みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#502 神の法第五戒

2020年03月15日 | 神の法
第5戒
家族の権威
 
p159~
The Authority of the Family
The Fifth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

家族の名誉と権威に関して論ずる前に、家族に関する聖書記載について考察する必要がある。

第10戒において、家族に関する4つの法が書かれている。

あなたの父と母を敬え。

姦淫してはならない。 

盗んではならない。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。
(出エジプト記20章)

財産は家族に関連するという事実は、すべての法においてだけではなく、10戒においても見られる。

財産であれ、妻であれ、奴隷であれ、これらを欲しがるということは、隣人に対する罪だった。

神の支配下にある家族は、聖書的生き方の中心に位置する。

この聖書的見方は、ダーウィニズム的世界観とは決して相入れることはない。

歴史的事実(肉的意味合い)としての家族のみを問題視する進化論的考え方は、この聖書的家族中心性を包み隠してしまう。

偉大な原始的制度として認識される家族は、人間の進化論的過去の研究にとって重要な材料と化してしまっている。

家族はいまや古い集合体であり、新しい集産主義 (国家または私的な集団が生産分配の経済活動を集団的に統制する制度)に道を譲るべきだと考えられている。

変化に抵抗する古い集産主義は、進化論的社会学者、科学者、教育学者、聖職者らによって、常に攻撃にさらされている。

この攻撃を擁護する進化論的人類学は、ダーウィンの後、「セム族の宗教」の著者ウイリアム・ロバートソン・スミスに至るまで、多大なる貢献を果たした。

ダーウィンとスミスは、ジークムント・フロイトに、のちに彼の持論となる基礎的前提を提供した。

フロイトによって提唱された考え方によって、家族の起源は、神の創造的目的によってではなく、人間の原始的過去にあるとされた。

コメント:

重要なのでくり返し強調しておきたい。

御心を行ないたいと願う人は、律法を守りたいと願うはず。
主に祝福されながら、この世をうまく渡っていくための手引書が聖書律法。

参考文献:

「地を従えよ」の命令はキリストにおいて成就した

「地を従えよ」の命令はキリストにおいて成就した2

ミレニアムの活動の重要性



#501 神の法第四戒

2020年03月11日 | 神の法
第4戒
安息日と法
 
p157~
The Sabbath and Law
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

安息日を志向する社会は、最善の形で休息を与えてくれる。

1世紀前の鉄道労働者は、1週間に7日、1日10時間、1年間を通して毎日働いた。

明らかに、このような労働条件は反聖書的であり、聖書の法に依れば、違法だった。

鉄道業界の支配層は、堕落した者の集団。

第4戒は、土地や家畜に対してさえ安息日の否定は違法であるとする。

人間に対して、安息日を否定することは違法であることは言うまでもない。

労働時間が短くなれば、休暇が得られる。

毎日8時間、月5週労働では、人は本当の休息を得ることはできない。

心筋梗塞、消化性潰瘍、その他ストレスに起因する疾患の増加は、労働条件の変更によっては改善されないことを示している。

かつての古い秩序(それはそれでひどかったが)は、20世紀後半よりはクリスチャン信仰や秩序に近かった。

不当な労働条件下にありながら、20世紀後半の人間よりも休息をとる能力に優れていた。

安息日を志向する社会において、倹約する人は負債を背負わず、キリストにある休息を見出し、働きそして休みことができ、狂乱の世代において平和と喜びのある生活を過ごすことができる。

あらゆる法は将来に対して関連付けられているので、基本的に将来に対する計画書。

安息日の法は、世界の明日に対する計画書。

聖書律法は、悪を駆逐し、貧困や負債をなくすよう働く。

安息日の法は、人、動物、土地、被造物全体の休養のためにある。

すなわち、安息日はすべての聖書法の設計と方向性を明らかにする。

それは律法が確立するであろう将来の宣言。

コロサイ2:16~17
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。 

ノンクリスチャンの考え方はこうだ。

将来を志向する時、2重のペナルティに遭遇する。

第1に、過去への固執。

市民権革命ということばは、過重な責任感という極めて漠然とした感覚しか生み出さない。

この空虚な責任感は、現実と将来のはざまで悩む人なら誰でも抱く。

一方、市民権革命家は、過去の悪について語り続ける。

ただの現実や彼らの経験から生じる仮想悪のみならず、先祖たちが苦められたと革命家たちが信じるすべての悪。

現在ではなく、過去の歴史において生きていた労働団体やアメリカインディアンなど。

現在をうまく生きることができないということは、将来もうまく生きていくことができないということを意味する。

第2、ユートピアと非現実への逃避。

ユートピアとは、人としての成長を妨げるためだけの理想郷。

人は経済人に成り下がり、外見だけで人を判断するため、人をダメにする。

ユートピア的理念は、妄想的ないし破壊的な将来像を提示するだけでなく、現実社会を捻じ曲げ破壊する。

将来に向けて懸命に働こうとする人の助けにはならない。

それは、不必要な犠牲や労働を強いる幻想をもたらすだけ。

社会の無秩序以外何ものも生み出さない。



#500 神の法第四戒

2020年03月10日 | 創世記
第4戒
安息日と法
 
p156~
The Sabbath and Law
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

安息日が将来と関連性があるということは注目に値する。

創造の安息という点からすれば、安息日の型は過去にある。

安息日への入口も過去にある。

イスラエルにとって、安息日はエジプトからの贖いだった。

今の教会にとって、安息日は復活にあり、その成就は新創造にある。

安息日は、過去の出来事に基づき、将来との関連と成就を伴う、今現在の休息。

安息日の将来参照事項と密接に関係して、安息日の法は、備え、つまり倹約する民を要求した。

負債がもつ短期間の特性ゆえに、緊急性の高い負債のみが契約の対照だった。

1世紀には16年の安息年があり、そのうち2年はヨベルの年。

ご自身の法に対する忠実さゆえに、神は満ち溢れんばかりの収穫を約束する一方、人はその豊満を用心深く使う必要があった。

そうしないと、人は生きていくことができなかった。

経営上の備えとは、確かな将来の見通しを意味する。

過去に由来し、消費中心の経済ではなく、安息日は生産中心、将来に由来する休息を意識した社会を生み出した。

将来のことを考える社会は、平安と安全をもって休息することができる。

生産性の高い社会は、休息を十二分に楽しむことのできる社会。



#499 神の法第四戒

2020年03月04日 | 神の法
第4戒
安息日と法
 
p156~
The Sabbath and Law
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

ヘブル4:9
したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。 

安息日の休みとは、分け隔てられた安息日ではなく、安息日的生き方ということ。

安息日の休みは、創造に対する答えであり、その完成を最適化する。

ウイスコットは、アウグスティヌスを想定しつつラビの解釈に注目する。

ユダヤ教教師は、安息日の象徴的意味を「来たるべき世界」の予表と捉える。

ある者たちは、ある文献を引用してこう述べる。

イスラエルの民は語った、「全世界の主はわれわれに来たるべき世界を示した。褒め称えられよ。神は言われた、安息日とはその原型である」と。

出エジプト記20:11
それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。 

申命記5:15
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。 

つまり、安息日の遵守、神の休息、エジプトからの脱出という背景は、霊的な確信を与える。

最後の安息とは、堕落後に贖われるという創造の御業に対する答え。

安息日に対するこのような考え方は、神父やラビだけでなく、現代のプロテスタント註解者の教えでもある。

レンスキーは指摘する。

神はご自身の業から休まれた。
ご自身の労務から休んだのではない。
創造の前から、永遠の休息をあらかじめ定めておられた。

シュナイダーはさらに追加する。

この休息は、われわれの労務を帳消しにしてくれる、ひと時の至福ではない。
完成された教会が神を崇め賛美する、動的な休息である。

ヘブル3章と4章は、安息日の解釈の土台。

約束の地カナンは安息の予表だったが、真の安息日はその地にはなかった。

ヘブル4:9
したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。 

あらゆる安息日の型を超越して、神の民のための安息日、安息日の休みは残されている。

モールトンはヘブル4:10に関して、次のように説明する。

神の休息(創世記2:2)に入る時、人の安息日の休みが始まる。

それが創造の御業の最終地点であったように、神の民にとって、この休息は生涯労働の最終地点となる。

コメント:

つまり、週ごとにやって来る安息日は、来たる新天新地の予表であるということ。

山上の垂訓を思い起こす。

今ある労苦ゆえに、悲しい者は幸いです。
その労苦ゆえに、その人たちは慰められるから。

注)労務→労苦


#498 神の法第四戒

2020年03月01日 | 神の法
第4戒
安息日と法
 
p155~
The Sabbath and Law
The Fourth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

偉大な安息日には夕がない。

安息日は歴史の最終目標であるとアウグスチヌスは言う。

(XXXV)  
我が神、主よ。
われわれに平安を与えたまえ。
休息の平安、安息日の平安には夕がない。
すべての美しい配列は完了し、そして過ぎ去っていく。
それらの中に、朝があり夕があった。

(XXXVI)
しかし、7日目は夕がなかった。
神はそれを聖別し、永遠の継続とされた。
神は働かれた後に、そのようにされた。
それは極めて良かった。
7日目の休息。
神は不断の休息の中で、それらを造られた。
われわれもまた、労働の後、永遠の命の安息日において、主の中で休息するように。

(XXXVII)
主は我々の中で休息し、われわれの中で働く。
主はわれわれを通して休息し、われわれを通して働く。
主は働き、休息に入る。
主は時間の中で見るのでも、時間の中で動くのでもなく、ひと時休息するのでもない。
主は、それぞれの時代において、われわれが時間の中で物事を見るようにする。
そして、われわれが時間から生まれる休息を得させる。

(XXXVIII)
われわれは神が造られたものを見る。
それらが在るがゆえに。
神がそれらを見るがゆえに、それらが在るのだ。
それらが在るということの外から、そして内から、われわれは見る。
それらが造られた時に、神はそれらを見た。
そこで神はそれらを見た。
われわれの心が神の霊を抱いた時、われわれは良いことをするように動かされた。
しかし、以前は悪を行なうように動かされた。
神が良いことを行ない続けたので、われわれも良いことを行なうことができた。
それゆえ、われわれは主の偉大な聖の中で信頼し休息することができる。
主がもはや善を必要としない最高善であるように、主の休息は主そのもの。
人からこのことを教わることができるだろうか。
み使いからこのことを教わることができるだろうか。
主からそれを聞け。
主にそれを探せ。
それを教わるために主を叩け。
そうすれば、受けるであろう。
そうすれば、開かれるであろう。
そうすれば、見出すであろう。
そうすれば、開かれるであろう。
アーメン。