初出 2016-10-15
映画「君の名は。」にはふたつの「原作」がある。監督である新海誠さん自身の手になる『小説 君の名は。』と、加納新太さんによるスピンオフ(番外編)『君の名は。 Another Side Earthbound』だ。
Another Sideはわかるが、Earthboundとは聞きなれない。これについては、
①(根などが)地に固着している。②(動物・鳥などが)地表から離れられない。③世俗にとらわれた、現世的な、想像力のない、散文的な。
そして、
(宇宙船などが)地球に向かっている。
と、四つの語義がちゃんと目次のうしろに書かれている。ラストまで読めば、すべての意味が腑に落ちる仕掛けになっている。
『小説 君の名は。』は角川文庫から出ている。『Earthbound』は、カドカワはカドカワでも「スニーカー文庫」のほうだ。ライトノベルなのである。
映画「君の名は。」にイカレちゃった私は、監督による原作本につづき、ついにこちらにまで手を出した。おお。人生初のラノベ体験。それにしてもなんだこの表紙は。映画のことがなかったら、とても買えたものではない。
さすがライトノベル。30分で読めた。でも、満足した。そして了解できた。映画を見ながら抱いた重要な疑問点に関してだ。あまつさえ、最後の1行でちょっぴりナミダまで滲んでしまった。
もちろんそれは、映画の力があってこその話で、そもそも映画を観ずにこれだけ読んでも何のことだかわからぬわけで、つまりこれは紛れもない「補完本」なのだけれども、逆にいうと、これを読んで初めて映画「君の名は。」は完結するといえるかもしれない。
もともとぼくは、「補完本」の類いには否定的だった。だいたい作品なんてのは、それ自体で完結してるのが当たり前じゃないか。観客が「キツネにつままれた」みたいな気持ちで劇場をあとにするならば、それは失敗作ってことである。
「裏設定」を後になってから持ち出してきて、「いやじつはあそこんとこはこういうことになってたんすよ。まあちょっとわかりにくかったですかねえ。でもこれを読んでもらえたらご納得いただけると思いますんで。どうかひとつ。ええ」なんていうのは本来ならばルール違反だろう。どう見ても、それってただの言い訳じゃないか。
もっと始末がわるいのは、作り手の側の練り込み不足ゆえ、プロット自体にあきらかな破綻や矛盾や欠落があるにも関わらず、それを承知で、というよりむしろ半ば売り物にして、当の作品を世に問うケース。
初めからピースが足らなかったり、間違ったピースが紛れ込んでるジグソーパズルを売りつけるようなもんである。
そうすることで、まじめなファンたちがわいわい騒いで「謎解き」や「考察」をくりひろげてくれる。「謎本」だの「解釈本」だのが相次いで出て、ブームがいっそう加熱する。
はっきりいうが、ぼくは「エヴァンゲリヲン」にはそういう傾向が無きにしも非ずだと思っている。もう完結しているが、浦沢直樹の『20世紀少年』にも似たものを感じた。「もののけ姫」いこうの宮崎駿作品にも、また、あえていうなら村上春樹のいくつかの近作にも。
むろんこれは私見であるから、「いや俺は私はそんな謎めいた作品こそが好きなのだ。」という方もおられるだろうし、「いやそもそも俺は私はそれらの作品に謎なんてまるで感じない。すべてが完璧に理解できる。」という方だっておられるかもしれない。そこはもう見解の相違というよりないが、とりあえずぼく個人は、庵野秀明さんや浦沢さんや宮崎さんや村上さんの作風につねづね不満を感じてきた、ということだ。
しかし映画「君の名は。」と、それを補完する『Another Side Earthbound』に対しては、ぜんぜん不満を感じないのである。よくぞ書いて下された、と申し上げたいのである。
ことに第四話「あなたが結んだもの」に対しては。
この「裏設定」はよくできている。そして、映画本編には入れにくかったってこともよくわかる。尺の問題だけでなく、強烈すぎて、観客の注意がこちらに取られかねないからだ。
『Another Side』は、2016年10月現在、ベストセラーにランク入りしているらしい。そうだろうなあ。「君の名は。」が観客を集める限り、この本も売れ続けるだろう。そして、くどいようだが、いちばんの目玉は第四話である。
そう。この小説は四つの章から成っている。一話ずつ、中心(視点)となるキャラクターがかわる。ただし一人称ではなく、どれもいちおう三人称だが。
第一話が「三葉に入っている時の瀧」目線。
映画本編では、「瀧に入っている時の三葉」のようすはいろいろと描かれたけれど、その逆のほうは少なかった。「ご神体」に口嚙み酒を奉納にいくときのような重要な挿話を除いて、日常生活での「三葉に入っている時の瀧」はさほど描かれない。「入れ替わり初日」のもようさえ、朝めざめた時のあと、編集によって見事にすっ飛ばされていたくらいだ。
第一話はそこを補完する。なにしろ「同世代の女子の体に意識が入ってしまった思春期の男子」である。これぞライトノベルの真骨頂だろう。いやぼくはラノベのことはよくは知らんが。
けして嫌らしくはなりすぎず、しかし適度なお色気も漂わせつつ話は進む。くすっと笑わされたのは、「入れ替わり」について説明するさい、「大林宣彦の『転校生』とか、山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』とか、ああいうのを思い浮かべてくれたらいい」などと書かれているところだ。いやあ。豪快なものだなあ。純文学はおろか、ふつうの娯楽小説でも、ちょっとこんな真似はできない。
それにしても、三人称でありながら、どこか一人称も混じったフシギな文体である。カルチャースクールの「創作講座」みたいな所だったら、いっぱい朱を入れられそうな気がする。しかしもちろん、加納新太さんはそれを承知でやってるわけで、つまりはこれがライトノベルの文体なんだろう。よくしたもので、頁をくるたびに少しずつ馴染んで、だんだん気にならなくなってくる。
「瀧in三葉」は、未知の暮らしに戸惑いながらも、都会とはまるで違った豊かな自然に胸をふるわせ、祖母の語る古来の伝統に心を打たれ、テッシーやサヤちんをはじめとする周囲の人たちとの交友をいとなむ。そんななかで、「年頃の娘」らしい慎みある振る舞いを忘れてちょっとした騒動を起こしたり、瀧ほんらいの喧嘩っ早さでかえって三葉の株を上げたりもするのだが、やがてそのうち、彼女のことを誰よりもふかく、たぶん妹の四葉や父の俊樹、さらに祖母の一葉よりもずっとふかく、理解していくのである。意識の表面では、まだそのことを自覚してはいないけれど。
映画ではもっぱらコミカルに処理されていた「入れ替わり」だけど、よく考えるならば、ある意味これはセックスよりもはるかに濃密な「結び」であろう。三葉のからだのなかに入った瀧のこころを細かく描いていくことで、ふたりの「結び」の強さをあらためて読者に得心させる章である。
ネットを見ていて驚くのは、「なんでふたりが相思相愛になったのかわからない。」と書いてる若い人が多いことだ。いや、だって……それはさあ……映画の流れをふつうに追ってりゃしぜんに分かると思うけどなあ……。ちょっと「いまどきの若者」たちの感性に不安を覚えさせられるけど、そんな若い人たちでも、この章を読めばさすがに納得できるはずである。
第二話は、テッシー目線。この愛すべき好漢が、なぜ「あの晩」に瀧(からだは三葉)の荒唐無稽な予告を信じて変電所にダイナマイトまで仕掛けたか、その辺りの機微がわかるようになっている。テッシーの中には地元および自身の境遇に対する屈折した思いが渦巻いており、この章はちょっとした青春小説のおもむきだ。三葉のからだを借りた瀧とテッシーとの(男同士の)友情がアツい。
第三話は、四葉目線。だからとうぜんいちばん可愛い章である。週にほぼ二、三度のわりで明らかに様子がおかしくなる姉に面食らったり迷惑がったり、しかしそれでもやっぱり心配で、あれこれと子供らしい理由を忖度する。おさない言動のうちに姉への愛情がほの見える。そして或る日、ふと興味を覚えて自分のつくった「口噛み酒」を口にして、彼女もまた超常的な体験をする。宮水の家に伝わる「霊媒」としての能力を強調するとともに、「意識の上では忘れても、からだの奥に(あるいは魂に?)記憶は刻まれる」という作品のテーマを印象づける章だ。
そして第四話である。
これまでの章は、「補完」というよりむしろ「補強」に近い感じであった。読めば映画がもっと面白くはなるが、どうしても読まねばならない、というほどでもない。
しかしこの章は違う。正真正銘の「補完」であり、これで作品が初めて完結するといっていいほどのものだ。いわば映画本編が積み残したもっとも大きなピースが、このエピソードによってぴたりと嵌まるのである。
ここにきて、文体も「襟を正す」かのように引き締まり、重みを帯びて、「ふつうの小説」に近くなる。
主人公は三葉(および四葉)の父、宮水俊樹。宮水は入り婿になってからの名乗りで、旧姓は「溝口」。これもこの小説によって初めて知らされることだ。
溝口といえば日本映画史の誇る名匠・溝口健二や、三島由紀夫『金閣寺』の主人公などが連想されるところだが、きりがないのでその手の考察は略。
この章の眼目は、「なぜあれほど冷淡だった俊樹(三葉の父にして、現・糸守町町長)が、いきなり三葉の説得に応じて、町民を強制避難させたのか?」という点に尽きる。
あの彗星落下の夜、瀧の意識がからだから離れ、自分じしんのからだに意識が戻った三葉は、瀧の記憶を急速に薄れさせつつも、それでも何かに励まされ、町民の避難を要請すべく、父である町長のもとへ駆けていく。
途中、真っ暗な山道を転げ落ち、泥まみれ、傷だらけになる。気力が萎えかかって涙をこぼすが、しかしそこで、手のひらに書かれた「すきだ」の文字に気がつき、それに勇気づけられて、ふたたび走り出す。
クライマックスシーンのひとつといっていいだろう。しかし映画では、町長室に駆け込んできた三葉をひとめ見た俊樹が「三葉……おまえ……」と呟くように言って絶句するところで、すぐに場面が変わってしまう。
町長が強権発動して、町民をきゅうきょ避難させ、全員が災禍を逃れたことは、観客には、事後のニュース記事のかたちで知らされるのみ。一切の細かい経緯は描かれないのだ。
原作ではどうなってるんだろう、と思って新海さん自身の手になる小説を読むと、もっとびっくり。三葉が「すきだ」に励まされ、ふたたび走り出す場面で場面が終わっちまってる。町長室に駆け込むところすらないのである。
つまりこのくだりは、原作の時点で新海さんが盛り切れなかった点を加納さんが補い、それが映画本編に採用されたわけである。加納さんはただの番外編担当ライターじゃなく、脚本スタッフの一人だったってことだ。冒頭でぼくがこの小説を「原作」のひとつといったのはそれゆえだ。
さて。
「なぜ町長は、とつぜん態度をひるがえし、ほんの数時間前までは相手にもしなかった娘の『妄言』を受け容れて、町民の強制避難を敢行したか。」
これにつき、ぼくは以前このような解釈を述べた。
それは、「時空を超えた瀧(たき)の声によって励まされた三葉が、揺るぎない意志をもって、父を説き伏せた」からだ。
父である町長の側からいえば、「傷だらけになってもまるで動じることなく、信念に満ちて語る娘のことばを信じたから」ということになる。
意識が互いのからだに戻るまえ、三葉のからだで、住民避難のために(テッシーと共に)奔走していた「瀧」は、いちど町長の説得に失敗し、「俺じゃだめだ……三葉でなきゃだめなんだ」という意味のことをつぶやく。
ひとびとを救うのは、あくまでも、三葉でなければならない。瀧は、その手助けをするだけである。だから三葉が、自分のことばで、実の父親を説得したのである。
まるっきり的外れだとは思わない。じっさい、映画本編だけを観るかぎり、これがもっともしぜんな解釈だろう。しかし、第四章を読み終えると、真相ははるかに深いところにあったとわかる。
ひとつ気になってたのは、タイムリミットからいって(三葉が必死に走っているとき、もう彗星は割れ始めていた)、説得に費やす時間はほとんど残ってなかったろうという点だった。駆け込んできた娘を見て、俊樹が瞬時にすべてを信用してしまうくらいの勢いでなきゃ、全員の避難は間に合わなかったはずなのだ。
はたして、そうだったのだ。駆け込んできて、自分の目の前に立った三葉を見た刹那、すぐに俊樹はすべてを信じた。いや、「悟った」という言い方のほうが正確か。たんに三葉のことばを信じたというだけではない。
「なぜ自分が、町長というこの立場で、今ここにいるのか。」そのことの意味を悟ったのだ。すべてはこの日、この時のために準備されていたのだと。
むずかしくいえば、これは「決定論」というやつである。哲学者のみならず、量子論いこうの現代では、物理学者もこの問題にかかわっている。とうぜんハードSFなんかでも、このテーマはよく取り上げられる。
「君の名は。」はファンタジーであってSFではないが、新海さん自身はハードSFに造詣がふかい。
この作品の主題である「結び」とは、ひととひと、あるいは、ひとと世界、ひとと森羅万象との関係性の謂(いい)でもあるが、もうひとつ、「決定論」のことでもある。ひらたくいえば「運命」のことだ。
「運命」に対するものは「自由意志」だ。「自由意志」は、モダンであり、合理的であり、都会的である。いっぽう、「運命」は、前近代的な概念である。いまどきのテレビドラマなんかでこれをやっても、噓くさくなってアウトだろう。
ただし、それだけにロマンティックな概念ではある。そこに「愛」がかさなるならば、「運命」はよりいっそうロマンティックな響きを帯びる。「前世からの縁(えにし)」だって、もちろん「運命」である。
俊樹のこころをうごかしたのは、目の前にふたたび現れた娘の三葉というよりも、彼女のなかにまざまざと浮かんだ、亡き妻・二葉のおもかげだった。
映画本編では回想シーンでちらりと映るだけだった二葉が、俊樹ともども、この第四章の主人公といっていい。そもそも話は、新進気鋭の民俗学者だった俊樹が、研究のためにこの土地を訪れ、宮水神社に立ち寄って若き日の二葉と出会うところからはじまる。
聡明で、民俗学にも造詣が深く、良き語り手であり良き聴き手でもある二葉。すぐに意気投合し、土地の伝承をめぐって会話はどこまでも深まっていく。かつてこの地に彗星が落ち、そのことが独自の神話や工芸(組み紐)に強い影響を及ぼしているという考察……。
みるみるうちに縮まる距離。やがて二人は結婚のことを口にする。因習にとらわれた町。いっぽうの俊樹じしんの立場。二葉の母(一葉)や周囲との軋轢。しかし、二葉への俊樹の愛は万難を乗り越えるに足るものだった。実家からは勘当され、学者への前途を絶っての入り婿。きびしい修行ののちに始まった、神主としての日々。
どこか馴染めぬものを残しながらも、ふたりの娘にも恵まれ、それなりに穏やかな生活だった。何よりも、最愛の妻がいつも傍にいるのだから――。しかしそれは、彼女のとつぜんの病と、急逝によって一挙に吹き飛ぶ。そう。「これがお別れではないから。」という言葉を残して、二葉がこの世を去ってしまうのだ。
立ち上がれぬほどの悲嘆のなかで、「もし娘たちの命と引き換えに、二葉を生き返らせてくれるというなら、自分はそれを選ぶかもしれない」とまで、俊樹は思いつめる。
二葉の死後、一葉との確執はますます深まり、ついに俊樹は宮水家を出る。ふたりの娘は自分に付いてこなかった(彼の三葉に対する屈折した態度の所以がここからわかる)。ふつうなら土地を離れてもおかしくはないところだが、彼はそのまま留まるどころか、「政治家」として町の頂点に立たんとする道を選んだ。
一見すると強引なようだが、このあたりの心理のうごきも、その野心を可能ならしめた手法も、無理なくきちんと描かれている。そして彼は、二年ののち、首尾よく当選し、町長の椅子に座る。
そして相応の実績を積み、次期の再選もほぼ確実だろうという時期、あの彗星落下の夜がきて、町長室で彼は(目の前に立った三葉を介して)、最愛の妻と「再会」する。
三葉と瀧との時空を超えたラブロマンスの背後には、このような、もうひとつのラブロマンスがあったのだ。それは三葉と瀧ほど超自然的ではないけれど、やはり一対の男女の「魂」が、時空を超え、生死を超えて、もういちど「結ばれた」としかいいようがない。
そうして彼は悟るのだ。「なぜ自分が、町長というこの立場で、今ここにいるのか。」すべてはこの日、この時のために準備されていたのだ、と。そして脳裏に、二葉のことばがよみがえる。「これがお別れではないから。」
かくてあらゆる事象が結びつき、全部のピースがぴたりと嵌まる。「君の名は。」とは、日本古来の伝統美の力を総動員して、この殺伐たる21世紀の世に、臆面もないロマンスを繰り広げてみせる作品だったと、改めてぼくたちは思い知るのである。