パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

尖閣問題やらなにやらあれこれ

2012-09-22 22:09:42 | Weblog
 石原都知事が尖閣諸島の地主になるより、我が民主党政府が保有した方がより穏健に事を運びますよと中国政府に言ったのに理解してくれなかったと玄葉外相が発言したとニュースで聞いて、なんと言う脳天気、とあきれたのだったが、朝日新聞の特集記事によると、実際に中国政府筋は、右翼の石原都知事が尖閣諸島を所有することに危機感を持っていて、水面下でそれを阻止するように働きかけがあったと書かれていた。

 記述が曖昧なので、「事実」がどうなっているか記事ではわからないが、石原都知事は右翼的で危険だが,自分たちはよりリベラルであり、したがって、交渉相手としては石原都知事よりも民主党政府が好ましいと中国側が認識していると朝日新聞および民主党政府が思っていたことは確かで、私はその民主党政府と朝日新聞(マスコミ)の「脳天気さ」が腹立たしい。

 それはさて、池上彰がニュース解説番組で、アメリカが、尖閣諸島の日中いずれに属するかについては曖昧に口を濁しているのに、日米安保の範囲内であると明言する、見方によっては「矛盾」とも思える態度をとっていることについて、「日本がしっかり管理していれば、いざ中国海軍が攻め寄せるような事態になったら,即、日米安保を発動させますよ、という意味だと思われます」と解説していたが、これまた脳天気。

 そもそも日米安保は日本を守るための条約なんかではない。

 日米安全保障条約とは、もちろんその対象に日本国も含まれるけれど、実際には,それより遥かに広い地域、極東アジアから南アジア、さらには中近東にいたる地域の「安全保障」のために日本におけるアメリカ軍の基地を利用する権利について日本政府と結んだ条約で、それが七〇年の安保改定だったのだ(改訂時に「中近東」は入っていなかったかもしれないが)。

 私は若い頃、七〇年安保改定反対のデモにわけがわからないまま参加した一人だけれど,もし、上記のような改定内容を知っていたら、はっきり言って賛成しただろうと思う。(私はエゴイズムが嫌いなのだ)

 それはさておき、尖閣諸島が日中いずれの帰属になるとしてもアメリカ政府は関わらないが、日米安保の対象であるというのは、尖閣諸島がどの国に帰属するにせよ、結果としてアメリカの安全保障を脅かすような事態に立ち至った場合には日米安保を発動させるという意思表示なのだ。

 この問題を巡って国連総会でもやりとりがあって、日本代表は「中国の言い分は論理的でない」と批判したが、これに「反論権」を行使した中国代表は「敗戦国が、戦争で失った権利を回復させようとしている」と日本を非難したが、この非難のバックグラウンドには日本の大陸侵略という厳然とした事実がある。

 この問題が、戦後60年以上経っているのに依然として解決されていないことが、中国そして韓国の今後の切り札になってくるであろうことを思うと、小泉が総理大臣を辞める一年ほど前、インドネシアのバンドンで行われた国際会議と,その前後にニューヨークでブッシュ大統領と面会した際に、前次大戦における日本の戦争責任問題に触れた発言を思い出す。

 これは誰一人触れていないのだけれど、ブッシュと小泉は、「日本を含む,当時の先進諸国すべてが負うべき責任」と言ったのだ。

 要するに、第二次大戦の数千万人に及ぶ死者の責任は、敗戦国だけでなく、戦勝国を含めてあるという趣旨だ。

 実際、戦争で死んだ死者の責任がすべて敗戦国にあるなんて、変な話で、戦勝国にだってその責任の一端はあるのだ。

 そこまでブッシュが踏み込んで発言していたかどうか、それはよく覚えていないのだが、ともかく「戦争の責任は近代の責任」のようなニュアンスの発言であったと記憶している。

 それで私は「あ、この方法があったのだ」と驚き、バンドン会議でも似た発言を小泉がしたので、当時勢いを増していた保守層に、「戦争責任は総じて言えば近代の責任」とする見方が浸透、定着することを期待したのだが、実際にはその1、2ヶ月後、櫻井良子を中心に「慰安婦問題は事実誤認」という意見広告がニューヨークタイムスに掲載され、私の期待的予想は見事に裏切られたのだった。

 もうあれから、7、8年経っていると思うが、一昨日だったか、テレビにで出てきた櫻井良子は相変わらず、吉田清治という元軍人が済州島で慰安婦狩りをしたと証言したがそれは嘘だと判明してる云々と「事実誤認」ばかり言っていた。

 殺人事件が起こると「オレがやった」という自称犯人が多数現れることは普通のことだし、そんなことより、「じゃあ、事実だったら謝るのか、そのときはどんな条件を考えているのか」と、多分考えていないだろうが,櫻井良子には聞いてみたい。

 話がそれるが,昨日「朝生」で、また原発問題をやっていて、そこで池田信夫先生がまたまた、「事実=数字」を強調していた。

 この「事実」に対するこだわりは、本来悪いことではないのだけれど,いつも通り、釈然とせずに聞いていると、吉岡斉氏が、「私はもともと理科系の人間で、学生時代から数字を扱っているので、数字が嘘をつくことをよくわかっています」と言った。

 さーて、池田信夫先生はどう反応するかと思っていたら、吉岡氏の発言が理解できなかったのか、はたまた聞いていなかったのかわからないが、ますますヒステリックに「数字が大事なんですよ。数字が示すところに従うべきで,それ以外は感情論」とヒートアップしていた。

 その数日前、NHKのEテレで、チェルノブイリの近くで、いったん避難して他所に引っ越したものの,なじめず、故郷に戻って生活を再開した老夫婦が紹介されていたが、「覚悟を決めた」というか、心理的にすっかり落ち着き、チェルノブイリ事故を経ることで「幸福」を得た、という感じだった。

 ロシアの片田舎の地主夫婦の晩年を描いた、素晴らしいゴーゴリの小説があるけれど、それを想起した。

 もちろん、チェルノブイリの事故はあった方がよかったなんて言っているのではない。

 「数字」を問題にしても、必ず水掛け論になるので、問題は、どうすれば幸福に生きることができるかで,そのためには、フクシマの被災者に一切の医療を無料で提供する特別保険証のような特権を与えればいいのだと思う。

 やろうと思えばすぐにできるはず。

 そういうことはたくさんある。

 先週、立命館大学の小泉義之教授にインタビューしてきたのだが,小泉教授は、公団住宅を開放すれば、すぐにでも貧乏人が貧乏のまま幸せに暮らせる状況がつくれるのに、つくろうとしないのは、貧乏人が集まると不穏になると思っているからだと話していたが、そういうことだと思う。


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