小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

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本田宗一郎の教育観2

2014-02-06 03:05:23 | 考察文
本田宗一郎は、もう一つ、「覚える」ことの無意味さを主張している。

「覚える」とか「知識」なんてものは、辞書やコンピューターに書いてあることだから、辞書を引くなり、コンピューターで調べるなりすればいい、ことだ、と言っている。そして、「考える」ことに価値がある、と主張している。

確かに、人間が、どんなに一生懸命、覚えても、コンピューターや辞書の知識の正確さには、かなわない。し、人間は、物事を覚えても、忘れていく。

しかし、だからと言って、覚えることが無意味という主張は、全く間違っている。

その理由の一つには。辞書ほど正確で豊富な知識でなくても、考えるためには、知識が必要であり(知識は考えるための道具である)、覚えることを放棄して、いちいち辞書を引いていたのでは、あまりにも効率が悪い。からである。常に辞書かコンピューターを持ち歩いていなければ、ならなくなってしまう。

もう一つは。インスピレーションの問題である。人間が必死にウンウンと頭を酷使して、アイデアを生み出せるのは、頭の中に、考えるための道具である知識があるからである。知識が豊富な人ほど、インスピレーションも起こせるのである。

そして、もう一つ。私も記憶力は、良い方では決してない。本田宗一郎も覚えることは苦手だった。膨大な量の知識を、どうやったら、覚えられるか。それには、頭を酷使して、あの手この手を、使って、どうやったら覚えられるかの方法を自分の頭で工夫しなくてはならない。これは、まさに考える行為である。

そして、もう一つ。辞書に書かれてあることは、無機的な、単なる事実の羅列に過ぎない。たとえば、

「織田信長は、子供の頃、うつけ者(バカ)だった」

と辞書、というか、本には書いてある。しかし、なぜ、頭の非常に良い織田信長が、子供の頃、遊んでいるだけの、うつけ者だったのか、という理由は本には書いてない。歴史学者ですら、その理由を、あれこれと推測しているが、正確な理由はわからない。いくつもの説があるが、全て、仮説である。

そして、それを推測する手段は、信長に関する膨大な事実の資料から、想像するしか方法がないのである。

あるいは、織田信長が、なぜ明智光秀をいじめたか、という理由も、わかっていない。

それらの理由を知るためには、織田信長に関する知識、は、もちろんのこと、人間に関する、あらゆる知識が生きてくるのである。

そして人間には、「考える」、「想像する」、「類推する」、能力があるから、一を聞いて十を知る、ということも、頻繁に起こり得るのである。

超ウルトライントロドン、とか、クイズ番組では、正解を知っていなくても、頭の中にある、知識を総動員することによって、正解にたどりつけることも、頻繁にあるではないか。

森鴎外は軍医総監としての仕事が忙しかったが、それでも膨大な量の歴史小説を資料を集めずに、書いている。しかし森鴎外の歴史小説は、歴史学者が見ても、時代考証が正確なのである。森鴎外は、幼少の頃から四書五経を覚えさせられ、歴史書を読みまくって、頭の中に歴史の知識が膨大に詰まっていたから、そういう芸当が出来たのである。

そもそも「考える」ことに価値があって、「覚える」ことには価値がない、という発想は、私が中学生の時に一時期、思っていた見方である。
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