ベルリン国際映画祭における受賞作の発表をうけ、本日は予定をかえてこの話題。
この映画祭には、アメリカのアカデミー賞とちがって「アニメ部門」がない。実写映画とアニメーション映画とが区別されず、ひとつの「作品」として評価される。いくつかの部門に分かれているが、メインとなるのは「コンペティション部門」で、このたび『すずめの戸締まり』はそのコンペティション部門に招待されていた。裏の事情までは知らぬけれども、売り込みに行ったわけではなく、向こうから招待されたわけだから、それだけで名誉なことだと思う。
いわゆる「最優秀作品賞」に当たるのが「金熊賞」である。2002(平成14)年に宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』が受賞した。それから21年間、日本の映画監督による何本かの作品が「銀熊賞」その他を取りはしたものの、「金熊賞」の受賞はなかった。なお「銀熊賞」とは、監督賞、男優・女優賞、最優秀短編映画賞などの部門に与えられる賞の総称だが、そのなかに「審査員グランプリ(特別賞)」がある。この「審査員グランプリ(特別賞)」の「銀熊賞」は、事実上の「準優勝」といっていい。近いところでは2021(令和3)年に濱口竜介監督の『偶然と想像』が受賞した。
ちなみに、これらはすべて実写作品だ。もしこのたび「すずめ」が金熊を取ったなら、ベルリンで21年ぶりの栄誉、それもアニメで……ということで、注目が集まっていたわけである。そうなれば、名実ともに「宮崎駿の後継者」=「日本アニメ(オリジナル劇場版)のリーダー」としての評価も固まる……との含みもあったろう。
本年の金熊賞は、フランスのニコラ・フィリベール監督によるドキュメンタリー作品『オン・ジ・アダマント』に与えられたとの発表があった。つまり「すずめ」は受賞を逸したわけだが、いまのところ、審査結果が伝わってきたのは金熊だけなので、まだ最終結果はわからない。「審査員グランプリ」であれ、ほかの「銀熊賞」であれ、はたまた銀熊以外の賞であれ、ひとつでも取ったら大したものだ。冒頭でも述べたが、招待されるだけでも大変な栄誉なのである。
余談になるが、ネットでの紹介記事の中に「オン・ジ・アダマント」を「アダマントにて」と訳しているものがあり、これはおかしい。「アダマント」は地名ではない。「オン・ジ・アダマント」はこれ全体で「断固として」という意味の熟語だ。まあ、こんなのはすぐに修正されるだろうから、わざわざ書きつけることもないが……。
ぼくは『すずめの戸締まり』を4回観た。「震災」をテーマに据えた映像作品として、それこそベルリン映画祭ではないが、アニメと実写との枠組みを突き抜けた傑作だと思う。「震災という重い題材をエンターテインメントに仕立てることがけしからぬ。」といった倫理的な反撥はいまだに見るが、世代を超えて多くの観客に届くようエンタメ化されているところに値打ちがあるわけだ。震災を知らない年齢の人たちの入り口にもなりうるということである。この作品を契機として、震災について認識をもっと深めていきたいと思ったならば、小説(いわゆる「震災後文学」)にせよ、ドキュメンタリーにせよ、たくさん媒体はあるのだから。
さて。4度も劇場に足を運ぶほど好きで、当ブログでもたびたび話題にしてきたのに、じつはこれまで、正面切ってきちんと論評はしていない。前にも紹介したとおり、優れたテキストがネットで公開されていて、これに付け加えるべきことがほとんどないのである。
『すずめの戸締まり』に隠されたメッセージと新海作品の可能性
土居伸彰×藤田直哉 対談
2022.12.17
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/doi_fujita/22112
この映画祭には、アメリカのアカデミー賞とちがって「アニメ部門」がない。実写映画とアニメーション映画とが区別されず、ひとつの「作品」として評価される。いくつかの部門に分かれているが、メインとなるのは「コンペティション部門」で、このたび『すずめの戸締まり』はそのコンペティション部門に招待されていた。裏の事情までは知らぬけれども、売り込みに行ったわけではなく、向こうから招待されたわけだから、それだけで名誉なことだと思う。
いわゆる「最優秀作品賞」に当たるのが「金熊賞」である。2002(平成14)年に宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』が受賞した。それから21年間、日本の映画監督による何本かの作品が「銀熊賞」その他を取りはしたものの、「金熊賞」の受賞はなかった。なお「銀熊賞」とは、監督賞、男優・女優賞、最優秀短編映画賞などの部門に与えられる賞の総称だが、そのなかに「審査員グランプリ(特別賞)」がある。この「審査員グランプリ(特別賞)」の「銀熊賞」は、事実上の「準優勝」といっていい。近いところでは2021(令和3)年に濱口竜介監督の『偶然と想像』が受賞した。
ちなみに、これらはすべて実写作品だ。もしこのたび「すずめ」が金熊を取ったなら、ベルリンで21年ぶりの栄誉、それもアニメで……ということで、注目が集まっていたわけである。そうなれば、名実ともに「宮崎駿の後継者」=「日本アニメ(オリジナル劇場版)のリーダー」としての評価も固まる……との含みもあったろう。
本年の金熊賞は、フランスのニコラ・フィリベール監督によるドキュメンタリー作品『オン・ジ・アダマント』に与えられたとの発表があった。つまり「すずめ」は受賞を逸したわけだが、いまのところ、審査結果が伝わってきたのは金熊だけなので、まだ最終結果はわからない。「審査員グランプリ」であれ、ほかの「銀熊賞」であれ、はたまた銀熊以外の賞であれ、ひとつでも取ったら大したものだ。冒頭でも述べたが、招待されるだけでも大変な栄誉なのである。
余談になるが、ネットでの紹介記事の中に「オン・ジ・アダマント」を「アダマントにて」と訳しているものがあり、これはおかしい。「アダマント」は地名ではない。「オン・ジ・アダマント」はこれ全体で「断固として」という意味の熟語だ。まあ、こんなのはすぐに修正されるだろうから、わざわざ書きつけることもないが……。
ぼくは『すずめの戸締まり』を4回観た。「震災」をテーマに据えた映像作品として、それこそベルリン映画祭ではないが、アニメと実写との枠組みを突き抜けた傑作だと思う。「震災という重い題材をエンターテインメントに仕立てることがけしからぬ。」といった倫理的な反撥はいまだに見るが、世代を超えて多くの観客に届くようエンタメ化されているところに値打ちがあるわけだ。震災を知らない年齢の人たちの入り口にもなりうるということである。この作品を契機として、震災について認識をもっと深めていきたいと思ったならば、小説(いわゆる「震災後文学」)にせよ、ドキュメンタリーにせよ、たくさん媒体はあるのだから。
さて。4度も劇場に足を運ぶほど好きで、当ブログでもたびたび話題にしてきたのに、じつはこれまで、正面切ってきちんと論評はしていない。前にも紹介したとおり、優れたテキストがネットで公開されていて、これに付け加えるべきことがほとんどないのである。
『すずめの戸締まり』に隠されたメッセージと新海作品の可能性
土居伸彰×藤田直哉 対談
2022.12.17
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/doi_fujita/22112
返事のない場所を想像する――『すずめの戸締まり』を読み解く
『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』特別寄稿
土居伸彰
2022.11.15
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/21956
新海誠の『すずめの戸締まり』は、何を閉じたのか?宮崎駿作品の主題、『星を追う子ども』の共通点から考える
考察/新海誠『すずめの戸締まり』が「震災文学」である本当の理由
ただ、これらプロによる鑑賞・批評・評論はともかく、ネットを見てると、一般客のみなさんのなかに、「いまいち感情移入できなかった。」「展開が強引に思えた。」といったたぐいの意見がある。たぶん若い方たちなのだと思うが、これについて思うところを書いておきたい。
新海作品はよく「セカイ系」といわれる。「セカイ系」とは、
『「君」と「僕」との関係性の強度が、しかるべき社会的な制度や手続きを介することなく、一挙に「全世界」へと接続してしまう』
ような作品である。メジャーデビュー以降の3作品では必ずしも「全世界」ではないが、『君の名は。』なら「糸守」という地方の架空の小さな町(被害をもたらすのは隕石の破片)、『天気の子』なら東京のほぼ全域(被害をもたらすのは降りやまぬ雨)、そして『すずめの戸締まり』なら東京をはじめとする日本全土(被害をもたらすのは地震)と、新海さんの作り手としての進化/深化にあわせて、「セカイ」の範囲がスケールアップしているのがわかる。
「セカイ系」は、文芸批評の用語としてはまだまだ新しいけれども、これは広義の「メロドラマ」に属する。メロドラマは、「昼メロ」みたいな卑俗な意味で使われがちだが、本来は、ひとつの文芸用語として伝統的に確立されている。その要諦をぼくなりに改編しながら要約すると、
(1) 筋立てはシンプルかつ明快で、できるかぎり寄り道を省いてスピーディーに運ばれる。
(2) 主要なキャラはもっぱら劇的な状況に置かれており、喜怒哀楽の「激情」に身を委ねる。
(3) 善と悪とが明快な「二元論」に集約される。つまり、登場人物は「味方」か「敵」かに峻別される。
(4) 作品のなかでの出来事は美学化されたドラマとなる。ふつうなら陳腐な出来事も、物語全体の意味付けとして「崇高」なものに仕立てられる。
(5) ラストでは必ず「美徳」(味方=善)が勝利する。
こんなところだ。『すずめの戸締まり』は、これらメロドラマの原則に則りながら、ポストモダンの作品として、そこからずらしているところもある。(1)については贅言を要しないだろう。椅子にされた草太がダイジンを追って窓から飛び出していった瞬間から、ストーリーは留まることなくエンディングへ向けて一目散に疾駆していく。ダイジンも草太も鈴芽もその運動の渦中にあり、そこに観客もまた巻き込まれる。そのプロセスの総体が「戸締まり」としての旅なのだ。旅の目的は「後ろ戸を閉じること。そして草太をもとの姿に戻すこと」。きわめてシンプルにして明快である。シナリオがそう作られている。
(2)のばあい、椅子にされてしまった草太が「劇的な状況に置かれて」いるのは自明だろうけど、すずめがどうしてあれほど草太に肩入れし、強引に同行して何度かの「戸締まり」を経験したあげく、「わたしは死ぬのは怖くない。でも、草太さんのいない世界(で生きていくの)が怖いです。」と宣言するまでに至るのか……どうしてそこまで彼に惚れこんでしまうのか……について、納得しかねる向きもあるようだ。確かにここが分からなければ、「感情移入できない」「展開が強引」という感想にもなろう。
「たんにイケメン好きなだけじゃないか。」という声すら見かけたが、もちろん、それは浅墓すぎるというものだ。すずめは四歳のときに後ろ戸をくぐって常世で未来の自分に会い、励ましを受けて「生」の側へと導かれたけれど、その際に草太にも出会っている。たぶん言葉を交わすことはなかったと思うが、未来の自分に寄り添っていた彼の姿は、心の底に残っていたはずだ。それだけの縁(えにし)を過去から持ち越しているのである(とうぜんタイムパラドックスが生じているが、基本的に、ファンタジーにおいてタイムパラドックスは許容される)。
もうひとつ。四歳のすずめは励ましの言葉と椅子をもらって常世から戻り、探しに来てくれた環さんに救われて「環さんのうちの子」になるわけだけど、震災で負った心の傷が完全に癒えるはずもなく、成長につれて記憶が薄れ、表面では明るく快活にふるまえるようになってはいても、じつのところ(おそらく彼女自身もはっきりとは自覚していなかったろうが)意識の根底においては常に「べつにいつ死んだっていいや。」といった捨て鉢な気持、もしくは「虚無感」をずっと燻ぶらせていたと思われる。
だからこそ、深い縁で結ばれた美貌の青年と知り合って、彼(大半は椅子の姿なのだが)との楽しくもハードな旅の時間を共有することで、初めて彼女は「生」の意味を得ることができた。草太の存在によって、ようやく彼女の「虚無」は充填されたのである。「草太さんのいない世界が怖いです。」には、それだけの裏づけがあるわけだ。
それは恋愛感情には違いないけれど、たんにそれだけのものではない。いや、本当は、真の意味での「愛」というのは、対象の存在がそのまま自分自身の「存在の根拠」になるほどのものなのである。だから本質的にはじつは愛そのものがセカイ系なのだ。むろん、現実の日常においては、そこまでの「愛」はけっして成立しないし、それゆえに物語は性懲りもなく愛を描き続けるわけだが。
(3)について。ストーリーの中盤に至るまで、この作品において「悪」の表徴を担うのはダイジンひとりだ(神的な存在だから「一柱」というべきかな? 間違っても「一匹」だと畏れ多いのは確かである)。しかし後半部に入ると、じつは彼にはまったく悪気はなく、ただただ無邪気に彼なりの「すずめ(と)の戸締まり(の旅)」を楽しんでいたことがわかる。本作にはシンプルな「悪」は出てこない。あえていえばミミズがそうだが、あれにしたって悪意というものはまったくなく、そもそも意志と呼ぶべきものがなく、たんに膨大なエネルギーが間歇的に噴出するだけのものだ。おそらくあれが本来の、原始的な意味での「神」のありようだろうと思うけれども。
(4)でいうところの「陳腐な出来事」にしても、「陳腐」といったら言葉がわるいが、つまりは和食の御膳とか、マクドナルドのハンバーガーとか、ポテトサラダを投入した焼うどんとか、ぼくたちが毎日ふつうに喫する当たり前の食事(いやまあポテサラ入りの焼うどんは当たり前ではないが)がいかに大切なものかがこの作品では謳われている。なにげない日常こそが、ほんとうはもっとも大切で尊いものであるというメッセージだ。なぜ大切で尊いのか。それがいつ、唐突に断ち切られてしまうか分からないからだ。
その最大の象徴が「あいさつ」である。「行ってきます。」「行ってきまーす。」と家を出て、ついに「ただいま。」が言えなかった人たち。「行ってらっしゃい。」と送り出したあと、ついに「お帰りなさい。」「お帰り。」が言えなかった人たち。当たり前の挨拶が当たり前にできなかったことへの悲しみに対する、作り手の強い共鳴がこの作品を支えている。「行ってきます。」「ただいま。」「お帰りなさい。」といったあまりにも平凡な慣用句が、本当はいちばん崇高なものだということ。『すずめの戸締まり』くらいその真理を端的に訴えかける物語はない。
上述のとおり、本作には明らかな「悪=敵」はでてこないので、『ラストで「美徳」(味方=善)が勝利した。』とは言いがたい。表面的には申しぶんのないハッピーエンドだけど、よく考えたらそうでもない。ひとまず当面の危機は封じ込めたものの、二柱の要石の力で抑えているだけで、ミミズそのものが完全に滅せられることはないのである。いつまた「後ろ戸」がひらいて出てくるかわからない。脅威はいつも日常の裏に潜んでいる。だからこそラストでの草太の「祝詞」が胸に響く。
――命が仮初(かりそめ)だとは知っています。
死は常に隣にあると分かっています。
それでも私たちは願ってしまう。
いま一年、いま一日、いまもう一時(いっとき)だけでも、私たちは永らえたい!
猛き大大神(おおおおかみ)よ! どうか、どうか――!
――お頼み申します!
これはキリスト教の神に対する祈りとは違う。しかしその根底にあるのは、ひととして誰しもが抱く切なる願いだ。たんなるエキゾチシズムを超えて、なにかしら普遍的なものを、ヨーロッパの観客も感じ取ったのではないか。作品にとって肝要なのは、いかに多くのひとの胸を震わせ、これからの人生の糧となるかである。賞の帰趨はそのひとつの結果にすぎない。
(3)について。ストーリーの中盤に至るまで、この作品において「悪」の表徴を担うのはダイジンひとりだ(神的な存在だから「一柱」というべきかな? 間違っても「一匹」だと畏れ多いのは確かである)。しかし後半部に入ると、じつは彼にはまったく悪気はなく、ただただ無邪気に彼なりの「すずめ(と)の戸締まり(の旅)」を楽しんでいたことがわかる。本作にはシンプルな「悪」は出てこない。あえていえばミミズがそうだが、あれにしたって悪意というものはまったくなく、そもそも意志と呼ぶべきものがなく、たんに膨大なエネルギーが間歇的に噴出するだけのものだ。おそらくあれが本来の、原始的な意味での「神」のありようだろうと思うけれども。
(4)でいうところの「陳腐な出来事」にしても、「陳腐」といったら言葉がわるいが、つまりは和食の御膳とか、マクドナルドのハンバーガーとか、ポテトサラダを投入した焼うどんとか、ぼくたちが毎日ふつうに喫する当たり前の食事(いやまあポテサラ入りの焼うどんは当たり前ではないが)がいかに大切なものかがこの作品では謳われている。なにげない日常こそが、ほんとうはもっとも大切で尊いものであるというメッセージだ。なぜ大切で尊いのか。それがいつ、唐突に断ち切られてしまうか分からないからだ。
その最大の象徴が「あいさつ」である。「行ってきます。」「行ってきまーす。」と家を出て、ついに「ただいま。」が言えなかった人たち。「行ってらっしゃい。」と送り出したあと、ついに「お帰りなさい。」「お帰り。」が言えなかった人たち。当たり前の挨拶が当たり前にできなかったことへの悲しみに対する、作り手の強い共鳴がこの作品を支えている。「行ってきます。」「ただいま。」「お帰りなさい。」といったあまりにも平凡な慣用句が、本当はいちばん崇高なものだということ。『すずめの戸締まり』くらいその真理を端的に訴えかける物語はない。
上述のとおり、本作には明らかな「悪=敵」はでてこないので、『ラストで「美徳」(味方=善)が勝利した。』とは言いがたい。表面的には申しぶんのないハッピーエンドだけど、よく考えたらそうでもない。ひとまず当面の危機は封じ込めたものの、二柱の要石の力で抑えているだけで、ミミズそのものが完全に滅せられることはないのである。いつまた「後ろ戸」がひらいて出てくるかわからない。脅威はいつも日常の裏に潜んでいる。だからこそラストでの草太の「祝詞」が胸に響く。
――命が仮初(かりそめ)だとは知っています。
死は常に隣にあると分かっています。
それでも私たちは願ってしまう。
いま一年、いま一日、いまもう一時(いっとき)だけでも、私たちは永らえたい!
猛き大大神(おおおおかみ)よ! どうか、どうか――!
――お頼み申します!
これはキリスト教の神に対する祈りとは違う。しかしその根底にあるのは、ひととして誰しもが抱く切なる願いだ。たんなるエキゾチシズムを超えて、なにかしら普遍的なものを、ヨーロッパの観客も感じ取ったのではないか。作品にとって肝要なのは、いかに多くのひとの胸を震わせ、これからの人生の糧となるかである。賞の帰趨はそのひとつの結果にすぎない。