私は、中学、高校と、母親の出身校である、私立の学校に入った。私の親戚には、この学校との、つながりが多いのである。受験教育を否定し、人間教育とやら、を謳っているが、私は、この学校が、嫌で嫌で仕方がなかった。授業のレベルが低くて、まだるっこしい。生徒は、勉強しなくても付属大学卒業まで、0点でも、保障されている。だから、勉強に身を入れる生徒は少ない。いかに、怠けて、遊んで、楽に生きる事しか、考えていない生徒が多い。私はそういう根性の人間が大嫌いである。少なくとも、私は、絶対、そんな生き方なんか、したくない。そんな風に生きるくらいなら、死んだ方がマシである。これは、病気とは、関係なく、私の性格である。私は、マイホーム主義が嫌いである。私は、男の人生とは、自分の目的に向かって、わき目もふらず、ひたすら突き進むものだと思っている。体当たり精神こそが、男の精神だと思う。
私は、現代という時代に魅力を感じない。私は、昭和のはじめから、太平洋戦争、そして戦後の混乱の時代に心が惹かれるのである。
あの時代には、みな、真剣に生きていた。死の恐怖と、隣り合わせに生きていた。
人間は、死の実感を持つと、精神がビビッドになるのである。
そして、私が、どんなに苦しくても、生きなければ、と、思うのも、戦争と関係があるのである。学徒出陣にせよ、特攻隊にせよ、私は、親の知らない事まで、知っている事が多いのである。関心が向くからである。私は、学徒出陣、特攻で死んだ人達の死が無駄死に、だとは、全く思っていない。私は右翼では全くない。だが、学徒出陣。将来に対する夢も希望も持ちながら、日本国のために、死んでいった人達、自分の命を犠牲にして、日本国を守ろうとしてくれた人達の死を、絶対、無駄死に、にしては、ならない、と思うのである。単に物理的な事実だけを考えれば、特攻隊員の死は無駄死に、である。しかし、日本国を守ろうとしてくれた精神、その精神だけは、間違いなく純粋にして、気高い精神である。だから、自分の夢も希望も犠牲にして、日本国のために死んでいった人達のことを思うと、真剣に生きなくてはならない、つらくても、生きて日本国のために、尽くさねばならないと思うのである。
健康に生まれた子供は、将来、大人になって、社会人として、生きていく事が保障されている事を前提とした感覚で生きている。だから、現代という時代を考えて、安定した仕事を探そうとする。もちろん人様々だが、人生を積極的に、考えて、結婚し、子を産み、安らかな老後を送り、たいと思っているだろう。
しかし、私は病気を持って生まれたため、そういう感覚ではないのである。生が保障されていない。いつまで生きれるかわからない、のである。病弱で、顔も悪い。(本当はそんなに悪くはない)もし子供を産んだら、私の喘息内向性の遺伝子を持った子供が生まれる可能性がある。私にとって、生きている事はつらいことである。そもそも、私は集団帰属本能が無いから、ワイワイ騒ぐという、みなが楽しみである事が、私には苦痛なのである。私は、幼稚園からして登園拒否児童だった。もし子供を産んだら、そういう体質を持った子が生まれない、という保障はない。そんなつらい目になんか、とても可哀相で、あわせたくないから、子供を産む気もない。子供を産む気がないから結婚する気もない。だから私は、将来を前向き、積極的に考える事が出来なかったのである。自分は、何のために、生きるのだろうか、という事が子供の時から、どうしても、わからなかったのである。
しかし、そのために、私は生まれつき、人生のテーマを与えられて生まれてきたようなものである。医学部を選んだのも、そういう私に先天的に課せられたテーマと私の劣等感の強い性格の必然性の結果である。また、美に対する、こだわりが非常に強い。スポーツでも勝ち負けなんか、あまり興味がない。いかにフォームが美しいか、である。人との付き合いが、苦しみだから、一人でコツコツやる仕事が私には向いている。子供を産めないから、紙の上で作品の中で私の子供を産みたいのである。そういう点からも、小説家になりたい、と思ったのも、やはり必然性が、あったのだ。それに、もっともっと早く気づいて、決断力を持てていれば、よかったと、つくづく後悔している。しかし、私は20代で、小説家になろうと、決断したのだから、そう遅すぎもなかった、とも思っている。
少年の時は、こんなつらい人生からは逃げたくて、夭折の美に憧れたが、20を越してからの死はもはや美しくない。それに、自分が本当にやりたいことも見つかった。過敏性腸はつらく、年をとるにつれて、もっと悪くなるかもしれない。その可能性の方が強いだろう。そもそも、人間は健康な人でも、年をとるにつれて、体力、体の機能が低下していく。しかし、私は若い時から空手や水泳やテニスをやっていて、それが、結構、アンチエイジングに役立っているのである。体力を落とさないため、市民体育館のジムにも、行って、トレーニングしている。健康のありがたさを、人一倍、知っていて求めているから、酒もタバコも、全く無縁である。
幸い、昔、出版した本、「女生徒、カチカチ山と十六の短編」が、点字図書にも選ばれた。これは、嬉しかった。文学新人賞ほどではないが、私の作品の価値が認められた、という事である。価値の無い作品が、どうして点字図書に選ばれるだろうか。電話して、車で行って、お礼を言ってきた。そしたら、向こうの人は、逆に私にお礼を言ってきた。何か、とても、申し訳ない気がした。ボランティアの人が、一年かけて、作業してくれた、と聞いて、ますます、申し訳なく思った。点字にする作業は、かなり大変で、一度、点字にしたものを、捨てるという事は、まず考えられない。ので、私の作品は、残る可能性がある。それに、私の書く小説は、現代を描いたものではなく、普遍的なものなので、時代か進んでも、色あせるという事もないだろう。
これから、どうなるか、全く将来の事はわからないが、もう可能な限り、頑張って生きようと思う。ただ、過敏性腸が悪くなって、何も出来ず、人様に迷惑をかけるだけになったら、私は若者に年金の負担をかけたくないから自殺しようと思っている。
死ぬ方法は、大昔から決めてある。
靖国神社の前で、日本が大東亜共栄圏構想として、侵略、殺害した中国、韓国、東南アジアの諸国の人々に、土下座して、お詫びしつつ、切腹して死ぬつもりである。
私は、現代という時代に魅力を感じない。私は、昭和のはじめから、太平洋戦争、そして戦後の混乱の時代に心が惹かれるのである。
あの時代には、みな、真剣に生きていた。死の恐怖と、隣り合わせに生きていた。
人間は、死の実感を持つと、精神がビビッドになるのである。
そして、私が、どんなに苦しくても、生きなければ、と、思うのも、戦争と関係があるのである。学徒出陣にせよ、特攻隊にせよ、私は、親の知らない事まで、知っている事が多いのである。関心が向くからである。私は、学徒出陣、特攻で死んだ人達の死が無駄死に、だとは、全く思っていない。私は右翼では全くない。だが、学徒出陣。将来に対する夢も希望も持ちながら、日本国のために、死んでいった人達、自分の命を犠牲にして、日本国を守ろうとしてくれた人達の死を、絶対、無駄死に、にしては、ならない、と思うのである。単に物理的な事実だけを考えれば、特攻隊員の死は無駄死に、である。しかし、日本国を守ろうとしてくれた精神、その精神だけは、間違いなく純粋にして、気高い精神である。だから、自分の夢も希望も犠牲にして、日本国のために死んでいった人達のことを思うと、真剣に生きなくてはならない、つらくても、生きて日本国のために、尽くさねばならないと思うのである。
健康に生まれた子供は、将来、大人になって、社会人として、生きていく事が保障されている事を前提とした感覚で生きている。だから、現代という時代を考えて、安定した仕事を探そうとする。もちろん人様々だが、人生を積極的に、考えて、結婚し、子を産み、安らかな老後を送り、たいと思っているだろう。
しかし、私は病気を持って生まれたため、そういう感覚ではないのである。生が保障されていない。いつまで生きれるかわからない、のである。病弱で、顔も悪い。(本当はそんなに悪くはない)もし子供を産んだら、私の喘息内向性の遺伝子を持った子供が生まれる可能性がある。私にとって、生きている事はつらいことである。そもそも、私は集団帰属本能が無いから、ワイワイ騒ぐという、みなが楽しみである事が、私には苦痛なのである。私は、幼稚園からして登園拒否児童だった。もし子供を産んだら、そういう体質を持った子が生まれない、という保障はない。そんなつらい目になんか、とても可哀相で、あわせたくないから、子供を産む気もない。子供を産む気がないから結婚する気もない。だから私は、将来を前向き、積極的に考える事が出来なかったのである。自分は、何のために、生きるのだろうか、という事が子供の時から、どうしても、わからなかったのである。
しかし、そのために、私は生まれつき、人生のテーマを与えられて生まれてきたようなものである。医学部を選んだのも、そういう私に先天的に課せられたテーマと私の劣等感の強い性格の必然性の結果である。また、美に対する、こだわりが非常に強い。スポーツでも勝ち負けなんか、あまり興味がない。いかにフォームが美しいか、である。人との付き合いが、苦しみだから、一人でコツコツやる仕事が私には向いている。子供を産めないから、紙の上で作品の中で私の子供を産みたいのである。そういう点からも、小説家になりたい、と思ったのも、やはり必然性が、あったのだ。それに、もっともっと早く気づいて、決断力を持てていれば、よかったと、つくづく後悔している。しかし、私は20代で、小説家になろうと、決断したのだから、そう遅すぎもなかった、とも思っている。
少年の時は、こんなつらい人生からは逃げたくて、夭折の美に憧れたが、20を越してからの死はもはや美しくない。それに、自分が本当にやりたいことも見つかった。過敏性腸はつらく、年をとるにつれて、もっと悪くなるかもしれない。その可能性の方が強いだろう。そもそも、人間は健康な人でも、年をとるにつれて、体力、体の機能が低下していく。しかし、私は若い時から空手や水泳やテニスをやっていて、それが、結構、アンチエイジングに役立っているのである。体力を落とさないため、市民体育館のジムにも、行って、トレーニングしている。健康のありがたさを、人一倍、知っていて求めているから、酒もタバコも、全く無縁である。
幸い、昔、出版した本、「女生徒、カチカチ山と十六の短編」が、点字図書にも選ばれた。これは、嬉しかった。文学新人賞ほどではないが、私の作品の価値が認められた、という事である。価値の無い作品が、どうして点字図書に選ばれるだろうか。電話して、車で行って、お礼を言ってきた。そしたら、向こうの人は、逆に私にお礼を言ってきた。何か、とても、申し訳ない気がした。ボランティアの人が、一年かけて、作業してくれた、と聞いて、ますます、申し訳なく思った。点字にする作業は、かなり大変で、一度、点字にしたものを、捨てるという事は、まず考えられない。ので、私の作品は、残る可能性がある。それに、私の書く小説は、現代を描いたものではなく、普遍的なものなので、時代か進んでも、色あせるという事もないだろう。
これから、どうなるか、全く将来の事はわからないが、もう可能な限り、頑張って生きようと思う。ただ、過敏性腸が悪くなって、何も出来ず、人様に迷惑をかけるだけになったら、私は若者に年金の負担をかけたくないから自殺しようと思っている。
死ぬ方法は、大昔から決めてある。
靖国神社の前で、日本が大東亜共栄圏構想として、侵略、殺害した中国、韓国、東南アジアの諸国の人々に、土下座して、お詫びしつつ、切腹して死ぬつもりである。