パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

チョコレート

2010-10-26 18:14:19 | Weblog
 「チョコレート」という映画を見る。

 「24」とチャンネルを行き来しながら見るというメチャクチャな見方だったので、内容をあまりしっかりと把握しているわけではないが、最初、どういう映画なのかわからず、若干とまどったが、そのうち、あ、これはラブストーリーなのかと思ったら、まさにそうだった。

 しかも、非白人として史上初めてアカデミー主演女優賞を取った作品だと後でわかった。

 なるほどねー。

 私は、よくできたB級映画という感じで見ていて、「こういうのが人知れずつくられているというのが、アメリカ映画の底力なのかなあ」と思っていたのだが、豈図らんや、アカデミー主演女優賞のみならず、いろんな映画祭で賞を取った作品だったのだった。

 「チョコレート」というあんまりなタイトルと、日本語吹き替えが芳しくなかったこともあって、そんな勘違いをしたのかもしれないが、いい映画でした。

 「ハリウッド脚本術」には、出だしの5分で伝えたい中身を伝えないと観客に見放されるとか書いてあるが、この映画なんかは、最後まで見ないとどんな映画だかわからない。

 でも、本当はそういうのがいい映画なのだ。

 「阿Q正伝」なんか、主人公の阿Qは、最後に自分が死刑になっても、そのことがわからない。

 これではさすがに映画に出できないだろうが…でも、できればそれこそ最高なんだろう。

ドキドキした

2010-10-26 16:55:46 | Weblog
 すっかり間が空いてしまったが…西原理恵子の元旦那をはじめ、最近、写真家がテレビに登場することが多いように思う。

 写真家たちが、どこかに旅に出かけ、風景だの人物だのをカメラに収めるところをテレビカメラが撮るというかたちが大半だ。

 写真家たちが撮った写真は、スチールとして、インサートされるわけだが、これはおまけ。

 というか、文章の最後の「。」みたいなもの。

 モーニング娘。の「。」…とは全然違うか。

 こういう写真家のあり方の元祖が、荒木経維氏なんだろうが、そのアラーキーが癌にかかって、その後の有様をNHKでドキュメント風に構成していた。

 私はアラーキー(「アラーキー」って書くのは、漢字変換が面倒くさいからだ。念のため)の写真を見ていると、息が詰まる。

 何故って、そこには「死」しか写っていないから。

 とてもとても見てられない。

 見れるとしたら、その「死」が、ストーリー化されている時だけ。

 「センチメンタルジャーニー」とか、「愛しのチロ」とかだ。

 そのアラーキーが癌にかかって、でもやっぱりカメラをもって町を歩く、その様子をテレビカメラが追う。

 いい加減、カメラなんて小道具は捨てて、ズボンのポケットに手を突っ込んだままそぞろ歩きしているアラーキーを写せばいいのにと思った。

 「もうカメラなんていらんのよ、アタシには」とかうそぶきながら。

 おしゃれだし、それだけで充分に絵になる。

 そもそも、この手の番組を見てつくづく思うのだが、テレビカメラの映像の方が断然かっこいいのだ。

 特に数年前に、手ぶれを起こさない移動撮影装置が開発されてからは、流麗なカメラワークのかっこよさに拍車がかかった。

 そのかっこよさを背景に、写真家がかっこよくカメラを構えているのだが、写真家自身はそんな役割を振られて「かっこ悪い」と思わないのかな、と老婆心で思ってしまう。 
 
 でも、私がテレビディレクターだったとしたら、やっぱりカメラを持たせざるを得ないかな、と思ってしまう。

 「間」が持たない。

 しかし、荒木経維だったら、間が持つ。

 椅子に座っている荒木経維が、自分を映しているテレビカメラをじっと見ながら、突然、「それ、音がはいっているの?」と訊く場面があったが、あれは迫力があった。

 じっとテレビカメラを見ている荒木経維を見ていたら、何を言いだすのかとドキドキしてしまった。