パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

いじめ再考

2012-09-06 01:10:29 | Weblog
 「いじめ」問題がまた再燃している。

 「いじめ」は、世界中どこでも、大昔からあることで、撲滅はできないし、撲滅したらしたで、みんな善意だらけの世の中は、「いじめ」が蔓延している世の中より、もっと嫌なものだ、というのは天邪鬼な私だけか。

 しかし、いじめを原因とする自殺は問題が別だ、という人もいるだろう。

 自殺だけはなんとか防がねばならないと。

 それは賛成なのだけれど、いじめを受けて自殺するのが子供、若者の場合、ちょっと事情が異なる。

 自殺そのものがそうなのだけれど、若者の自殺と大人の自殺は、まったく異なる。

 大人の自殺は、たとえば借金や健康問題が大半で、自殺をすれば問題は、ある意味「解決」する。

 それは、自殺者の死体を見れば明らかなんだそうで、大人の自殺死体は「ためらい傷」がほとんどないという。

 失敗したらまた借金取りに追いかけられるのだから、ためらい傷はない。

 もちろんためらった跡が全然ないということはないだろうけど、若者の自殺死体に比べると、明らかに少ないと、自殺の研究の本に書いてあった。

 では、若者の場合はどうなのか?

 子供、若者の場合、自分の意思を世間に訴えるという意味合いが強くなる。

 世間への不満、自分への不満が根底にあって、自分を抹殺するという気持ちはない。

 いじめを受けた子供の自殺はなおさらで、その目的は、いじめた相手に仕返しするために自殺するのだ。

 実際、いじめに「自殺」で反撃するというのは結構有効で、今回の滋賀県のケースでも、加害者は相当なダメージを受けているはずだ。(いじめの代償として、しょうがないという意見もあるだろうが、それはあまりまじめな意見とは思わない。)

 ともかく、いじめの自殺は「報復」としての自殺であって、だからこそいじめ自殺は防がねばならないのだが、だとしたら、あまり派手に報道しないようにというコンセンサスが富士見中学事件で、ある程度できたと思っていたのだが、それはまったく忘れ去られたようだ。

 「尾木ママ」が何を言っているのか、知らないが、あの人は結構影響力がありそうだな野で、いじめの自殺は、いじめに耐えられなくて自殺したのではなく、報復の自殺なのだということをぜひ言ってほしい。

 これは、富士見中学事件の結論であったはずだ。

 それに関連して、都内のどこかの教育委員会が、「最後の最後の最後の手段」として、いじめ加害者の出席停止をためらわあない言ったそうで、NHKが大々的に報道していたが、「出席停止」は最後の手段、伝家の宝刀なんかではないだろう。

 むしろ「出席停止」は、いじめの実態が明らかになったら、まず第一にやるべきことだと思う。

 最近、糖尿病などの治療で、従来、最終手段を思われていたインスリン注射を治療の最初に使うことが有効であることがわかったのだそうだが、それと同じだ。

 大体、「最後の最後の最後の手段」、「伝家の宝刀」というけれど、「伝家の宝刀」を抜いて、問題は解決するのか?

 まったく解決なんかしない。

 そんなことは、想像力を働かせればすぐわかるはずだ。

 インスリンを治療のはじめに使う方法を考えたのは外国の研究者で、日本はずっと遅れて、遅れた分、普及もしていない。

 こんなことばっかりだ。

 シャープがピンチだそうで、ニュースを見ていたら、コピー機製造から撤退すると言っていて、「えええ?」と思った。

 シャープって、コピー機をまだつくっていたんだ!

 じゃあ、なんでまだつくっていたのか?

 それをぜんぜんどこも分析していないが、これは私の想像だが、シャープ社内のコピー機製造部門を維持するためだったのではないかと思う。

 すべてそうだ。

 従業員のために会社をがあるというコンセンサスがあるので、致命傷になるまで身動きがとれない、というかとらない。

 しかし、会社=生産者より、消費者のことをまず考えるべきだ。

 というのは、私が消費者だからだが、生産者だって消費者のはず。

 では、どっちが根本かというと、生産者が職を失っても、生きていかねばならないのだから、消費が根本であるはず。

 それで、農産業品のように内外価格差がある場合、多くの国では、安い外国製品に対処するのに、関税で消費価格を上げるのではなく、関税ゼロで消費価格を安くし、国内の農家(生産者)には、税金で所得保障するというのが普通の方法になっている。

 もちろん、このやり方は矛盾を抱えているが、大事なのは生活(消費)であって、それを継続的に維持するためにいろいろ工夫がなされるに違いない。

 生産者保護、従業員保護では、そのようなモチベーションが働く余地はなく、まったく事態は変わらないだろう。

 ギリシャやスペインのことをなんのかんの言うけれど、またそういう目線で報道しているので、実態は日本に伝わっていないが、どっちが幸福かと言ったら、ギリシャ、スペインだと思う。

 最近、新宿にも川口にも外国人が依然多く、一月ほど前には、落とした鉛筆を黒い顔の人が拾って渡してくれたが、だからというわけではないが、彼らのほうが、生きる根本を心得ているような気がしてならない。(一万円貸して、と言って、そのまま消えた奴もいたが。)

 最後、話が飛んでしまったが、森有三という哲学者が、日本に来た外国人の多くが「日本人には何か根本的なものが欠けている」と言ったと書いているのだそうだが、「根本的なもの」とは第三者のことだと森は言っている。

 つまり日本人は、私と関係ない第三者を、「私とあなた」の2項関係に還元しようとするがので、町の中で会う見知らぬ人は見知らぬ人のままの関係でしかない。

これでは「仲間からなる共同体」はできても、「第3者同士からなる社会」はできない。

 それが「社会の根本が欠けている」あという評言になるわけだ。

 去年から言われている「絆」は、私には、第三者を第三者としてつなごうというのではなく、第三者を第三者ならぬ仲間としてつなごうとしているように思えてならないのだが、この問題はまた後で。