ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

雑談・応仁の乱03 お笑いについて私が知っている2、3の……

2021-04-13 | 歴史・文化

 落語は昔から好きなんだけど、いわゆる「お笑い」は苦手なんですよ。ダウンタウン以降っていうか、はっきりいうと、松本人志いこうの笑いのセンスに付いていけなかった。なにが面白いんだかわからない。根っから保守的なんでしょうね私は。
 中学の頃は「ビートたけしのオールナイトニッポン」に夢中でした。これは菊地成孔もそうだったって何かに書いてたし、さくらももこの「ちびまる子ちゃん」にも出てくるでしょう。あの世代はたいていそうなんだよね。たけしの本領はラジオトークなんですよ。テレビでだけしか知らない人には、なぜ全盛期のたけしが若い世代の文化英雄だったのか判然としないでしょうね。内容のほうは、今だったらとうてい放送できないと思いますが。
 あとになって気づいたんだけど、たけしの喋りは志ん生の焼き直しなんだ。古今亭志ん生。当代切っての名人上手と謳われたかの志ん朝師匠の父君で、落語史に赫奕(かくやく)と輝く名人ですけども。
 大名人には違いないけれど、圓生、文楽といった折り目正しい名人とはちがって、奔放な芸風で知られたんですね。「道場で面籠手をつけて竹刀で打ち合えば文楽(もしくは圓生)が勝つ。しかし野ッ原で木刀ひとつで打ち合ったなら志ん生が勝つ。」なんてぇことが、もっともらしく言ってあったりしますがね。
 たけしの口癖で、「弱っちゃったなあ、どうも。」とか、「しょうがねえなあ、まったく。」とか、あのへんはみんな志ん生のリズムなんだよね。リズムっていうか、それこそビートそのものがまるっきり志ん生のノリなんだ。ものすごく影響受けてますね。もちろん尊敬もしてるでしょう。だから2019年の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』でたけしが志ん生を演じたのはしごく至当なことでした。


 2007年に、サンドウィッチマンがM-1で大ブレイクするでしょう。じつはぼくはあの少し前からサンドのことを知ってたんだ。当時テレビ東京の『美の巨人たち』を欠かさず観ていて、ふだんは終わったらすぐ消すんだけど、その日はなぜか他局にチャンネルを回しちゃった。
 それで、「エンタの神様」だったのかな、若手芸人のネタ見せ番組をやってて、ふたりが「ピザの宅配」のコントをやっていた。これが滅法面白くてね、すぐにネットで検索かけて、富澤たけし・伊達みきおって名前をおぼえて、よく動画がないか探してました。
 まだ世間では無名だし、公式のチャンネルもなかったから、youtubeでもほとんど見かけなかった。それでもぽつぽつアップはされてましたね。目利きってのはどのジャンルにもいるもんで、陰ながら応援してたんでしょうね。筋からいえば違法アップロードなんだろうけど、「こんな面白いコンビが売れないのはおかしい。みんなもっとサンドのことを知ってくれ。」みたいな熱っぽい紹介文が付いていたりね。
 あと、gyaoと統合する前の「yahoo動画」にも何本かアップされてたかな。ぜんぶ併せてもほんとに数えるほどだったんで、たぶん残らず見たと思う。やっぱり面白くて、「ビートたけしのオールナイトニッポン」いらい、同時代のお笑い芸人にあんなに入れ込んだことはなかった。
 だから、ぼくのお笑い体験というのは、80年代のたけしから、ゼロ年代のサンドまで、ぽーんと飛んでるんですよ。中間がない。あとは、古典落語で埋まってるんだ。
 ちなみに、2007年のM-1グランプリはたまたま冒頭から見てたんですよ。当時の出演者の皆さんには申し訳ないけど、さっぱり面白くなくってね。クスリとも笑えない。「なんでサンドがここにいないんだ。あいつらが出りゃぶっちぎりで優勝なのに。なんでだ。あ。コントだからダメなのか。こっちは漫才専門なのか。」なんて、一人でぶつくさ言ってたんだけど、そこから敗者復活戦で、ほんとにそういう展開になって、いや、テレビを見ててあんなにコーフンしたことってないね。ちょっとキツネにつままれた気分にもなった。
 サンドウィッチマンがなかなか売れなかったのは、あまりにも正統派だったからですね。そこがプロの審査員や一般の客から「古い。」と見なされた面があったんだろう。でも、ほんとの正統派ってのはいつの時代も必ずや面白いんだし、世代を問わず、客ってものは心の奥ではつねに正統派を求めてるんですよ。あそこで大多数の視聴者の目にふれて、そのことをはっきりと証明できたのはほんとに良かったですね。それはこの国のお笑い文化のためにも良かったと思う。「お笑い文化」なんてものが実際にあればの話ですけども。
 あのふたりの芸は、画像を消して音声だけで「作業用BGM」として聴けるんですよ。そんな芸人は、少なくともぼくにとってはサンドウィッチマンのほかにはいない。ネタそのものもさることながら、構成、テンポ、間合い、すべてが完成されてて耳に心地いいんだな。ふたりとも声質いいしね。出だしからオチから、何もかもわかってるのに繰り返し聴ける。まさに落語と同じですね。
 そういう意味では、「正統派」ってものがいかに至難なのかもわかりますね。奇抜な一発芸とか、思いがけぬ奇想で人目を引くのは容易いかもしれぬが、幅広く愛され、末永く残る正当な芸は、誰にでもできそうに見えて、そうそうできるものではない。
 漫才の技術として「巧いなあ。」と唸らされるってだけなら、東のナイツ、西の中川家など何組かいるし、かまいたちなんかも鋭いなあとは思うけど、「繰り返し聴ける」かといえば、そこはまた違うんだなあ。


 ビートたけしに話を戻すと、ぼく個人は、あのひとがテレビ界の大御所になり、映画監督としても名を成し始めてから興味が薄れた。決定的だったのは、娘さんが歌手デビューしたとき全力で支援したことですね。出てきた頃の、毒気たっぷりのたけしだったら、その手の「親ばか」をさんざん嘲弄したはずだから。
 「結局そっちに行っちゃうのか。偉くなったらみんな同じか。」と思った。失望した。それで、テレビを見なくなったこともあり、たけしのことはまるっきり忘れてんだけど……。
 このあいだ、サンドウィッチマンの公式チャンネルを見てたら、右側の欄に「松村ものまね」ってリンクが出てきましてね……ぼくは松村邦洋という人については通りいっぺんの知識しか持ち合わせなかったんだけど、「ものまねの名手、ことにビートたけしに関しては達人の域」ということくらいは知ってたんでね、とりあえず開いてみた。そしたら……


https://www.youtube.com/watch?v=vUugfLhXjmA



 これは以前にNHKでやった「笑神降臨」ってバラエティーを再編集したものらしくて、ここにリンクを貼った「松村ものまね2」は、「天正10年6月2日、すなわち世にいう本能寺の変の夜、織田信長が当の本能寺からオールナイトニッポンを生放送する。」という趣向のネタなんだけども、その信長が完全に全盛期のビートたけしの口調なんですよ。これがどうにも凄くってね……。
 なにが凄いって、もうね、よく特徴をつかんでるとか、可笑しいとかいうレベルじゃないんだ。もはやそういう話ではなくて、文字通りの「完コピ」なんですよ。デフォルメではなしに、忠実に再現してるわけ。ギャグの入れ方とか、全体の口調といった大筋のところはいうまでもなく、声の高低や張りなどといった微妙なトーンの変化から、舌がもつれて軽く言い淀むあたりとか、ときおり苦笑が混じる呼吸とか、果ては些細な息遣いまで、何から何まで再現している。端から端まで、隅から隅まで、「微に入り細を穿つ」とはこのことではないかと思うくらいに。
 むろん松村さんはビートたけしの謦咳に接したどころか、長らく身近に置いてもらってもいたわけで、世話になりつつたっぷりと観察もしたんだろうし、天性の資質に加えて、もともと地声も近いようだし、いろいろと好条件は揃ってるにせよ、しかしひとりの人間がほかのだれかをここまで真似できるってのはどうも只事ではない。
 それは松村さんがぼくなんかと同じく市井の一ファンであった頃から、たぶん放送をテープに録って繰り返し聞いて、諳んじるほど聞きこんで、さらに何度も何度も口調を真似て喋ってみて、そういった営為の蓄積のあげく、到達した境地だと思うんだな。そこに費やされた情熱と労力と時間ってものに思いを馳せると、すこし背筋が寒くなるというか……。
 「マニアック」って、本来は狂気の意味を含むんだけど、そういう点でこれはマニアの所業でしょうね……。いやそれをいうなら落語だってじつは大概なもんだと思うんですよ。ひとりでネタを繰ってるとこなんざ、傍からみればけっこうコワい……。でも落語ってのは伝統があるし、「落語家」っていう職業集団がきちんとあって、そこに属するみんなでやってることだから……。だいいち、演目ってものが決まってるしね。だけどこの芸をやるのは松村さんだけなんだもの。
 だって、30代半ばの、脂の乗りきってた頃のビートたけしのオールナイトニッポンを聴いてた層でなきゃ、どうしたって伝わらない芸だからねこれは。それを百も承知でやってるわけだ。そういうマイナーな芸を磨き上げるのにどれだけの情熱と労力と時間を……いや、これはさっきも言ったか。
 この「松村ものまね」は1から3まであって、3つともまるで受けなかったという設定で、それぞれの末尾に野村克也を真似ての「3連敗のぼやきインタビュー」的なものが付いているんだけども、その野村監督の真似がまた至芸でね。「天才」という言葉は軽々しく使っちゃいけないんだけど、この方が異常な才能に恵まれてるのは確かでしょうね。


 小三治師匠じゃあるまいし、まくらがむやみに長くなって、いや応仁の乱はどうなったんだ、応仁の乱はどこ行ったんだと、そういう話なんだけども、松村邦洋は日本史に造詣が深くて、NHKラジオで専門の番組をもってたり、youtubeで大河ドラマの解説を(とうぜん物真似入りで)やっていたりもするようだけど、べつにそういう流れで繋げていこうってつもりもなくて、卒塔婆が8万数千並んだとか、そんな話題ばかりだと陰に籠って暗くなるから、アタマに明るい話題をふろうと、そのていどの心持ちで始めたんだけど、いかにも長くなりすぎました。それにしても、べつにお笑いの話題だから明るい話ってわけでもないね。やってみて気がつきましたけど。
 そうだなあ……。将軍の継嗣問題だの、畠山家の家督争いだの、山名と細川との確執だの、応仁の乱の細目を知るには、ほかに優れたサイトがいくつもあるんで、私がここで詳述する気はないんですよ。ようするに、当時の支配層にとっての唯一無二の関心事ってのは相続問題です。あとは所領の権利関係にまつわる係争。つまりは自身の既得権益をどれだけ拡張できるかってこと。ほんとにもう、それだけなんですね。
 「庶民」ってものがまるで視界に入っていない。念頭にない。
 応仁の乱と聞いてぼくがまっさきに思い浮かべるのは、賀茂川に死骸があふれ、水の流れが堰き止められるほどだったとき、義政が花見の宴を催したとか、御所や庭園の造営に多大な金銭を費やしたとか、おおむねそういうことですね。厳密にいえばこれらの事象はいくらか時期が前後しますが、義政のころの室町幕府の姿勢ってものは大体においてそんなイメージでとらえて間違いはないです。ろくなものではないわけです。
 それにしても、こういう姿勢というものは、冷酷だとか横暴だとかいう以前に、政治システムとして、あるいは経済システムとして、よく成立していたなあと思いますね。それを可能ならしめていたのが主に地方における荘園からの税収ですね。でも、中央がこれほど乱れてて、将軍が無能を極めているのに、いつまでも地方に睨みが利くはずがない。下剋上がすすみ、「守護大名」が「戦国大名」に取って代わられるのは、必然というべきことでした。