「不利なことまで供述したつもり。全く信用できないと言われ、納得できない」と不満を口にした。時事通信(9月17日)
押尾学は完全な白痴である。裁判というものが全然わかっていない。そもそも被告は、裁判のはじめに、「真実のみ述べます。いかなる虚偽をもつけ加えず、また、全てを正直に隠さず述べます」と宣誓したはずた。だから、不利なことでも真実を述べるのは、そもそも当たり前である。
氏の「不利なこと」とは、「ウソをついた」との供述だろうが、それは、二つのウソの辻褄を合わせることが出来なくなって、(ようするにウソをつき通せなくなって)根負けして、仕方なく、「ウソをついた」と述べたのに過ぎない。
「不利なことまで供述した」動機は、誠実さ、ではなく、二つのウソの辻褄を合わせることが出来なくなったからである。それがまず第一のアホ。
第二のアホは。そもそも裁判では、「真実以外の何らの虚偽もつけ加えず、また、いかなる真実も隠蔽しない」と誓ったはずで、そうするのが当たり前なのである。もっとも、現実の裁判では、被告の弁護士が、被告と相談し、必死になって、隠せる不利なものは隠そうとして、少しでも判決が軽くなるようにと、必死になる。しかしそういう態度は、本来のあるべき態度ではない。
本来の裁判のあるべき態度は、「判決が有利になるように」などという下心を持たないことである。
押尾学は、裁判において、被告は、「判決が有利になるように」という態度を持っていて当然、とか、それが被告の当然の権利、などと思っているのだろう。
そもそも、「不利なことまで供述したつもり。全く信用できないと言われ、納得できない」などという自分の気持ちを公に平然と言う感覚からして、裁判というものが全然、わかっていない。
押尾学は完全な白痴である。裁判というものが全然わかっていない。そもそも被告は、裁判のはじめに、「真実のみ述べます。いかなる虚偽をもつけ加えず、また、全てを正直に隠さず述べます」と宣誓したはずた。だから、不利なことでも真実を述べるのは、そもそも当たり前である。
氏の「不利なこと」とは、「ウソをついた」との供述だろうが、それは、二つのウソの辻褄を合わせることが出来なくなって、(ようするにウソをつき通せなくなって)根負けして、仕方なく、「ウソをついた」と述べたのに過ぎない。
「不利なことまで供述した」動機は、誠実さ、ではなく、二つのウソの辻褄を合わせることが出来なくなったからである。それがまず第一のアホ。
第二のアホは。そもそも裁判では、「真実以外の何らの虚偽もつけ加えず、また、いかなる真実も隠蔽しない」と誓ったはずで、そうするのが当たり前なのである。もっとも、現実の裁判では、被告の弁護士が、被告と相談し、必死になって、隠せる不利なものは隠そうとして、少しでも判決が軽くなるようにと、必死になる。しかしそういう態度は、本来のあるべき態度ではない。
本来の裁判のあるべき態度は、「判決が有利になるように」などという下心を持たないことである。
押尾学は、裁判において、被告は、「判決が有利になるように」という態度を持っていて当然、とか、それが被告の当然の権利、などと思っているのだろう。
そもそも、「不利なことまで供述したつもり。全く信用できないと言われ、納得できない」などという自分の気持ちを公に平然と言う感覚からして、裁判というものが全然、わかっていない。