パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

貧乏は正しい

2010-04-29 14:11:55 | Weblog
昨日、テレビニュースの画面に、検察庁の廊下かどこだろうが、小沢不起訴に関する告発の件の公示書のようなものが貼り出されていて、そこに告発者として「甲」と書いてあった。

もちろんどこかに「甲=在日外国人の特権を許さぬ会」と但し書きがあるんだろうが…。

いや、本当のところはわからないのだが。

しかし、小沢擁護に回っている連中の誰一人として告発者が誰なのかに言及しないのはなぜか。

はっきり言って、「バカ」じゃないのかと思う。

「仕分け」の対象にあがった元住宅公団について、どこかの民間シンクタンクの研究員のようなのが解説に出てきて、住宅公団の設立趣旨が、戦後復興機に当たり、「主に東京の住宅不足解消のため」というのは正しく、その目的を達したら速やかに組織を解消すべきだったが、高級マンションを供給することで生き残りをはかり、しかもその家賃が民間より1割ほど高いので、世間から「民業圧迫」の非難を受け云々と話していたが、相場より家賃が高ければ、誰も借りないだけの話で、「民業圧迫」なんかにはならないのじゃないのか?

品川の旧国鉄操車場跡の売却の際にも、数兆円という高値がついたことに、マスコミは一斉に、「土地価格高騰に拍車をかける」といって猛反対の論陣を張り、結局1兆円か、少しそれを割る価格で、たしか台湾の財閥が落札したと記憶しているが、これも不思議な話だ。

土地価格が上がるというのは、バブルであろうがなかろうが、基本的に需要(それが怪しげな動機によるものであれ)が供給を上回っているからで、なすべきことは、供給を増やす、たとえば、高層化を進めるとかで対処すべきだったんじゃないのか?

そもそも、住宅公団の設立目的が「住宅不足解消」というのもなんか曖昧である。

東京の住宅不足は主に地方から流入してくる人々が原因で、その人たちの多くは、低所得たらざるを得なかったわけだから、ここは、「低所得者向けの住宅不足解消」とはっきりすべきだったのじゃないか。

住宅公団立当初、というか、その後もかなり長期間にわたり、住宅公団のアパートは民間アパートよりも格安でファミリータイプの部屋が借りれるということで、倍率が数百倍もあった。

ほとんど「宝くじ」。

これで、「住宅不足解消」につながるのか?

実際問題、例えば2万円くらいで2DK風呂付きが公団住宅の標準だったとすると、同じ家賃で民間アパートを借りるとすると、せいぜい2K風呂なしくらいしか借りることができない。2DK風呂付きだったら、倍の5万円くらいはする。

具体的金額はともかく、それで、数百倍という倍率になった訳だが、これこそまさに「民業圧迫」じゃないのか?

一方、2万円だったら払えるという理由で申し込み、落選した膨大な「貧乏人」は民間の劣悪な部屋を借りるしかない。

結果、公団住宅は皆の憧れの的、民間アパートは貧乏人が住むものという図式が出来上がってしまった。

これが私の若い頃の話だが、その後、住宅公団はその目的を終えたと言われるようになった。

しかし、いったい、その「目的」とは何だったのか。

普通、公的資金を投入して住宅を用意するとしたら、それは「低所得者向け」だろう。

しかし、住宅公団の目的はそこにはなかった。

当時、マスコミではしきりに「一億総中流化」と言う言葉が叫ばれたのだが、この言葉を作ったのはマスコミじゃない。

「役人」なんだ。

これは、その頃の、そして多分今でも同じだと思うが、日本の官僚が目指しているのは、「貧乏をなくす」ことで、「貧乏に対処」することじゃないのだ。

 それが、「一億総中流化」だ。

「貧乏人をなくせば、貧乏対策」なんか必要ない。あっても、ごく少ない予算で済むだろう。

これが、戦後日本の官僚の基本精神で、察するに、今も、変わっていない。

最終的には、「貧乏をなくす」というのは、いかにも崇高な目的かもしれないが(私はそうは思わないけれどね、「貧乏は正しい」by橋本治なのだ)、現実には、いかに「貧乏に対処」するかが求められている。

この発想の転換が、今、絶対に必要なのだが、誰も、そのことに気づいていないのが問題なのだ。