みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#11 聖書信仰を堅持する

2020年11月04日 | 信仰の防衛
初めに

4.両者の譲歩

p13~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

b.Cecil De Boer

幾何学問題を解くためには聖書を認める必要があることを示唆することにより、私の絶対主義を批判する時、Cecil De Boerは以下のような注釈を添える。

ウエストミンスター神学校ヴァンティル教授に対して公平を期すために、最近になり彼は現行課題に関する初期の過激な主張を否認したようだと申し添えておいた方がよいだろう。彼のシラバスの中に、被造物はある特性と自己の活動を持つといった陳述や、未信仰者はある程度の限りにおいて真実である知識を持っているといった陳述を見かけることがある。にもかかわらず、そのような陳述は、彼の弁証学の一般的主旨から言えば柄に合ってないことは明白であるため、それらの公言はKuyper博士や他の博士らが一般恩恵と呼んでいる事柄に対するリップサービスに過ぎないと言っても決して間違いではない。

つまり、私ヴァンティルが未信仰者が持っている真理に対して一定の評価をしていることを彼は認めているのだ。

私の絶対主義は現在よりも当初の方がより絶対主義的だったと彼は付け加える。

その一方で、Cecil De Boerは、Masselinkと同様に、自分の絶対主義を持っている。

クリスチャンの生活様式とノンクリスチャンのそれとの間のアンチテーゼは、過大視されるべきではないが、防衛すべき持論をもって、クリスチャンはそのアンチテーゼは馬鹿げていると見ることはできない。

神の自己啓示を拒絶する未信仰者が現実に疎くなっているということを否定するクリスチャンはいない。

しかし、結局のところ、現実から疎くなっているにも加減があり、概して、神のイメージにおいて創られた人間であることを止めてしまうほど疎くなっているわけではない。

神のイメージの保持者として、未信仰者もそれなりに信仰者と共通点を持っているのではないだろうか。

未信仰者にとって、宇宙の創造主であり扶養主としての神の考えは意味がないわけではない。

何故なら、意味があるからこそ、彼はそれを完全には否定することがないのだろう。

参考:

クリスチャンをご隠居にするキリスト教の時代は終わった

地を従えよ

>ディスペンセーション主義もダーウィニズムも、ヘーゲルの「歴史とは、相反するもの同士の対立と合一という試行錯誤を繰り返して進化する過程である」という考えを、一方は神学に、他方は生物学に取り入れた思想なのである。
とある。
このことはRushdoonyもThe Institutes of Biblical Lawの中で明言している。
この考えをイデオロギーに取り入れたのがマルクス共産主義思想。

神の法だけがヒューマニズムの反文化運動を阻止できる



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