実は、このシリーズは続けようと思っていたのですが、年代順に並べようと思っていたらなかなか考えがまとまらずに結局f出せずじまいになってしまいました。
そこで思いつきで出してみようかと思うことにしました。
今回は好きか嫌いかいろいろ賛否両論があった「戦争を知らない子どもたち」ということにしました。
「戦争を知らない子どもたち」
作詞 杉田二郎 作曲 北山修
戦争が終わって僕等は生まれた
戦争を知らずに僕等は育った
おとなになって歩きはじめる
平和の歌をくちずさみながら
僕等の名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ
若すぎるからと許されないなら
髪の毛が長いと許されないなら
今の私に残っているのは
涙をこらえて歌うことだけさ
僕等の名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ
青空が好きで花びらが好きで
いつでも笑顔のすてきな人なら
誰でも一緒に歩いてゆこうよ
きれいな夕陽の輝く小道を
僕等の名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ
この曲はジローズの曲として有名すぎるくらい有名ですが、実は1970年の大阪万博のカナダ館のテーマソングとして別のグループのシングルが先行発売されていたことは誰にも知られていない事実だと思います。
この曲が出て来た時は中学生でした。
ギターを弾き始めてそれほどたっていないころです。
この曲はコードでいえばCから始まるし、循環コードなのでまさに入門編なのです。
イントロや途中に出てくるFからGにつながる「チャチャンチャーン」が全てなのです。
この曲は誰でも歌えるという意味では、自分がギターが弾けるということをアピールするには絶対欠かすことのできないアイテムのような曲でした。
この曲にクレームをつけてきた人物が現れてドキドキしたことがあります。
高校時代の二人の恩師です。
一人は国語の教師です。
野口先生は国語の教師です。この先生はJRC(青少年赤十字クラブ)の顧問でした。
このJRCというのがくせ者でまじめな高校生の集まりだったのですが、私と言えば頭の中は女の子のことばかりで、「JRCに入れば一緒にキャンプに行けるよ』という上級生のスージークアトロ似のマチャガエルさんにそそのかされて入部してしまったといういきさつがあります。
しかも当時憧れていた同級生の玲子さんもキャンプに行くらしいということで、絶対このキャンプにかけるという思いで入部しました。
でも、一緒にギターをやってきた広川という友人を誘ったのがつまづきの始まりでした。
彼は声は抜群なのです。でもギターは私の方がずっとずっとうまかったのですが、この「声」というやつがくせ者なのです。
JRCのキャンプは日本海の海岸でやりました。
食事が終わり、盛り上がったところでギターで歌おうということになり、この「戦争を知らない子どもたち」を歌うことになります。
JRCの顧問の野口先生は、「この歌はどうも好きになれない。自分の生きた歴史を考えたら今の若者に伝えたいメッセージはたくさんある。世界ではたくさんの戦争がおきている。それを見ないで、戦争を知らないなんて言うべきじゃない」と言われたことがすごく心に響いています。
この先生は、組合には全く反対の立場だったらしく、その後校長になって再び自分の前に登場することになるのですが。やっぱりその時のイメージが強く残っています。
余談ですが、その時のキャンプで初めてビールを飲みました。もちろん飲めと言ってくれたのが野口先生です。
もう一つ余談ですが、憧れの玲子さんはそのキャンプの後で広川とつきあい始めたという話が風の便りで聞いたのが秋の終わりでした。
もう一つのエピソードはやはり高校時代の松田先生です。
この先生はストレートでした。
「戦争を知らないと君たちは言うかも知れない。でも今ベトナムでは…」
それがいつもきっかけでした。能天気な我々を政治の世界に連れて行ってくれました。
戦後というひとくくりの中に朝鮮戦争があり、ベトナムの戦争がありました。
そこを教えてくれた歌のひとつに「戦争を知らない子どもたち」があります。
この先生の影響は、大変強くて今の自分を作ってきた恩師とも言えます。
今も組合の役員として活動しているのは松田先生の授業がなくてはありえません。
でも今その歌を子どもたちに伝えるとしたら、もう「戦争をしらない子どもたち」でずっといてください。
そんな思いでいっぱいです。
作詞した北山修氏はそんな思いで作った詩なのかもしれません。
自分にとって人生の分岐点になる一曲だと思います。
そこで思いつきで出してみようかと思うことにしました。
今回は好きか嫌いかいろいろ賛否両論があった「戦争を知らない子どもたち」ということにしました。
「戦争を知らない子どもたち」
作詞 杉田二郎 作曲 北山修
戦争が終わって僕等は生まれた
戦争を知らずに僕等は育った
おとなになって歩きはじめる
平和の歌をくちずさみながら
僕等の名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ
若すぎるからと許されないなら
髪の毛が長いと許されないなら
今の私に残っているのは
涙をこらえて歌うことだけさ
僕等の名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ
青空が好きで花びらが好きで
いつでも笑顔のすてきな人なら
誰でも一緒に歩いてゆこうよ
きれいな夕陽の輝く小道を
僕等の名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ
この曲はジローズの曲として有名すぎるくらい有名ですが、実は1970年の大阪万博のカナダ館のテーマソングとして別のグループのシングルが先行発売されていたことは誰にも知られていない事実だと思います。
この曲が出て来た時は中学生でした。
ギターを弾き始めてそれほどたっていないころです。
この曲はコードでいえばCから始まるし、循環コードなのでまさに入門編なのです。
イントロや途中に出てくるFからGにつながる「チャチャンチャーン」が全てなのです。
この曲は誰でも歌えるという意味では、自分がギターが弾けるということをアピールするには絶対欠かすことのできないアイテムのような曲でした。
この曲にクレームをつけてきた人物が現れてドキドキしたことがあります。
高校時代の二人の恩師です。
一人は国語の教師です。
野口先生は国語の教師です。この先生はJRC(青少年赤十字クラブ)の顧問でした。
このJRCというのがくせ者でまじめな高校生の集まりだったのですが、私と言えば頭の中は女の子のことばかりで、「JRCに入れば一緒にキャンプに行けるよ』という上級生のスージークアトロ似のマチャガエルさんにそそのかされて入部してしまったといういきさつがあります。
しかも当時憧れていた同級生の玲子さんもキャンプに行くらしいということで、絶対このキャンプにかけるという思いで入部しました。
でも、一緒にギターをやってきた広川という友人を誘ったのがつまづきの始まりでした。
彼は声は抜群なのです。でもギターは私の方がずっとずっとうまかったのですが、この「声」というやつがくせ者なのです。
JRCのキャンプは日本海の海岸でやりました。
食事が終わり、盛り上がったところでギターで歌おうということになり、この「戦争を知らない子どもたち」を歌うことになります。
JRCの顧問の野口先生は、「この歌はどうも好きになれない。自分の生きた歴史を考えたら今の若者に伝えたいメッセージはたくさんある。世界ではたくさんの戦争がおきている。それを見ないで、戦争を知らないなんて言うべきじゃない」と言われたことがすごく心に響いています。
この先生は、組合には全く反対の立場だったらしく、その後校長になって再び自分の前に登場することになるのですが。やっぱりその時のイメージが強く残っています。
余談ですが、その時のキャンプで初めてビールを飲みました。もちろん飲めと言ってくれたのが野口先生です。
もう一つ余談ですが、憧れの玲子さんはそのキャンプの後で広川とつきあい始めたという話が風の便りで聞いたのが秋の終わりでした。
もう一つのエピソードはやはり高校時代の松田先生です。
この先生はストレートでした。
「戦争を知らないと君たちは言うかも知れない。でも今ベトナムでは…」
それがいつもきっかけでした。能天気な我々を政治の世界に連れて行ってくれました。
戦後というひとくくりの中に朝鮮戦争があり、ベトナムの戦争がありました。
そこを教えてくれた歌のひとつに「戦争を知らない子どもたち」があります。
この先生の影響は、大変強くて今の自分を作ってきた恩師とも言えます。
今も組合の役員として活動しているのは松田先生の授業がなくてはありえません。
でも今その歌を子どもたちに伝えるとしたら、もう「戦争をしらない子どもたち」でずっといてください。
そんな思いでいっぱいです。
作詞した北山修氏はそんな思いで作った詩なのかもしれません。
自分にとって人生の分岐点になる一曲だと思います。
はっきり覚えてないんだけど、「戦争を知らない子どもたちばかりになるようにという気持ちをこめてこの歌を作った」というようなことが書かれてあったような気がします。
つまり、絶対的な平和への願いの歌なんですね。
それを読んでから素直に歌える気がしたのを覚えています。
杉田二郎の声がいいですよね。