岡本君とサチ子
岡本君は都内の、とある商事会社に勤めている社の信望もあつい商社マン・・・である。彼は入社後一年で、大学の時親しかった山下サチ子と結婚した。大学時代、岡本君は野球部のエースだった。彼のピッチングは打者の心理をよみ、直球と変化球のたくみな配球による、どちらかというと、打たせないものだった。豪速球ではなかったが、コントロールがバツグンで、見送りしてしまう打者も多かった。対抗試合では相手チームを完封することもおおかった。野球においてはクレバーで、三振した打者の多くはつい舌打ちした。が、それはスポーツの中での反射的なものだった。彼には悪意というものがなく、頭の回転がはやく、おしつけのない親切があった。あっさりしていて、何事に対しても、こだわり、や、とらわれがなかった。野球部にはマネージャーが二人いた。山下サチ子と堀順子である。二人はともに岡本君に思いをよせていた。が、サチ子の思いはことのほか強かった。岡本君と順子が二人で話しているところをみると必ずサチ子が入ってくる。そのたび、やむをえず、順子はその場を去らなくてはならなかった。親しかった二人だが、その点において、順子は内心、サチ子を快く思っていなかった。そんな状態が卒業までつづいたのである。卒業後、岡本君は、都内のある東証一部上場の商事会社に入った。会社にも野球部があり、仕事はできるわ対抗試合では完封するわで、会社が彼を歓迎したのは入社してから後のことである。おもねりのない彼の性格的魅力にひかれて商談がうまくまとまるのである。入社して一年後、岡本君は山下サチ子と結婚した。
幸福な日々がつづいたことはいうまでもない。そして、月並みですまないのですが、少したってから多少やっかいなことがおこったのです。そのあらましはこうです。
ある日、彼女に電話がかかってきたのです。その人の言うところによると・・・岡本君はどうもこのごろ誰かと親しくしている。二人が喫茶店で話しているのをみた・・・というのである。電話の相手はその喫茶店の名前と場所を言った。サチ子は、はじめウソだと思っていた。だがある日の夕食の時、さりげなく言ったさぐりのコトバに、彼女は夫の表情に憂色をみた。ちなみにおかずは有色野菜が多かった。数日後、「今日は少しおそくなるから」と言って岡本君がでかけた日のこと。彼女はとうとう疑心に抗しきれなくなり、岡本君の退社時間より数時間前に、電話の相手が言ったその喫茶店のある場所へ行ってみた。するとたしかにその名の店がある。彼女はその店をみることができる向かいの喫茶店に入った。一時間ほどたった。「あっ。」と言って彼女がスプーンを落とし、我が目を疑ったことは想像に難くない。彼女はいたたまれず店を飛び出した。何もわからなくなってしまった。ただ足だけがうごいて、ともかく家についた。そしてそのまま食卓についた。
「あの相手の人はいったい・・・」
日はどんどん暮れていく。
チャイムが鳴った。
「ただいまー。」
岡本君が帰ってきた。ほろ酔いかげんである。ドッカと腰かけ、
「おい。サチ子。メシは。メシ。」
これがいけなかった。こういう状態でおこらずにいるにはインドで三年は瞑想修業していなくては不可能である。彼女は今日みたことをすべて語った。そして相手の女性は、どういう人なのか問い質した。みるみる酔いが消えて、かわって蒼白になった岡本君は、このように弁明した。
「彼女は自分と同期で入った人で、近く結婚するんだ。相手の男を愛してはいるが、僕にも好感を感じるというんだ。来春結婚するが、不安があるというんだ。そのため、自分の気持ちをたしかめるため、一ヵ月だけつきあってくれないか・・・とたのまれた。」
「それで・・・」
と彼女はあっさり言った。
岡本君は冷汗をながしながら、
「自分には最愛の妻がいるので、それはできない・・・ときっぱりことわった。だが彼女はどうしてもという。」
「それから」
「君にはすまないが、彼女の不安も、もっともだ、と思った。」
「だから」
「一ヵ月だけ・・・という条件でやむをえず承知した。心の中ではたえず君にすまない・・・とわびていたんだ。わかってくれ。」
「わかったわ。」
「そうか。わかってくれたか。」
岡本君の顔が一瞬ほころんだ。
「でも一つわからないことがあるわ。」
「何だい。」
彼女は急に険しい表情になり、声を大に言った。
「本当にすまない・・・と思っている人が、どうしてほろ酔いかげんで、オイ、メシは・・・なんて言うの。私は一生浮気はしません。今日は食事をつくる気がしないので食事はありません。例の有色野菜が冷蔵庫にありますから、かじるなり、きざむなりしてください。」
言って彼女は、その場を去るや、そのまま寝てしまった。これはこたえた。しかたなく岡本君は有色野菜をきざんでマヨネーズをかけて食べた。
翌日、彼女がそのことを再びもちだそうとした時岡本君はつい、
「ああ。きのう。そんな夢をみたの。」
と言ってしまった。こんな賭は、まず成功しない。失敗すれば火に油をそそぐだけである。結果はみごとな失敗だった。
岡本君の苦難の日々がはじまった。
彼女はプンとおこり、何もしてくれない。岡本君は困って、
「なあ。サチ子。おれがわるかったよ。もうカンベンしてくれ。」
と頭をさげた。だが彼女はふくれっつら。
「どうしたらゆるしてくれる?」
と岡本君が聞くと、
「もう二度と浮気しないとちかう?」
と彼女は問いつめた。
「ああ。誓うよ。」
「じゃ、証拠をみせて。」
「証拠ってどうすればいいの?」
「あなたの気持ちを行為で示して。それとバツとしてこのノートにすべて、「サチ子。世界一愛してる。」と心をこめた、きれいな字でびっちりかいて。誠意がみとめられたら今回だけはゆるしてあげます。また浮気したら今度はもっときびしくするからね。わかった。」
岡本君「トホホ・・・。わかったよ。でも仕事もあるし、時間もかかるから、すぐにはできないよ。」
彼女、少し考えて、
「じゃ、二週間だけまってあげるわ。」
岡本君は内心で、
「やれやれ。こまったことになった。」
と言ってため息をついた。
彼女はよろずのことを岡本君にいいつけるようになった。無条件降伏の立場を感じていた岡本君は、それに従うしかなかった。し、実際従った。彼女はだんだん、これからの結婚生活において、有利な条件を自分が手に入れたことに気づきだした。そして又、彼女は、自分の方から許しを求めず、それをすべて彼女の心に委ねている彼のまじめさに、いとおしさ、を感じるようになりはじめた。だが有利な条件を簡単に手離す気にはならなかった。狡知が彼女にめばえた。
そんなある日曜日の様子。
夕御飯は彼女がつくってくれたのだが、彼女に命じられて食器洗いをしている岡本君に、ゴロリと横になってテレビをみながら、ふりむきもせず、
「ねえ。あなた。おわったら肩もんで。こってるんだから。」
岡本君は肩を揉みながら思うのであった。
「トホホ。何でオレこんなことしなくちゃならないんだろう。なんでこんな女と結婚しちゃったんだろう。結婚を申し込んだ時は、無垢な少女のように恥じらいながら、もじもじして「一生、何を言われても最善をつくすようがんばります。」と言ったが、あれはいったい何だったのだろう?それなのにオレが彼女のいうことをきいてれば手をかけた料理をつくって頬杖しながらニコニコして「ねえ。あなた。どう。おいしい?」などと言って本当に幸福そうな顔してる。」
「ひょっとしてオレはだまされてしまったのかもしれない。」
と、岡本君は思い、いたたまれなくなって外へとびだし、駅前ののんべえ横丁の飲み屋へ行って安酒をあおり、
「オレは彼女のおもちゃじゃなーい。」
と大声で一人どなるのであった。そして酒のいきおいをかりて、一大決心し、
「よーし。もーガマンの限界だ。今日こそは白黒つけるぞ。」
と、言って家へひき返し、
「やい。サチ子。お前はオレをだましたんだろう。ほんとうのことを言え。おれは腹をきめている。お前がほんとうのことをいわないならばオレはお前と離婚する。」
と問い詰めた。すると彼女は途端につつましく正座した。
「そ、そんな。だます・・・なんて。ひどいわ。そんなふうにわたしを思っていたなんて、いくらなんでもひどいわ。ふつつかで、いたらない所は多くあるでしょうが、私なりに精一杯、努力しているつもりです。」
と言って涙をポロポロこぼすのであった。
「ひどいわ。だましたなんて。あんまりだわ。」
彼女は何度も、くり返しながら泣きじゃくるのであった。そんな彼女をみていると岡本君はだんだん自分がひどいことを言って彼女を傷つけてしまったように思い、後悔し、
「わかった。オレがわるかった。うたがってすまなかった。だからもう泣くのはやめてくれ。」と彼女の肩に手をかけていうのであった。すると彼女は、おそるおそる「ホント?」と言って目を上げた。
「ああ。ホントだとも。」
「もう離婚するなんていわないでくれる?」
「ああ。いわないよ。」
すると彼女の涙はピタリととまった。彼女は居間を出た。なにやら机でゴトゴト音がする。しばししてパタパタと早足に彼女はもどってきた。便箋とボールペンと印鑑と朱肉をもっている。彼女は、それらを机の上に置き、
「じゃ、こう書いてくれない。」
とモジモジして彼女が書いたらしい文をそっとだした。それにはこう書かれてあった。 「私、岡本○○はもう二度と自分から、妻サチ子と離婚したいなどとはいいません。もし、自分の意志で離婚を願い出るのであれば、自分の財産はすべて、妻サチ子にゆずり、生活の保障として毎月、収入の六割を妻サチ子に支払います。」
岡本君が「何でこんなことまでしなきゃいけないの?」と聞くと、彼女は真面目な口調で、 「私たちの愛ってこわれやすく、弱いでしょ。だから今もう一度、私たちの愛の永遠性を誓いあいたいの。」
と目をかがやかせていう。岡本君は、何かへんだなーと思いながらも、ことば通りを書いて、印を押すのであった。
でもこんな様子は一日だけ。彼女はまたしても、もとのような態度になった。岡本君は、とうとう本当に彼女の本心がわからなくなってしまい、それを知ろうと一計を案じた。
それはこうである。
大学の時、彼女と親しかった、堀順子・・・に自分の留守中に家に来てもらう。サチ子は順子には何でもはなすだろう。バックにテープレコーダーを入れておいてもらってサチ子に気づかれないように二人の会話を録音してもらい、動かぬ証拠をとるのだ。 はたして、それは実行された。順子は、近くに来たからついでによってもいい・・・と聞いて、岡本君の家にきた。ひさしぶりに会ったよろこびから、二人の会話は、はずんだ。順子はさりげなく言った。
「いいわねえ。サチ子、岡本君と結婚できて・・・。彼にあこがれてた子、多かったのに。私もそうだったわ。うらやましいわ。」
これはサチ子の優越感をくすぐった。
サチ子は自慢げに言った。
「そうでしょ。彼は私だけのものよ。一生ね。」
「でも彼、結婚しててももてるわよ。そうしたらどうする?」
「ダーメ。そんなことゆるさないわ。ちょっとでも他の人と親しくしたら、きびしくおしおきしてやるの。」
「でも彼だって人がいいけど、そんなことしておこらない?」
「ダイジョーブよ。あの人、頭わるいもん。ちょっと涙みせればすぐ信じちゃうわ。」 彼女は自分の狡猾さを思う所無く自慢した。
二人はその後、話題をかえ、少しはなしたのち、学生時代と同様、バーイ、といってわかれた。
その日、彼女はうかれた気持ちで、ダンナさまが帰ってくるのをまっていた。夕方から小雨がふりだした。
チャイムがなった。
「おかえりなさい。今日は、あなたの大好きなビーフシチューよ。」
と、いつも以上の笑顔で言った。
だが様子が変である。
岡本君は今まで一度もみせたことのない険しい表情で彼女をジロリとニラミつけたのち、だまって上がっていった。このはじめてみる岡本君の態度に彼女は少し、不安を感じだした。
「ねえ。あなた。どうしたの。」
といっても岡本君は何もいわない。
「おふろを先にしますか。食事を先にしましか。」
と聞いてもこたえてくれない。
岡本君は上着をぬぎすてて、食卓についた。そして彼女をひとニラミした。彼女は、おそるおそるテーブルについた。シチューの鍋はさめるのを警告するかのごとくカタカタ音をならしている。雨の音がはげしくなった。
岡本君はだまってカバンからテープレコーダーを出した。それは、今日のサチ子と順子の会話だった。話が大事なところへきた。それもすべて録音さていた。岡本君は彼女をニラミつけている。彼女の顔からみるみる血の気がひいた。そしてワナワナ、ガクガクふるえだした。岡本君はテープをきった。そしてどなりつけた。
「おい。サチ子。何とかいってみろ。このおおうそつき女!!このサギ師。オレはお前と離婚する。お前なんかに慰謝料をやる必要なんかない。それとも、このテープをおれとお前の両親にきかせてやろうか。どっちが正しいか、きいてみようじじゃないか。」
彼女はただワナワナ、ガクガクふるえているだけである。
「えっ。オイ。何とかいってみろ。」
岡本君はシチューの鍋をおもいっきり床へたたきつけた。
「何が永遠の愛だ。人をバカにしやがって。」
彼女は無力感にうちひしがれてしまっている。だまっている彼女に、
「エッ。オイ。何とかいってみろっていってるんんだ。」
とどなりつかた。
彼女は目からポロポロなみだをこぼしだした。
「フン。その手はもうくわん。このペテンおんな。」
彼女は、ますます泣きながら、
「ゴメンなさい。かるはずみなことをいってしまって。でもあなたを愛している気持ちは本当です。」と訴えた。
「フン。もうオレはお前の口車には二度とのせられないぞ。」
彼女は答えられない。
「でてけ。今すぐでてけ。お前の顔などもうみたくない。」
と言って岡本君は一万円札を卓上にたたきつけた。でも彼女は、うつむいたまま動けない。業を煮やした岡本君は一万円札を彼女のポケットにつめこみ、腕をつかんで彼女を無理矢理立たせた。そして彼女を玄関まで荒っぽく連れていった。岡本君は玄関をあけると、降りしきる雨の中へ、彼女をつきとばした。そして靴と傘を放りだした。いかりを込めて戸を閉めてカギをかけた。岡本君はテーブルについた。箪笥の上にのってる結婚式の二人の笑顔の写真が目についた。無性に腹がたって、写真をとりだして、二人をひきさいた。それでも気がおさまらず、ズタズタにひきさいた。
岡本君は台所から酒をもってきてのんだ。のみにのんだ。彼女のものが目につくたびに虫酸が走った。そしてそのいくつかのものを床にたたきつけた。外では雨がはげしく屋根をうっている。気づくと、もう十一時を過ぎていた。岡本君はワイシャツのまま床のついた。このうっとおしい雰囲気から、ともかくはなれたかった。彼女の実家は電車で五つはなれた所である。
「もうとっくについているだろう。あいつは今、どんな弁解を考えてるだろう。いや、もう弁解なんかかんがえられないだろう。」全部いいきったマンゾク感、翌日が休みである安心感に酒の力が加わって、岡本君はいつしか眠りへと入っていった。外では、あいかわらず、雨がはげしく屋根をうっている。
☆ ☆ ☆
岡本君が目をさましたのは翌日の昼過ぎだった。のんだわりには頭はすっきりしていた。カーテンをあけると雨はもう、すっかりやんでいた。雨上りの虹がかかっている。その美しさは岡本君の心にゆとりを与えた。岡本君は何本かタバコを吸った。
「考えてみてば、オレもちょっといいすぎたかもしれない。あいつにとってはオレがすべてだったんだからな。あいつは嫉妬深いんだ。雨の中につきとばしたのはちょっとやりすぎだったかな。だがこれで、あいつの方でも、オレがきらいになっただろう。あとくされなくわかれられる。」 岡本君は顔を洗い、パンと牛乳の軽い食事をした。そして新聞をとりにいこうと思って玄関をあけた。すると、そこに一人の女性がうつぬいたまま正座している。全身ズブぬれである。サチ子だった。稲妻のような衝撃が岡本君の全身をおそった。しばしの間、茫然と立ちつくしたまま、彼女をみていたが、彼女は微動だにしない。しばしして、やっとわれに帰った岡本君は彼女のもとにしゃがみこんだ。彼女は、まぶたはさがっていたが、目はとじていなかった。岡本君は彼女のひたいをさわった。かなりの熱がある。
「お前。昨日からずっとこうしていたんか?」
岡本君が聞くと彼女は力なくうなずいた。岡本君の目から涙が急にあふれだし、とまらなくなった。岡本君は心の中で思った。
「ああ。この女だ。おれにとって世界一の女はこの女だ。オレが一生、命をかけてまもってやらなくてはならないhのはこの女だ。」
岡本君は彼女を力づよくだきしめた。彼女は意識がうすれ、感情もほとんどマヒしていた。ただ一言、
「ゴ・メ・ン・ナ・サ・イ。」
と感情のない電気じかけの人形のように言って、たおれふしそうになった。岡本君は彼女をささえ、力づよくだきしめた。
「オレがわるかった。お前をうたがったオレがわるかった。もう二度とお前をうたがったりしないよ。お前をうたがったオレをゆるしてくれ。」
すべてを洗いながしたかのごとく降った雨の後の日の光は、ときおりおちる庭の樹の雫を宝石のようにかがやかせていた。
岡本君は都内の、とある商事会社に勤めている社の信望もあつい商社マン・・・である。彼は入社後一年で、大学の時親しかった山下サチ子と結婚した。大学時代、岡本君は野球部のエースだった。彼のピッチングは打者の心理をよみ、直球と変化球のたくみな配球による、どちらかというと、打たせないものだった。豪速球ではなかったが、コントロールがバツグンで、見送りしてしまう打者も多かった。対抗試合では相手チームを完封することもおおかった。野球においてはクレバーで、三振した打者の多くはつい舌打ちした。が、それはスポーツの中での反射的なものだった。彼には悪意というものがなく、頭の回転がはやく、おしつけのない親切があった。あっさりしていて、何事に対しても、こだわり、や、とらわれがなかった。野球部にはマネージャーが二人いた。山下サチ子と堀順子である。二人はともに岡本君に思いをよせていた。が、サチ子の思いはことのほか強かった。岡本君と順子が二人で話しているところをみると必ずサチ子が入ってくる。そのたび、やむをえず、順子はその場を去らなくてはならなかった。親しかった二人だが、その点において、順子は内心、サチ子を快く思っていなかった。そんな状態が卒業までつづいたのである。卒業後、岡本君は、都内のある東証一部上場の商事会社に入った。会社にも野球部があり、仕事はできるわ対抗試合では完封するわで、会社が彼を歓迎したのは入社してから後のことである。おもねりのない彼の性格的魅力にひかれて商談がうまくまとまるのである。入社して一年後、岡本君は山下サチ子と結婚した。
幸福な日々がつづいたことはいうまでもない。そして、月並みですまないのですが、少したってから多少やっかいなことがおこったのです。そのあらましはこうです。
ある日、彼女に電話がかかってきたのです。その人の言うところによると・・・岡本君はどうもこのごろ誰かと親しくしている。二人が喫茶店で話しているのをみた・・・というのである。電話の相手はその喫茶店の名前と場所を言った。サチ子は、はじめウソだと思っていた。だがある日の夕食の時、さりげなく言ったさぐりのコトバに、彼女は夫の表情に憂色をみた。ちなみにおかずは有色野菜が多かった。数日後、「今日は少しおそくなるから」と言って岡本君がでかけた日のこと。彼女はとうとう疑心に抗しきれなくなり、岡本君の退社時間より数時間前に、電話の相手が言ったその喫茶店のある場所へ行ってみた。するとたしかにその名の店がある。彼女はその店をみることができる向かいの喫茶店に入った。一時間ほどたった。「あっ。」と言って彼女がスプーンを落とし、我が目を疑ったことは想像に難くない。彼女はいたたまれず店を飛び出した。何もわからなくなってしまった。ただ足だけがうごいて、ともかく家についた。そしてそのまま食卓についた。
「あの相手の人はいったい・・・」
日はどんどん暮れていく。
チャイムが鳴った。
「ただいまー。」
岡本君が帰ってきた。ほろ酔いかげんである。ドッカと腰かけ、
「おい。サチ子。メシは。メシ。」
これがいけなかった。こういう状態でおこらずにいるにはインドで三年は瞑想修業していなくては不可能である。彼女は今日みたことをすべて語った。そして相手の女性は、どういう人なのか問い質した。みるみる酔いが消えて、かわって蒼白になった岡本君は、このように弁明した。
「彼女は自分と同期で入った人で、近く結婚するんだ。相手の男を愛してはいるが、僕にも好感を感じるというんだ。来春結婚するが、不安があるというんだ。そのため、自分の気持ちをたしかめるため、一ヵ月だけつきあってくれないか・・・とたのまれた。」
「それで・・・」
と彼女はあっさり言った。
岡本君は冷汗をながしながら、
「自分には最愛の妻がいるので、それはできない・・・ときっぱりことわった。だが彼女はどうしてもという。」
「それから」
「君にはすまないが、彼女の不安も、もっともだ、と思った。」
「だから」
「一ヵ月だけ・・・という条件でやむをえず承知した。心の中ではたえず君にすまない・・・とわびていたんだ。わかってくれ。」
「わかったわ。」
「そうか。わかってくれたか。」
岡本君の顔が一瞬ほころんだ。
「でも一つわからないことがあるわ。」
「何だい。」
彼女は急に険しい表情になり、声を大に言った。
「本当にすまない・・・と思っている人が、どうしてほろ酔いかげんで、オイ、メシは・・・なんて言うの。私は一生浮気はしません。今日は食事をつくる気がしないので食事はありません。例の有色野菜が冷蔵庫にありますから、かじるなり、きざむなりしてください。」
言って彼女は、その場を去るや、そのまま寝てしまった。これはこたえた。しかたなく岡本君は有色野菜をきざんでマヨネーズをかけて食べた。
翌日、彼女がそのことを再びもちだそうとした時岡本君はつい、
「ああ。きのう。そんな夢をみたの。」
と言ってしまった。こんな賭は、まず成功しない。失敗すれば火に油をそそぐだけである。結果はみごとな失敗だった。
岡本君の苦難の日々がはじまった。
彼女はプンとおこり、何もしてくれない。岡本君は困って、
「なあ。サチ子。おれがわるかったよ。もうカンベンしてくれ。」
と頭をさげた。だが彼女はふくれっつら。
「どうしたらゆるしてくれる?」
と岡本君が聞くと、
「もう二度と浮気しないとちかう?」
と彼女は問いつめた。
「ああ。誓うよ。」
「じゃ、証拠をみせて。」
「証拠ってどうすればいいの?」
「あなたの気持ちを行為で示して。それとバツとしてこのノートにすべて、「サチ子。世界一愛してる。」と心をこめた、きれいな字でびっちりかいて。誠意がみとめられたら今回だけはゆるしてあげます。また浮気したら今度はもっときびしくするからね。わかった。」
岡本君「トホホ・・・。わかったよ。でも仕事もあるし、時間もかかるから、すぐにはできないよ。」
彼女、少し考えて、
「じゃ、二週間だけまってあげるわ。」
岡本君は内心で、
「やれやれ。こまったことになった。」
と言ってため息をついた。
彼女はよろずのことを岡本君にいいつけるようになった。無条件降伏の立場を感じていた岡本君は、それに従うしかなかった。し、実際従った。彼女はだんだん、これからの結婚生活において、有利な条件を自分が手に入れたことに気づきだした。そして又、彼女は、自分の方から許しを求めず、それをすべて彼女の心に委ねている彼のまじめさに、いとおしさ、を感じるようになりはじめた。だが有利な条件を簡単に手離す気にはならなかった。狡知が彼女にめばえた。
そんなある日曜日の様子。
夕御飯は彼女がつくってくれたのだが、彼女に命じられて食器洗いをしている岡本君に、ゴロリと横になってテレビをみながら、ふりむきもせず、
「ねえ。あなた。おわったら肩もんで。こってるんだから。」
岡本君は肩を揉みながら思うのであった。
「トホホ。何でオレこんなことしなくちゃならないんだろう。なんでこんな女と結婚しちゃったんだろう。結婚を申し込んだ時は、無垢な少女のように恥じらいながら、もじもじして「一生、何を言われても最善をつくすようがんばります。」と言ったが、あれはいったい何だったのだろう?それなのにオレが彼女のいうことをきいてれば手をかけた料理をつくって頬杖しながらニコニコして「ねえ。あなた。どう。おいしい?」などと言って本当に幸福そうな顔してる。」
「ひょっとしてオレはだまされてしまったのかもしれない。」
と、岡本君は思い、いたたまれなくなって外へとびだし、駅前ののんべえ横丁の飲み屋へ行って安酒をあおり、
「オレは彼女のおもちゃじゃなーい。」
と大声で一人どなるのであった。そして酒のいきおいをかりて、一大決心し、
「よーし。もーガマンの限界だ。今日こそは白黒つけるぞ。」
と、言って家へひき返し、
「やい。サチ子。お前はオレをだましたんだろう。ほんとうのことを言え。おれは腹をきめている。お前がほんとうのことをいわないならばオレはお前と離婚する。」
と問い詰めた。すると彼女は途端につつましく正座した。
「そ、そんな。だます・・・なんて。ひどいわ。そんなふうにわたしを思っていたなんて、いくらなんでもひどいわ。ふつつかで、いたらない所は多くあるでしょうが、私なりに精一杯、努力しているつもりです。」
と言って涙をポロポロこぼすのであった。
「ひどいわ。だましたなんて。あんまりだわ。」
彼女は何度も、くり返しながら泣きじゃくるのであった。そんな彼女をみていると岡本君はだんだん自分がひどいことを言って彼女を傷つけてしまったように思い、後悔し、
「わかった。オレがわるかった。うたがってすまなかった。だからもう泣くのはやめてくれ。」と彼女の肩に手をかけていうのであった。すると彼女は、おそるおそる「ホント?」と言って目を上げた。
「ああ。ホントだとも。」
「もう離婚するなんていわないでくれる?」
「ああ。いわないよ。」
すると彼女の涙はピタリととまった。彼女は居間を出た。なにやら机でゴトゴト音がする。しばししてパタパタと早足に彼女はもどってきた。便箋とボールペンと印鑑と朱肉をもっている。彼女は、それらを机の上に置き、
「じゃ、こう書いてくれない。」
とモジモジして彼女が書いたらしい文をそっとだした。それにはこう書かれてあった。 「私、岡本○○はもう二度と自分から、妻サチ子と離婚したいなどとはいいません。もし、自分の意志で離婚を願い出るのであれば、自分の財産はすべて、妻サチ子にゆずり、生活の保障として毎月、収入の六割を妻サチ子に支払います。」
岡本君が「何でこんなことまでしなきゃいけないの?」と聞くと、彼女は真面目な口調で、 「私たちの愛ってこわれやすく、弱いでしょ。だから今もう一度、私たちの愛の永遠性を誓いあいたいの。」
と目をかがやかせていう。岡本君は、何かへんだなーと思いながらも、ことば通りを書いて、印を押すのであった。
でもこんな様子は一日だけ。彼女はまたしても、もとのような態度になった。岡本君は、とうとう本当に彼女の本心がわからなくなってしまい、それを知ろうと一計を案じた。
それはこうである。
大学の時、彼女と親しかった、堀順子・・・に自分の留守中に家に来てもらう。サチ子は順子には何でもはなすだろう。バックにテープレコーダーを入れておいてもらってサチ子に気づかれないように二人の会話を録音してもらい、動かぬ証拠をとるのだ。 はたして、それは実行された。順子は、近くに来たからついでによってもいい・・・と聞いて、岡本君の家にきた。ひさしぶりに会ったよろこびから、二人の会話は、はずんだ。順子はさりげなく言った。
「いいわねえ。サチ子、岡本君と結婚できて・・・。彼にあこがれてた子、多かったのに。私もそうだったわ。うらやましいわ。」
これはサチ子の優越感をくすぐった。
サチ子は自慢げに言った。
「そうでしょ。彼は私だけのものよ。一生ね。」
「でも彼、結婚しててももてるわよ。そうしたらどうする?」
「ダーメ。そんなことゆるさないわ。ちょっとでも他の人と親しくしたら、きびしくおしおきしてやるの。」
「でも彼だって人がいいけど、そんなことしておこらない?」
「ダイジョーブよ。あの人、頭わるいもん。ちょっと涙みせればすぐ信じちゃうわ。」 彼女は自分の狡猾さを思う所無く自慢した。
二人はその後、話題をかえ、少しはなしたのち、学生時代と同様、バーイ、といってわかれた。
その日、彼女はうかれた気持ちで、ダンナさまが帰ってくるのをまっていた。夕方から小雨がふりだした。
チャイムがなった。
「おかえりなさい。今日は、あなたの大好きなビーフシチューよ。」
と、いつも以上の笑顔で言った。
だが様子が変である。
岡本君は今まで一度もみせたことのない険しい表情で彼女をジロリとニラミつけたのち、だまって上がっていった。このはじめてみる岡本君の態度に彼女は少し、不安を感じだした。
「ねえ。あなた。どうしたの。」
といっても岡本君は何もいわない。
「おふろを先にしますか。食事を先にしましか。」
と聞いてもこたえてくれない。
岡本君は上着をぬぎすてて、食卓についた。そして彼女をひとニラミした。彼女は、おそるおそるテーブルについた。シチューの鍋はさめるのを警告するかのごとくカタカタ音をならしている。雨の音がはげしくなった。
岡本君はだまってカバンからテープレコーダーを出した。それは、今日のサチ子と順子の会話だった。話が大事なところへきた。それもすべて録音さていた。岡本君は彼女をニラミつけている。彼女の顔からみるみる血の気がひいた。そしてワナワナ、ガクガクふるえだした。岡本君はテープをきった。そしてどなりつけた。
「おい。サチ子。何とかいってみろ。このおおうそつき女!!このサギ師。オレはお前と離婚する。お前なんかに慰謝料をやる必要なんかない。それとも、このテープをおれとお前の両親にきかせてやろうか。どっちが正しいか、きいてみようじじゃないか。」
彼女はただワナワナ、ガクガクふるえているだけである。
「えっ。オイ。何とかいってみろ。」
岡本君はシチューの鍋をおもいっきり床へたたきつけた。
「何が永遠の愛だ。人をバカにしやがって。」
彼女は無力感にうちひしがれてしまっている。だまっている彼女に、
「エッ。オイ。何とかいってみろっていってるんんだ。」
とどなりつかた。
彼女は目からポロポロなみだをこぼしだした。
「フン。その手はもうくわん。このペテンおんな。」
彼女は、ますます泣きながら、
「ゴメンなさい。かるはずみなことをいってしまって。でもあなたを愛している気持ちは本当です。」と訴えた。
「フン。もうオレはお前の口車には二度とのせられないぞ。」
彼女は答えられない。
「でてけ。今すぐでてけ。お前の顔などもうみたくない。」
と言って岡本君は一万円札を卓上にたたきつけた。でも彼女は、うつむいたまま動けない。業を煮やした岡本君は一万円札を彼女のポケットにつめこみ、腕をつかんで彼女を無理矢理立たせた。そして彼女を玄関まで荒っぽく連れていった。岡本君は玄関をあけると、降りしきる雨の中へ、彼女をつきとばした。そして靴と傘を放りだした。いかりを込めて戸を閉めてカギをかけた。岡本君はテーブルについた。箪笥の上にのってる結婚式の二人の笑顔の写真が目についた。無性に腹がたって、写真をとりだして、二人をひきさいた。それでも気がおさまらず、ズタズタにひきさいた。
岡本君は台所から酒をもってきてのんだ。のみにのんだ。彼女のものが目につくたびに虫酸が走った。そしてそのいくつかのものを床にたたきつけた。外では雨がはげしく屋根をうっている。気づくと、もう十一時を過ぎていた。岡本君はワイシャツのまま床のついた。このうっとおしい雰囲気から、ともかくはなれたかった。彼女の実家は電車で五つはなれた所である。
「もうとっくについているだろう。あいつは今、どんな弁解を考えてるだろう。いや、もう弁解なんかかんがえられないだろう。」全部いいきったマンゾク感、翌日が休みである安心感に酒の力が加わって、岡本君はいつしか眠りへと入っていった。外では、あいかわらず、雨がはげしく屋根をうっている。
☆ ☆ ☆
岡本君が目をさましたのは翌日の昼過ぎだった。のんだわりには頭はすっきりしていた。カーテンをあけると雨はもう、すっかりやんでいた。雨上りの虹がかかっている。その美しさは岡本君の心にゆとりを与えた。岡本君は何本かタバコを吸った。
「考えてみてば、オレもちょっといいすぎたかもしれない。あいつにとってはオレがすべてだったんだからな。あいつは嫉妬深いんだ。雨の中につきとばしたのはちょっとやりすぎだったかな。だがこれで、あいつの方でも、オレがきらいになっただろう。あとくされなくわかれられる。」 岡本君は顔を洗い、パンと牛乳の軽い食事をした。そして新聞をとりにいこうと思って玄関をあけた。すると、そこに一人の女性がうつぬいたまま正座している。全身ズブぬれである。サチ子だった。稲妻のような衝撃が岡本君の全身をおそった。しばしの間、茫然と立ちつくしたまま、彼女をみていたが、彼女は微動だにしない。しばしして、やっとわれに帰った岡本君は彼女のもとにしゃがみこんだ。彼女は、まぶたはさがっていたが、目はとじていなかった。岡本君は彼女のひたいをさわった。かなりの熱がある。
「お前。昨日からずっとこうしていたんか?」
岡本君が聞くと彼女は力なくうなずいた。岡本君の目から涙が急にあふれだし、とまらなくなった。岡本君は心の中で思った。
「ああ。この女だ。おれにとって世界一の女はこの女だ。オレが一生、命をかけてまもってやらなくてはならないhのはこの女だ。」
岡本君は彼女を力づよくだきしめた。彼女は意識がうすれ、感情もほとんどマヒしていた。ただ一言、
「ゴ・メ・ン・ナ・サ・イ。」
と感情のない電気じかけの人形のように言って、たおれふしそうになった。岡本君は彼女をささえ、力づよくだきしめた。
「オレがわるかった。お前をうたがったオレがわるかった。もう二度とお前をうたがったりしないよ。お前をうたがったオレをゆるしてくれ。」
すべてを洗いながしたかのごとく降った雨の後の日の光は、ときおりおちる庭の樹の雫を宝石のようにかがやかせていた。