平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

それでもボクはやってない

2008年03月05日 | 邦画
 笑い、涙、感動……。
 エンタテインメントは人に様々な感情を呼び起こすものだが、『怒り』というのは滅多にない。

 この作品は『怒り』を喚起する作品。
 題材は痴漢冤罪事件。
 観客は、刑事の取り調べを受ける金子徹平を目撃しその不当に憤りを覚える。
 まずは取り調べを行う刑事の「思い込み」「決めつけ」。
 徹平の話を聞こうともしない。都合のいい調書。
 検事も同じ。
 痴漢行為撲滅の意思や被害者の苦しみにとらわれるあまり、客観性を欠く。
 裁判官も主観的。
 痴漢裁判の99%が有罪。無罪判決を出すことへの怖れ。
 無罪判決は警察・検察の面子を潰すことになるから出来れば避けたいという意思。警察・検察に嫌われたらいろいろやりにくいらしい。
 また日々、嘘をつく犯罪者に接するため、被告人には騙されたくないという意思も働くらしい。
 本来、刑を確定するまでに警察の調書→検察の起訴不起訴→裁判と3つの過程を踏む理由は、それぞれがチェックし冤罪をなくそうとするためだが、この3つのチェック機能が独立せず、互いにもたれ合っている。

 作品では転勤で裁判官交代という事態も描かれた。
 ただ裁判記録を読むのと法廷で生の叫びを聞くのとでは感じることにおいて大きな違い。

 弁護側は取り調べの杜撰を指摘する。
 手のひらの付着物を採取しなかった、などなど。
 この杜撰さは現在の社会保険庁などのいい加減さにも通じる。
 警察もお役所。
 やはりお役所のすることは……。
 この点でこの作品は現在の心象を描いた作品であるとも言える。

 客観的事実というのは難しい。
 痴漢事件の場合、物証などは少なく情況証拠だけで事実を確定しなければならない。
 その情況証拠を形作る証言はかなりあやふや。
 精神的につらい被害を受けた少女はもちろん、駅員、目撃者、それぞれの主観、思い込みで証言する。
 このあやふやさの中で判断するのだから裁判官はよほど洞察力、理解力に優れていなければならない。
 客観的事実も取りようによっては、どの様にも取れる。

 さてこの様な形で描かれた「それでもボクはやってない」。

・警察、検察のいい加減さ。
・硬直化したシステム。組織と個人。
・客観的事実の難しさ。

 など様々なテーマを提出してくれた。
 いろいろ考えさせてくれる作品だ。
 同時に自分がいつ主人公の徹平の様な事態に巻き込まれるかもしれないという恐怖も。
 何もしていない人間が、自由のない拘置所生活、罵倒の取り調べ、裁判でのプライベートの暴露をされなくてはならない恐怖。
 われわれの日常はちょっとした歯車の違い(徹平の場合ドアに服が挟まったこと)で大きく変わってしまうのだ。


コメント
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