒー無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/87952888458?pwd=anCbnjjl4dKMzaIpvWIKbrkrr7VLKQ.1
        ミーティングID: 879 5288 8458
        パスコード: 0sdmWR

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



さて、前述のように1月はテーマを決めずに

当日集まった皆様と一緒に何について話し合うかを考えたいと思います。

最近気になっている問題、話したいテーマ、取り上げて欲しい作品(映画、小説)などお持ちより下さい。

また、今回採用されなかったテーマでも、

今後てつがくカフェで取り上げていきたいと考えております。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。