コンニャクがもらわれてやれやれと安心していた僕たちは甘かった。日本の「殺すなんてできない。せめてどこかの優しい人に拾われて欲しい」という自分勝手な「優しい方ありがとう、子猫ちゃん幸せにね、ずっと忘れないよ」病患者は僕が思ったよりはずっとずっと多いのであった。
アリスとテレスを見つけたのは公園の桜の木の根元だった。その横には熊笹の茂みが続いていた。小説家でもないのにそこの景観の描写を記したのにはわけがある。
そうだ、この時はたまのほかにもう一頭、ミケというシェパードも家族になっていた。(たまというシェパードがいるならミケもいるさ。なぜこちらはカタカナかというと、本名はミケランジェロなのだ。畏れ多いが)
ミケは常にたまにくっついて行動し、まるで見習いのようであった。この子は由緒正しい!血統で、母親は日本チャンピオン、父親は世界チャンピオン(だったかな)、書いているうちに我が家はボクサーの家系で、と思い込みそうだが、簡単に言ってしまえば、ふつう僕のような貧乏人には売ってくれない名犬なのであった。現に同腹の子は(これが見かけはミケに瓜二つだった)日本で2位になり、持ち主も何べんも替わった。
こうしたシェパードの世界について触れるのは今は控えておこう。要するに野良猫と真反対の世界なのに、○○様ご愛犬という肩書き(というのかね)欲しさに所有者が代わっていくように僕には見える、なんだか人間の勝手さだけが目立つ世界だ。
話を公園の熊笹の茂みに戻そうか。そこを通りかかったとき、どこから聞こえるのか分からぬほどか細い猫の声がした。
たまが笹の茂みに分け入り、ミケランジェロもそれに続いてとび込んだ。(と、本名で記すと滑稽でしょう、熱血漢ミケランジェロといったところだ。システィナ大聖堂の屋根から飛び降りていた、と書いてしまいそうだ)
たまは少しずつ後ずさりしながら茂みを抜けようとしている。その鼻先に子猫がいるらしい。道を案内するかのように振舞う。ちょっと鼻でつついたような動作をしては数センチ後退する。たまはそういった能力が自然に備わっていたと思う以外ない、一種独特なシェパードだった。僕たちがイライラするくらいゆっくりと出てくる。子猫の声が少しずつ近くなる。
たまがようやく茂みから出ると、鼻先にしがみつくようにして、ガリガリにやせ細った子猫も出てきた。毛も生えていないほどの衰え方である。たまは猫の体中を舐め、ミケは物珍しそうに傍で見ていた。
獣医に連れて行ったところ、衰弱が激しく、助かる公算は低いとのことだったが、スポイトでミルクを飲ませたり、大変な思いを続けた結果、なんとか一命を取り留めた。
元気になってよくよくみれば、この猫はめったにお目にかかれぬほど奇妙奇天烈なご面相なのである。どこから見てもタヌキだ。どんぐり眼でぼさぼさにおっ立った毛。里親探しが難航することが予想された。
たまが下の世話はしてくれたから、あとはミケに接し方を学ばせるだけでよい。写真のようにして、そっと接することを教え込むのである。穏やかな声で「お友達、可愛いねえ」と言いながら鼻先へ持っていく。好奇心から覗き込もうとするが、ほんの少しだけ、念のため距離を保つ。その時に「そっと、そっと」と声をかける。それを繰り返すと、自分からそっと近づくことを覚える。
そうそう、この子にも名前を付けなければならなかったのだが、捨て猫にうんざりしたこととこんにゃくという名前が気に入って、コンニャク2号とした。もっとも獣医ではこんにゃくちゃんと呼ばれたが。
ミケもあっという間に対応を覚えた。ミケはのちに並々ならぬ母性本能を発揮するようになるのだが、それはこの時期の経験があったからだと僕は信じている。本能というからには生来のものだと言われるけれどどうだろう。こういった生物学的常識も、もういちど疑ってかかってみたら良いとさえ思う。
写真をこまめに撮る習慣がないので、2頭のシェパードと子猫の画像がなくて残念だ。あとで見て懐かしく思うのが嫌いなのである。
コンニャク2号は、予想通りなかなか貰い手が付かず、当時教えていた大学の学生が欲しいといってくれたときには、地獄で仏の心境であった。
アリスとテレスを見つけたのは公園の桜の木の根元だった。その横には熊笹の茂みが続いていた。小説家でもないのにそこの景観の描写を記したのにはわけがある。
そうだ、この時はたまのほかにもう一頭、ミケというシェパードも家族になっていた。(たまというシェパードがいるならミケもいるさ。なぜこちらはカタカナかというと、本名はミケランジェロなのだ。畏れ多いが)
ミケは常にたまにくっついて行動し、まるで見習いのようであった。この子は由緒正しい!血統で、母親は日本チャンピオン、父親は世界チャンピオン(だったかな)、書いているうちに我が家はボクサーの家系で、と思い込みそうだが、簡単に言ってしまえば、ふつう僕のような貧乏人には売ってくれない名犬なのであった。現に同腹の子は(これが見かけはミケに瓜二つだった)日本で2位になり、持ち主も何べんも替わった。
こうしたシェパードの世界について触れるのは今は控えておこう。要するに野良猫と真反対の世界なのに、○○様ご愛犬という肩書き(というのかね)欲しさに所有者が代わっていくように僕には見える、なんだか人間の勝手さだけが目立つ世界だ。
話を公園の熊笹の茂みに戻そうか。そこを通りかかったとき、どこから聞こえるのか分からぬほどか細い猫の声がした。
たまが笹の茂みに分け入り、ミケランジェロもそれに続いてとび込んだ。(と、本名で記すと滑稽でしょう、熱血漢ミケランジェロといったところだ。システィナ大聖堂の屋根から飛び降りていた、と書いてしまいそうだ)
たまは少しずつ後ずさりしながら茂みを抜けようとしている。その鼻先に子猫がいるらしい。道を案内するかのように振舞う。ちょっと鼻でつついたような動作をしては数センチ後退する。たまはそういった能力が自然に備わっていたと思う以外ない、一種独特なシェパードだった。僕たちがイライラするくらいゆっくりと出てくる。子猫の声が少しずつ近くなる。
たまがようやく茂みから出ると、鼻先にしがみつくようにして、ガリガリにやせ細った子猫も出てきた。毛も生えていないほどの衰え方である。たまは猫の体中を舐め、ミケは物珍しそうに傍で見ていた。
獣医に連れて行ったところ、衰弱が激しく、助かる公算は低いとのことだったが、スポイトでミルクを飲ませたり、大変な思いを続けた結果、なんとか一命を取り留めた。
元気になってよくよくみれば、この猫はめったにお目にかかれぬほど奇妙奇天烈なご面相なのである。どこから見てもタヌキだ。どんぐり眼でぼさぼさにおっ立った毛。里親探しが難航することが予想された。
たまが下の世話はしてくれたから、あとはミケに接し方を学ばせるだけでよい。写真のようにして、そっと接することを教え込むのである。穏やかな声で「お友達、可愛いねえ」と言いながら鼻先へ持っていく。好奇心から覗き込もうとするが、ほんの少しだけ、念のため距離を保つ。その時に「そっと、そっと」と声をかける。それを繰り返すと、自分からそっと近づくことを覚える。
そうそう、この子にも名前を付けなければならなかったのだが、捨て猫にうんざりしたこととこんにゃくという名前が気に入って、コンニャク2号とした。もっとも獣医ではこんにゃくちゃんと呼ばれたが。
ミケもあっという間に対応を覚えた。ミケはのちに並々ならぬ母性本能を発揮するようになるのだが、それはこの時期の経験があったからだと僕は信じている。本能というからには生来のものだと言われるけれどどうだろう。こういった生物学的常識も、もういちど疑ってかかってみたら良いとさえ思う。
写真をこまめに撮る習慣がないので、2頭のシェパードと子猫の画像がなくて残念だ。あとで見て懐かしく思うのが嫌いなのである。
コンニャク2号は、予想通りなかなか貰い手が付かず、当時教えていた大学の学生が欲しいといってくれたときには、地獄で仏の心境であった。