パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

あなたと私、または3の悲劇

2012-02-21 23:58:22 | Weblog
 風邪をひいてしまった。

 といっても、寝込んだりしたわけではない、ただやたらに喉が痛い。

 これは昔からの私の風邪の特徴で……てことはないか。

 誰でも風邪を引けば、喉が痛くなる。

 でも今回は、ひょっとしたらインフルエンザかも、と思ったのだが、ネットで調べると、インフルエンザの症状は風邪とよく似ているが、突然、発症するという。

 風邪はそうではないく、風邪っぽい症状がなんとなく続くんだそうだ。

 そういえば、私も10日くらい前から、なんとなく寒気がしたり、くしゃみをしたり、のどが少し痛いなとか、要するに「風邪の症状」に気づいてはいたのだが、大した手当をするでもなく、過ごしているうちに、2、3日前からぐんと喉の痛みが襲ってきたのだった。

 写真家の石元先生、御年90歳が、先日亡くなったが、インフルエンザだったんだそうで、え、インフルエンザだったらやばいなと思ったのだが、でも、90歳では風邪でもヤバい。

 ともかく、その「風邪」も一昨日あたりが症状のピークであったらしく、喉の痛みはほぼなくなった。

 それはともかく、ネットによると、風邪とは呼吸器官に生じる炎症なんだそうだ。

 なるほど、私は昔から「風邪小僧」と言われるくらい、風邪ひきだったのだが、「呼吸器官に生じる炎症」は、実に実感に即した命名である。

 なんだか、また前置きが長くなってしまったが、書きたかったのは、さいたま市の「三人餓死事件」。

 人当たりは大変に良いご老人(父親)で、息子は数年前まで自動車で通勤していたそうだが、最近は金に困り、近所に金を貸してくれと、奥さんが言ったりしていたそうだが、「生活保護申請のための民生委員を紹介する」というと、それは嫌だと断ったとか。

 それでわかったことは、秋田の大館市の出身、さいたま市には住民登録もしていなかったそう。

 それで生活保護を忌避したかどうかわからないが、多少、謎はあるようだが、この世界に冠たる近代国家、ニッポンにおいて、餓死者がこうも頻繁に起こるとはどういうことなのか。

 「どこの国でも同じようなことは起きているのだろう」と言う人もいるかもしれないが、果たしてそうなのだろうか。

 「格差」大国のアメリカでこんな「餓死事件」は報じられたことがあるだろうか?

 例外的に、条件が重なって、そうなったというケースはあるかもしれない。

 スエーデンで、雪に閉じ込められたのに、「冬眠状態」で助かったとか。

 これは「助かった例」だが、もしかしたら、「餓死」していたかもしれない。

 しかし、それはあくまでも「例外」で、日本の場合、「例外ではない」ように思えるのが問題なのだ。

 さらに言えば、そう「思う」のが私だけではないと思う。

 これは、要するに、日本という社会はどこか、おかしいということなのだ。

 昔、明治維新の日本政府の急進派の一人、森有礼の孫の哲学者、森有正は、日本を、「私」と「あなた」の2項関係からなる社会だと言った。

 2項関係とは、もし「私」が、「あなた」と言ったとしたら、「あなた」もまた、私を「あなた」と言うだろう。

 これが2項関係だが、それを成り立たせているのは、実は「言葉」である。

 「言葉」が、2項関係を「社会」にまで引き上げているのだけれど、この「言葉」は、実は、父親的な力を象徴している。

 一方、2項関係を成り立たせている「あなた」は、もとはといえば、母親という鏡に写し出された「私」である。

 ナルシスの神話は、この2項関係の「恋着」と「慰安」のなかに安らごうとする内閉的傾向が、「第三者(父親)」が2項関係のなかに持ち込もうとする「苦悩」から逃避しようとして陥った悲劇である。
 
 とこれは、ジャック・ラカンの説だ。
 
 さて、ここで「三人餓死問題」に戻るが、というか、もっと問題を広げれば、例えば、日本では殺人事件が少ないという。

 実際には、そんなに極端に少ないわけではなく、それなりの数の殺人事件が起きているのだが、ただ、起きているところがほとんどの場合、家族関係のいざこざで、起きているので、その家族とは関係のない人たち(でも、そう思っている人たちも、実は……ということもあるのだが)は、安全な日常を送ることができているというだけなのだ。

 本当は、犯罪が頻繁に起きていることが、社会を「よりよい」方向へ向かわせる力となるのだが、「家族同士の殺し合い」は、その人たちだけで済んでしまう。

 警察官僚どもは、いや、マスコミも皆、「日本は安全」と繰り返すが、実情を世界の人に訴えたら、皆、愕然とするだろう。

 官僚の発想から言うと、第3者に被害を及ばさない「家族間殺人」は、「実害はない」という判断になるかもしれないが、でも、日本では、すべてが2項関係で処理され、「第3者」がいないのだ。

 森有正は、このことを、「日本社会には何か根本的なものが欠けている」と表現している。

 森有正は熱心なクリスチャンなので、つまるところ、この「根本的なもの」は「神」ということになるのだが、「第3者」でも同じなのだ。

 「3」と言えば、日本では3万人近い人が死んだが、その少し前、ハイチの地震では30万人死んでいる。

 それで、東京オリンピック招致のキャッチフレーズ「震災復興」は、対外的には全然キャッチーではないので、「震災復興」は「国内向け」のスローガンなんだそうだ。

 なんてお粗末な国なんだろう、日本は。

 ただ「恋着」と「慰安」のなかに安らぐことを望み、第三者がもたらす「苦悩」から逃げ回っているだけ。

 特に大震災以降の日本は……。

 うーん、でも、世界はその「日本」になりつつある、という人も結構いる。

 コジェーブなどの、スーパー知識人がそうだし、ケネディがキッシンジャーとかガルブレイスとかの知識人を集めて「戦争のない世界」をつくるにはどうしたらよいかという問題を討議させた結論も「江戸時代の日本」だったんだそうだ。

 最近、東浩紀あたりが、ポストモダンの復活のようなかたちで、この手の議論を起こしているようなので、書いてみた。

 しかし、江戸時代の日本文化というのは、家元制度が典型だが、完全な形式主義で、内容を欠いている。

 たとえば、今、日本では誰も彼もがマスクをしている。

 あれはたぶん、インフルエンザ防止なんだろうが、でもマスクでインフルエンザが防げるわけがない。

 でも、多くの人がマスクをしている。

 これは、「どうせカタチだけですから」ということで、医者もあえて「あんなの無駄」とは言わない。

 つまり、マスクは二項関係の象徴みたいなもんだ。

 こうして社会の「形式」は、内容を欠いても、保たれることになる。

 餓死した三人は、そういう「カタチ」だけの生活保護申請ができなかった人たちだったのかもしれない。

 あるいは、「助けて」という「言葉」は、目の前の「あなた」ではなく、第三者に向けて言う言葉なのだが、それが言えなかったのかもしれない。

 何故なら「あなた」を前にしたら、その「あなた」は、実は「自分」なんだから、「大丈夫」って言わざるを得ない。

 これがナルシシズムの悲劇なんだ。

 合掌。