ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

小説を書く。

2024-04-07 | あらためて文学と向き合う。
 しばらく更新を怠っていると、ブログをやっていること自体を忘れてしまう。
 「ダウンワード・パラダイス」の看板を掲げて、かれこれ18年くらいになるのだけれど、そんな調子で、十本くらいしか記事を上げなかった年も、何度かあったと思う。
 このたびも、ふと気づけば前回の記事から2ヶ月ちかくが過ぎており、年度が替わって、あたたかくなり、桜も満開である。
 いちおう「ブログ用ネタ帳」なるものをつくってはいるのだが、いま確かめたところ、そこにちょこちょこと書き込んでいたのも、3月の半ばくらいまでだった。
 ぱらぱら繰ってみると、
① 〝杉本苑子『散華』〟 というメモがある。
 これは杉本さんが1986年から1990年にかけて雑誌に連載していた長編で、副題は「紫式部の生涯」。いまは中公文庫から上下巻で出ている。
 うちにあるのは単行本のほうで、ずいぶん前に、古書店で安く手に入れたものだ。
 冒頭部分を読んだだけで、「まあ、また今度でいいか。」と放り出し、そのまま書棚の奥に押し込んであったものを、引っ張り出してきちんと読んだ。おもしろかった。
 読む気になったのは、もちろん、大河ドラマ『光る君へ』のおかげである。
 ドラマはオリジナル脚本なので、この小説は原作でもなんでもない。だから、どちらも紫式部の生涯を描いているとはいえ、いろいろ異同がある。
 そのあまたの相違が、「小説」と「ドラマ」というふたつのジャンルの違いをあらわしていて興味ぶかい……と感じたので、そのことをブログに書こうと思って、ネタ帳に書きとめたのだった。
 覚え書きとして、アイデアや、文章の断片をいろいろと書き込んでいるが、記事に結実するには至らなかった。
 ほか、
② 〝ニーチェの個人訳〟 というメモもある。
 ニーチェの邦訳はすでに明治から試みられてきたのだが、今に至るまで、個人による全訳はない。
 全集の翻訳としては、ちくま学芸文庫版がもっともポピュラーであろう。ただしこれは、元となった版が70年代のもので、その後のニーチェ研究を鑑みたとき、編集の方針などに、いささか問題なしとしない。
 また、訳業にかかわった方々が、文学ではなく哲学畑の学者がほとんどのため、訳文がいかにも固い。
 このあとに出たニーチェの訳では、ぼくのみるところ、河出文庫から出ている『喜ばしき知恵』『偶像の黄昏』の村井則夫のものが秀逸である。清新で、明快で、よみやすい。
 ただ残念なことに、村井さんによる訳はこの2作だけで、ほかにはない。文庫化されてないというのでなく、訳業そのものがない。
 できればこの方の訳でニーチェの主要作をぜんぶ読みたかったな……と考えるうちに、いや……可能性だけをいうならば、じぶん自身が、そのような仕事に取り組んでいた人生もあったのではないか……と思い至って、なにやら感慨深くなった。
 いまはすっかり単語も文法も放念してしまったが、いちおう昔は独文の学生だったのである。卒論のテーマもニーチェだった。
 しかしあのころは、ニーチェの著作そのものを愛するというより、
「20世紀の思想にニーチェがどんな影響を及ぼしたか」
 に関心があった。
 担当の教授に、
「君のニーチェは、外側からやねえ」
 と言われたことが、いまも記憶に残っている。
 だからニーチェの文章にしても、訳文と原文とを照らし合わせて、おおまかな意味が取れればそれでよい……と思っていた。「この人のドイツ語を自分の手で日本語に移し替えたい」といった情熱は、まるで湧いてこなかったのだ。
 ひとつには、「翻訳なんて、定番のものさえ一つあったら、少しばかり難があっても、それを読み継いでいけばいいだろう」と思っていた。
 だがこれは誤りで、ニーチェよりさらに数百年古いシェークスピアでも、いや、たとえギリシア悲劇であっても、「それぞれの時代にふさわしい現代訳」というものがありうる。それが古典というものだ。
 そのことが、最近になってようやく身に染みてきた。
 それならば、いま気鋭の独文学者なり哲学者が、個人による日本語の全訳に挑戦することは、けして意味のないことではなかろう。
 なにしろニーチェは、おそらく現代思想にいちばん大きな影響を与えた著述家なのだ。文章そのものも魅力的だし。
 プロの学者が、さまざまな事情でそれをできないのであれば、アマチュアがやってもいいではないか。
 いや、いっそもう自分がやったらどうだ。
 しかし、落ち着いて考えるまでもなく、いまからドイツ語をやり直し、ニーチェのほぼ全作を日本語に訳すことなど、できるはずがない。不可能事である。残り時間がない。
 そういったことを考えるにつけ、自らの来し方を顧み、また行く末に思いをはせて、なにやら感慨に耽ってしまった……というようなことを書こうと思いつつ、結局は記事にできなかった。
 ……と書こうとしたのだが、なんのことはない、これについては今あらかた書けてしまったではないか。
 ブログのネタ帳の話にもどる。
 ほかにもいくつか項目が書きつけてあって、最後が〝鬼平犯科帳〟である。
 文春文庫版の1巻から6巻までが紐でくくって古本屋のワゴンに積んであったのを、500円で買ってきた。古い版である。むかしの文春文庫は紙質がわるかったので、1巻あたりは煮しめたようになっている。
 鬼平にかぎらず、池波正太郎さんのものをきちんと読むのは、これが初めてのことだ。
 中村吉右衛門主演でながく続いたテレビドラマの効果もあり、鬼平の人気はことのほか高い。最近になってまた新しく映画化もされた。
 ほとんど本を読まないうちの父親でさえ、「鬼平」だけは24巻ぜんぶ揃えて持っていた。
 藤沢周平の名作『蝉しぐれ』ですら、「ようわからん」と言って読まず、本といったら図書館の除籍本をもらってくるだけで、断じて自腹を切ってあがなうことのなかった父親が、「鬼平」だけは自分で買って手元に置いていたのである。
 おそるべし池波正太郎。おそるべし鬼平犯科帳。
 その大衆性は端倪すべからざるものだ。
 いったい秘訣は那辺にあるのだろうか。知りたい。
 そう思いつつ、これまではなかなか手を出せなかったのだが、好機逸すべからず、ここにきて、ともかく6巻まで読めた。
 時代劇版ミステリーたる捕り物帳に付きもののはずの「快刀乱麻を断つ謎解き」もなく、「あっと驚くどんでん返し」もなく、密偵をふくめた組織力に頼った地道な捜査ばかりがつづき、しかも事件解決のきっかけが往々にして「うますぎる偶然」や「都合の良すぎる展開」であるということで、正直、読後はちょっと戸惑った。
 しかし思えば、外連味(けれんみ)がなく、ご都合主義をおそれぬからこそ、幅広く読まれるのだろうし、くりかえし再読に耐えるのであろう。
 なんといっても、長谷川平蔵はやはりたしかに魅力的である。
 そしてもっとも特筆すべきは、その文章の読みやすさだ。
 これについてはいちいち説明するよりも、今回のこの記事にて自分なりの文体模倣(パスティーシュ)を試みているので、ご覧のとおりである。
 この文体はものすごく具合がいい。ぼくにとってありがたいことには、試しにこの文体で小説を書いてみたところ、自分でも面食らうほど、すらすらと筆がすすむのである(これは慣用句であって、じっさいにはキーを叩いている)。
 ここ何年も、冒頭ふきんの10数枚分を書いては没にし、また一から書き直しては没にし……、ということを繰り返してきた小説が、おもしろいように捗る。
 ぼくにとっての最大の快楽は、小説を書くことであり、これに比すれば、余のことはなべて味が薄い。
 小説の筆がはかどるとは、すなわち、キャラがうごいているということだ。
 キャラがうごいているときには、むしろこちらの筆がキャラを追いかけていく……という按配となり、こうなると文字どおり寝食を忘れる。
 あまり眠くもならないし、空腹も覚えないのである。
 日々の生活のために必要な雑事を除いて、閑暇はすべて小説についやす……さすがに桜は、この季節だけのことなので、花見くらいは行くけれど、ほかのことは何もできない。
 さきの金曜ロードショーで、『すずめの戸締まり』をやっていたようだが、おととしから昨年の初頭にかけて、つごう4回劇場まで足を運び、ブログでも再三とりあげたこの作品さえ、まったく観る気がしなかった。
(そもそも、地震の対応そっちのけで宴会のはしごをしている政権の下で、ファンタジーを見る気分にはなれなかったこともあるが。)
 ともあれ、そういう次第なので、しばらくまた、更新はできないと思います。あしからずご了承のほど……。