道楽ねずみ

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プラハの春の終了 ワルシャワ条約機構軍侵攻

2009年08月20日 | 衒学道楽
チェコスロバキアで「プラハの春」と呼ばれる改革運動が進む中,1968年8月20日,ワルシャワ条約機構軍はチェコスロバキア国境に侵入し,全土を軍事的に占領しました。

ワルシャワ条約機構軍は既に6月の時点で,軍事演習を繰り返した上,チェコスロバキア領内から立ち去らず,圧力をかけていましたが,8月20日になって全面的な軍事介入に踏み切りました。
ワルシャワ条約機構軍はチェコスロバキア政府の要請によって進駐したと宣伝したにもかかわらず,チェコスロバキアはこれを否定し,国営放送は何も報ぜずに,スメタナのプルタバ(モルダウ)を流し続ける消極的抵抗を続けました。
最終的に,ワルシャワ条約機構軍の軍事介入によって,プラハの春は終わるのですが,それでも当時のチェコスロバキアのズボボダ大統領はソ連に対して毅然とした態度をとり,プラハの春の指導者であったアレクサンデル・ドプチェクらの釈放を第一に求めたことは敬服に値します。
生きながらえたドプチェクは,1989年のビロード革命を見届けることになります。

「人間の顔をした社会主義」といったスローガンやドプチェクらが目指した改革の内容は、後のペレストロイカの時代から見ると,当然のことのように受け止められる内容でした。しかし,当時のブレジネフ政権は到底これを受け入れることができませんでした(プラハの春の改革を理論的に支えたズデネク・ムリナーシは,かつてモスクワに留学中,若きミハイル・ゴルバチョフと面識を得ていたそうです。)。

その後,カレル大学の学生ヤン・パラフは,ソ連の軍事介入に抗議し,プラハのヴァーツラフ広場で焼身自殺をします。
以後,チェコスロバキアはフサーク政権の「正常化政策」のもと,長い停滞の時代を迎えます。

写真は暗いテーマからうってかわったものです。
プラハの春はプラハの春でも,音楽祭の方のメイン会場となるスメタナホールです。これも大分前にプラハを旅行した際の写真です。