季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

捨て猫記 3

2008年11月24日 | 
コンニャクがもらわれてやれやれと安心していた僕たちは甘かった。日本の「殺すなんてできない。せめてどこかの優しい人に拾われて欲しい」という自分勝手な「優しい方ありがとう、子猫ちゃん幸せにね、ずっと忘れないよ」病患者は僕が思ったよりはずっとずっと多いのであった。

アリスとテレスを見つけたのは公園の桜の木の根元だった。その横には熊笹の茂みが続いていた。小説家でもないのにそこの景観の描写を記したのにはわけがある。

そうだ、この時はたまのほかにもう一頭、ミケというシェパードも家族になっていた。(たまというシェパードがいるならミケもいるさ。なぜこちらはカタカナかというと、本名はミケランジェロなのだ。畏れ多いが)

ミケは常にたまにくっついて行動し、まるで見習いのようであった。この子は由緒正しい!血統で、母親は日本チャンピオン、父親は世界チャンピオン(だったかな)、書いているうちに我が家はボクサーの家系で、と思い込みそうだが、簡単に言ってしまえば、ふつう僕のような貧乏人には売ってくれない名犬なのであった。現に同腹の子は(これが見かけはミケに瓜二つだった)日本で2位になり、持ち主も何べんも替わった。

こうしたシェパードの世界について触れるのは今は控えておこう。要するに野良猫と真反対の世界なのに、○○様ご愛犬という肩書き(というのかね)欲しさに所有者が代わっていくように僕には見える、なんだか人間の勝手さだけが目立つ世界だ。

話を公園の熊笹の茂みに戻そうか。そこを通りかかったとき、どこから聞こえるのか分からぬほどか細い猫の声がした。

たまが笹の茂みに分け入り、ミケランジェロもそれに続いてとび込んだ。(と、本名で記すと滑稽でしょう、熱血漢ミケランジェロといったところだ。システィナ大聖堂の屋根から飛び降りていた、と書いてしまいそうだ)

たまは少しずつ後ずさりしながら茂みを抜けようとしている。その鼻先に子猫がいるらしい。道を案内するかのように振舞う。ちょっと鼻でつついたような動作をしては数センチ後退する。たまはそういった能力が自然に備わっていたと思う以外ない、一種独特なシェパードだった。僕たちがイライラするくらいゆっくりと出てくる。子猫の声が少しずつ近くなる。

たまがようやく茂みから出ると、鼻先にしがみつくようにして、ガリガリにやせ細った子猫も出てきた。毛も生えていないほどの衰え方である。たまは猫の体中を舐め、ミケは物珍しそうに傍で見ていた。

獣医に連れて行ったところ、衰弱が激しく、助かる公算は低いとのことだったが、スポイトでミルクを飲ませたり、大変な思いを続けた結果、なんとか一命を取り留めた。

元気になってよくよくみれば、この猫はめったにお目にかかれぬほど奇妙奇天烈なご面相なのである。どこから見てもタヌキだ。どんぐり眼でぼさぼさにおっ立った毛。里親探しが難航することが予想された。

たまが下の世話はしてくれたから、あとはミケに接し方を学ばせるだけでよい。写真のようにして、そっと接することを教え込むのである。穏やかな声で「お友達、可愛いねえ」と言いながら鼻先へ持っていく。好奇心から覗き込もうとするが、ほんの少しだけ、念のため距離を保つ。その時に「そっと、そっと」と声をかける。それを繰り返すと、自分からそっと近づくことを覚える。

そうそう、この子にも名前を付けなければならなかったのだが、捨て猫にうんざりしたこととこんにゃくという名前が気に入って、コンニャク2号とした。もっとも獣医ではこんにゃくちゃんと呼ばれたが。

ミケもあっという間に対応を覚えた。ミケはのちに並々ならぬ母性本能を発揮するようになるのだが、それはこの時期の経験があったからだと僕は信じている。本能というからには生来のものだと言われるけれどどうだろう。こういった生物学的常識も、もういちど疑ってかかってみたら良いとさえ思う。

写真をこまめに撮る習慣がないので、2頭のシェパードと子猫の画像がなくて残念だ。あとで見て懐かしく思うのが嫌いなのである。

コンニャク2号は、予想通りなかなか貰い手が付かず、当時教えていた大学の学生が欲しいといってくれたときには、地獄で仏の心境であった。
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捨て猫記 2

2008年11月17日 | 
お向かいさんが猫を拾い上げてコニャックに昇格しひと安心したころ、ベンツが犬を捨てた(この文をドイツ語に直訳してしまったら??だろう)雑木林で、やせ衰えた子猫をみつけてしまった。探していたわけでもないのに、まるで狙ったかのように僕の目の前に現れる。

雑木林を散歩するときは必ずたま(にしき)が一緒だった。当然だ。たまの散歩のために僕たちがついて行くのだから。

子猫はキジトラでこれまた人懐こい。しかもシェパードを怖がらない。気がついたらニャニャアたまのところに寄って行っていたのだ。当時は雑木林はまったく手が入っておらず、ノーリードで散歩していた。たまはたまで、ドイツで猫に嫌というほど引っ掻かれた経験があるのに、もう猫が好きで好きでたまらない犬なのだ。

弟の処に当時は猫が2匹いて、たまはその子たちにからかわれていた。犬はからかわれるキャラクターだな。

これも何かの因縁だと観念して家に連れ帰った。それからが大変なのである。獣医に連れて行き検査と予防接種をしなければならない。その際は名前を登録しなければならぬ。お向かいにコニャックがいるのだ、うちはコンニャクにしよう、といういい加減さで猫のコンニャクが誕生した。とぼけた響きがあって、病院で重松コンニャクちゃん、と呼ばれるとおかしかったなあ。

写真のように、もう我がもの顔でたまに甘えていた。たまもされるがままになって、時折遊んで、とても嬉しそうにしていた。

それでも我が家は、高価ではないにせよ、骨董類が棚の上や本箱に置いてあり、猫が暮らす環境としては相応しくない。ここはどうしても里親を見つけなければならない。

アリスとテレスは無事もらわれていったが、里親探しをした人は知っているとおり、犬の貰い手に比べると、猫を希望する人は極端に少なくなる。勢い会場は猫ばかりというありさまと相成る。

僕の住む町では、月に一度里親探しの会が開かれる。ある日曜日、ついにこんにゃくを連れて行くことになった。獣医の検診結果を持ち、どうしても一緒に行くと言い張る息子と、保育園に行っていたころだ、緊張しながらでかけた。貰い手がいなかったらどうしよう、と苛立ちばかりつのる。

会場に着くなり、コンニャクを手放したくない息子がオイオイ泣きはじめた。里親探しの会では、まず人の目に留まることが大切だ。猫を持ち込んだ人たちは心得たもので、プラカードのようなものをボール紙で作ったり、うまい宣伝文句で客、ではなかった、希望者の注目を集めようと必死である。息子の泣き声は注目されるところとなり、よっしゃと思った。

しかし案に相違した。

注目を集めたところで、貰われるとは限らぬことを身を持って知らされた。誰がどう見ても息子は別れが辛くて泣いているのである。「ボーヤこの子がすきなんだねぇ」「エーンエンエン」「ボーヤ本当はあげたくないんだよねえ」頷きながら「エーンエンエン」これでは貰い手が出るはずないね。

大勢の人が取り巻いて見るものの、誰一人として名乗りを上げない。コンニャクはご覧のように器量よしで、性質も良いのだが、おお泣きする子供から誰が取り上げようか。目立ってよかったと思ったのも束の間、連れてきたことを深く深く後悔した。

翌月の里親探しには家内がタクシーで連れて行った。もちろん息子なしで。コンニャクは無事に貰われていった。僕たちは、予定していたとはいえ、家族が一匹減った部屋を寂しく見ていた。

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捨て猫記

2008年11月14日 | 
最初に捨て犬の現場を目撃したことから書いておく。忘れてしまって残念がっても遅いからね。

近所に雑木林がある。神奈川県が野鳥のいちばん多い森として登録をした処である。なに、一角を切り倒してゴルフ場にしたので、もう野鳥なんか来やしないのだよ。間抜けな話である。高いネットが張り巡らされ、夜は夜で煌々とライトに照らされた林に飛んでくる鳥なんぞいるものか。ライトに向かって飛んでくるのは、夏の虫くらいだ。

その雑木林の縁を散歩していたときのこと。件のゴルフ練習場はまだ出来ておらず、小鳥の来る森だったころ。よろよろと道の突き当りまでやって来たベンツの中から、中年の女と犬が出てきた。当時ベンツは今ほどポピュラーな車ではなかった。したがって、この書割はちょっと出来損ないのドラマみたいであるが、本当のことは仕方がないね。

たまと散歩中だった僕は遠くからぼんやりと見ていた。単なる犬連れが犬と一緒に降りただけにしか見えなかった。たまが何者か分からない方は以前の記事を見てください。

と、女は身を翻して助手席に消え、ベンツは急発進した。犬は(中型の白っぽい犬だった)狂ったようにキャンキャン鳴きながら全力で後を追った。しかし追いつくはずもなかった。そして僕の視界から消えた。

捨て犬だ、と実感したのは犬が見えなくなってからだ。何ということか。今これを書きながら、またしても怒りがこみ上げる。

世の中には犬が嫌いな人がごまんといる。でも、飼っている人は嫌いなはずはない。犬嫌いは人でなしだと言ったら言った奴が阿呆だ。しかし、こうは言える。飼った犬を可愛がることの出来ない奴は人でなしだ、とね。そういう手合いは、人間に対してもほぼ同様の対応をする。猫好き、トカゲ好きでも事情は同じだ。

捨て犬を拾った顛末については書いた。犬を拾う人は猫も拾うのである。飼っているウサギも半ば拾ったようなものだ。お金も拾うとなお良いだろうと思うのに、これは拾わない。

子供が小さかったころ、近くの公園で子猫を拾ってきた。大変人懐こい子猫で、玄関でミルクを呑み、ニャアニャア身をこすり付けてきた。猫が体をこすりつけるのいは懐いているからではない、蚤で痒いからである、と言いたい人には言わせておこう。とにかく人を全然怖がらない。しかし我が家は猫を飼うような環境にない。

気がつくと子猫はどこかへ行ってしまっていた。あんなに懐いていたのにな、と残念な気持ちだったが、どこかホッとしたのも事実だ。

数日後、なにかの拍子に、この猫が向かいの家の飼い猫に昇格したことを知った。いや、嬉しかった。野良猫は今やコニャックという洒落た名前を付けてもらって、ベランダから出たり入ったりしている。(因みにコニャックは今も健在である。昨夜も台所のガラス越しにシルエットが見えて嬉しかった。もう15歳くらいかな。実に可愛い猫である。時折我が家の玄関先でニャアニャア鳴く。入れてくれろというのだ。招き入れるとひとしきり2階の台所あたりで遊び、気がすむとまた出してくれろと催促して出て行く。我が家のシェパードたちが何の危害も加えないことを知っていて、まったく無防備である)

この猫が一連の捨て猫騒動の序曲になるとは、知る由もなかった。

なんて、思わせぶりでしょう。ジャーナリズムの中に身を置いた気分だね。続きはまた。

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捨て犬記(続)

2008年09月28日 | 
当時僕たちは、昔風の○○荘といったアパートの2階に住んでいた。もう住人はおらず、だから犬を計3匹も飼えたのだ。

子犬が成長して夜中に起きる必要が減ると、大分楽になった。といっても、この子犬たちを自分たちで飼うことは不可能だったから、いろいろ里親探しを続けたのである。

近所の雑木林にたまとアリスとテレスを連れて行くと、実の親子のようにたまの後を追い可愛かった。それでも手放さないわけにはいかない。

あちこち、といっても僕は今でも交友範囲や人付き合いが極端にせまいのだ、当時はたかが知れていたが、貰い手を探しているうちに、生徒の家庭が雌を一匹もらっても良いと申し出てくれた。

ある日、その一家が全員お揃いでアリスを引き取りに来た。ほっとする気持ちと、寂しい気持ちが一度にやって来た。僕がアリスを抱き上げ、奥さんの手に「はい、どうぞ」と渡した。

なぜそんなことをくだくだしく書くかというと次のような次第である。

この一家では奥さんだけが幼いころの経験から、犬が怖くて仕方がなかったという。それでも家族中が飼いたがるから承知して、我が家まで一緒にきたわけだ。

それが、予想もしない展開になり、怖くてたまらない犬をいきなり手渡されてしまった。後日談だが、腰が抜けるほどびっくりしたそうである。僕たちは僕たちで、まさか犬が怖い人が貰ってくれるとは想像だにしていなかったから、花束を家庭の主婦に渡すでしょう、そのような感じで、ひょいと手渡したのだ。

奥さんは数日悪夢にうなされたそうだ。こんな話も聞いた。アリスは(名前はアリスのままになった)最初は玄関に繋がれていたそうだ。ある日奥さんが外出から帰ったところ、どうしたことか、綱からはずれて、ウロウロしていた。それを見た奥さんは本当に腰が抜けてしまって、大変だったという。

触るにも、軍手をはめて、といった調子だったらしい。それにもかかわらず引き取ってくれたことに僕は深く感謝している。しかも、いつの間にかアリス一筋になり「アリスが死んだら私も死ぬわ」とまで変わったそうだ。本当に良いところに貰われたものだ。

結局アリスは16歳を超えるまで生き、家族中に看取られて天寿を全うした。幸せな子だったと思う。奥さんはもちろんご健在である。

さてアリスが貰われて車を見送り、部屋に戻った僕たちはテレスが寂しい思いをしているだろうと、気を遣った。

心配は無用だった。

犬の社会を冷静に考えれば当然のことだ。テレスはアリスと仲は良かったが、アリスがいなくなったとたん、よりのびのびと振舞い始めた。通常は飼われる犬の数は限られるわけで、テレスにしてみれば争いに勝ったわけなのだ。

動物の社会は厳しいなあ。人間の感傷なぞ吹き飛ばされる。

写真のような按配で、充分に甘えていた。

市が主催する里親探しの会に足を運んで、とうとうテレスも貰われる日がやってきた。何度も、拾ってこなければ良かった、と思いながらも、お別れは辛い。市の里親探しでは、トラブルを避けるために、貰い手と連絡を取ることを禁じている。年配の夫婦に引き取られたテレスについては、アリスと同じように可愛がられてそだったことを祈る。

それにしても、自分が味わうべき苦労や辛さを人に丸抱えさせた奴に呪いあれ。僕たちがどんな気持ちでテレスを手渡したか。
たまを飼ったいきさつで書いたドイツ人同様に振舞うかどうか分からないが、とにもかくにも大きな差だと言わざるを得ない。

我が家はその後、捨て猫にも悩まされることになる。それはいつか書く。

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捨て犬記

2008年09月26日 | 
帰国して現在の住居に住み着いて、一番初めにしたことといえば、たまの散歩できる所を見つけることだった。

あらためて感じたのは、いかに日本の公園がちっぽけでみすぼらしいか、ということだった。

それでも、偶然迷い込んだ道から見えた公園は、芝が青々として、木立も多く、散歩するにはもってこいだった。時折ドイツの森や公園を思い出してため息は出たが。僕たちはここをホームルラウンドにすることに決めた。

当時この公園を管轄する市は財政が潤っていたのだろう、芝生の養生もよくなされていた。今は、「まちぼうけ」の歌詞ではないが、ぼうぼうの荒地のようになってしまっている。

ここでいつものようにノーリードで歩いていたときのこと。ふと気づいたらたまがいない。

振り返ってみれば、桜の木の下で立ちすくんだままである。「来い」と声をかけても一歩も動かない。おかしいな、今までそんなことは一度もなかったのに。もう一度、今度は強く命令したがやはり動かない。傍らに何やら段ボールがある。

妙なこともあるなあ、と訝りながらたまの処へ行くと、段ボールの中から子犬の声がする。上蓋を開けてみたら、黒と茶の2匹の子犬が動いていた。

予想もしなかった事態で、戸惑った。目がたまと合った。この子の特徴だった、染み入るような目がじっと僕を見つめていた。

思い込みが激しいな、という人もいるだろう。ただ、僕は思い込みが激しいタイプとはまったく反対の人間だ。人が犬を擬人化するに当たっての心理もよく承知している。

それでも、この子は他の子とはまったく違ったと言わざるをえない。

ドイツのように犬との生活が日常に溶け込んでいる社会でも、特別扱いだった。自分の飼い犬をそっちのけでTama,Tamaお前さんは特別だねえと可愛がられ、いつも嫌がらせをするボクサーにとうとう怒って、あっという間に組み伏せたときも、飼い主の爺さんまでが他の人たちと一緒に「やったぞ、Tama、それで良いんだ!」と拍手をしたほどだ。いつも「Tama怒れ、怒って良いんだ!」と言っていたなあ。

ドイツでの犬の話はまたいずれ書くことにして先を急ごう。

たまは結局僕たちの気持ちを先取りしていたわけだ。心では、2匹を捨てた奴を罵りながら、結局2匹を連れ帰った。名前がないとね、というわけでアリスとテレスにした。雌がアリス、雄がテレス。2匹でアリストテレス。

それからが大変だった。何しろ目が開いたばかりの子犬である。夜中に3時間おきくらいにミルクを与えなければならない。犬用の哺乳瓶を買い、犬用の粉ミルクを買い、このミルクが溶けにくいのである。そうだ、思い出したが、物凄く高いのだ。帰国した直後で「貧乏暇無しというが、貧乏すぎると暇だよなあ」と笑っていたほどだったから、まあ堪えたな。泣きたかったね。

ミルクを呑み終わると用を足す。お腹をさすると出てくる。普通は母犬がするのだ。出しておかないと後で悲惨なことになるから、眠い目をこすりながらも最後までする。時折、何の因果でと怒りがこみ上げるが。捨てた奴は今頃ぐっすり眠っていやがるだろう、とフツフツと怒りがこみ上げる。誰だかわからないのが癪の種だ。

たまもよく世話をした。この子は母性本能が強いのか、と改めて思った。離乳食に切り替わっても、2匹の横でじっと見守るばかりで、少しでも自分が欲しがる素振りを見せない。

子犬が少しずつ成長すると毎日遊び相手になるのだが、これがまた実に上手なのである。見ていて飽きなかった。もちろん不安などは一切感じない。たまが所有していた犬用のおもちゃを、アリスとテレスが次から次へ自分たちの巣箱へ持っていってしまう。それをただじっと見ているだけである。

夜になって2匹がぐっすり寝入ってしまうと、ひとつひとつくわえて静かにまた自分の寝床へ持って帰るのだ。ちゃんと所有欲というか、自分のものが自分の場所に無いことを知ってはいるのに、主張しない。ドイツの森での振る舞いを思い出したものだ。

思い出したからついでに書いておこう。ドイツで他の犬に怒ったことがもう一度あった。クヴァックスという群れのボス的な猟犬がいて、この子がいたずらに僕が手から外して持っていた手袋をさらって逃げたことがあった。するとたまは猛然と攻撃して、クヴァックスはほうほうの体で手袋を放した。

似たことが日本でも一度あった。友人宅に麻雀に行き、たまも部屋にどうぞ、というので連れて行った。友人宅にも当時犬がいたが、その子は庭にいて、たまは部屋にいるのだから、なんだかおかしいね。

奥さんにも、もちろん誰にも、とてもよくなついていた。あるとき、僕がソファーの上に脱いで置いたジャンパーを、奥さんがハンガーに架けてくれようと手にした。するとたまが、それまで麻雀卓の下でじっとしていたのに、「触るな」というように低い声で威嚇した。「たまちゃん、どうしたの」奥さんはびっくりしていた。僕が事情を飲み込み「たま、良いんだよ」と声をかけたら安心して再び卓の下にもぐりこんだ。

アリスとテレスの顛末は書き足しましょう。



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失踪事件

2008年08月24日 | 
薬殺のいうショッキングな題名で書いたが、続きは穏やかな題名に替えて書きましょう。

シェパードとボクサーの混血というミスマッチめいた子犬が無事ぜんぶもらわれて、僕たちも余計な気を遣わずにすみ、めでたしめでたしのはずだった。

ところがそうはならなかった。

「たまにしき」はすでに僕たちの生活に入っていたのである。来るはずのたまにしきがこないことになった、だけではすまなかった。たまがどこかへ行ってしまった。まるで失踪事件が起こったかのような気持ちになった。これは思いもかけなかった心の動きだった。

名前まで付けていなかったらこうはならなかったかも知れない。

僕たちはたまを探すことにした。急いで土曜日版のハンブルガー・アーベントブラット紙を買い、シェパード子犬売りたし、の欄を探した。飼うとなったら、今度は純粋なシェパードがほしかった。

この新聞の土曜日版は広告版になっていることは、どこかで書いたような気がする。恋人まで探せるのだもの、シェパードの子犬くらいわけはない。

果たして数件の広告があった。シェパード子犬、3ヶ月、トイレ躾け済、といったあんばいだ。

因みにドイツでは3ヶ月以下で売ってはいけないのである。それ以下では病気になる確率も高く、自然に犬から学習することも減るから、とのことだった。これはもう20数年前の規則だが、多分今でもそうだと思う。日本では、可愛い盛りに飼いたい、ともっとずっと早い時期に手に入れる。

こうしたところで「可愛い」という感情の実相が明らかになる。僕は子犬よりも成犬の方がもっと可愛いけれど。子犬はたしかに可愛い。でも、ぬいぐるみが可愛いというのに似た感じではないか、動くぬいぐるみ。成犬になると、情の疎通があるところからくる可愛らしさだ。

さて、広告で適当に見当をつけて電話したところと約束を取り付け、出かけた。ハンブルグの北西にある村だった。

周知のように、ヨーロッパは道に名前がついているから、迷うことがない。ところが、これは都市部に限られる、と思い知らされた。農村部は、同じ名前の道が延々と続く。都市部なら地図1枚あれば見知らぬ土地でも必ず行き着くが、周辺部は普通の地図には載っておらず、携帯もない時代、途方にくれるのである。事前に電話でおよその道順を聞いたくらいではとても分からない。

夕闇が迫り、焦り始めたころ、ようやく農場へたどり着いた。

赤ら顔で、人のよさそうな男が農場主で、まず面談になった。僕たちの貧相な風体が気になったのか、失礼ですが収入はありますか、犬を飼うにはこれこれの経費がかかります、あなたたちにそれだけの収入がなければお売りしません、と言う。
自慢ではないが、収入は無い。でも何とか犬一頭なら飼える。面倒な説明は抜きにして「ある」と答えた。「まったく問題が無い」と答えた気もする。ちょいと詐欺師になった気持ちである。

2匹子犬が連れてこられた。どちらも元気いっぱい、部屋の中を走り回る。ただ、姉妹とは思えないくらい見かけが違うのだ。一匹は、シェパードの子犬らしく、額にはすでにダイヤ柄の模様が入っているのに、もう一匹は小さくて、頭のてっぺんから尻尾まで真っ黒、みすぼらしいといったほうがよいくらい。

どちらかがたまにしきになるのだ。決めかねてぐずぐずしていると、しまいに家内が「黒い方にしよう。もう一匹は綺麗だからすぐ貰い手がいると思うよ」と言った。実は僕もそう思っていたのですぐに同意した。

こうして小さく貧相なシェパードが我が家の娘、たまにしきになった。

まあ、舌切り雀のつづらと同じことかな。この子こそがたまだった。見ばえの良いほうを選んでいたら、あんなに賢い子ではなかったかもしれない。正しいたまにしきを選んだわけだ。2匹とも飼えなかっただろうか、と後々何べんも自問したが、そうしたらやはり違う性質に育ったろうな。

写真は生涯ただ一度の悪戯だ。はじめて留守番をさせたら、トイレをばらばらにまき散らしていた。ペットシートという便利なものを知らず、箱に新聞紙を広げ、土を振りかけておいた代物だ。普段は家の中にトイレを必要としていなかった。はじめて室内で飼うので、どのくらい我慢できるのか見当がつかなかったことがうかがえて可笑しい。ちょっと叱ったら、二度といたずらをしなかった。突き当たりのドアを開けると広いピアノ室。天気が悪いと廊下と部屋を開け放ってボール投げをしたなあ。



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薬殺

2008年08月23日 | 
たま(にしき)というシェパードを、留学中の分際で飼うことになったいきさつを書いておこうかな。瓢箪から駒といおうか、予定調和の信奉者はともかく、明日のことは分からない、とつくづく思う出来事だったから。

僕たちの友人にニコルという女性がいる。当時はギムナジウムの生徒だった。ひょんなことから知り合い、大変親しくなった。時々家に寄っていってはあれこれ話し込んでいた。

ある日、彼女の友人の処でシェパードとボクサーのあいの子が11頭産まれたという話になった。聞くと、一所懸命貰い手を探しているが、もしも見つからない場合は殺すという。ニコルも平然として話す。しかし僕たちはびっくりしてしまった。貰い手がいない子犬を殺してしまうという発想はまったくなかったから。

ニコルが帰った後、僕たちは悶々とした気持ちであった。二人とも動物が、とくに犬が大好きだったせいだろう。思い切って1頭貰おう、何とかなるさ。決心してニコルに一緒に見にいく旨を伝え、領事館などを通じて、帰国する際の諸手続き等を確認した。当時は帰国する予定はまったくなかったのであるが、あらゆる場合を想定しなければ、とても大型犬を飼う決心なぞできなかった。

ビスマルクの屋敷がある森にはいくつか村落(といっても綺麗な家ばかり並ぶ住宅地)があり、その中の1つにニコルの友人は住んでいた。玄関を入ると、手製の柵があり、中に本当に11頭の子犬がうごめいている。生後2、3週間くらいだったかな。友人の男の子は僕たちに、一頭一頭の成長記録を見せてくれた。じつに克明に記されている。一日数回、体重を量り、グラフにしてあった。心から犬が好きだという様子なのだ。

そのうちに、貰い手がいなければ殺すというのは、自分が全責任を負うということなのだと合点がいった。帰国後、捨て犬、捨て猫に苦労させられたから、今ではなおさらよく理解できる。捨てられた犬猫は結局保健所で殺される。捨てた人は、せめて命だけは、と優しい気持ちを持ったつもりかもしれないが、保健所の人にもっとも辛い役目を押し付けているわけだ。

僕は今でも、ヨーロッパ的な非情さを伴う考え方を全面的に支持することは(心情的に)できかねる。心情的に、と断る点がすでにヨーロッパ的ではないのかもしれない。

それでも、捨て犬、捨て猫を拾って苦労ばかりした身としては、日本の人たちのほうが憐みを持つのだとはとても言えない。責任を転嫁していると言うべきだろう。

子犬が来る前から名前を考えた。僕は大型犬に格好よい名前をつけるのは好きではない。雌を希望していたけれど「たまにしき」という名前が浮かんだ。昭和初期に「玉錦」という横綱がいた。えらく喧嘩っ早い人で「けんか玉」という異名をもらったらしいが「たまにしき」と平仮名だとまた違った印象になるでしょう?ふだんは「たま」と呼べば、大型犬なのに猫の名前で愛嬌がある、うん、これにしよう。こうして我が家に来る子犬はたまちゃんになった。

日が経つにつれて、たまの姿は僕たちの中で勝手に育った。思いもよらぬ決心ではあったが、それまで動物好きの心を封印しているようなものだったから、もうわくわくして、散歩コースになる森に行く頻度も増した。

ある日ニコルがやって来た。例の子犬たちはみんな貰い手が見つかったという。何のことか、しばらく合点がいかなかった。事の次第は僕の言い方が婉曲すぎたところにあった。ドイツ人には、僕たちがかなり無理をして、どうしても貰い手がなかった場合には一匹引き受ける、と受け取られたらしい。ストレートに言えばよかったのだ。政治家とか外務省の連中には参考にしてもらいたいね。

これで、子犬たちは一匹も殺されずにすんだ。万事めでたしめでたし、だったはずだ。

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襲撃訓練 2

2008年07月26日 | 
我が家を(あくまでドイツでの話しだということをお忘れなく!うっかり素晴らしい、田園調布の一等地に住んでいるのか、と思われても困る)取り巻く環境は、長々と書いた。

ようやく犬の話になる。犬を愛する人にとって、その散歩する環境を語ることは、なによりよい説明になるので書いた。

そもそも何を書こうと思ったのか?そうそう、シェパードの襲撃訓練について書こうと思っていたのだった。

たまが我が家に来て数週間経ったころ、ハンブルク中央からの帰路、町に入るところに林があり、そこに「シェパード犬協会」の看板があるのに気づいた。

この道はそれこそ毎日のように通るのだ、それでもシェパードを飼うまではまったく目に入らなかったと見える。画家がただただ対象を見ろ、というはずである。

シェパードの並外れた賢さに気づいて、気持ちも高揚していたせいだろうか、看板が目に入ったときには、それに従って林の間の道に入ってしまった。

少し奥まったところに、大きな掘っ立て小屋と広大な広場がある。広大といっても、今回の文章では日本基準で考えてください。そう、郊外の小学校の校庭くらいかな。もう少し広かったか。粗末だが芝生が張ってあった。

あとで聞いた話では、この施設はドイツ・シェパード協会のもので、誰でも無料で出入りできるらしかった。維持費はどうしていたのか、そういう自分に関心のない話題は、もしかしたら教えてくれたのかもしれないが、まったくわからないままである。今となってははっきり知って、日本の訓練関係のシステムと対照できたらよかった、と残念に思う。

その施設に訓練士とおぼしき人が数人いて、10頭あまりのシェパードが集まり、訓練をするのである。訓練は飼い主がじぶんひとりでする。訓練士はただ見ていて、特別なアドヴァイスを与えるわけでもない。見よう見まねといったところだ。

若い女性もいれば、爺さんもいる。爺さんの飼っている雄のシェパードは甘えん坊で可愛かったなあ。名前は何といったかしらん。

必ずやるのは、一列に並んで広場を一周だか二周だかすること。Fuss!(つけ!)と一声掛けて自分の左側につかせる。他の犬といさかいを起こすこともなく、どの犬も模範的に歩いている。爺さんの甘えん坊でさえ、ピシッと歩いている。

子犬は我が家のたまだけだったから、最初はなかなかうまくできない。全員が黙々と歩いているところへ先頭にいる僕の「Fuss!Fuss!」と叫ぶ声だけが聞こえて、家内は笑いをこらえるのに骨を折ったという。

若い女性と彼女のシェパードが、訓練試験前の練習をしているのに出くわしたことがある。書いていると、いや書いていなくてもその時の光景は鮮やかに蘇る。こうした訓練になると、きちんとした指導のもとに行われる。

訓練士扮するところの暴漢が、彼女を襲うという想定だった。物陰から男が襲い掛かるやいなや、シェパードが猛烈な勢いで男に噛み付く。犬は左腕に噛み付くように躾けられているのだ。屈強なドイツ人が、分厚い防具を装着してはいるが、間近で見るととてつもない迫力だ。

暴漢から自由になった女性が「やめ」と一声叫ぶと、今まで喰らいついていた犬がパッと離れる。しかし目は暴漢(善良な訓練士を暴漢、暴漢と呼ぶのも気がひける。キレイだ、キレイだというと女性は美しくなるというでしょう、暴漢、暴漢と連呼したらあの訓練士が暴漢になりはしないだろうか、心配だ)から一瞬たりともはなさない。

暴漢が隙を見て再び襲い掛かろうとしてピクリと動く、そのとたん牙をむいて激しく吠え立てる。四肢を踏ん張り、尻尾は興奮の極を示す角度だ。まあ普通の暴漢ならそこでひるんでしまうだろう。だがこの暴漢は筋金入りの暴漢なのである。そこでひるむわけにはいかないのだ。吠え立てるのを無視して女性のほうに近づく。「かかれ」の号令と同時に犬は再び男の左腕に跳び掛る。見ているほうがわくわくする光景だった。他人の、しかも相手は犬なのに、感情移入してしまってね。

シェパード好きには堪えられない。勇敢さと従順さ。一度喰らいついたら、振り回されようが、叩かれようが、絶対に離れない。

誤解されないように言っておきたいが、犬はこの一連の訓練を遊びとして、嬉々とした態度でこなすのである。たまは並外れて遊び好きで従順なシェパードだった。訓練士がちょっと性格を試すために遊んでくれ「この子はすごい、素質がある。集中力も抜きん出ている」と嬉しそうに言った。

高次の訓練を入れるのは、決して人を襲ったりすることにはつながらない。ドイツのように飼い主と犬の共同作業にしていけば、飼い主の言いつけに絶対的に服従する素晴らしい犬に育つ。それは、これまでにも書いたように、犬の幸せでもあり、飼い主の幸せでもある。地位関係がはっきりして、自分の力に自信があると、犬はむしろ落ち着いて穏やかになる。

僕はたまをそこまで訓練する、正確に言えば自分を訓練する時間を見出せず、このドイツ・シェパード協会の施設からは次第に足が遠のいてしまった。それは今でも残念なのである。あそこでなら本格的に習うことができたなあと思う。もちろん、一人ででもできる。そうやっている人も知っている。でも、自然な態度でお互いに学び合う環境だけはない。

ここで躾けのこつを学んだことは、とても幸運だった。高次訓練こそしなかったが、たまは模範的な犬に育った。日本で知り合った、今では有名な訓練士のひとりに数えられている人が「たまちゃんは特別でした。自分は何百頭もシェパードを見てきたけれど、あの子は他のシェパードとはまったくちがった」と言っていたそうである。

僕はパソコン操作に不慣れである。試しに一枚、そのころのたまの写真を入れてみる。どこに配置したらよいのか、だいいち配置位置をどうやって決定するのかも分からないが。




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襲撃訓練

2008年07月24日 | 
シェパードをひょんなことから飼い始めて早くも27,8年経つ。

ひょんなことについても、いずれ書いてみようと思っているのだが、きょうは他の事を。

飼い始めたのはドイツ時代のことで、昨日のことのように鮮明に覚えていることと、曖昧になっていることとが混在している。

僕はハンブルグの中心からから車で15分ほど走った町に住んでいた。日本の感覚でいえば、都会のまん真ん中に住んでいたように響くかもしれないが、さにあらず。

ドイツ人の友人知人は、「なぜあんな不便で遠いところに住むのだ」と言いたげであった。確かに車か、さもなければ電車で18分以外のアクセスがない。不便である。住んでいると、僕までがそういった感覚になっていくのだ。

ハンブルクの「片田舎」に住んでいたのは、僕がそこをいたく気に入っていたからだ。渡独した当初はハンゼン先生の近くに学生寮があり、そこに住んだ。

まもなく、東のほうにザクセンの森というビスマルクゆかりの森があると知って、ある日さっそく中央駅で乗り継いで終点まで行った。終点はもう森の中にできた村落といった風情である。

山が好きだったのは少し前に書いたが、森も好きだった。もしかすると僕の祖先は猿だったのかもしれない。

終点より3駅手前にまとまった感じの小さい町がある。そこから先、電車はただ緑の中を走る。僕はその小さな町に目をつけた。3ヵ月後に新聞広告で貸間を求めたところ、じつにうまい具合に、この町に住むお婆さんから申し出があった。僕は小躍りして見に行き、練習もできる環境だと確認してすぐに契約した。

僕にとっては申し分のない下宿だった。台所の窓からりんごの樹が見える。調理の真似事をしながらこの樹の緑色が目に入る。そうだ、この大根が煮えるまで散歩してこよう。数軒先は森の入り口なのである。

散歩をしていると、いつのまにか時間が経ち、はっと気づいて帰宅すると、大根は真っ黒になり、炭化していた。いったいいくつ鍋を駄目にしたか。僕専用の小さな台所の隅には、天井近くまで、使えなくなった鍋が積まれていた。

そういえば、この下宿で面白いことがあった。ある日、おばあさんがお茶に呼んでくれた。そして、一冊のアルバムを取り出してきて「ここには昔日本人が下宿していたのですよ」と、ひとりの日本人男性の写真を見せた。驚いたことに、それは高校のときの音楽の先生であった。そういえばある年にS先生は留学のためいなくなったのだった。なんという偶然か。以来、僕は世の中は狭いと思いながら生きている。どこでも徒歩圏という気分になる。いや、世の中は狭いとはそんなことではないですね。

前置きばかり長くなったが、この町は犬を飼うにはもってこいの環境であった。結婚してからは下宿を出て、それでもこの町を離れたくなくて、すっかり住みついてしまった。とにかく散歩の場所に事欠かない。当時は仕事に行くにも犬連れ、ということもあった。ハンブルクは緑が多い町である。大きな公園もあちこちにある。たまに外出先で、それらの公園で散歩をしようか、と思う。だが、家の近くの森に比べると、公園の広さなどたかが知れる。もっと広いところで散歩しよう、と考えるとつい帰宅してしまう。時間だけはその分遅くなって、結局あまり散歩できなかったりしたことも多い。今、その公園の写真を見ると、まあ広いこと。

グリム童話だったかな、漁師とひらめのお話があるね、捕らえたひらめが、逃がしてくれたら願いをかなえると約束する。最初はせめて小ぎれいな家をと望む。漁師が帰り着くとそこにはもう家が建っている。おかみさんもその家の中にいる。

そのうちおかみさんの望みはエスカレートして、女王になりたいとまで言い出し、そこまでは願いが叶う。しかし海は鉛色に荒れている。おかみさんがついに神様になりたいと言い、その願いを海に向かって叫んだところ、もとのボロ屋に住んでいた。

これと同じでね。もっと広い森で散歩を、と願ったあげく、日本のボロ屋に戻っていましたとさ。

どうも脱線ばかりだ。なかなか犬の話に行き着かない。続きは書き直します。



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刑務所

2008年07月08日 | 
まだ刑務所には入ったことがない。

入ったら静かな時間が持てるような気がしないではないが、どうやらきびしい資格が要るようだ。僕は今のところ資格を持っていない。第一、考えているような静かな環境なのか、そこがちょっと気にかかる。

アメリカの刑務所、といっても以前テレビで見た所だけかもしれないが、これは塀と看守さえ除けば、ヴィラ・なんとか、といった風情であった。あやうく憧れを持ちかけたほどだ。

これがなんと、凶悪犯専用の刑務所なのであった。なるほど、住人はたしかに、ここに入る資格は充分にある、と納得できるご面相なのだ。資格を取るには、ちょっとくらいの修行では足りない、と感じさせるものがある。

ここの服役囚の矯正に、シェパードが使われているのだ。といっても、悪いことをしたら尻を噛むとか、見張っていて怪しげな動作をしたら吠えるとかではない。

意外なことに、囚人は全員が一頭ずつシェパードを与えられて、各人がこの子たちを訓練するのだ。かなり本格的な訓練を入れるのである。囚人が警察犬を育てる、というのが笑える。このコンセプトは、まさかそういった洒落から出ているのではあるまいが。

しかし、囚人たちは大真面目にその訓練に取り組んでいる様子である。彼らは一日中自分のシェパードと寝起きを共にする。その様子だけを見ていると、刑務所、悪くないではないか、とふたたび憧れの念が生じてしまいそうだ。

刑務所犬たちは、自分の主人が極悪人だとも知らず(たぶんね。人間だけが智を持っているというのはもしかすると勝手な思い込みかもしれない。ホラホラ、またヘソクリなんかしちゃってさ、とかすべてを知っていたらどうしますか)服従して、訓練が終わると、日がな一日ご主人の横で、無邪気に甘えたり、居眠りしたりしている。

いいねえ。犬を伴侶にし始めた大昔の人は偉かった。やはり昔の犬も、こうやって全幅の信頼を人間に寄せていたのだろうか。

泣く子も黙るどころか、何人も人を殺したような男たちが、自分の犬相手には、あきらかに打って変わった、人間的な表情を見せて、愛しそうに撫でたりしている。人の心のどこにそうした情緒が隠れているのか知らないけれど、そんなことを詮索するよりも、ここはひとつ、それを囚人の更生に使ったアイデアをほめたい。

もっとも、テレビで紹介されていたのは終身刑の囚人だったような気もする。そうなると、更生目的というのは意味をなさないね。まあ、細かいことは抜きさ。

日本の刑務所のように、色々な作業をさせて、ちょっとした品物を作って売るのも悪くないが、こんな面白いアイデアを出せないものだろうか。

なにもオリジナルであることにこだわることもあるまい。アメリカの刑務所のやりかたを、そっくりそのままいただけばよいではないか。

日本では盲導犬も、災害救助犬も、麻薬犬も払底しているではないか。その理由は、おそらく訓練士の不足および予算の不足だろう。

その点、刑務所を使えば、コストもかからない。ノウハウが無ければ訓練できない、それに素人がそんな専門的なことをできるだろうか、モチベーションだって高いとは思えない。そう疑問を呈するする人もあろう。

心配は要らない。アメリカの囚人たちは、皆本気でやっていた。自分の犬が試験に合格するだろうかと、緊張している様子はウソではないと思う。モチベーションは不足しないさ。人間は、何かしら課題がないと不幸になる動物らしい。6億円のtotoが当たっても、それを元手に事業を始めてスッカラカンになる人が出るほどだもの。僕も当たったって音楽をやめないぞ、教えるのもやめないぞ。

素人には無理だというのならば、訓練士を派遣すればよい。その気になれば、方法はいくらでもある。

そういえば、囚人の更生に音楽をさせても良いかもしれない。練習時間がたっぷりあって、上手になるかもね。その時は教えに行っても良いな。すばらしいピアニストが出現したりしてね。

懸念はただひとつ。評論家や雑誌屋が「更生した人の美しい魂」だとか「渦巻く悪の情念」だとかレッテルを貼ることが必定だ。これは避けられまいなあ。
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