前回の続きです。
教育資料館があまりにも興味深くていろいろと撮影してきました。
この建物を設計・監督をしたのは山添喜三郎という人だったそうです。
山添の仕事ぶりは、妥協を許さない仕事で、屋根瓦は水に一晩漬けて、
一定以上水を含んで重くなったものははね、
材木についても検査が厳しかったのでハネ材だけでもう一つ学校ができるほどだったそうです。
建材業者の中には、倒産したり、家産を傾けた人も少なくなかったそうです。
洋風建築に慣れていない大工たちも、手間ひまが予想以上にかかり過ぎ、
生活に困窮した者も出て来たといいます。
その苦労の甲斐あって現在も堅牢のままの校舎でいられるのかもしれません。
あの宮城沖地震を経てもそのまま維持しているのだからすごいです。
門は赤門と呼ばれているそうです。
他にも校舎の内外とも実に見事な調度になっています。
チャイム代わりの鐘がありました。
鐘も立派なものでした。
教科書もたくさん資料として残してあり、興味深いものがありました。
教室に掲げてある地図や図解の中に、奇妙なものを見つけました。
「世界人種相貌全覧」というものです。
非常に、差別的な描き方がしてあります。
神国日本がもっとも優れた人種であるかを説明するために用いられたものではないかと思います。
ナチスがゲルマン民族のみを優れたものとして、ユダヤ人を虐殺したものと近いものかもしれません。
グロテスクですが、少しアップも紹介します。
次回もう少し登米の街を紹介します。
教育資料館があまりにも興味深くていろいろと撮影してきました。
この建物を設計・監督をしたのは山添喜三郎という人だったそうです。
山添の仕事ぶりは、妥協を許さない仕事で、屋根瓦は水に一晩漬けて、
一定以上水を含んで重くなったものははね、
材木についても検査が厳しかったのでハネ材だけでもう一つ学校ができるほどだったそうです。
建材業者の中には、倒産したり、家産を傾けた人も少なくなかったそうです。
洋風建築に慣れていない大工たちも、手間ひまが予想以上にかかり過ぎ、
生活に困窮した者も出て来たといいます。
その苦労の甲斐あって現在も堅牢のままの校舎でいられるのかもしれません。
あの宮城沖地震を経てもそのまま維持しているのだからすごいです。
門は赤門と呼ばれているそうです。
他にも校舎の内外とも実に見事な調度になっています。
チャイム代わりの鐘がありました。
鐘も立派なものでした。
教科書もたくさん資料として残してあり、興味深いものがありました。
教室に掲げてある地図や図解の中に、奇妙なものを見つけました。
「世界人種相貌全覧」というものです。
非常に、差別的な描き方がしてあります。
神国日本がもっとも優れた人種であるかを説明するために用いられたものではないかと思います。
ナチスがゲルマン民族のみを優れたものとして、ユダヤ人を虐殺したものと近いものかもしれません。
グロテスクですが、少しアップも紹介します。
次回もう少し登米の街を紹介します。