パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「ず」と「づ」

2008-01-19 21:52:10 | Weblog
 新宿への引っ越し準備のために、本棚の本を段ボールに詰め込み始めたが、つい、立ち読みしてしまう。
 その立ち読みで、言語学者の大野晋と文芸評論家の荒正人、評論家の梅棹忠夫の三人の座談会を読み、笑ってしまった。テーマは、文部省による漢字規制は是か非かというものだが、結論的には3人とも役人がこの漢字は使ってよい、あれはダメとか、送り仮名のもんだいとかを決めるのはナンセンスだということでは一致しているのだが、呉越同舟というか、話が進むと全然噛み合なくなる。

 たとえば、荒正人の場合で言うと、
 荒「官僚が拙速で決めることはないのです。もっと長い目で見なければ」
 大野「その通りです」
 荒「日本に漢字が入ってきてから1500年。だったら、今後1000年、いや、3000年、いや、1万年を見なければなりません。」
 大野「あ、いや、ちょっとそれは…」

 といった感じ。大野氏によると、お役人は、たとえば、「づ」か「ず」か、という問題一つをとってみても、「づ」と「ず」の使い分けには、必ず一般法則があって、したがって、その法則を見いだし、それに則った政令を作ればいい、といったイメージでやっているようであるが、実際にはそれは無理で、判断がつきかねる例が必ず出てくる。つまり、ひとつひとつ「しらみつぶし」にやるしかないのであって、それは、まさに「今」の積み重ねで解決するしかない問題だという。
 つまり、大野氏の言う「長い目」とは、「今」の積み重ねが、結果的に「長い時間」になる、という意味なのだが、一方、荒正人氏の「長い目」は、いきなり数千年単位に話が飛んでしまう。「今」がない。こんなんで、よくまあ、文芸評論家をやってられたもんだと思うけれど、まあ、荒氏は、純文学の研究者、評論家のくせに(?)UFO宇宙人説に入れ込んでいたことで有名な人で、数千年,数万年、いや何兆光年なんて時間を平気で口にしちゃう人ではあったのだが、本職に弊害が及んでいたのだな。民主党も、いつか「弊害」が来るぞ!って、とっくに来てるか。

 ところで、梅棹氏の場合は、西洋のアルファベットの場合は全部で26文字だが、日本(もちろん、中国もということになるが)の場合は漢字が数多くある。したがって、欧米では印刷のコンピュータ化に有利だが、日本は決定的に不利だ、なんとかしなければならない、というのだが、でも、氏は漢字廃止論者ではないらしく、技術開発に総力を挙げれば、漢字をコンピュータにのせることもできるだろうと言う。じゃあ、それでいいじゃないか。実際に、日本語入力(どころか、さらに困難なはずの中国語入力も)は、機械,ソフトの発達でお茶の子さいさいになったわけだが、梅棹氏は言う。「問題はコストなんです。技術は進むでしょう。でも、コストが高かったらなんの意味もない」。

 はい、おっしゃる通りなんですが、でもその「コスト」も、まさに劇的に下がったわけで…。もっともこの本が発行された頃(昭和55年くらい)に読んでいたら、梅棹氏の意見に賛成していたかどうか…う~ん、よくわからないが、いかにも、「俺は科学的、合理的思考ができるんだ」といった、ニュアンスが感じられる。

 それはともかく、「ず」と「づ」の使い分けだが、数年前に、「原則すべて《ず》にする」と「結論」とも言えぬ「結論」が出たと思う。しかし、明瞭に「ず」であるべき場合は、あんたに言われなくとも、誰もがわかるんだよ!と言いたい。天気予報と同じで、「わからない」場合にどうするか、なんだ、問題は。
 例えば、「ず」も「づ」も、「原則すべて《ず》」というのなら、全部、Z+Uでいいかと思い、パソコンでそう入力しても、場合によっては、D+Uでないとダメだったりする。これは、ソフト制作者の責任ではない。じゃあ、「原則」を取っ払って、「すべて《ず》でいけ!」、と命令しても、それはできないだろう。できないものはできない。大野氏が言うように、豆粒を数えるように、ひとつひとつ検討して、論理的に説明のつく、妥当な表記(必ずあるはずなのだ)を見つけるしかないのだ。
 天気予報は、最近、予報が困難そうな場合でもずいぶん当たるようになったような気がするが、国語審議会は全然だめだ。