ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

井上ひさしについて。

2015-09-19 | 純文学って何?
 
 「旧ダウンワード・パラダイス」から文学にまつわるものを転載します。どれにしようか迷ったんだけど、もし存命であればこのたびの安保法制に対して必ずやアクションを起こしたであろう、昭和~平成を代表する作家・戯曲家について……。初出は2010年4月14日、この方が亡くなった五日後のこと。

 井上ひさしへの追悼文。

 亡くなったことがすぐ公にされなかったのと、新聞休刊日とが重なって、井上ひさしさん逝去の報が新聞に載ったのは12日(月曜日)の夕刊だった。ぼくは11日の昼過ぎくらいにネットで知った。その流れでちょっと検索してみたら、前妻・好子さんに対するDVの記事がやたらに多くて、文学そのものの話題を押しやるほどの勢いだった。まあ、もともとネットの上じゃあ文学ネタはマイナーですけどね。一方、新聞とテレビの報道では、『吉里吉里人』をはじめとする小説、『父と暮せば』などの戯曲、「ひょっこりひょうたん島」の脚本や「ムーミン」の作詞といったテレビ畑での業績、そして「9条の会」のような反戦・平和活動のことが紹介され、DVのことは片鱗すらも触れられてはいない。
 「作品群を改めてみると、質と量の迫力に圧倒される。(……)一作一作が高い峰。それがどこまでも続く。雄大な山脈のようだ。」とは、朝日新聞の追悼記事の一節である。松本清張さんや司馬遼太郎さんの時にも、似たような表現を見た気もするが、確かに井上さんの業績は、昭和ヒトケタ生まれとしては、あのお二方にも匹敵しよう。この種の賛辞にふさわしい人は、あとはもう数えるほどしかおられない。じっさい、昭和の後期(から平成)の文壇および演劇界を代表する作家・戯曲家だったわけだから、マスコミ側の応対こそが正しいに決まってる。ただ、本当にそれだけでいいのかな、という思いは残る。
 ネットの上のDV記事のほとんどは、好子(現・西館代志子)さんが著した『修羅の棲む家』(はまの出版)からの引き写しである。当事者による証言の真相なんてのは、ひさし氏サイドからのものも含め、結局のところ第三者には分からない。しかし目につく限りの引用文を読んでみたかぎり、ぼく自身の判断力に照らしても、それがまったくの事実無根とは思えなかった。あまりにもリアリティーがありすぎる。小説を書くには自らの奥底にあるどろどろした感情と向き合わなくてはならないが、あれやこれやの事情で理性の歯止めが利かなくなって、その負の感情が爆発してしまうメカニズムが怖いくらいに分かるのだ。
 どんな職業に就いていようと、世の荒波に揉まれるストレスってのは大変なもので、そのストレスをいかにして発散させるかはすべての現代人に課せられたテーマだろう。しかるに家庭内での暴力などは、その方法として最悪のものというべきだ。筆一本で身を立てる作家という稼業は、ストレスの度合いも人一倍激しく、とかく内攻しがちだとは言っても、それで許されるはずもないのである。芸術とはおしなべて「善悪の彼岸」で行われるものであり、作品の中では何をやっても構わない。あれだけ倫理にうるさい石原慎太郎東京都知事とて、小説においては人倫にもとる所業を得々として書いておられる。しかし、虚構と現実とを少しでも穿き違えることがあったなら、それは誰であろうと厳しく指弾されなくてはならない。
 それ以上に引っかかったのは、井上さんが、ご自身の離婚及び好子さんからの告発に際し、表では「被害者」のように振る舞いながら、裏では権力をふるって自らに不利な情報を握りつぶしたというゴシップだ。これもまた、政治的な立場の相違から氏を快く思わない人たちによる非難だけれど、やはりただの悪意ある噂として一蹴できないリアリティーがある。確かにマスコミというエリアにおいて、井上さんと好子さん、このお二方の力関係にはあまりにも大きな懸隔があった。これらの事柄を併せると、「弱者に対するやさしいまなざし」の大切さを謳い、「わたしたちの当たり前の生活」の尊さを説き続けた井上さんのお姿そのものが、ぼくの目には危うげに揺らいで映るのである。
 大作家の訃報に接して追悼文を書くのに、このような前置きから始めねばならなかったのは悲しいことだが、それが現実とあらば致し方あるまい。今はまだ生々しすぎてタブー視されてはいるが、長いスパンで見るならば、これもまた「文学」の一部に他ならない。数十年後に井上ひさし氏の衣鉢を継ぐほどの才能が現れ、氏が宮沢賢治や石川啄木や樋口一葉や魯迅を虚実織り交ぜて描いたように、「井上ひさし」の著作と人生を、その矛盾と葛藤とを、丸ごと呑み込んで表現するような物語を書くかも知れぬではないか。
 この件はもうこれくらいにして、そろそろ本題に入ろう。ぼくが井上文学にもっとも入れ込んだのは三十代の前半で、『手鎖心中』(文春文庫。直木賞)、『腹鼓記』(新潮文庫)『不忠臣蔵』(集英社文庫。ともに吉川英治文学賞)のほか、『十二人の手紙』、『國語元年』、『自家製文章読本』などをどっさり買って片端から読んだ。『戯作者銘々伝』(中公文庫。おそらく絶版。のちに、ちくま文庫で復刊されたが、すぐまた品切れになった)を古本屋でたまたま見つけて読み耽ったのがきっかけである。これは山東京伝、恋川春町、式亭三馬といった江戸の戯作者たちを、一人につき一作ずつ主軸に据えた短編集で、それぞれにたっぷりと趣向と仕掛けが凝らしてあり、息をもつかせぬ面白さだった。これで井上さんの凄さに開眼し、ついでにしばらく江戸にも凝って、岩波文庫の『耳袋』なんかに手を出したりもした。むろん氏のお名前は幼い頃から知っていたけれど、作品を集中的に読んだのはこの時が初めてだ。
 それというのもこれ以前にいちど、ぼくは井上文学と行き違っているのだ。二十代の半ばくらいに、文庫になった『吉里吉里人』(新潮文庫。読売文学賞・日本SF大賞)を期待に胸躍らせながら買って、上、中、下巻と一気読みしたのだが、このときはまるで没入できず、むしろがっかりさせられたのだった。初めはけっこう面白かったものの、後に行くほど子供向けマンガか、三流コントみたいに安っぽくなるように感じた。SFだったら細部をもっと綿密に作り込んで欲しいし、荒唐無稽をやるのなら、筒井康隆さんくらい無軌道の果てまで突き抜けて欲しい。どちらとしても中途半端に思え、しかも致命的なことには、作者が笑わせようとしている所で、まったく笑えないのである。繰り出すギャグがどれもみな、おやじ臭くて垢抜けない。語弊があるかも知れないが、ビートたけし以前のお笑いってのが大体あんな感じであった。いちいち名前は挙げないけど、まあそのう、欽ちゃんとか。
 もともと自分が、綺想の類いを好まないということもあるとは思う。ぼくは大江健三郎さんの小説を自らの「文学の基準線」としているのだが、それは私小説的リアリズムを根底に置いた小説に限られていて、グロテスク・リアリズムと称される一連の作品、たとえば『ピンチランナー調書』や『同時代ゲーム』は苦手なのである。しかし、好き嫌いは別にして、方法論的な意味での試みとしては、『吉里吉里人』が大変なものだってことはよく分かっている。「中央」に対する「周縁」の叛乱という主題を、あそこまで大規模に展開できる作家は、今だったらエンターテインメント畑でたくさんいるのかも知れないが、あの当時には、それこそ大江、筒井といった人を除いて、ほぼ皆無であったと思う。また、世評高き言語遊戯の数々も(漱石や川端康成の名作を、標準語から「吉里吉里語」に訳してみせるあの手練!)、ただ唸るしかないものだった。
 それでも性に合わないってのは難儀なもので、この記事を書くに当たって探してみたが、一山ほどにもなっていたはずの、わが「井上ひさしコーナー」の文庫がほとんど見当たらない。『吉里吉里人』はもとより、『手鎖心中』も『腹鼓記』も『不忠臣蔵』もない。『戯作者銘々伝』は絶対あると思ったが、それさえどこかに紛れている。あるのはただ、『ことばを読む』(中公文庫)と『ナイン』(講談社文庫)と『表裏源内蛙合戦』(新潮文庫)の三冊のみ。これらはそれぞれ、順に評論、短編、戯曲の教科書として、つねに座右に置いているものだけど、それにしても、本丸というべき長編小説が一冊もないとはいかなることか。
 長編小説の醍醐味は、現実社会とは別の地点に、言語を使って壮大な伽藍を築き上げるところにある。それは現実そのものに酷似してはいるが、独自の論理・独自の体系に基づいて、作者の創った人物たちによって織り成される架空のオペラである。卓越した作家の手に掛かるとき、現実社会と作品世界との類似や乖離は、そのまま社会および時代への優れた批判となる。そのためには、膨大な資料を読みこなし、それを咀嚼して自らの言葉へと噛み砕く才覚が不可欠なのだが、その点において井上さんは傑出していた。そういえば、村上龍さんの『半島を出よ』(幻冬舎文庫)を読んだとき、これは21世紀のハードコア・デスメタル版「吉里吉里人」じゃないかと思った。物騒なテーマに正面切って取り組んだ娯楽読み物が、そのまま手厳しい日本論・日本人論となっている。
 じつをいうと、ぼくにはもうひとつだけ楽しみが残っているのである。井上さんの主著のうち、文春文庫『東京セブンローズ』(上)(下)だけはまだ読んでなかったのだ。他の多くの著作と同様、これも版元品切れらしいが、昨日、うまい具合に近所の本屋に売れ残ってるのを手に入れた。正確にいうと、前に見かけて気に留めていたのを昨日あわてて買いに走ったわけだが、こういうことが起こるから、町の小さな書店をかんたんに店じまいさせちゃあ駄目なんですよ。ともあれ、晩年は戯曲のほうに心血を注いでおられた井上さんの遺した最後の長編であり、リアリズムと資料の渉猟と井上流のストーリーテリングとが一体となった「最高傑作」との評価も高い。願わくばこれが、長編小説の教科書として、ぼくの座右に加わってくれんことを。

 追記 平成27年9月19日) その後、新潮社から『一週間』が刊行されたので、文中の「井上さんの遺した最後の長編」という部分は訂正しなくちゃならない。さらにそのあと、文春文庫から『東慶寺 花だより』、講談社文庫から『一分ノ一』(上中下)も発売された。つくづく多作な人だった。


 さらにもうひとつ、この続編として、2010年4月21日に発表した記事。


 東京セブンローズ……「銃後」の生活を知るための教科書。

 前回の記事をアップしてから早や一週間。井上ひさしさんの訃報を聞いて慌てて入手した(『東京セブンローズ』上・下 文春文庫)を、いま上巻の半分くらいまで読んだところだ。この小説の内容の濃さに圧倒されて、自前の文章を書こうなんて気が起きない。まだ読了していないから、傑作とまで呼べるかどうかは保留しておくけれど、すでに今の段階で、これが掛け値なしの大作であり、労作であることは疑うべくもない。文庫版の刊行から8年、親本である単行本の出版からは11年。井上さんならいつでも書店で手に入らぁ、と高をくくって買わずにいたのが悔まれる。日本を代表する作家の遺した最後の長編というだけでなく、驚いたことにこれは、太平洋戦争下における「日本帝国臣民」の「銃後」の生活を知るための最良無比の教科書だったのである。もっと早く読んでおくべきだったなあ。ほんと、小説としてというよりも、まずは歴史を学ぶ資料として、ぜひとも読んでおいたほうがいい。少なくとも小林よしのりさんの『戦争論』シリーズに興味を覚えた人ならば、どうしたってこちらも読んでおかなきゃ嘘だ。「あの戦争が起こった時、われら庶民がどのような生活を強いられたのか。」を知らずして、抽象的に戦争のことを論じ合っても虚しいじゃないですか。
 東京は根津の下町に暮らす53歳の一市民(本職は団扇屋さんだが、統制経済のため商売ができず、闇で運送業をしている)の日記という体裁を借りて、著者は「金もコネもない一介の庶民が、あの時代をいかに生き抜いたか」を、微に入り細に亙って描き出す。正かな・正字(例へば「国体」を「國體」と書くといふことです)できっちりと綴られたその「日記」は、浩瀚にして稠密、徹底したリアリズムに貫かれ、高度成長期以降に生まれたぼくなんかでさえ、当時の日常を追体験させられるかのごとき錯覚に陥ってしまう。家族構成は、妻および三人の娘と一人の息子。長女は比較的余裕のある家に嫁し、次女と三女は(身分はいちおう学生ながら)勤めを持っているとはいえ、もとより生活は楽ではない。というより、空襲による命の危険を別にしても、少しでも気を緩めればたちまち餓死しかねない窮乏ぶりである。何しろ物が無い。食料はいうまでもなく、水とか紙とか、ぼくたちの暮らしを普通に成り立たせてくれているものがまるで手に入らない。当時は薪が必須だったが、それも貴重品であり、だから風呂にも入れない。床屋に行くのですら贅沢の極み。どうですか? ケータイなしでは夜も日も明けない平成生まれのみなさん。「想像を絶する」というのはこのことでしょう。ぼくだって、うまく想像できません。たった65年前のことなんだけど。
 そうはいっても作者が井上さんだから、作品は、ということはすなわちこの日記は、けして陰鬱一辺倒ってわけではなくて、山中信介という名前を持つその団扇屋のご主人は、ゆたかな人間性にあふれ、いかなる労苦や災難に遭おうと、大小さまざまの「権力者」たちの横暴に振り回されようと、つまらぬ愚痴や弱音は吐かず、いつだって一抹のユーモアを忘れないのである。これは個人の日記とはいえどんな弾みで公の目に晒されるやも知れず、「お上」に対する批判が見つかろうものなら只ではすまなかった当時の事情の反映ってこともあるだろうけど、それ以上にやはり、山中氏がいつものあの懐かしい「ひさし的語り手」の一人であって、社会的には弱者の側に属していても、けして信念と矜持とを失うことのない、「理想の市民」であることの表われであろう。だからこそぼくたちも、本来であれば息詰まるようなストレスなしには読み進められない筈のこの「記録」を、人間精神のひとつの見事な描出として、つまりは優れた「文学」として、享受することができるわけである。
 松山巖さんの解説によれば、この日記は終戦の年(1945=昭和20年)の4月から、翌4月までの丸一年のことを綴っているそうで、終戦ののちは随分と趣きがかわるらしい。まだ上巻の半ばまでしか読んでないから、もちろんぼくは、この作品を文学としてここで論じるつもりはない。冒頭に述べた通り、これが太平洋戦争下における「日本帝国臣民」の「銃後」の生活を知るための最良無比の教科書であると思ったから、そのことを書き留めたかっただけである。大岡昇平さんの『俘虜記』『野火』、大西巨人さんの『神聖喜劇』、野間宏さんの『真空地帯』など、軍隊や戦場を描いた名作は多い。また、野坂昭如さんの『火垂るの墓』のように、内地における戦争の悲惨を謳い上げた名作もある。しかし、庶民の生活の細かい部分を、丁寧に丁寧に、紡ぎ上げるようにして書き込んだ小説というのは意外とほかに見当たらぬのだ。井上さんは野坂さんよりさらに四歳年少の昭和9年生まれで、終戦の年には十歳だから、『東京セブンローズ』に描かれた事柄を、ぜんぶ実際に体験されたわけではない。下巻の巻末に、延々5ページに及ぶ参考文献目録があるが、これはあくまで一端に過ぎず、ちょっと気の遠くなるほどの資料の博捜があったろうことは間違いのないところだ。
 しかし、正かな・正字のせいか、題材が地味だと見なされるのか、この著作は現在版元品切れらしい。著者のご逝去を機に即刻再版されることを祈るが、このごろの出版事情を見ていると、いささか心許ないところもある。これほどの小説がふつうに書店で手に入らぬとは、少しく薄ら寒い話だ。いくら不況がひどくとも、ニッポンの文化はそれほど底の浅いものではない、と信じたいのだが。

 追記 平成27年9月22日)『東京セブンローズ』は、期待に違わぬ名作だった。さらにこのあと、講談社文庫の『四千万歩の男』(1~5)という肉厚のセットを大手古書チェーンの百均コーナーで見つけて買い(井上さんすいません)、これにも感嘆した。ぼくにとってのひさし文学最高の長編はこの二作である。