かつてN響がヨーロッパに演奏旅行をしたことがあった。サヴァリッシュが率いていった。他にも指揮者がいたのか、僕は知らない。当時僕はドイツに住んでいて、その演奏会がテレビ中継されるのを観ていた。
演奏曲目が何であったか、まるで記憶になく、演奏の印象も「ああ、相変わらずだなあ」という感じを持ったこと以外覚えていない。
サヴァリッシュへのインタビューがあり、そちらは鮮明に覚えている。
N響は勤勉で技術もあり大変良いオーケストラだ。これにあとハーモニー感が付けば本当によいオーケストラになる。彼はそう言った。
この発言について僕はまったくその通りだと思った。と同時にサヴァリッシュのような典型的なヨーロッパの秀才の限界も感じた。
日本人にとってハーモニー感をつけるのはたいへん難しいのだ。いくら聴音や和声学をしたところで、和声学と和声感はまったく違うことだと気付かぬ限りなんの意味もないのである。
音楽家ではない一般のドイツ人も含めて、このハーモーニー感は彼ら固有のといえる。なにもドイツに限定しなくともよい。ヨーロッパの響きとでいおうか。ヨーロッパ人であるサヴァリッシュには、欠点のひとつとしか見えないハーモニー感の欠如、これはほとんど決定的な欠陥ではないだろうか。
インタビューを聞いていて、これを克服するのは至難の業だと思ったものだ。
少年合唱団は今でも時々聴く。子供の演奏は、それも合唱などでは、小賢しい解釈なぞがなくて単純に楽しむことができる。遠出はしないけれど。
そういう団体はレパートリーの関係か、集客の関係か、地元の少年少女合唱団が共演ということもある。
そうするとハーモニー感の違いが歴然とするのが面白い。日本のは楽譜の高さとか、足の開き方がよく揃っている。たいへん行儀がよいといっておく。
肝腎の声は、なんというかな、強い炭酸水が飲みたいとき間違えて微炭酸を飲んでしまったときのようだ。
ヨーロッパの子供達はというと、響きに幅があるとでもいうかな。こういった点になると言葉ではどうしようもない。それが本当は演奏という意味なのだ。それはそれとして言葉を続けると、ここできこえるのは上手下手を問わず文字通りハーモニーなのである。お互いを注意深く聴く、といった高級なもの以前にある、なにかしら根源的な感覚。
もうひとつ、書いておきたい経験を。ドイツ時代は休暇をチロル地方で過ごすことが多かった。ある年のクリスマス前、僕たちは小さな村の地下レストランで食事をとっていた。と、屈強な村の青年達が5,6人、手に手にトロンボーンを持って入ってきた。音楽を奏でて小遣いを貰おうというのだ。
「素人」の合奏、しかもトロンボーン!天井も低い。ついつい日本のブラスバンドを思い出し、生きた心地もしなかった。でもその時聴いた柔らかい、混ざり合った響きはパイプオルガンのようにもきこえた。大袈裟ではなく、ウィーンフィルを聴いたときの感激と比べてもひけをとらない、音楽上の貴重な体験であった。
僕らがこれを持たないのはどうしようもないが、持たないのに気付かないのは問題だ。僕がサヴァリッシュの楽天的なコメントに違和感をもったのは、そういったことである。ヨーロッパ人にとって日本はひとつの外国にすぎない。その自覚をもたずに(サヴァリッシュがですよ)日本を誉めあげるのは、ハーモニー感をもたぬことを気付かぬ人を増やすばかりだと感じたのだ。