小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

西岡剛

2011-01-20 22:25:27 | 武道・スポーツ
私はプロ野球は全然、見ない。高校野球なら少しは見る時もある。私は見てるより自分がやってみたい。高校野球はトーナメントだから、連投するエースが、疲れて大変だろうと思いつつも、トーナメントはわかりやすく面白い。ヒットを打ってバントで送るという手堅い攻撃方法も清々しい。去年は、久しぶりに、高校野球をよく見たが、ピッチャーはストレートとスライダー(とかいうもの)の二種類になってきているようだ。それとセーフティーバントも結構やっていた。高校野球も変わったものだ。もちろん沖縄のコウナンは大嫌いだった。ピッチャーが強そうで、どうせ、優勝するだろうと思っていた。私が沖縄が嫌いなのは、別に沖縄に怨みがあるわけではない。親が、のんべんだらりとした生活を送るために、湘南の家を売り飛ばして沖縄にマンションを買って、住んでいるからだ。このド寒い本土の冬を喘息と胃腸病と不眠症の病身をかかえて頑張っているというのに、親はのほほんとした安楽しか求めない性格であるからである。だから沖縄も嫌いになってしまったのである。坊主憎けりゃ袈裟も憎くなるのである。別に地元だからといって神奈川を応援する気にもならなかった。遠い知らない学校だからである。家の近くの知ってる高校だったら応援するのだが。それより、どっかの学校の不適な面構えのピッチャーに好感を持った。サイドスローでコントロールのいいピッチャーに勝った学校のピッチャーである。

プロ野球はリーグ戦だから、実力が正しく評価される。年末に、たまたま見た、とんねるず、とリアル野球盤の試合をした、日本シリーズで勝ったロッテの選手が面白かった。何かきっかけがあると興味が出てくることがある。キャプテンは西岡剛選手。(それまで名前も知らなかった)今年からメジャーに移籍するらしい。他の選手も面白いが、西岡剛選手が特に面白かった。面白いというより、性格が強気そうで、気に入ってしまった。自分にも他人にも厳しそうな感じである。いかにもキャプテンに向いた性格に見える。Whikipediaを読んだら、PL学園に入りたかったが、入れず、大阪桐蔭に入って、自分を落としたPL学園を打倒することを目的としたとあるのだから、これは気性の強い人間だ。寡聞の知識しかないが、You-Tubeの動画などで見ても、凄い努力家、研究家のようで、納得いくまで、人の何倍も努力するタイプの人間のように見受けられる。ということで西岡剛選手、頑張って下さい。これを機会にもしかするとロッテのファンになるかもしれない。

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コーチの失敗

2011-01-20 17:34:03 | 武道・スポーツ
スポーツコーチが指導で失敗するのは、物事の最初と最後しか見れないからである。上達の途中段階というものの指導に失敗するのである。つまりコーチの頭には、最終的な完成した技、フォームしか頭にないのである。だから、それが出来ていないと注意するのである。しかし当然のことながら上達には、技が完全になるまでの、まだ不十分な状態の技術レベルというものが存在する。ここの過程が、物事を追求、研究する人間にとっては、やりがいがあり、面白さでもあるのである。ここの所にこそ、創意工夫、研究心、実験、独創性、などをフルに働かす余地があり、それが面白いのである。大切なのは、技は最終的に完全になればいいのであり、途中では、どんなこと、どんなおかしな事をやってもいいのである。しかし、それが分からないと、生徒が研究しているのを、つぶしてしまい、最終的な完成されたフォームだけを強要してしまうのである。独創性のある人にとってはコーチの、何か言わないとコーチらしくないというコーチの体裁のためのアドバイスなど、迷惑な手枷、足枷でしかない。登山家と同じで、追求する人間にとっては、山に登っている歩いている途中だけが面白いのであって、登りきった後では何も面白くないのである。技が完全の域に達したら、あとはもう、進歩もクソも何もない。単なる気持ちよさだけであって、十年一日の進歩しない状態にしか過ぎなくなり、そんなの面白くないから、やめてしまうだけである。(これは、ほんの一部の人間にしか当てはまらないことである)

よく、You-Tubeなどの動画では、難しい運動を、「これは簡単です」と言っている人を見かける。その発言自身は、あんな難しそうな技が自分に出来るかどうかと心配している初心者の緊張を解く効果があって、その点は悪くはない。確かに、やってる本人にとっては簡単である。出来ることをやってるだけに過ぎないのだから。しかし、もし、本心から完成された技、身についている技を簡単だと考えているのであれば、その人は他人を指導する時、技が上達するプロセスの指導に必ず失敗する。

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バッティングセンターのボール

2011-01-20 07:39:09 | 武道・スポーツ
さて、バッティングセンターのボールは死んだボールか生きたボールか。私は野球は門外漢なので、正確にはわからないが、死んだボールの要素も強いだろう。確かに、近くの中学の野球の練習で、ピッチングマシンを使って練習しているから、全く無意味な練習ではないだろう。推測するに、速い球より、遅い球の方が、フォームを作る練習になると思う。なぜピッチングマシンが死んだボールかというと、ボールが出る位置が前後左右上下で変わらず固定していること。生きたピッチャーの投げる球はそうではない。どの位置から投げるかわからない。それと。これが一番の違いだろうが、ピッチャーはセットポジションから、呼吸を整えて、投げる動作がピッチャーの精神と、切り離せないものとなっている。誰一人、同じリズムのピッチャーはいない。だからバッターはピッチャーの心を伴った投球動作のリズムに自分のスイングのタイミングを合わそうとしているはずだ。だからピッチングマシンのボールは、かなり死んだボールだと推測する。

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大学の過去問題

2011-01-20 07:10:43 | Weblog
大学の過去問題(入試試験の問題ではなく、入学後の授業の過去問題)は、非常にいい問題なのである。これは何も大学に限らず、高校、中学でも言えると思う。というのは、試験でどんな問題が出るか予想するというのは、教師の立場になって考えてみることが大切なのである。これを考えてみたことがあるだろうか。心理の読み合いは何も野球のスクイズだけではない。教師にしてみれば、ここは絶対、生徒におさえておいて欲しい重要な問題だから、ぜひ出したい。しかし、いつも同じ問題ばかり出していると、全員、テストに通ってしまうから、テストではなくなってしまう。だから問題は変えなくてはならない。しかし、枝葉末節の問題は出したくない。ぜひ生徒に理解しておいて欲しい基本の問題、教師の側から、ぜひ出したい問題というものがあるはずである。そのギャップに、先生は、そうとう悩んでいるはずである。

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頭を良くする方法

2011-01-20 06:28:03 | Weblog
これは簡単。何でもいいから勉強して、特に覚えてしまって記憶してしまうことである。頭を使うことは健康にもいい。患者さんの中には、宅建(宅地建物取引主任者)の資格を取った人もいた。宅建は、(よく知らないが)暇なおばさんが趣味でとることもある、とか聞いたこともあるが、それで一向に構わないじゃないか。仮にも国家試験なら、楽に取れる資格じゃないだろう。さらには、戦前の教育では、神武→綏靖→安寧→懿徳→孝昭→孝安→孝霊→孝元→開化→崇神→垂仁→景行→成務→仲哀→応神→仁徳→履中→反正→允恭→安康→

と歴代天皇の名前を覚えさせらたが、これには全く理論はない。しかし、理論が無いことでも記憶するということは、頭を良くすることなのである。理数科系の学問でも、何かの法則の名前は第一発見者の名前がつけられるが、これは何の理屈もない。しかし、覚えることが頭を良くするのである。

空海も膨大な量の経を覚えたが、そもそも経というものは、意味が分かっても、分からなくても、覚えることで頭がよくなるのである。

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スポーツ上達理論

2011-01-20 05:57:30 | 武道・スポーツ
スポーツを無考えに練習して、なぜ達人にならないか。このことの考察。どんなスポーツでも、そうだが、無考えに練習しても、あるレベルまでは上達する。(自己流の面が含まれる場合が多いが)しかし、完全の域まで到達する人は少ない。あるレベルで上達が止まってしまう。この理由を考察したい。考えてみれば、これはおかしなことでもある。なぜならスポーツの体の動きというものは、そのスポーツに最も合理的な体の動かし方、力の出し方なのである。だから、無考えに練習していても、熱心に練習を続けさえしていれば、いつか体の動きがスポーツ独特の合理的な体の動きになっていくはずだ、順応していくはずた、という考え(仮説1)が起こってもおかしくはないと思う。実際、そう思っている人も多くいるだろう。しかし、その考えが誤りであることは、現実に証明されている。それは、どんなスポーツでもそうだが、いくら熱心に長い時間をかけて練習しても上達しない人が世の中にはいくらでもいる。ではないか。この事実をどうやって説明するのだ。この事実がはっきりと、仮説1を否定している。結論から言うと。人間は、その時の時代の人間の日常生活に必要な動作が、発育の過程で体に浸み込んでいるからである。原始時代には、マンモスを倒すために、やり投げの動作は、日常の動作だった。生活の糧を得るため、海辺の人は泳ぐことも、日常の動作だった。出来て当たり前の動作、日常の動作だった。しかし、現代では、その必要がなくなったから、正しいやり投げを出来る人もいなくなり、自由に泳げる人もいなくなった。現代では、それらは特殊な運動として、練習しなくては、出来るようにはならなくなった。逆に現代では、箸を使う動作、文字を書く動作、ワープロ、車の運転、自転車の運転、などは現代において日常生活に必要な運動だから、子供の頃から練習するから、誰でも出来る。しかし原始人には、それらの運動は出来ない。つまり人間は日常使う体の動きが、体に、何でもない当たり前の事のように浸み込んでしまっているのである。だから日常、やっていない運動、スポーツをしようとすると、日常の生活で身についている動作で、そのスポーツをやろうとするから、初心者では、全く出来ないのである。もちろん無考えの練習によっても、あるレベルまでは、そのスポーツの方で、そのスポーツ独自の体の動かし方を無理強いに要求させられるから、そのスポーツ特有の運動が、あるレベルまでは身につく。(しかし、なかには強引に日常の動作で、そのスポーツに対応しようとする人もいるだろうし、それが、ある程度、通用するスポーツも存在する)しかしスポーツの運動が上手くなるということは、日常の動作で全く使わない、そのスポーツ独自の動作をちゃんと正確に理解し、徹底的にその動作を習得しようという意識を持って、反復練習しなければ、そのスポーツが必要とする動作を身につけることは出来ないのである。つまりは上達しないのである。あるレベルまでは、運動の方が人間を引っ張ってくれて上達するのだが。だからといって、無考えでも、熱心に時間をかけて練習していれば、上手くなるというものではない。無考えに練習すると、絶えず運動が、日常の身に浸み込んだ運動で対処しようと体が誘導されてしまう危険に絶えずさらされているからだ。だから、無考えに練習している人では、熱心に長い時間をかけて練習しているのに、いつまでたっても上達しない人というのが存在するのである。だから、最初に述べた、「無考えに練習していても、熱心に練習を続けさえしていれば、いつか体の動きがスポーツ独特の合理的な体の動きになっていくはずだ、体が順応していくはずだ」という考え(仮説1)は、言葉としては非常に聞こえがいいが、きれいごとの間違った考えなのである。

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