というわけで、えらく間があいてしまったけれども、「入江を越えて」のつづきであります。ただ間があくのは必ずしも悪いことばかりじゃなくて、この短篇が「群像」に発表された1983年(バブル前夜)は、松田聖子の「秘密の花園」がチャートを賑わした年でもあったことに昨日気づいた。歌詞は松本隆、曲は呉田軽穂こと松任谷由実。このサビが「入江の奥は だれも だれーも 知らないー 秘密のー はーなーぞの」という意味深な一節なのは有名だ。ポップスと純文学、どちらがどちらに影響を与えたわけでもないんだろうけど、表現の諸ジャンルにおけるこういったシンクロニシティ―がぼくにはわりと面白い。いずれにしても、「入江」の向こうには、今までに見たことも触れたこともない何かがひそんでいるのである。
さて。「……海の色は鈍り始めている。……海水は夏の活力を失い鈍い色になる。水を温める力のなくなった光が、おだやかな海面を滑っていた。」のあと、舞台は二人の通う高校へ移り、そのまま作品は収束に向かうわけだけど、そのまえに、みんなで合宿から帰る電車のなか、書き落とすには惜しい描写がもうひとつある。
とたん、背中ではしゃいで甲高くなった稔の声を聞いた。何を話しているのかは、車輪の響きに遮られて聞き取れなかったが、稔はふだんよりも高い声でよくしゃべっている。出入り口に近い山側のボックスに座っていたはずの彼は、知らぬ間に背板を一枚隔てた背後に移動していた。感じるはずのない稔の髪の毛の先の感触を、苑枝は後頭部に感じた。…………
昨夜のことは稔くんにとっても初体験だったわけだから、表面では仲間とじゃれてるようでも、頭の中はそのことで一杯のはずである。ふつうの男子高生ならそうでなきゃおかしい。だからこんな変なテンションになっている。しかも、ほんとは苑枝とくっついて色々と話をしたいのに、なんだか微妙に避けられて、ぎくしゃくしてるとあっては尚更だ。それで「知らぬ間に背板を一枚隔てた背後に移動して」きたというのがいかにもリアルで粘っこいし、「感じるはずのない稔の髪の毛の先の感触を、苑枝は後頭部に感じた。」というのも、ぼくはオトコの側なんだけど、まるで苑枝の身になったかのようによくわかる。
この連載の最初のほうでぼくは、ゼロ年代に書かれた「蹴りたい背中」や「蛇にピアス」よりも、その20年前に書かれた「入江を越えて」のほうに豊かな可能性を感じると述べたけれども、これまで見てきたとおり、文章面でも技巧の面でも、「入江を越えて」はこの二作より明らかに上だ(執筆当時、中沢さんはデビュー5年目で、まだ23歳だから、さほどハンディキャップはない)。
「蹴りたい背中」は、性的な要素というより肉体そのものがいかにも希薄であった(まあ、だからこそ「背中を蹴る」という欲動の衝撃が際立つんだけど)。「蛇にピアス」は、肉体改造を主題に据えているものの、それがあまりに過激なゆえに、かえって肉体から遠ざかっているように思える。すなわちどちらの作品も、テクストそのものの放つ肉体性において、「入江を越えて」に及ばない。それがゼロ年代文学の特徴だ、とまで言い切る自信はないけれど、いずれにしても、ぼくにはそこが物足らぬわけだ。
ただしもちろん、「蹴りたい背中」「蛇にピアス」が、「入江を越えて」を凌いでいるところもある。人間関係の複雑さだ。このブログそのもののテーマに合わせていうならば、「物語性」といいかえてもいい。「入江を越えて」は、むしろ苑枝と稔との「関係不全」を描いた作品である。性交渉をもったあと、ふたりの関係性が成熟しない。成熟どころか進展もしない。まるっきり座礁してしまう。そのぶんだけ、逆に苑枝の内面が過剰になり、語り手(それは作者にかぎりなく近いが必ずしも作者とイコールではない)の繰り出す描写が潤沢になり芳醇になる。テクストを生み出すことばの運動として、そういった構造が見て取れる。
「関係」が不全であるゆえに、つまりヒロインが孤独で、作品としての物語性に乏しいゆえに、言葉のほうが豊饒になりまさるという中沢文学の特質は、あるいは純文学というジャンルそのものの本質にかかわっている気もするが、ここではそれくらいにしておきましょう。
というわけで、合宿は終わり、高校最後の夏休みも終わり、また日常の学校生活が戻ってくる。クラスメートの、例の上田と田元は相もかわらずべったりで、「お雛様のようにならんで」図書館で毎日勉強している。そんな二人を、これも相変わらず苑枝は横目で見ている。彼女のほうは、稔との仲がまったく進まないどころか、学校から帰宅するさい、「正門へと歩くうちに、ことによると稔がいるかもしれないと、苑枝は裏門から出ることにした。」というありさまなのである。
最近、稔は毎日、待っている。最初の頃は苑枝の顔を見ると稔は嬉しそうな微笑を浮かべた。苑枝は、その顔を見て、ひょっとすると自宅でバイクをみがいている時にも、同じような笑みをもらしているのではないかと考えた。稔の笑みが苑枝を息苦しくさせる。
前にも述べたが、からだを交わしたあとでオトコのほうが冷淡になり、女の子のほうが遮二無二そいつを追いかける、というのが処女作いらいの中沢文学のパターンだった。ここではそれが逆転している。それは文学としての深まりという点でよかったと思う、と述べた記憶もあるけれど、男の立場から率直にいうならやはり稔くんが気の毒ではある。彼の年齢からすると、どうしてこんなふうになっちゃってるのか、さっぱりわからぬだろうなあ。
ただ、つれなくふるまう苑枝のがわも、もちろん事態を客観的に把握できてるわけではない。自分自身の感情をもふくめ、どうしてこんなにこじれちゃったのか、彼女もまた戸惑いながら苛立っているのだとは思う。うーん、これも「青春の光と影」か……。
ラストまで5ページ。場面は、学校の裏門から小高い山地につづく、緑あふれる空間へとうつる。この限定された文学空間は、あの初体験の夜の回想シーンの入江の情景に劣らず濃密で生々しくってエロティックである。改めて思うが、ほんとうに完成度の高い短篇だ。ゼロ年代に「蹴りたい背中」「蛇にピアス」が芥川賞をとって持てはやされ、80年代初頭にこの短篇が候補にもならなかったなんて、この国の文学史はやっぱりどこか歪んでるんじゃないか。