平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

ドラキュラ

2006年08月26日 | 洋画
 ドラキュラー映画をふたつ。

 「ドラキュラ」(1992年 アメリカ)
   監督 フランシス・フォード・コッポラ
   出演 ゲイリー・オールドマン ウィノナ・ライダー キアヌ・リーヴス アンソニー・ホプキンズ 
 「吸血鬼ドラキュラ」(1957年 イギリス)
   監督 テレンス・フィッシャー
   出演 クリストファー・リー ピーター・カッシング マイケル・ガフ

 同じブラム・ストーカーの原作をもとにしていながら、ドラキュラの孤独な怒りを描くか、ドラキュラを恐怖の対象と見るかで大きく違ってくる。

 コッポラの「ドラキュラ」は前者。
 オールドマンがドラキュラを演じ、その苦悩怒りを表現する。
 ドラキュラは戦争で愛する女性を喪い、彼女を奪った人間に復讐するために悪魔と契約を結んだのだ。これはドラキュラのモデルになった人物をもとにしている。
 さて、悪魔と契約を結んだドラキュラ伯爵。
 しかし、いくら人間を殺めても救われることはない。
 復讐は人の心に安らぎを与えないのだ。
 結果、彼は満たされない空虚を抱えたまま、永遠の命を生きていく。
 そんなドラキュラが喪った女性ミナとうりふたつの女性を見てロンドンへ向かう。
 このロンドンに上陸するシーン、この映像は実に見事だ。
 嵐が巻き起こり、動物園の動物たちが騒ぎ出す。ある女は夢遊病者の様に歩き出し、ドラキュラにその首筋を差し出す。この上陸シーンは、音楽との相乗効果もあって本当に怖い。
 そしてミナにめぐり会い、彼女を求めていく。
 だが、吸血鬼になった今、どうやって愛していいかわからない。
 この苦悩。
 そのラストは圧巻だ。
 ドラキュラを愛する様になったミナが、ヘルシング教授に追いつめられ瀕死の状態となったドラキュラを殺すのだ。
 ミナはドラキュラに永遠に生きる苦しみでなく死の安らぎを与えるため、ドラキュラの胸に杭を打ち首を切り落とす。
 それはミナのドラキュラへの愛情から行った行為だった。
 ドラキュラは愛する人の愛に包まれて、やっとその呪われた生から解放されたのだ。

 そしてテレンス・フィッシャーの「吸血鬼ドラキュラ」。
 クリストファー・リーの当たり役となって続編も9作品作られた。
 このドラキュラーはあくまで人を吸血鬼にする怪物、ヘルシングに退治される怪物として描かれている。
 そこには何の悲哀も苦悩もない。
 退治されるモンスターを描くホラー映画だ。
 悪に支配された人間を救うために戦うという点では、科学者と神父の違いはあるが、「エクソシスト」にも似ている。
 ドラキュラに血を吸われた人間が、十字架に恐怖し触れると十字架の痣がつくというモチーフも「エクソシスト」で見た様な。
 この作品はヘルシングの機転の利いた戦い方が面白い。
 ドラキュラのいない空の棺桶を見つけると、そこに十字架を入れておく。それでドラキュラは棺桶の中に戻ることができない。仕方なく自分の城に戻る。
 ドラキュラを追うヘルシングは城へ行き戦う。
 圧倒的な力の差があるが、太陽が昇ってしまえば力関係は逆転する。
 そのタイムサスペンス。
 鉄の棒をふたつ重ね合わせて十字架を作って戦うというのも面白い。
 57年にヒットしたのも分かる。

 それにしてもドラキュラとは実に見事に造り込まれたキャラクターだ。
 十字架・ニンニク・陽の光に弱い。
 昼間は棺桶の中で眠る。
 木の杭を打たれると死んでしまう。
 城の穢れた土はエネルギー源。
 城以外の他の場所に移動する時は、城の穢れた土を入れた棺桶の中。
 永遠の命。
 血を吸われ支配された人間・下僕たち。
 こんな怪物は滅多にいない。
 おまけに永遠に生きることの苦悩という精神性を持っている。

 これから映像製作者はどんなドラキュラを見せてくれるのだろう。
 これから映像製作者はどんな怪物を見せてくれるのだろう。
コメント
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