作家は、それぞれ、自分の、好きな、ジャンルの小説しか、書けないのである。
無理に、自分の、好きでもない、ジャンルの小説を、書いても、書けないことは、ないかもしれないが、嫌々、書いても、情熱が入らないから、面白い、良い作品とはならない。
そういう点、僕は、純文学は、書けないが、エンターテインメントの小説なら、書ける自信はあった。
さしずめ、石田君が、「芥川賞」なら、僕は、「直木賞」を、目指す、というところか。
文学は、個性の世界だから、ある作品と、ある作品の、どっちが、相対的に、優れている、ということは、言えない。
スポーツで言えば、優れた野球選手と、優れたテニス選手と、どっちが、優れているか、などということは、比較できない。のと同じである。
創作とは、つまるところ、自己表現である。
ある作家志望者が、本物であるか、どうかは、その人が、小説を書き続けたい、という情熱を持っているか、どうかに、かかっているのだ。
それを、考えると、僕は、自分を恥じた。
医療を身につけるのは、生活の資のためであり、自分の本命は、小説の創作である、と思っていた、初心を、すっかり、忘れていた自分に、恥じた。
もし、天分の作家なら、たとえ、医療の研修が、面白くても、心の中では、絶えず、創作したい、という、欲求を持ち続けているはずだ。
そちらの方に、心が引き寄せられて行くはずだ。
石田君の、芥川賞候補、の知らせを聞いて、がぜん、僕に、創作欲求が、起こり出した。
「よし。小説を書こう」
僕は、初心を思い出して、あらためて、自分に誓った。
幸い、美奈子先生の丁寧な指導と、僕の熱心な、努力によって、もう、ほとんど、内科医として、やっていける、自信が、僕には、ついていた。
医学の、習得は、やり出したら、きりがない。
上限が無いのである。内科が出来たら、外科にも、興味が出てくるし、さらには、救急科にも、そして、産婦人科にも、皮膚科にも、小児科もに、耳鼻科にも、興味が起こってしまう。
他の人は、そうでは、ないのかもしれないが、少なくとも、僕は、そういう性格だった。
何事にも、はまってしまう、のである。
医学も、パチンコや、麻雀や、競馬などの、中毒性のある、蟻地獄と似ている面がある。
パチンコや、麻雀や、競馬などは、何の価値も無い、人生を無駄に過ごす、単なる、遊びであり、全く無意味なものであり、医学は、学問であり、確かに、価値のあるものでは、あるが、中毒という点では、同じである。
僕は、医学の魅力に、ズルズルと、引きずられないように、しようと、決意した。
僕は、美奈子先生に、申し出て、そろそろ、帝都大学医学部での、研修を、終わりにしようと思った。
○
翌日。
僕は、決死の覚悟をもって、帝都大学医学部に行った。
「おはよう。山野先生」
医局で、彼女が、ニコッと、笑って、挨拶した。
「おはようございます。美奈子先生」
僕は、礼儀正しく挨拶した。
「先生。今まで、手取り足取り、丁寧に、医学を教えてくれて有難うございました」
僕は、彼女に恭しく言った。
「どうしたんですか。山野先生。あらたまって」
彼女は、笑顔で聞き返した。
「はい。僕は、そろそろ、この大学医学部での、研修を終わりにしたい、と思っているんです」
「ええっ。それは、また、どうしてですか?」
彼女の、驚きは、予想通りだった。
彼女は、目をパチクリさせて、僕を見て聞いた。
「最初に、お見合いした時に、言いましたよね。僕は、できれば、将来は、小説家になりたいと思っているんです。ですが、小説家として、認められ、職業作家になるまでには、並大抵のことでは、なれません。それで、僕は、まず、医学を、ちゃんと身につけて、生活費は、医師の仕事で、得て、それで、コツコツと、小説を書いて、作家になりたいと思っているんです。それで、僕も、美奈子先生の指導の、おかげで、一応、内科を身につけることが出来ました。それが理由です。先生には、感謝しても、しきれない思いです」
彼女は、しばし黙っていたが、ニコッと、笑って、顔を上げた。
「ええ。わかりました」
と、彼女は、言った。
「すみません」
と、僕が言うと。彼女は、
「山野先生。一つ、お願いがあるんです。聞いていただけないかしら」
と、言って切り出した。
「はい。何でしょうか?」
「私。一度、結婚というものをしてみたいんです。結婚って、女の憧れなんです。お願いです。山野さん。私と、結婚をして、もらえないでしょうか?」
彼女は、訴えるように言った。
「で、でも・・・」
僕は、返答に窮した。
「形だけで、いいんです。一ヶ月、したら、離婚するということで構いません」
彼女の、押しは強かった。
「で、でも・・・」
僕は、また、返答に窮した。
「山野先生には、突飛なことだと思います。でも、女には、大きなことなんです。特に、女医は、結婚できませんから。一度、結婚した、という、事実があると、これからは、ずっと、わたし、バツイチなんです、と、人に自慢することが、出来ます。それは、すごく、大きいことなんです。これから、結婚できるかどうか、わからない、私にとって。お願いです。一ヶ月したら、離婚する、という条件で。その約束は、ちゃんと守ります。結婚式を、形だけ、挙げてもらえないでしょうか。真っ白な、ウェディング・ドレス。ウェディング・ブーケ。誓いの言葉。交換し合うエンゲージ・リング。二人で入れる、ウェディング・ケーキのケーキ・カット。ああ。何て、素晴らしいんでしょう。私。子供の頃。コバルト文庫の、ティーンズハートの、恋愛小説ばかり、読みふけっていて、きっと、その悪影響だと思うんですが。ともかく、私の、憧れの夢になってしまったんです。お願いです。ダメでしょうか。決して、無理強いは、しません。山野さんが、嫌なら、ハッキリ言って下さい。私の、ワガママなんですから・・・」
彼女に、そう言われると、僕は断れなかった。
「わかりました。僕でよければ・・・。美奈子先生には、たいへん、お世話になりましたし。・・・ただ、たいへん、失礼ですし、申し訳ないですが、一ヶ月で離婚する、という約束は、守って頂けるでしょうか?」
僕は、念を押すように聞いた。
「わー。嬉しい。それは絶対、命にかけて、守ります。有難うございます。山野さん」
と、彼女は、飛び上がって喜んだ。
僕も、男にとっても、結婚は、非常に大きな経験で、それを体験しておくのは、これからの、創作においても、有利になるだろうと、考えた。
「ところで、結婚式は、どこでするんですか?」
僕は聞いた。
「それは、もちろん、町の、小さな教会です。二人きりで。どうでしょうか。山野先生?」
「ええ。そうして、もらえると、僕も助かります」
もちろん、遊びの結婚なので、誰にも知られない結婚式の方が、僕には助かった。
結婚式は、一週間後の日曜日、と、決まった。
こうして、僕は、彼女と一緒に、市役所に行って、婚姻届け、を、出した。
どうせ、結婚式の真似事、ママゴトのような、遊び、だと、思って、僕は、軽い気持ちでいた
○
結婚式の日曜日になった。
僕は、彼女が、レンタル・ウェディング・ショップで、借りてきた、白いタキシードを着て、待っていた。
しはしして、彼女は、タクシーで、やって来た。
彼女は、プリンセスラインの、真っ白の、ウェディングドレスを着ていた。
肩紐の無い、ビスチェ型で、肩・胸・背が大胆に露出していた。
僕は、思わず、うっ、と息を呑んだ。
彼女は、元々、綺麗だが、セクシーな、プリンセスラインの、ウェディングドレス姿の彼女に、僕は、思わず、股間が熱くなった。
「さあ。山野さん。乗って」
彼女に、言われて、僕は、タクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手は、嬉しそうな顔である。
僕が、乗り込むと、運転手は、車を出した。
何だか、町の教会と、行く方向が違う、ことに、僕は、途中から気づき出した。
「あ、あの。美奈子先生。これは、町の教会とは、方向が違いますが、どこへ行くんですか?」
僕は聞いた。
「あ、あの。ちょっとした事情から、結婚式は、別の所で、挙げることになってしまいまして・・・。よろしいでしょうか?」
彼女は、訥々と話した。
僕は、よく、事情が、わからなかったが、まあ、どうせ、真似事の結婚式なのだから、と、あまり気にしなかった。
タクシーは、品川の、聖マリアンナ教会に入っていった。
僕は、びっくりした。
背広姿やスーツ姿の、帝都大学医学部の第一内科の医局員達、が、わらわらと、やって来た。
「美奈子。きれいだよ」
「美奈子先生。おめでとう」
医局員たちは、口々に、祝福の言葉を、述べた。
僕は、頭が混乱した。
背広を着た、第一内科の、教授の姿まであった。
僕は、何が何やら、訳が分からないまま、タクシーを降りて、彼女と、聖マリアンナ教会の、控え室に、入った。
「あ、あの。美奈子先生。これは、一体、どういうことでしょうか?」
僕は聞いた。
「あ、あの。今朝、タクシーに乗って、山野さんのアパートに向かっていた時に、私のスマートフォンに、ヤフーメールが、届いたんです。アドレスは、知らない人なんです。これを見て下さい」
そう言って、彼女は、スマートフォンを、僕に渡した。
僕は、すぐに、スマートフォンを受けとり、彼女に来た、ヤフーメールを見た。
それには、こう書いてあった。
「美奈子先生。ご結婚、おめでとうございます。つきましては、挙式は、聖マリアンナ教会で、行う、予約をとってあります。帝都大学医学、第一内科の、医局員達、教授、および、美奈子先生の、ご両親、親戚なども、出席します。なので、どうか、そこへ行って下さい」
僕は、びっくりした。
「あ、あの。山野先生。ごめんなさい。このメールを送ったのは、医局員の誰かだと思います。私と先生の、今日の、結婚の真似事のことを、知ってしまったんでしょう。それで、医局員みんなに、話してしまったのでしょう。一体、どういう理由で、こんなことをしたのかは、わかりません。おそらく、悪いイタズラ心から、だと思います。しかし、ともかく、私は、急いで、何人かの医局員に電話して聞いてみたんです。そしたら、みんな、それを知っていて、聖マリアンナ教会に向かっている、と言ったんです。私も、大袈裟なことになってしまって、困っているんです。山野さん。どうましょう?」
彼女が聞いた。
「・・・・」
僕は、答えられなかった。
これは、極めて悪質なイタズラだと、僕も思った。
(アクドい、悪戯をする人もいるものだな)
僕は、心の中で、呟いた。
しかし、もう、ここまで、来てしまっては、今さら、キャンセルするわけにも、いかない。
「もう、今さら、結婚式をとりやめるわけにも、いきません。教授も来ていますし。ここで、結婚式を挙げましょう」
と、僕は、言った。
「ごめんなさい。そして、有難うございます。こんな、悪質な、悪戯をして、山野さんに、迷惑をかけた、犯人は、必ず、見つけ出して、山野さんに謝らせます」
と、彼女は、言った。
ホールでは、重厚なオルガンの音が鳴っている。
「それでは、新郎新婦の入場です」
司会者の声が聞こえた。
僕は、彼女と、手をとりあって、ホールに入っていった。
パチパチパチと、拍手が鳴り響いた。
僕と、美奈子さんは、手をとりあって、会場に入っていった。
僕は、吃驚した。
白い髭を生やした、白髪の、ローマ法王のような、牧師が、厳かに、立っていた。
僕と、美奈子さんは、牧師の前で、立ち止まった。
オルガンの音が止まった。
結婚の誓いの宣言の始まりである。
僕と美奈子さんは、牧師の方を向いた。
牧師は、まず、美奈子さんの方を見た。
「吉田美奈子。汝、この男を夫とし、その健やかなる時も、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも 富めるときも、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓うか?」
牧師が言った。
「誓います」
美奈子さんが、頬を赤くして言った。
次に、牧師は、僕の方へ視線を向けた。
「山野哲也。汝、この女を妻として娶り、その健やかなる時も、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも 富めるときも、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓うか?」
牧師が言った。
「誓います」
僕は、嫌々、仕方なく言った。
ここまできて、今さら、ノーコメントと、言ったり、「誓いません」などと、言えるはずがない。
僕と彼女は、エンゲージリングを交換し合った。
「では。誓いのキスを・・・」
牧師が言った。
美奈子さんは、両手を、僕の背中に廻して、僕を抱きしめ、僕の唇に、自分の唇を重ねてきた。そして目を閉じた。
美奈子さんは、僕の唇の中に、舌を伸ばしてきた。
そして、僕の舌に、絡め合わせた。
美奈子さんは、貪るように、僕の唾液を吸った。
500ccくらい、吸ったのではなかろうか。
普通、誓いのキスは、唇を、そっと触れ合わせるだけの、ソフトタッチのキスで、時間も、せいぜい、5秒ていどなのに、僕は、彼女の、ディープキスに驚いた。
「わー」
「きゃー」
と、皆が叫んだ。
誓いのキスは、10分くらい、続いた。
そして、ようやく、誓いのキスが終わると、彼女は、顔を離した。
「ごめんなさい。山野さん。つい嬉しくて・・・」
と、彼女は小声で言った。
「では、これにて、新郎、山野哲也と、新婦、吉田美奈子、の結婚の式は終わりとします」
と、牧師が閉式の辞を述べた。
僕と、美奈子さんは、腕を組んで、白いバージンロードを、おもむろに、歩いて、出ていった。
僕と美奈子さんは、教会を出た。
前には、タクシーが停めてあった。
運転手は、タクシーのドアを開けた。
「あ、あの。山野さん。お乗りになって」
戸惑っている僕に、彼女は言った。
言われて、僕は、タクシーの後部座席に、乗り込んだ。
彼女も、僕の隣りに乗った。
タクシーは、動き出した。
これで、ようやく、アパートに帰れるんだな、と、思って、僕は、ほっとした。
「あ、あの。山野さん」
「はい。何でしょうか?」
「あ、あの。つい、さっき、教会に着いた時、私のスマートフォンに、ヤフーメールが、届いたんです。アドレスは、さっきの人と、同じです。これを見て下さい」
そう言って、彼女は、スマートフォンを、僕に渡した。
僕は、すぐに、スマートフォンを受けとり、ヤフーメールを見た。
それには、こう書いてあった。
「美奈子先生。ご結婚、おめでとうございます。とても素敵でした。つきましては、この後、高輪プリンスホテルに行って下さい。会場を予約してあります。披露宴です。皆も、挙式が終わった後は、高輪プリンスホテルに向かいます。キャンセルするとなると、かなりのキャンセル料が、とられてしまいます。皆も楽しみにしています。どうか、高輪プリンスホテルに行って下さい」
「あ、あの。先生。どうしましょう?」
彼女が困惑した顔で聞いた。
げげっ、と、僕は驚いた。
しかし、もう、ホテルの会場を借り切って、いるし、皆も、高輪プリンスホテルに向かっているのである。
今さら、とりやめるわけには、いかない。
「わ、わかりました。披露宴も、しましょう」
僕は、ため息をついて言った。
「有難うございます。先生には、たいへん、ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありません。私も、本意ではありませんが、こうなっては、もう、皆の用意してくれた、披露宴に出るしか道はないと思っていたんです」
と、彼女は、言った。
「でも、一体、大学病院の、誰が、こんなことを提案したのかしら?こんな悪質なイタズラをした人は、必ず、つきとめて、必ず、見つけ出し、山野さんに対する、名誉棄損として、民事訴訟します。一体、誰が・・・?。耳鼻科の、順子かしら。それとも、眼科の、久仁子かしら。ああ。でも、仲のいい友達を疑うのって、本当に、心が痛むわ」
と、彼女は、ため息をついて、独り言をいった。
こうして、僕と美奈子さんを、乗せたタクシーは、高輪プリンスホテルに着いた。
彼女は、裾がだだっ広くて、歩きにくそうな、純白の、プリンセスラインの、ウェディングドレスから、裾が、ちょうど、床に触れる程度の、Aラインの、純白のドレスに、着替えた。
しかし、ビスチェ型で、肩・胸・背は大胆に露出していた。
僕は、教会での、タキシードのままだった。
披露宴が始まった。
「では、新郎、新婦の、ご入場です。皆さま。拍手でお出迎え下さい」
司会者が言った。
僕と、美奈子さんは、手をとりあって、披露宴の会場に入った。
「わー」
「美奈子先生。ステキ」
会場にいる、人達が、拍手して、僕と彼女の、二人を出迎えた。
目の前には、大きな、バベルの塔のような、ゆうに2mを越しているほどの、ウェディング・ケーキがあった。
テーブルは、20席くらいあり、一つの、テーブルには、5~6人が座っていた。
「では。これより、新郎、山野哲也さんと、新婦、吉田美奈子さんの、披露宴を行います。では、まず、この結婚の仲人である、帝都大学医学部第一内科の、菊池泰弘教授に、祝いの言葉をお願いしたいと思います。菊池泰弘先生。よろしくお願い致します」
司会者は、そう言って、教授の方を見た。
教授は、嬉しそうな、えびす顔で立ち上がった。
僕は、びっくりした。
「な、何で、教授が、仲人なんですか?」
僕は、小さな声で、隣りの、美奈子さんに、聞いた。
「私にも、わかりません。今、知って、吃驚しています。一体、誰が、こんな提案をしたのかしら。教授も教授だわ。こんな役を、引き受けるなんて・・・」
と、美奈子さんは、言った。
僕と彼女の、驚きを余所に、教授は、コホンと、咳払いして、話し始めた。
「えー。この度は、我が、帝都大学医学部、第一内科の、吉田美奈子先生と、山野哲也先生が、結ばれることになり、たいへん、嬉しく思っています。吉田美奈子先生は、学生時代から、そして、卒業して、第一内科に入局してからも、医局員の中でも、一番、真面目で、明るく、私の、そして、帝都大学医学部の、誇りであります。山野哲也先生も、帝都大学医学部の第一内科に入局してからは、寝る間も惜しんで、一意専心、医学の研修に励んできました。医学にかける情熱は、吉田美奈子先生に、勝るとも劣りません。まさに、これ以上、相性の合う、男女は、この世に、いないと、私は、思っております。二人は、これからも、末永く、お互い、切磋琢磨して、いずれは、帝都大学医学部、第一内科を、引っ張っていって欲しいと、思っています。では。これを、もちまして、私の、祝辞の言葉と、させていただきます」
と、教授は、述べた。
パチパチパチ、と、会場に、拍手が起こった。
「それでは、新郎と新婦による、ウェディング・ケーキへの入刀をお願い致します」
司会者は、そう言って、僕たちに、ナイフを渡した。
僕と美奈子さんは、二人で、ナイフを持って、巨大な、ウェディング・ケーキに、ナイフを入れた。
パチパチパチ、と、会場に、盛大な、拍手が起こった。
「では。新婦の、吉田美奈子さんの、友人代表として、吉田美奈子さんの、お友達である、伊藤佳子さん。お祝いの言葉を、お願い致します」
司会者が言った。
言われて、第一内科の、一人の女医が立ち上がった。
「美奈子さん。山野哲也先生。ご結婚、おめでとうございます。思えば、長いようで、短い、六年間の大学生活でした。美奈子さんは、中間試験も期末試験も、難しい病理学の勉強も、何でも、丁寧に教えてくれました。私にとっては、難しい医学の、単位を取ることが出来たのも、そして、卒業できて、医師になれたのも、全て、美奈子さん。あなたのおかげです。美奈子さんには、一生、感謝しても、しきれません。もし、私と同期の生徒に、美奈子さんが、いなかったら、おそらく私は、難しい医学を理解できず、何年も留年して、結局、単位が取れなくて、大学を中退していただろうと、思っています。何の誇張も無く、美奈子さんは、私の命の恩人です。これからも、ご指導、ご鞭撻、よろしくお願い致します。それと。山野哲也先生。どうか、美奈子さんを、幸せにしてあげて下さい」
彼女は、涙をボロボロ流しながら言って、着席した。
「では。乾杯の音頭を、帝都大学医学部の、第一内科の、菊池泰弘教授にお願いしたいと思います」
司会者が言った。
教授が、立ち上がった。
ワイングラスを、持って。
「では、山野哲也先生と、美奈子さんの、末永い幸せを、祝って・・・カンパーイ」
そう言うや、会場にいる、皆は、手に持った、ワイングラスを、カチン、カチンと、触れ合わせた。
無数の、ワイングラスが、触れ合う、乾いた音が、会場に響いた。
「では。皆さま。教会での、結婚式から、何も食べずに、お腹が、減っていることと、思います。どうぞ、お食事を召し上がって下さい」
そう司会者が言った。
各テーブルに、豪華な、フランス料理のフルコースが、次々と、運ばれてきた。
「うわー。美味しそうー」
「お腹、ペコペコだよ」
「それでは、頂きます」
そう言って、賓客たちは、料理を食べ始めた。
美奈子さんは、司会者に、目配せされて、そっと、席を立ちあがった。
「あっ。美奈子さん。どこへ行くんですか?」
僕は、彼女に聞いた。
「あ。あの。お色直し、です」
彼女は、顔を赤らめて、恥ずかしそうに言った。
美奈子さんが、いなくなった、中座の時間に、大きなスクリーンに、映像が、映し出された。
美奈子さんの、生まれた時の写真、から、小学生の時の運動会、高校の時の入学式や、卒業式、医学部での、卒業式、などの、写真が、次々と、スクリーンに、映し出された。
皆は、食事をしながら、スクリーンを見て、
「へー。美奈子の子供の時の写真、はじめて見たよ」
とか、
「子供の時にも、今の、面影が感じられるな」
とか、
「海水浴に行った時の、ビキニ姿が無いのが、残念だな」
とか、様々なことを、語り合っていた。
10分ほどして、美奈子さんが、戻ってきた。
ピンク色の、ドレスを着て。
これも、ビスチェ型で、肩・胸・背は大胆に露出していた。
「きれいだよ。美奈子。優秀な女医とだけ、いつも見えていたけれど、やっぱり女なんだな」
男の同僚が言った。
「ステキだわ。美奈子さん」
女の同僚が言った。
色直しをして、ピンクのドレスを着た、彼女が、僕の隣りに座った。
やがて、皆、フルコースのフランス料理も、食べ終わった。
披露宴も、終わりに近づいた。
「では。美奈子さん。お父様と、お母様に、何か、お言葉を、お願い致します」
司会者が言った。
美奈子さんは、立ち上がった。
「お父さん。お母さん。今まで、私を育てて下さって、有難うございます。私は、子供の頃から、毎日、真剣に、患者の診療に取り組む、お父さんの姿を見て、自分も、医師になろうと思いました。今日、このような、嬉しい日を迎えることが出来て、何と言っていいのか、お礼の言葉が見つかりません。本当に、今まで、有難うございました」
と、美奈子さんは言って、深く頭を下げた。
彼女の、目には、涙が光っていた。
「ばか。美奈子。つまらんことを言うな。親が子供を育てるのは、当たり前のことだ」
彼女の父親が、即座に言った。
父親も、涙を流していた。
「では。これにて、新郎、山野哲也さんと、新婦、山野美奈子さんの、披露宴を、終わりと致します」
司会者が言った。
僕と、彼女は、式場の出口に並んで立った。
招待客が、一列に並んで、式場を出て行った。
「きれいだよ。美奈子。嬉しいよ。わしゃ」
彼女の、祖父母が、言った。
「山野さん。ふつつかな、娘じゃが、どうか、よろしゅう、お願いします」
と、禿げ頭の、彼女の父親が、僕に言った。
「美奈子。おめでとう」
「幸せになってね」
と、彼女の手を握って。
美奈子は、一人一人に、
「有難う」
と、握手した。
こうして、招待客の全員が、式場を出た。
○
やっと、披露宴が終わって、僕は、ほっとした。
不本意な、成り行き上ではあるが、披露宴なので、披露宴らしく、振舞うのは、仕方がないと、僕は、じっと、我慢していたが、内心では、困りはてていた、というか、ここまで悪質なイタズラをした、誰かに、いいかげん、頭にきていた。
「ごめんなさい。山野さん。さぞ、不快でしたでしょう。イタズラをした人は、私の、両親や、親戚にまで、告げていたんですね。私も、焦りました。しかし、こうなっては、もう、乗りかかった船で、仕方がない、と思い、披露宴は、披露宴らしく振舞おうと、思ったんです。こんな、イタズラをした人は、必ず、見つけ出し、民事訴訟で訴えます」
僕の心を推し量ってか、彼女は、そう言った。
「いえ。そこまで、しなくてもいいですが・・・。美奈子さんは、困らないのですか?だって、一ヶ月したら、離婚する、真似事の結婚式ですよ。離婚した後、皆との、関係が、気まずくなってしまうんじゃありませんか?」
僕は聞いた。
「私は、構いません。大丈夫です。山野さんは、男だから、わからないかもしれませんが。女って、結構、我慢強いんですよ。女は、月に一度の、つらい生理に、耐えて、生きていますから。それが、女の生きる宿命なんです。それに、出産の時にも、女は、苦しんで、子供を産まなくてはなりません。そのことも、いつも、女の、潜在意識に、根を張っているんです。ですから、一ヶ月後に、離婚しても、皆との、関係が、気まずくなることは、ありませんし、かりに、気まずくなっても、女は、我慢強いから、それくらいのことは、耐えられます。それに、山野先生は、私との結婚を望んでいませんが、私は、出来ることなら、山野先生と本当に結婚したいと、望んでいますので、真似事でも、こうして、山野先生と、結婚式を挙げることが、できたことは、私の、一生の、素晴らしい思い出となります。イタズラされたのは、私も、不快でしたが、今日は、本当に、楽しかったです。今日は、悪質な、イタズラをされた不快感と、でも、結果として、真似事でも、山野先生と結婚できた喜びと、そして、一体、誰が、こんな悪質な、イタズラをしたのかという、犯人の顔が、次から次へと、頭をよぎり続けた、猜疑心の、三つの思いが、頭の中でグルグルと、回り続けた、本当に、複雑な思いでした」
彼女は、言った。
「そうですか」
僕は、わかったような、わからないような、あやふやな返事をした。
「でも、山野先生にとっては、本当に、迷惑ですよね。どうして、こういうイタズラをしたら、山野先生が困る、ということを、慮ることが出来ないのかしら?一体、誰が、皆に、言いふらしたのかしら。順子かしら。久仁子かしら。それとも青木君かしら。青木君は、学生時代から、度の過ぎた、イタズラをしていましたから・・・。ああ。でも、人を疑うのって、本当に、心が痛みますわ」
そう彼女は、嘆息した。
その時、彼女のスマートフォンが、ピピピッと、鳴った。
彼女は、スマートフォンを取り出した。
「あっ。また、イタズラをした人のヤフーメールだわ」
彼女は、そう言って、メールを読んだ。
彼女は、黙って、一心にメールを読んでいた。
「ああ。そういう理由から、だったのね」
しばし、してから、彼女は、深く、ため息をついた。
「どうしたんですか。美奈子さん。今度は、どんな要求ですか?」
僕は聞いた。
彼女は、答えず、
「先生。見て下さい」
と言って、スマートフォンを、僕に渡した。
僕は、すぐに、スマートフォンを受けとり、彼女に来た、ヤフーメールを見た。
それには、こう書かれてあった。
「美奈子。ごめんなさい。あなたが、山野先生と、結婚の真似事をして、一ヶ月間だけ、夫婦になる、という噂を、聞いて知ったのは私です。それを、山野先生と、美奈子は、本当に結婚する、から、立派な、教会と、ホテルで、やって、皆で祝福してやろうと、第一内科の、医局員の数人に、メールを出したのは、私です。町の小さな教会で、二人だけで、結婚式を挙げる、のではなく、皆で、立派な所で、祝福してやろう、と、皆に、メールを送ったのは、私です。本当なら、ちゃんと、名乗り出て、言うべきですが、匿名のメールで、伝えることしか出来ない、私の憶病さを、許して下さい。私の本心を言います。私は、決して、ふざけ半分の、イタズラが動機で、こんなことをしたのでは、ありません。私は、美奈子が、山野先生と、本気で結婚したがっている、ことを、知っていました。私は、美奈子先生に幸せになって、欲しいので、もしかしたら、これが、きっかけで、山野先生の心が、美奈子に動いて、二人が本当に、結婚することに、なってくれは、しないかと、望みを託して、皆に、メールで、送ったのです。皆には、山野先生と、美奈子は、本当に結婚する、と、ウソを告げました。また、山野先生の心が、美奈子に動かなくて、一ヶ月で、別れることになっても、こうすれば、きっと、美奈子も、喜ぶと、思ったからです。美奈子。一ヶ月でも、結婚は結婚です。一ヶ月間の、結婚生活を楽しんで下さい。それと。山野先生。申し訳ありません。心より、お詫び致します。一ヶ月して、別れたら、皆に、二人の結婚の真似事を、知っていながら、あたかも、本当に、二人が、愛しあって、結婚を決めた、と、私が、ウソのメールを、皆に、送った、という、真実を全て、皆のメールに送ります。これも、匿名メールでします。ごめんなさい。離婚後、美奈子と山野先生が、医局で、気まずい仲に、ならないよう、悪いようには、しません。全て、匿名で行なう、憶病な私を許して下さい。美奈子さんの、了解もとらずに悪いことを、してしまいました。言い訳がましいですが、決して、悪意からではなく、美奈子が、幸せになって欲しいという、私の、心からの思いからしたことです」
僕は読み終えて、ため息をついた。
「そうだったのか。そういう理由からだったのか」
僕の、苛立ちは、なくなった。
「ところで。美奈子さん」
「はい。何でしょうか?」
「決めつけるべきでは、ないですけど。もしかして、ヤフーメールを、送ったのは、さっき、友人代表として、祝辞をのべた、伊藤佳子さん、では、ないでしょうか。彼女は、あなたを、すごく敬愛していますから」
「いえ。それは違うと思います。山野さんが、そう考えるのは、無理ないと思いますが。彼女は、そういうことをする性格ではありません。私は、彼女と、六年間、一緒に、大学生活をしてきたから、わかるんです。それに、もし、彼女が、ヤフーメールの、送り主であるのなら、ああいう祝辞は、述べないでしょう。だって、ああいう祝辞を、述べたら、ヤフーメールの、送り主ではないかと、疑われるのは、明らかですから」
「なるほど。確かに、そうですね。では、一体、誰が、送ったのでしょう?」
「それは、わかりません」
「ところで、山野先生。こうと、わかった以上、これから、一ヶ月は、皆の前で、新婚らしく、振舞いませんか。一ヶ月した後、離婚しても、ヤフーメールを送っている人が、本当の事を、皆に告げるのですから」
彼女は、そんな提案をした。
「そうですね。いきなり、昨日の、結婚は、ウソです、などと、皆に言ったら、皆、混乱して、不快になるでしょうし、医局が険悪な雰囲気になってしまうでしょうから。出来るだけ、穏便に、対処しましょう。」
「では。先生は、不本意でしょうが、一ヵ月間は、新婚らしく振舞って下さい。私も、そうします」
「ええ。わかりました」
こんな会話をして、僕と、彼女は、別れた。
僕が、気前よく、彼女の提案に同意したのは、もちろん、彼女の言うように、医局の雰囲気を険悪にしないためには、それが、一番いい、と思ったからだ。
○
翌日は、日曜日だった。
昨日の、緊張と、疲れから、僕は、一日中、寝て過ごした。
○
月曜日になった。
僕は、帝都大学医学部の第一内科に行った。
とても、緊張していた。
僕が、医局室に入ると、皆が、一斉に、僕を見た。
「あっ。山野先生。おはようございます」
皆は、嬉しそうに、挨拶した。
「おはようございます」
僕は、照れくさくて、小さな声で、挨拶を返した。
「先生。一昨日の、結婚式は、素晴らしかったですよ」
「先生。やっぱり結婚式は、町の小さな教会で、するよりも、盛大にやった方が、よかったでしょう?」
「ハネムーンは、どこへ行くんですか?」
「先生が、美奈子先生と、結婚を考えていたなんて、まったく気づきませんでした」
医局員たちは、それぞれに、勝手なことを言った。
僕は、何と言っていいか、わからず、返答に窮した。
その時。
ガチャリと、医局室の戸が開いた。
「みんな。おはよー」
美奈子さんが、元気な声で、入って来た。
「あっ。先生。おはようございます」
「おはよう。美奈子」
皆の関心が、彼女に、移ってくれて、僕は、助かった、思いだった。
「ところで、これからは、姓が、変わって、山野美奈子先生となるんですか。それとも、今まで通り、吉田美奈子先生なのですか?」
一人の医局員が聞いた。
「それは、もちろん、山野美奈子よ」
彼女は、嬉しそうに言った。
「じゃあ、これからは、山野先生は、山野哲也先生と、名前まで、入れて呼ばないとね」
と、医局員が言った。
第一内科の、医局の中で、「山野」の、姓は、僕一人だった。
なので、今までは、僕は、「山野先生」と、苗字だけで呼ばれていた。
でも、これからは、美奈子先生も、「山野」の姓になるので、「山野先生」と、苗字だけで呼ぶことが、出来なくなってしまう。
名前まで、入れられて、呼ばれるとなると、少し、照れくさいな、と僕は思った。
「美奈子先生と、名前で、呼んでもいいんじゃない?」
一人の女医が言った。
「そうね。その方が、呼びやすいかもね」
と、医局員が言った。
「美奈子」の、名前も、医局で、彼女一人だった。
「ところで、美奈子。ハネムーンは、どこへ行くの?」
一人の女医が聞いた。
「そうねえ・・・」
と、彼女は、上を向いて、少し考え込んだ。
その時、医局室の戸が、ガチャリと開いて、第一内科の教授が入って来た。
「おい。お前達。午前の診療は始まっているぞ。早く、外来や病棟へ行け」
と、教授は、急かすように言った。
「はーい」
皆は、ちょっと、残念そうな、口調で、答えた。
「美奈子。じゃあ、また、あとで、哲也先生と、結婚に至った経緯を色々と聞かせてね」
と言いながら。
「じゃあ、みんな。昼休みに、私と哲也さんの、結婚について、記者会見をするわ」
美奈子先生が嬉しそうに言った。
「うわー。ホント。楽しみだわ」
みなは、そう言って、嬉しそうな顔で立ち上がって、医局室を出て行った。
僕も、美奈子先生も、病棟に行った。
「あなた。予想以上の、反響ね。じゃあ、私、記者会見で、聞かれそうな、質問と、その答えを、今から、考えるわ。それを、スマートフォンで、送るから、あなたは、それを答えるだけでいいわ」
彼女は、そう言って、カンファレンス・ルームへ行った。
僕は、助かった思いがした。
所詮は、結婚の、真似事なので、僕には実感が無く、何を聞かれるかも、わからないし、また、聞かれた質問に対し、どう答えればいいのかも、わからない。
彼女は、頭が良いから、適切な、問答集を、つくってくれるだろうと、思った。
僕は、ナースセンターで、患者の病状に変化はないかを、聞いてから、病棟に行って、受け持ち患者を診察し、ナースに、指示を出した。
もう、僕は、ほとんど、一人で、内科患者は、診療できるようになっていた。
しかし、彼女に、「あなた」と呼ばれたのには、何だか、違和感を感じていた。
午前中の診療時間が、終わりに近づいてきた。
僕は、彼女の、結婚の問答集、を早く欲しくて、カンファレンス・ルームに行った。
「美奈子先生。問答集は、出来ましたか?」
僕は聞いた。
「ちょっと、待ってて。理絵がメールを送ってきて、理絵が、クラスを代表して、質問するから、と言って、質問集を、送って来たの。だから、その、答えを、考えているの」
そう言って、彼女は、スマートフォンを、カチャカチャ、操作していた。
○
昼休みになった。
僕と、彼女は、医局室にもどった。
ちょうど、記者会見のように、医局の机が、準備されていた。
「さあ。あなた。座りましょう」
彼女に、言われて、僕と、彼女は、記者会見のように、隣り合わせに、座って、皆と、向き合った。
皆は、もう、席に着いていた。
質問したくて、ウズウズしている、といった様子だった。
「では、これから、哲也先生と、美奈子先生の、結婚記者会見をします」
真ん前に座っている理絵が言った。
「みんなー。勝手に、質問すると、二人も答えにくいわ。ここは、私が、代表して、質問するわ。ねっ。いいでしょ?」
理絵は、後ろを、振り返って、医局員たちに聞いた。
「ああ。いいよ」
皆は、快く答えた。
理絵は、帝都大学医学部の、美奈子のクラスに、美奈子先生に次ぐ二番の成績で入学して、六年間、クラス委員長をしてきたのだった。クラスの、まとめ役だった。
美奈子先生の次に、頭も良かった。
「では、僭越ながら、皆を、代表して私が質問します」
理絵が言った。
その時、僕の、ポケットの中の、スマートフォンが、ピピピッっと、鳴った。
僕は、急いで、スマートフォンを、取り出した。
美奈子が、作ってくれた、結婚問答集だった。
ギリギリで、間に合って、僕は、ほっとした。
僕は、何も考えず、彼女の考えてくれた、答えを言えば、いいだけなのだから。
さっそく、理絵は、僕に質問してきた。
「山野先生。どうして、スマートフォンを、見ているんですか?」
僕は、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、見て、赤面した。
しかし、答えないわけには、いかないし、僕には、何と答えていいか、わからなかった。
なので、美奈子先生が書いた、答えを赤面しながら読んだ。
「それは、結婚式の時の、美奈子のウェディング・ドレス姿が、あまりにも美しいので、一刻たりとも、目が離せないからです」
うわー、すごーい、アツアツなのね、などと、皆が言った。
「ハネムーンは、どこへ行く予定ですか?」
理絵が聞いた。
僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。
「すべて美奈子に任せてあります。美奈子が望むのなら、北極でも南極でも、アマゾンのジャングルへでも、構いません」
また。うわー、すごーい、アツアツなのね、などと、皆が言った。
「プロポーズの言葉は何ですか?」
理絵が聞いた。
僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。
「美奈子さま。あなたは、僕の女神さまです。どうか、僕と結婚して下さい。ダメと、言われたら僕は、間違いなく、今すぐ、高層ビルから飛び降りて死にます」
また、うわー、すごーい、と、歓声が起こった。
「美奈子先生の、チャームポイントはどこですか?」
理絵が聞いた。
僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。
「ふっくらした大きな胸です。太腿です。黒目がちな、つぶらな目です。お尻です。耳です。鼻です。可愛らしく、窪んだ、おヘソです。髪の毛です。首です。つまり、すべてが、好きです」
うわー、すごーい。山野先生って、見かけによらす、大胆で凄いことを言うのね、と、皆が言った。
「初夜は、どんな雰囲気でしたか?」
理絵が聞いた。
僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。
「それはもう、夜が明けるまで、一時たりとも、休むことなく、激しく、燃えつづけました」
うわー、すごーい。山野先生って、見かけによらす、凄いことを言うのね、と、皆が言った。
「出産に関する計画があったら、教えて下さい」
理絵が聞いた。
僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。
「一姫二太郎が、欲しいです。もしかすると、初夜に、新しい命が授かったかもしれません」
うわー、山野哲也って、凄いことを、平気で言うのね、と皆が言った。
それ以外にも、理絵の質問と、その答えは、赤面せずには、言えない答え、ばかりだった。
記者会見は、30分くらいで、あらゆることを、根掘り葉掘り、聞かれた。
「では、これで、哲也先生と、美奈子先生の、結婚記者会見を終了します」
真ん前に座っている理絵が言った。
パチパチパチと拍手が起こった。
「じゃあ、みんな。職員食堂に行きましょう。午後の診療に、遅れちゃうわ」
医局員の一人が言った。
「ああ。そうだね」
皆は、席を立ち上がって、職員食堂に向かった。
医局室には、僕と美奈子さんの二人になった。
「美奈子さん。これは、ちょっと、行き過ぎなのでは、ないでしょうか?」
僕は彼女に、聞いた。
「ごめんなさい。私も、今、考えると、熟慮が足りず、一部、不適切な所があったと、反省しています」
彼女は、そう言って、殊勝に、ペコリと頭を下げた。
(一部、不適切、なのではなく、全部、不適切だ)
と、僕は、言いたかったが、彼女に、殊勝に、謝られると、気の小さい僕は、強気に、本心を言うことは、出来なかった。
○
こうして僕は、あと一ヵ月間、彼女と離婚する日まで、帝都大学医学部の第一内科で、研修を続けることになった。
僕の計画では、内科が、しっかり出来れば、それで、アルバイトでの代診や、当直や、どこかの病院で、週一日の、非常勤医師として、やっていけるので、それでいい、と、思っていた。
医師の、アルバイトは、給料が、すごく、いいのである。
それで、アルバイトで、生活費を稼ぎながら、小説を書き、小説家を目指そうと、思った。
というか、小説を書きながら、医師のアルバイトで、生活費を稼いで、小説家を目指そうと、思った。
僕は、後、一ヶ月の、我慢だ、と、自分に言い聞かせながら、研修を、続けた。
医学という、学問は、無限の世界だが、町医者として、患者を、ちゃんと、診療できるようになるには、一年間、否、半年程度の、研修を、みっちり、やれば、出来るようになるのである。
○
彼女と、結婚して、二日くらいした日に、石田君から、電話が来た。
「やあ。久しぶり」
石田君は、元気のいい声で言った。
「やあ。久しぶり」
僕も、返事した。
石田君の声は、やけに嬉しそうだった。
「ところで、電話をかけてきた用は何?」
僕は聞いた。
「いや。どうでも、いいことなんだけれどね。この前の作品とは、別の作品を、集英社に投稿したら、すばる文学賞の、第一次選考に通ってね。それで、つい、嬉しくて、電話したんだ」
と、彼は言った。
「ええっ。ホント。それは、すごいじゃない。おめでとう」
「いや。まだ、第一次選考に、通った、というだけで、受賞したわけでも、ないんだけれど。つい、嬉しくてね」
「いやー。一次選考に、通った、というだけでも、すごいよ」
「山野君。ところで、君は、今、どうしてる?」
石田君が聞いた。
「今、まだ、帝都大学医学部で、毎日、研修をしているんだ。だけど、もう、医者として、一人でやっていける、自信も、ついたし、あと、一ヶ月で、辞めるつもりさ。そうしたら、創作一筋の生活に入るつもりさ」
僕は言った。
「そうかい。それは、よかったね。君も、早く、作家として、世に認められることを、僕も切に願っているよ」
そう言って、石田君は、電話を切った。
おめでとう、とは、社交辞令上、言ったものの、僕は、かなり、石田君に嫉妬していた。
芥川賞に、つづき、今度は、三島由紀夫賞か、と、僕は、石田君を嫉妬した。
着実に、作家としての道を歩んでいる、石田君を、僕は、嫉妬した。
石田君は、文学の、友人であると、同時に、ライバルでも、あった。
正直に言うと、僕は、石田君に対して、文学の、ライバルとして、敵意さえ持った。
もっと、本音を言うと。
(ちくしょう。石田のヤツめ。これみよがしに、自慢してきやがって。鼻持ちならんヤツだ)
と、僕は、石田を憎んだ。
しかし、石田君の、受賞や、第一次選考通過、の、知らせ、というか、事実は、僕の気持ちを、創作へ駆り立てた。
忘れていた、創作へのファイトが、再び、炎のように、僕の心の中で、メラメラと燃え盛ってきた。
僕も、早く、研修医を、辞めて、小説を書かねば、と、僕は、焦った。
(あと、一ヶ月の我慢だ)
と、僕は、自分に言い聞かせた。
僕の、石田に対する、嫉妬が、その日の内に、だんだん憎しみに変わっていった。
(無神経なヤツだ。これみよがしに、自慢してきやがって。鼻持ちならんヤツだ)
という思いが、激しくなっていった。
(あんなイヤミなヤツ、死ねばいいんだ。そうすれば、小説も書けなくなる)
と、僕は思った。
僕は、その夜、丑の刻を待った。
僕は、夕食の後、白装束に身をつつみ、顔も白粉で真っ白にした。
頭にはめる鉄輪と、蝋燭を三本用意した。
そして、藁人形を作って、それに、「石田」とマジックで書き、五寸釘と、金槌を用意した。
僕は、深夜1時に家を出た。
僕のアパートの近くには、神社があった。
僕は、車で、その神社に行った。
神社には御神木が、あった。
僕は、パトカーに、怪しまれないよう、スピードを落として行った。
丑の刻参りの、藁人形の、呪いは、不能犯であって、警察に逮捕されることはないが、職務質問で見つかると、注意され、その後、出来にくくなるからだ。
僕は、白装束に身をつつみ、顔も白粉で真っ白にした。
そして鉄輪を頭にはめると、三本の蝋燭を用意した。
僕は、御神木に、「石田」と書いた、藁人形を押し当てた。
そして、藁人形に五寸釘を垂直に当てて、
「死ねー。死ねー。石田のクソ野郎、死ねー。死ねば、小説も書けないし、小説家にもなれない」
と、憎しみを込めて、金槌で、五寸釘を、何回も、打ち込んだ。
カーン。カーン、という、呪いの音が、しんとした、森の中に響いた。
○
翌日。
僕が、不快な気分で、帝都大学医学部へ行くと。
美奈子先生が、僕を見つけると、血相を変えて、駆け足で、やって来た。
「山野さん。たいへん、申し訳ないのですが、父が、軽い、心筋梗塞で、倒れてしまいました。すぐ、救急車で市民病院に入院しました。医師の話によると、一週間くらいで、退院でき、仕事にも復帰できる、らしいんです。父が退院する、までの、一週間くらいだけ、うちのクリニックで、診療して、頂けないでしょうか。お礼は、はずみます」
と、彼女は、言った。
「そうですか。でも・・・。美奈子先生。あなたが、やっては、どうなんでしょうか?それが一番、いいと思うんですが・・・」
僕は聞いた。
「ええ。もちろん、それが一番、いいんですが・・・。私も、大学病院で、私の、受け持ちの患者の中で、重症患者が、何人もいます。いつ、病状が急変するか、わかりません。患者さん達は、私を頼ってくれているので、昼の診療は、もちろんのこと、ですが。患者さん達は、死ぬ時は、当直医ではなく、私に看取られて死にたい、とまで、言ってくれているんです。ですから、私は、夜も、患者さんの達の病状が悪化した時、急いで、大学病院に駆けつけられるように、大学の近くの、アパートに、引っ越したのです」
と、彼女は、力説した。
彼女の育った実家は、千葉県の市川市にある、彼女の、父親の、吉田内科医院に隣接している、彼女の家、である。
彼女は、そこから、近くの小学校、中学校、高校、大学へと、通った。
しかし、医学部を卒業して、研修医になってからは、彼女は、大学付属病院の近くにある、アパートに、引っ越したのである。
大学付属病院は、東京の都心にあり、彼女の実家の、吉田内科医院は、千葉県の市川市なので、実家から、通おうと思えば、通えないことはない。
しかし、実家から大学付属病院には、1時間30分、かかり、アパートから、大学付属病院までは10分で行ける、のである。
「そうですか」
僕は、腕組みして、考え込んだ。
僕は、彼女の頼みを、断ることが、出来なかった。
なにせ、彼女は、僕に、帝都大学医学部、第一内科への、入局の面倒を見てくれた上、手取り足取り、僕の指導医として、丁寧に、臨床医学を指導してくれて、僕を、一人前の、臨床医にしてくれたのである。
こんな、親切なことをしてくれる人は、彼女の他には、いないだろう。
「わかりました。では、僕は、どうすれば、いいのでしょうか?」
僕は、彼女に聞いた。
「本日の午前中は、休診と、クリニックの前に、貼り紙を、貼っておきました。でも、うちは、田舎な上、うちのクリニックの近くに、別の内科医院は無くて。うちの医院に通っている患者は、多くて、患者さん達が、困ってしまうと思うんです。できれば、今日の午後から、診療して頂けると、助かります」
と、彼女は言った。
「わかりました。では、今から、急いで、吉田内科医院に行きます。そして、お父さんの病状が回復するまで、一週間くらい、代診をします」
と、僕は、答えた。
「わー。助かります。有難うございます。哲也さん」
と、彼女は、言って、嬉しそうに、僕の両手を握った。
「それと、よろしかったら、医院の隣りの私の家に泊まって下さい。藤沢から、市川へ通うのは、たいへんでしょうから」
と、彼女は言った。
「わかりました」
と、僕は答えた。
僕は、急いで、総武線に乗って、市川市の、彼女の、父親の、吉田内科医院に行った。
そして、午後から、僕が、代診ということで、患者を診療した。
午前中、来れなかった患者も来て、その日の、午後は、100人くらい、患者を診察した。
翌日も、午前の診療は、9時から、始まるので、僕は、彼女の言う通り、彼女の実家に泊まることにした。
診療は、午後7時に終わった。
僕は白衣を脱いだ。
腹が減ってきて、
(さあて。夕食は何を食べようかな)
と、思っていた時である。
美奈子先生が、やって来た。
僕はおどろいた。
「山野先生。あの。先生が、一人で、何か困っていることが、ないか、ちょっと、心配になって。来てしまいました。突然、来て、ごめんなさい。夕食も、コンビニ弁当で、済ましてしまうんではないかと、思って・・・。冷凍食品では、体力がつかないと思って、すき焼き、の具材を買ってきました。今すぐ、料理します」
と、彼女は言った。
「あ、あの。美奈子先生。大学病院の、先生の、受け持ちの、患者さんは、大丈夫なんですか?」
僕は聞いた。
「ええ。今のところ、危篤になりそうな、患者さんは、いませんし。当直医を信頼することも、大切だと思ったので・・・」
「そうですか」
「では、腕によりをかけて、すき焼きを、作ります」
そう言って、彼女は、具材の入った、バッグを持って、台所に向かった。
すぐに、ぐつぐつ、具材が煮える音がし出した。
「哲也さん。すき焼き、が、出来ました。どうぞ、召し上がって下さい」
彼女の声が、聞こえてきた。
僕は、食卓に行った。
鍋の上に、すき焼き、が、グツグツ煮えていた。
僕も、腹が減っていたので、腹が、グーと鳴って、鍋を見ると、思わず、ゴクリと、生唾が出てきた。
「さあ。山野先生。お腹が減ったでしょう。すき焼き、を、一緒に食べましょう」
彼女は、僕を見ると、嬉しそうに、そう言った。
照れくさかったが、仕方なく、僕は、食卓についた。
「さあ。山野先生。すき焼き、を、うんと食べて、スタミナをつけて下さい」
そう言って、彼女は、すき焼き、の、具を、どんどん、鍋の中に入れていった。
照れくさかったが、僕は、料理が出来ない。
なので、食事は、いつも、コンビニ弁当だった。
「では。いただきます」
そう言って、僕は、すき焼き、を、食べ始めた。
久しぶりの、手料理は、冷凍食品を、レンジで温めただけの、コンビニ弁当より、確かに、美味かった。
彼女も、僕と向かい合わせに、座って、食べ始めた。
「さあ。お肉を、たくさん、召し上がって下さい」
彼女は、ほとんど、肉を食べず、シラタキや、ネギなど、野菜しか食べなかった。
なので、僕が、肉を、ほとんど一人で食べることになった。
「あなた。美味しいですか?」
と、彼女が聞いたので、僕は、仕方なく、
「ええ」
と、答えた。
「哲也さん。何だか、私たち、本当の夫婦みたいね」
と、言って、彼女は、嬉しそうに微笑んだ。
「あっと。一ヶ月間だけだけど、今は、本当に、籍を入れているんだから、本当の夫婦なのね」
と、言って、彼女は、また、クスッと、微笑んだ。
「美奈子先生。ごちそうさまでした。美味しかったです」
すき焼き、を、食べ終わると、僕は、立ち上がった。
僕は、その夜、彼女の、父親の部屋で寝た。
美奈子先生が、同じ家の中の彼女の部屋にいるので、僕は、緊張して、なかなか寝つけなかった。
夜中の11時を過ぎた頃だった。
僕が、寝室で、ベッドの上に仰向けに寝ていると、戸が、スーと開いた。
バスタオルを一枚だけ、巻いた、彼女が立っていた。
僕は、吃驚した。
彼女は、僕の前にやって来た。
そして、胸の所の、タオルの、結びを、ほどいた。
タオルが、パサリと床に落ちた。
彼女は、全裸だった。
「な、何をするんですか?」
僕は、声を震わせながら聞いた。
「あ、あの。山野さん。私、一度でいいから、初夜というものを体験してみたかったんです。ダメでしょうか?」
彼女が聞いた。
「い、いえ。あ、あの。その。ちょっと。そんな。無茶な。困ったなあ」
「私、みたいな、女じゃダメですよね。無理強いして、ごめんなさい」
そう言って、彼女は、深々と頭を下げた。
「い、いえ。あの。そういうことじゃないんです」
「では、いいんでしょうか?」
彼女が聞いた。
僕は、あまりにも、人間離れして、優しかったので、女に、恥をかかしたり、女の頼みを、キッパリと、断ることが出来なかった。
「い、いえ。つまりですね。あのですね。何というか・・・」
僕は、何と言って、いいか、わからず、返答に窮した。
「では、いいんですね。嬉しいわ」
僕が、へどもどして、キッパリと、拒否のコトバを口に出せないので、彼女は、僕の、布団の中に、入ってきた。
「嬉しいわ。山野さん。抱いて」
そう言って、彼女は、僕に抱きついてきた。
僕は、やむを得ず、彼女を抱いた。彼女は、
「ああ。夢、実現だわ」
とか、
「ああ。何てロマンチックなのかしら」
とか、
「今日は最高の日だわ」
とか、言いながら。
そんなことで、その夜は、更けていった。
○
翌日、彼女は、
「あなた。病院に、行ってくるわ」
と、言って、家を出て、帝都大学医学部付属病院に行った。
僕は、9時から、吉田内科医院の診療を始めた。
その日の午後の診療が終わって、ほっと一息ついている時、彼女の父親が、やって来た。
「やあ。山野君。代診を有難う。病院で検査した、結果、何も異常がない、ということで、退院になったよ。代診、ありがとう」
そう言って、彼女の父親は、僕に、かなりの多額の謝礼をくれた。
○
僕は、また、翌日から、帝都大学医学部付属病院に行くようになった。
僕は、また研修を熱心にやった。
町医者をやっていける程度の、医療技術や知識なら、一年くらいやれば、もう頭打ちになって、もう、それ以上は、何の進歩も、発見もない、同じ事の繰り返しの毎日になる。
つまり、つまらなくなる。
しかし、大学病院は違う。大学病院には、医療器材も、最先端の物ばかりだし、入院してくる患者も、10万人に1とかの、珍しい難病の患者ばかりである。
また、大学病院では、内科だけではなく、外科は、もちろんのこと、眼科、耳鼻科、泌尿器科、麻酔科、救急、など、つまり、医療の、あらゆる科が、そろっている。
僕は、第一内科は、それなりにマスターしたと思っていたので。美奈子先生に、頼んで、救急科を、やりたい旨を伝えた。
「あの。美奈子先生。救急科をやってみたいんですが」
僕は、彼女に言った。
「わかりました。救急科の教授に頼んで、山野先生が、救急科の研修を出来るように頼んでみます」
彼女は、快く、そう答えてくれた。
彼女は、救急科の教授に頼んでくれた。
そのおかげで、僕は、救急科の研修が出来るようになった。
やりだすと面白いのである。
なにせ、新しいことだからである。
それに、救急科が出来ると、アルバイトでも、救急科は、すごく割がよく高収入なのである。
救急科が出来ると、救急病院の当直のアルバイトも出来るようになる。
救急病院の当直のアルバイトも、ものすごく、高収入なのである。
なので身につけておくと、後々、有利なのである。
僕は、一ヶ月で、救急科を、身につけてやろうと思って、入院している、全ての患者を診て、夜、遅くまで、救急医療を勉強した。
もちろん、一ヶ月で、救急科を、完全に、マスターすることは、無理だが、熱心にやれば、かなりの知識や技術は、身につくのである。
医学は無限の世界であり、僕は、勉強好きなので、つい、あれも、やりたい、これも、やりたい、と、医学にハマってしまいそうな誘惑が起こった。
しかし、僕は、「僕の本命は、小説家だ」と、自分に言い聞かせて、面白いからといって、医学に、あまり、深くハマらないように、と、自分を自制した。
○
そして。ようやく、待ちに待った、一ヶ月が経った。
その日。
「美奈子先生。ちょっと、お話しがあるので、午後の診療が終わったら、医局に残って頂けないでしょうか?」
と、僕は言った。
「はい。わかりました」
と、元気よく言った。
午前の診療が終わり、午後の診察も終わった。
医局室は、僕と彼女だけの二人になった。
「山野先生。用は何でしょうか?」
彼女は、陽気な様子で聞いた。
まるで、明日が、約束した、離婚一ヶ月目の日であることなど、知らないような感じだった。
「あ、あの。美奈子さん。たいへん、申し上げにくいんですけど・・・」
「は、はい。なんでしょうか?」
「あ、あの。今日で、結婚して、籍を入れて、ちょうど、一ヶ月になります。たいへん、申し上げにくいんですけど、明日、市役所に、離婚届を出そうと思いますが、いいですね?」
言いにくいことを、僕は、キッパリ言った。
「ああ。そうでしたか。今日で、ちょうど、一ヶ月でしたか。忘れていました。夢のような楽しい日々を、有難うございました。わかりました。約束です。離婚届け、を市役所に提出して下さい。でも・・・はあ・・・山野さんがいなくなると、さびしくなってしまいますね」
と、言って、彼女は、ため息をついた。
「すみません。僕も楽しかったです。また。とても、勉強になりました。どうも、本当に、有難うございました」
「ところで、山野さん。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「はい。何でも」
「山野さんは、一日でも、早く、私と、離婚したがっているように、見受けられますが・・・その理由を、教えていただけないでしょうか?」
彼女が聞いてきた。
「はい。それは、あなたとお会いした時、はっきり、言った通りです。僕の本命は、小説を書きたい、できれば、小説家になりたい、ということです。そして、僕は、医局との、つながりも、なければ、医師の友人も、いません。ですから、医学の世界と、関わりを持った、あなたに、医療に関することを、お聞きしたかった。それが、理由です。医療に関することは、ちょっと、聞くだけでよかったんですが、成り行きで、随分、長く、深くなってしまいました。あなたには、本当に、感謝しています。今回、あなたと、生きた人間関係を、持てたことは、今後、小説を書く上でも、とても、役に立つと思っています。本当に、どうも、有難うございました」
と、僕は、言った。
美奈子は、しばし黙っていたが。
ハア、と、ため息をついた。
「そうですか。山野さんは、優しいから、婉曲な言い方をなされますが・・・本当の理由は・・・私みたいな、ブスで、医学しか、取り得のない女は、嫌だ、ということですよね。わかりました。でも。さびしいですわ。何だか、あまりにも悲しくて、涙が出てきたわ。ごめんなさい」
そう言って、彼女は、ハンカチを取り出して、眼頭の涙を拭いた。
「い、いえ。とんでもありません。決して、そんなことは、ありません。それは、とんでもない誤解です。あなたほど、美しい方が、何で、ブスなんですか?」
僕は、必死に訴えた。
「だって、離婚の日を、はっきり、覚えていて、それを、心待ちにして、約束の日が来たら、即、離婚したい、と言うのは、私のような、女は、身の毛がよだつほど、嫌いで、一刻も早く、別れたい、という、理由いがいに、何があるというのですか。普通の人だったら、約束の日から、一週間か、10日くらい後、に、別れるものですわ。何だか、利用されて、用が済んだら、捨てられる女の気持ち、というものが、よく、わかるような気がします」
そう言って、彼女は、ハンカチを取り出して、とめどなく、溢れ出る涙を、拭いた。
「女って、こういう、つらい、悲しい、経験をすると、それが、一生の、トラウマになってしまうんです。女って、そういう、やりきれない、つらい、悲しい、経験から、一生、男性拒絶症になってしまうんです。あっ。ごめんなさい。つい、愚痴を言ってしまって・・・」
そう言って、彼女は、ハンカチを取り出して、とめどなく、溢れ出る涙を、嗚咽しながら、拭いた。
僕は困った。
「美奈子さん。わ、わかりました。では、離婚の届け出は、もう少し、先に延ばします」
仕方なく、僕は、そう言った。
「本当ですか。嬉しいわ。女って、男の人に、そう言ってもらえる、ことが、何より、嬉しいんです」
「では、あと、何日後なら、よろしいでしょうか?」
「はあ。すぐに、離婚の、日にちの、取り決めですか。悲しいわ。やっぱり、私は、山野さんに、嫌われているんですね」
彼女は、憔悴した表情で言った。
あたかも、人生に、疲れ果てた人間のように。
「み、美奈子さん。わ、わかりました。では、届け出の日は、美奈子さんに、おまかせします」
「有難うございます。女って、男の人に、そう言って、いただけることが、最高に嬉しいんです」
「あ、あの。美奈子さん。たいへん、申し訳なく、言いにくいのですが、大体、大まかな、目安として、どのくらい、先でしょうか?」
「もう、一ヶ月、先、というのは、ダメでしょうか。山野さんに、ご迷惑が、かかるのであれば、もっと、短くても、一週間、でも、かまいません」
「わ、わかりました。一ヶ月、先で、かまいません」
「本当ですか。嬉しいわ。有難う。山野さん」
こうして、離婚の、日にちは、もう、1ヶ月、先に延ばされることになった。
○
僕は、伸びた、一ヶ月を、無駄にしないように、僕は、救急科の研修を、熱心にやった。
しかし、僕は、「僕の本命は、小説家だ」と、自分に言い聞かせて、面白いからといって、医学に、あまり、深くハマらないように、と、自分を自制した。
○
そうして、一ヶ月して、僕が、おそるおそる、彼女に、離婚の話を持ち出すと、彼女は、また、ため息をついて、同じようなことを言った。
僕は、仕方なく、もう一ヶ月、離婚を先延ばしすることにした。
それに、やり始めた救急科の実力も、日に日に身についてきて、救急科を、もう少し、本格的に身につけたいという、思いも僕にはあった。
○
こうして、僕は、ズルズルと、医学の面白さに、ハマっていった。
医学の面白さに、ハマると、創作したい、欲求は、薄れていってしまった。
これは、僕にだけ、当てはまる法則ではなく、人間の心理、一般に、当てはまる法則だと、思う。
スポーツとか、将棋や碁などでも、毎日、熱心にやって、日に日に、自分の技術が上手くなっていくと、その面白さに、ハマって、しまって、他の事は、考えられなくなってしまうものである。
○
そうして、僕は、ズルズルと、医学の面白さに、ハマっていってしまった。
○
そうして、ズルズルと、二年が過ぎてしまった。
ある日の様子である。
いつの間にか、僕は、吉田内科医院の院長となっていた。
僕は、彼女と、本当に結婚して、しまっていた。
彼女は、生後、三ヶ月になる、男の赤ん坊を、抱いて、幸せそうに、乳をやっている。
彼女が、初夜を求めてきた時、断らなかったのが、失敗だったのだ。
あの時、彼女は、妊娠したのである。
それから、彼女は、しばし、大学病院に近いアパートから、大学付属病院に来ていた。
しかし、しばしして、彼女は、体調が、悪くなったので、休みます、と言って、大学病院に来なくなったのである。
彼女は、アパートで、病気療養のため、休養するようになった。
医師の仕事は、激務なので、結構、体調を崩す人は、いるのである。
病気療養している、彼女に、離婚を要求するのは、可哀想な気がして、僕は、彼女との離婚は、彼女の体調が回復してから、言い出そうと、彼女に気を使ったのである。
病気で、落ちこんでいる人に、嫌なことを、要求すると、精神的に、落ちこんで、ますます、病気が悪化するからだ。
しかし、それが、まずかった。
彼女の病気は、悪化して、彼女は、近くの市民病院に入院するようになった。
入院するほどだから、かなりの病気だと思った。
何の病気かは、わからなかったが。
ある時、彼女から、「あなた。来て」、という電話があった。
僕は、もしかすると、彼女が危篤になったのでは、ないかと思って、急いで、市民病院に行った。
てっきり、内科病棟かと、思ったが、僕は、ナースに、産婦人科に案内された。
彼女は、ベッドの中で、生まれたての、男の、赤ん坊を抱いていた。
何でも、妊娠中毒症で、生命の危機のある難産だったらしい。
「あなた。見て。私と、あなたの子よ」
と、彼女は言った。
僕は、ガーンと、頭を金槌で打たれたような、ショックを受けた。
子は、男と女の、かすがい、である。
子供が、いないのなら、離婚は、難しくない。
しかし、子供が出来てしまった以上、離婚は難しい。
世間の人は、そう思わない人もいるが、僕は、そうではない。
子供が産まれてしまった以上、親が離婚したら、子供が、可哀想である。
それに、生まれた、赤ん坊は、紛れもなく、僕の子なのである。
僕は、ショックで、病院を出て、町を彷徨った。
気づくと、僕は、結局、とうとう、彼女のクリニックである、吉田内科医院に住み、クリニックの院長になっていた。
結局、僕は、彼女を孕ませ、彼女に子供を産ませてしまった責任から、彼女と本当に結婚することになってしまったのだ。
彼女も、大学病院の勤務を辞めて、育児に専念することになった。
育児が、一段落したら、吉田内科医院の仕事を一緒にやります、と、彼女は、言っている。
しかし、それも、本当かどうかは、わからない。
僕は、吉田内科医院の、毎日の、超多忙の、患者の診療に煩殺されて、毎日、疲れ果て、とても、小説を書く気力など、なくなっていた。
○
僕は、この頃、ヤフーメールを送って、美奈子さんと僕の結婚を、言いふらしたのは、実は、医局員の誰か、ではなく、もしかすると、美奈子さん自身なのかもとしれない、と疑うようになった。
しかし、僕が、彼女に、それを聞いても、
「なぜ、そんな荒唐無稽なことを考えるんですか?」
と即座に、眉を吊り上げ、鬼面のようになって、怒って言う。彼女は、
「私が、愛する、大切な、哲也さんに、そんなことを、言いふらして、哲也さんに迷惑をかけて、私に何の得にあるんですか?」
と彼女は、ヒステリックに怒鳴りつける。
そう怒鳴られると、気の小さい僕は、黙ってしまう。
しかし、まあ、それも、もう、どうでも、よくなってしまった。
僕は、いつか、石田君が言った、「死ぬまで、小説を書く、情熱をもっている人間だけが本当の作家だ」という言葉の真実さ、を実感している。
詩人の、ライナ・マアリ・リルケも、「もし、あなたが、書くことを、とめられたら、死ななくてはならないか、どうか、よく考えてごらんなさい」と言っている。
至言であり、石田の、言っていることと、意味は、同じである。
何と弁解しようが、僕は、小説を書かなくても、生きていけるのだ。
所詮は、僕には、死ぬ気で、小説を書こうという、情熱がなかったのだ。
小説を書くことが、僕の使命だ、と、僕は、思っていたが、それは、若者が、誰でも、一度くらいは、かかる、麻疹のようなものに、過ぎなかったのだ。
僕はこの間、ヴェルレーヌの伝記を読んでいると、あのデカダンの詩人が晩年に「平凡人としての平和な生活」を痛切に望んだという事実を知って、僕はかなり心を打たれた。
僕のように天分の薄いものは「平凡人としての平和な生活」が、格好の安住地だ。
流行作家! 新進作家! 僕は、そんな空虚の名称に憧れていたのが、この頃では、少し恥かしい。
昭和、平成の文壇で名作クラシックスとして残るものが、一体いくらあると思うのだ。
僕は、いつかアナトール・フランスの作品を読んでいると、こんなことを書いてあるのを見出した。
(太陽の熱がだんだん冷却すると、地球も従って冷却し、ついには人間が死に絶えてしまう。が、地中に住んでいるミミズは、案外生き延びるかも知れない。そうするとシェークスピアの戯曲や、ミケランジェロの彫刻はミミズにわらわれるかも知れない)
なんという痛快な皮肉だろう。
天才の作品だっていつかは蚯蚓にわらわれるのだ。
ましてや石田なんかの作品は今十年もすれば、ミミズにだって笑われなくなるんだ。
平成28年8月5日(金)擱筆
無理に、自分の、好きでもない、ジャンルの小説を、書いても、書けないことは、ないかもしれないが、嫌々、書いても、情熱が入らないから、面白い、良い作品とはならない。
そういう点、僕は、純文学は、書けないが、エンターテインメントの小説なら、書ける自信はあった。
さしずめ、石田君が、「芥川賞」なら、僕は、「直木賞」を、目指す、というところか。
文学は、個性の世界だから、ある作品と、ある作品の、どっちが、相対的に、優れている、ということは、言えない。
スポーツで言えば、優れた野球選手と、優れたテニス選手と、どっちが、優れているか、などということは、比較できない。のと同じである。
創作とは、つまるところ、自己表現である。
ある作家志望者が、本物であるか、どうかは、その人が、小説を書き続けたい、という情熱を持っているか、どうかに、かかっているのだ。
それを、考えると、僕は、自分を恥じた。
医療を身につけるのは、生活の資のためであり、自分の本命は、小説の創作である、と思っていた、初心を、すっかり、忘れていた自分に、恥じた。
もし、天分の作家なら、たとえ、医療の研修が、面白くても、心の中では、絶えず、創作したい、という、欲求を持ち続けているはずだ。
そちらの方に、心が引き寄せられて行くはずだ。
石田君の、芥川賞候補、の知らせを聞いて、がぜん、僕に、創作欲求が、起こり出した。
「よし。小説を書こう」
僕は、初心を思い出して、あらためて、自分に誓った。
幸い、美奈子先生の丁寧な指導と、僕の熱心な、努力によって、もう、ほとんど、内科医として、やっていける、自信が、僕には、ついていた。
医学の、習得は、やり出したら、きりがない。
上限が無いのである。内科が出来たら、外科にも、興味が出てくるし、さらには、救急科にも、そして、産婦人科にも、皮膚科にも、小児科もに、耳鼻科にも、興味が起こってしまう。
他の人は、そうでは、ないのかもしれないが、少なくとも、僕は、そういう性格だった。
何事にも、はまってしまう、のである。
医学も、パチンコや、麻雀や、競馬などの、中毒性のある、蟻地獄と似ている面がある。
パチンコや、麻雀や、競馬などは、何の価値も無い、人生を無駄に過ごす、単なる、遊びであり、全く無意味なものであり、医学は、学問であり、確かに、価値のあるものでは、あるが、中毒という点では、同じである。
僕は、医学の魅力に、ズルズルと、引きずられないように、しようと、決意した。
僕は、美奈子先生に、申し出て、そろそろ、帝都大学医学部での、研修を、終わりにしようと思った。
○
翌日。
僕は、決死の覚悟をもって、帝都大学医学部に行った。
「おはよう。山野先生」
医局で、彼女が、ニコッと、笑って、挨拶した。
「おはようございます。美奈子先生」
僕は、礼儀正しく挨拶した。
「先生。今まで、手取り足取り、丁寧に、医学を教えてくれて有難うございました」
僕は、彼女に恭しく言った。
「どうしたんですか。山野先生。あらたまって」
彼女は、笑顔で聞き返した。
「はい。僕は、そろそろ、この大学医学部での、研修を終わりにしたい、と思っているんです」
「ええっ。それは、また、どうしてですか?」
彼女の、驚きは、予想通りだった。
彼女は、目をパチクリさせて、僕を見て聞いた。
「最初に、お見合いした時に、言いましたよね。僕は、できれば、将来は、小説家になりたいと思っているんです。ですが、小説家として、認められ、職業作家になるまでには、並大抵のことでは、なれません。それで、僕は、まず、医学を、ちゃんと身につけて、生活費は、医師の仕事で、得て、それで、コツコツと、小説を書いて、作家になりたいと思っているんです。それで、僕も、美奈子先生の指導の、おかげで、一応、内科を身につけることが出来ました。それが理由です。先生には、感謝しても、しきれない思いです」
彼女は、しばし黙っていたが、ニコッと、笑って、顔を上げた。
「ええ。わかりました」
と、彼女は、言った。
「すみません」
と、僕が言うと。彼女は、
「山野先生。一つ、お願いがあるんです。聞いていただけないかしら」
と、言って切り出した。
「はい。何でしょうか?」
「私。一度、結婚というものをしてみたいんです。結婚って、女の憧れなんです。お願いです。山野さん。私と、結婚をして、もらえないでしょうか?」
彼女は、訴えるように言った。
「で、でも・・・」
僕は、返答に窮した。
「形だけで、いいんです。一ヶ月、したら、離婚するということで構いません」
彼女の、押しは強かった。
「で、でも・・・」
僕は、また、返答に窮した。
「山野先生には、突飛なことだと思います。でも、女には、大きなことなんです。特に、女医は、結婚できませんから。一度、結婚した、という、事実があると、これからは、ずっと、わたし、バツイチなんです、と、人に自慢することが、出来ます。それは、すごく、大きいことなんです。これから、結婚できるかどうか、わからない、私にとって。お願いです。一ヶ月したら、離婚する、という条件で。その約束は、ちゃんと守ります。結婚式を、形だけ、挙げてもらえないでしょうか。真っ白な、ウェディング・ドレス。ウェディング・ブーケ。誓いの言葉。交換し合うエンゲージ・リング。二人で入れる、ウェディング・ケーキのケーキ・カット。ああ。何て、素晴らしいんでしょう。私。子供の頃。コバルト文庫の、ティーンズハートの、恋愛小説ばかり、読みふけっていて、きっと、その悪影響だと思うんですが。ともかく、私の、憧れの夢になってしまったんです。お願いです。ダメでしょうか。決して、無理強いは、しません。山野さんが、嫌なら、ハッキリ言って下さい。私の、ワガママなんですから・・・」
彼女に、そう言われると、僕は断れなかった。
「わかりました。僕でよければ・・・。美奈子先生には、たいへん、お世話になりましたし。・・・ただ、たいへん、失礼ですし、申し訳ないですが、一ヶ月で離婚する、という約束は、守って頂けるでしょうか?」
僕は、念を押すように聞いた。
「わー。嬉しい。それは絶対、命にかけて、守ります。有難うございます。山野さん」
と、彼女は、飛び上がって喜んだ。
僕も、男にとっても、結婚は、非常に大きな経験で、それを体験しておくのは、これからの、創作においても、有利になるだろうと、考えた。
「ところで、結婚式は、どこでするんですか?」
僕は聞いた。
「それは、もちろん、町の、小さな教会です。二人きりで。どうでしょうか。山野先生?」
「ええ。そうして、もらえると、僕も助かります」
もちろん、遊びの結婚なので、誰にも知られない結婚式の方が、僕には助かった。
結婚式は、一週間後の日曜日、と、決まった。
こうして、僕は、彼女と一緒に、市役所に行って、婚姻届け、を、出した。
どうせ、結婚式の真似事、ママゴトのような、遊び、だと、思って、僕は、軽い気持ちでいた
○
結婚式の日曜日になった。
僕は、彼女が、レンタル・ウェディング・ショップで、借りてきた、白いタキシードを着て、待っていた。
しはしして、彼女は、タクシーで、やって来た。
彼女は、プリンセスラインの、真っ白の、ウェディングドレスを着ていた。
肩紐の無い、ビスチェ型で、肩・胸・背が大胆に露出していた。
僕は、思わず、うっ、と息を呑んだ。
彼女は、元々、綺麗だが、セクシーな、プリンセスラインの、ウェディングドレス姿の彼女に、僕は、思わず、股間が熱くなった。
「さあ。山野さん。乗って」
彼女に、言われて、僕は、タクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手は、嬉しそうな顔である。
僕が、乗り込むと、運転手は、車を出した。
何だか、町の教会と、行く方向が違う、ことに、僕は、途中から気づき出した。
「あ、あの。美奈子先生。これは、町の教会とは、方向が違いますが、どこへ行くんですか?」
僕は聞いた。
「あ、あの。ちょっとした事情から、結婚式は、別の所で、挙げることになってしまいまして・・・。よろしいでしょうか?」
彼女は、訥々と話した。
僕は、よく、事情が、わからなかったが、まあ、どうせ、真似事の結婚式なのだから、と、あまり気にしなかった。
タクシーは、品川の、聖マリアンナ教会に入っていった。
僕は、びっくりした。
背広姿やスーツ姿の、帝都大学医学部の第一内科の医局員達、が、わらわらと、やって来た。
「美奈子。きれいだよ」
「美奈子先生。おめでとう」
医局員たちは、口々に、祝福の言葉を、述べた。
僕は、頭が混乱した。
背広を着た、第一内科の、教授の姿まであった。
僕は、何が何やら、訳が分からないまま、タクシーを降りて、彼女と、聖マリアンナ教会の、控え室に、入った。
「あ、あの。美奈子先生。これは、一体、どういうことでしょうか?」
僕は聞いた。
「あ、あの。今朝、タクシーに乗って、山野さんのアパートに向かっていた時に、私のスマートフォンに、ヤフーメールが、届いたんです。アドレスは、知らない人なんです。これを見て下さい」
そう言って、彼女は、スマートフォンを、僕に渡した。
僕は、すぐに、スマートフォンを受けとり、彼女に来た、ヤフーメールを見た。
それには、こう書いてあった。
「美奈子先生。ご結婚、おめでとうございます。つきましては、挙式は、聖マリアンナ教会で、行う、予約をとってあります。帝都大学医学、第一内科の、医局員達、教授、および、美奈子先生の、ご両親、親戚なども、出席します。なので、どうか、そこへ行って下さい」
僕は、びっくりした。
「あ、あの。山野先生。ごめんなさい。このメールを送ったのは、医局員の誰かだと思います。私と先生の、今日の、結婚の真似事のことを、知ってしまったんでしょう。それで、医局員みんなに、話してしまったのでしょう。一体、どういう理由で、こんなことをしたのかは、わかりません。おそらく、悪いイタズラ心から、だと思います。しかし、ともかく、私は、急いで、何人かの医局員に電話して聞いてみたんです。そしたら、みんな、それを知っていて、聖マリアンナ教会に向かっている、と言ったんです。私も、大袈裟なことになってしまって、困っているんです。山野さん。どうましょう?」
彼女が聞いた。
「・・・・」
僕は、答えられなかった。
これは、極めて悪質なイタズラだと、僕も思った。
(アクドい、悪戯をする人もいるものだな)
僕は、心の中で、呟いた。
しかし、もう、ここまで、来てしまっては、今さら、キャンセルするわけにも、いかない。
「もう、今さら、結婚式をとりやめるわけにも、いきません。教授も来ていますし。ここで、結婚式を挙げましょう」
と、僕は、言った。
「ごめんなさい。そして、有難うございます。こんな、悪質な、悪戯をして、山野さんに、迷惑をかけた、犯人は、必ず、見つけ出して、山野さんに謝らせます」
と、彼女は、言った。
ホールでは、重厚なオルガンの音が鳴っている。
「それでは、新郎新婦の入場です」
司会者の声が聞こえた。
僕は、彼女と、手をとりあって、ホールに入っていった。
パチパチパチと、拍手が鳴り響いた。
僕と、美奈子さんは、手をとりあって、会場に入っていった。
僕は、吃驚した。
白い髭を生やした、白髪の、ローマ法王のような、牧師が、厳かに、立っていた。
僕と、美奈子さんは、牧師の前で、立ち止まった。
オルガンの音が止まった。
結婚の誓いの宣言の始まりである。
僕と美奈子さんは、牧師の方を向いた。
牧師は、まず、美奈子さんの方を見た。
「吉田美奈子。汝、この男を夫とし、その健やかなる時も、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも 富めるときも、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓うか?」
牧師が言った。
「誓います」
美奈子さんが、頬を赤くして言った。
次に、牧師は、僕の方へ視線を向けた。
「山野哲也。汝、この女を妻として娶り、その健やかなる時も、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも 富めるときも、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くすことを誓うか?」
牧師が言った。
「誓います」
僕は、嫌々、仕方なく言った。
ここまできて、今さら、ノーコメントと、言ったり、「誓いません」などと、言えるはずがない。
僕と彼女は、エンゲージリングを交換し合った。
「では。誓いのキスを・・・」
牧師が言った。
美奈子さんは、両手を、僕の背中に廻して、僕を抱きしめ、僕の唇に、自分の唇を重ねてきた。そして目を閉じた。
美奈子さんは、僕の唇の中に、舌を伸ばしてきた。
そして、僕の舌に、絡め合わせた。
美奈子さんは、貪るように、僕の唾液を吸った。
500ccくらい、吸ったのではなかろうか。
普通、誓いのキスは、唇を、そっと触れ合わせるだけの、ソフトタッチのキスで、時間も、せいぜい、5秒ていどなのに、僕は、彼女の、ディープキスに驚いた。
「わー」
「きゃー」
と、皆が叫んだ。
誓いのキスは、10分くらい、続いた。
そして、ようやく、誓いのキスが終わると、彼女は、顔を離した。
「ごめんなさい。山野さん。つい嬉しくて・・・」
と、彼女は小声で言った。
「では、これにて、新郎、山野哲也と、新婦、吉田美奈子、の結婚の式は終わりとします」
と、牧師が閉式の辞を述べた。
僕と、美奈子さんは、腕を組んで、白いバージンロードを、おもむろに、歩いて、出ていった。
僕と美奈子さんは、教会を出た。
前には、タクシーが停めてあった。
運転手は、タクシーのドアを開けた。
「あ、あの。山野さん。お乗りになって」
戸惑っている僕に、彼女は言った。
言われて、僕は、タクシーの後部座席に、乗り込んだ。
彼女も、僕の隣りに乗った。
タクシーは、動き出した。
これで、ようやく、アパートに帰れるんだな、と、思って、僕は、ほっとした。
「あ、あの。山野さん」
「はい。何でしょうか?」
「あ、あの。つい、さっき、教会に着いた時、私のスマートフォンに、ヤフーメールが、届いたんです。アドレスは、さっきの人と、同じです。これを見て下さい」
そう言って、彼女は、スマートフォンを、僕に渡した。
僕は、すぐに、スマートフォンを受けとり、ヤフーメールを見た。
それには、こう書いてあった。
「美奈子先生。ご結婚、おめでとうございます。とても素敵でした。つきましては、この後、高輪プリンスホテルに行って下さい。会場を予約してあります。披露宴です。皆も、挙式が終わった後は、高輪プリンスホテルに向かいます。キャンセルするとなると、かなりのキャンセル料が、とられてしまいます。皆も楽しみにしています。どうか、高輪プリンスホテルに行って下さい」
「あ、あの。先生。どうしましょう?」
彼女が困惑した顔で聞いた。
げげっ、と、僕は驚いた。
しかし、もう、ホテルの会場を借り切って、いるし、皆も、高輪プリンスホテルに向かっているのである。
今さら、とりやめるわけには、いかない。
「わ、わかりました。披露宴も、しましょう」
僕は、ため息をついて言った。
「有難うございます。先生には、たいへん、ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありません。私も、本意ではありませんが、こうなっては、もう、皆の用意してくれた、披露宴に出るしか道はないと思っていたんです」
と、彼女は、言った。
「でも、一体、大学病院の、誰が、こんなことを提案したのかしら?こんな悪質なイタズラをした人は、必ず、つきとめて、必ず、見つけ出し、山野さんに対する、名誉棄損として、民事訴訟します。一体、誰が・・・?。耳鼻科の、順子かしら。それとも、眼科の、久仁子かしら。ああ。でも、仲のいい友達を疑うのって、本当に、心が痛むわ」
と、彼女は、ため息をついて、独り言をいった。
こうして、僕と美奈子さんを、乗せたタクシーは、高輪プリンスホテルに着いた。
彼女は、裾がだだっ広くて、歩きにくそうな、純白の、プリンセスラインの、ウェディングドレスから、裾が、ちょうど、床に触れる程度の、Aラインの、純白のドレスに、着替えた。
しかし、ビスチェ型で、肩・胸・背は大胆に露出していた。
僕は、教会での、タキシードのままだった。
披露宴が始まった。
「では、新郎、新婦の、ご入場です。皆さま。拍手でお出迎え下さい」
司会者が言った。
僕と、美奈子さんは、手をとりあって、披露宴の会場に入った。
「わー」
「美奈子先生。ステキ」
会場にいる、人達が、拍手して、僕と彼女の、二人を出迎えた。
目の前には、大きな、バベルの塔のような、ゆうに2mを越しているほどの、ウェディング・ケーキがあった。
テーブルは、20席くらいあり、一つの、テーブルには、5~6人が座っていた。
「では。これより、新郎、山野哲也さんと、新婦、吉田美奈子さんの、披露宴を行います。では、まず、この結婚の仲人である、帝都大学医学部第一内科の、菊池泰弘教授に、祝いの言葉をお願いしたいと思います。菊池泰弘先生。よろしくお願い致します」
司会者は、そう言って、教授の方を見た。
教授は、嬉しそうな、えびす顔で立ち上がった。
僕は、びっくりした。
「な、何で、教授が、仲人なんですか?」
僕は、小さな声で、隣りの、美奈子さんに、聞いた。
「私にも、わかりません。今、知って、吃驚しています。一体、誰が、こんな提案をしたのかしら。教授も教授だわ。こんな役を、引き受けるなんて・・・」
と、美奈子さんは、言った。
僕と彼女の、驚きを余所に、教授は、コホンと、咳払いして、話し始めた。
「えー。この度は、我が、帝都大学医学部、第一内科の、吉田美奈子先生と、山野哲也先生が、結ばれることになり、たいへん、嬉しく思っています。吉田美奈子先生は、学生時代から、そして、卒業して、第一内科に入局してからも、医局員の中でも、一番、真面目で、明るく、私の、そして、帝都大学医学部の、誇りであります。山野哲也先生も、帝都大学医学部の第一内科に入局してからは、寝る間も惜しんで、一意専心、医学の研修に励んできました。医学にかける情熱は、吉田美奈子先生に、勝るとも劣りません。まさに、これ以上、相性の合う、男女は、この世に、いないと、私は、思っております。二人は、これからも、末永く、お互い、切磋琢磨して、いずれは、帝都大学医学部、第一内科を、引っ張っていって欲しいと、思っています。では。これを、もちまして、私の、祝辞の言葉と、させていただきます」
と、教授は、述べた。
パチパチパチ、と、会場に、拍手が起こった。
「それでは、新郎と新婦による、ウェディング・ケーキへの入刀をお願い致します」
司会者は、そう言って、僕たちに、ナイフを渡した。
僕と美奈子さんは、二人で、ナイフを持って、巨大な、ウェディング・ケーキに、ナイフを入れた。
パチパチパチ、と、会場に、盛大な、拍手が起こった。
「では。新婦の、吉田美奈子さんの、友人代表として、吉田美奈子さんの、お友達である、伊藤佳子さん。お祝いの言葉を、お願い致します」
司会者が言った。
言われて、第一内科の、一人の女医が立ち上がった。
「美奈子さん。山野哲也先生。ご結婚、おめでとうございます。思えば、長いようで、短い、六年間の大学生活でした。美奈子さんは、中間試験も期末試験も、難しい病理学の勉強も、何でも、丁寧に教えてくれました。私にとっては、難しい医学の、単位を取ることが出来たのも、そして、卒業できて、医師になれたのも、全て、美奈子さん。あなたのおかげです。美奈子さんには、一生、感謝しても、しきれません。もし、私と同期の生徒に、美奈子さんが、いなかったら、おそらく私は、難しい医学を理解できず、何年も留年して、結局、単位が取れなくて、大学を中退していただろうと、思っています。何の誇張も無く、美奈子さんは、私の命の恩人です。これからも、ご指導、ご鞭撻、よろしくお願い致します。それと。山野哲也先生。どうか、美奈子さんを、幸せにしてあげて下さい」
彼女は、涙をボロボロ流しながら言って、着席した。
「では。乾杯の音頭を、帝都大学医学部の、第一内科の、菊池泰弘教授にお願いしたいと思います」
司会者が言った。
教授が、立ち上がった。
ワイングラスを、持って。
「では、山野哲也先生と、美奈子さんの、末永い幸せを、祝って・・・カンパーイ」
そう言うや、会場にいる、皆は、手に持った、ワイングラスを、カチン、カチンと、触れ合わせた。
無数の、ワイングラスが、触れ合う、乾いた音が、会場に響いた。
「では。皆さま。教会での、結婚式から、何も食べずに、お腹が、減っていることと、思います。どうぞ、お食事を召し上がって下さい」
そう司会者が言った。
各テーブルに、豪華な、フランス料理のフルコースが、次々と、運ばれてきた。
「うわー。美味しそうー」
「お腹、ペコペコだよ」
「それでは、頂きます」
そう言って、賓客たちは、料理を食べ始めた。
美奈子さんは、司会者に、目配せされて、そっと、席を立ちあがった。
「あっ。美奈子さん。どこへ行くんですか?」
僕は、彼女に聞いた。
「あ。あの。お色直し、です」
彼女は、顔を赤らめて、恥ずかしそうに言った。
美奈子さんが、いなくなった、中座の時間に、大きなスクリーンに、映像が、映し出された。
美奈子さんの、生まれた時の写真、から、小学生の時の運動会、高校の時の入学式や、卒業式、医学部での、卒業式、などの、写真が、次々と、スクリーンに、映し出された。
皆は、食事をしながら、スクリーンを見て、
「へー。美奈子の子供の時の写真、はじめて見たよ」
とか、
「子供の時にも、今の、面影が感じられるな」
とか、
「海水浴に行った時の、ビキニ姿が無いのが、残念だな」
とか、様々なことを、語り合っていた。
10分ほどして、美奈子さんが、戻ってきた。
ピンク色の、ドレスを着て。
これも、ビスチェ型で、肩・胸・背は大胆に露出していた。
「きれいだよ。美奈子。優秀な女医とだけ、いつも見えていたけれど、やっぱり女なんだな」
男の同僚が言った。
「ステキだわ。美奈子さん」
女の同僚が言った。
色直しをして、ピンクのドレスを着た、彼女が、僕の隣りに座った。
やがて、皆、フルコースのフランス料理も、食べ終わった。
披露宴も、終わりに近づいた。
「では。美奈子さん。お父様と、お母様に、何か、お言葉を、お願い致します」
司会者が言った。
美奈子さんは、立ち上がった。
「お父さん。お母さん。今まで、私を育てて下さって、有難うございます。私は、子供の頃から、毎日、真剣に、患者の診療に取り組む、お父さんの姿を見て、自分も、医師になろうと思いました。今日、このような、嬉しい日を迎えることが出来て、何と言っていいのか、お礼の言葉が見つかりません。本当に、今まで、有難うございました」
と、美奈子さんは言って、深く頭を下げた。
彼女の、目には、涙が光っていた。
「ばか。美奈子。つまらんことを言うな。親が子供を育てるのは、当たり前のことだ」
彼女の父親が、即座に言った。
父親も、涙を流していた。
「では。これにて、新郎、山野哲也さんと、新婦、山野美奈子さんの、披露宴を、終わりと致します」
司会者が言った。
僕と、彼女は、式場の出口に並んで立った。
招待客が、一列に並んで、式場を出て行った。
「きれいだよ。美奈子。嬉しいよ。わしゃ」
彼女の、祖父母が、言った。
「山野さん。ふつつかな、娘じゃが、どうか、よろしゅう、お願いします」
と、禿げ頭の、彼女の父親が、僕に言った。
「美奈子。おめでとう」
「幸せになってね」
と、彼女の手を握って。
美奈子は、一人一人に、
「有難う」
と、握手した。
こうして、招待客の全員が、式場を出た。
○
やっと、披露宴が終わって、僕は、ほっとした。
不本意な、成り行き上ではあるが、披露宴なので、披露宴らしく、振舞うのは、仕方がないと、僕は、じっと、我慢していたが、内心では、困りはてていた、というか、ここまで悪質なイタズラをした、誰かに、いいかげん、頭にきていた。
「ごめんなさい。山野さん。さぞ、不快でしたでしょう。イタズラをした人は、私の、両親や、親戚にまで、告げていたんですね。私も、焦りました。しかし、こうなっては、もう、乗りかかった船で、仕方がない、と思い、披露宴は、披露宴らしく振舞おうと、思ったんです。こんな、イタズラをした人は、必ず、見つけ出し、民事訴訟で訴えます」
僕の心を推し量ってか、彼女は、そう言った。
「いえ。そこまで、しなくてもいいですが・・・。美奈子さんは、困らないのですか?だって、一ヶ月したら、離婚する、真似事の結婚式ですよ。離婚した後、皆との、関係が、気まずくなってしまうんじゃありませんか?」
僕は聞いた。
「私は、構いません。大丈夫です。山野さんは、男だから、わからないかもしれませんが。女って、結構、我慢強いんですよ。女は、月に一度の、つらい生理に、耐えて、生きていますから。それが、女の生きる宿命なんです。それに、出産の時にも、女は、苦しんで、子供を産まなくてはなりません。そのことも、いつも、女の、潜在意識に、根を張っているんです。ですから、一ヶ月後に、離婚しても、皆との、関係が、気まずくなることは、ありませんし、かりに、気まずくなっても、女は、我慢強いから、それくらいのことは、耐えられます。それに、山野先生は、私との結婚を望んでいませんが、私は、出来ることなら、山野先生と本当に結婚したいと、望んでいますので、真似事でも、こうして、山野先生と、結婚式を挙げることが、できたことは、私の、一生の、素晴らしい思い出となります。イタズラされたのは、私も、不快でしたが、今日は、本当に、楽しかったです。今日は、悪質な、イタズラをされた不快感と、でも、結果として、真似事でも、山野先生と結婚できた喜びと、そして、一体、誰が、こんな悪質な、イタズラをしたのかという、犯人の顔が、次から次へと、頭をよぎり続けた、猜疑心の、三つの思いが、頭の中でグルグルと、回り続けた、本当に、複雑な思いでした」
彼女は、言った。
「そうですか」
僕は、わかったような、わからないような、あやふやな返事をした。
「でも、山野先生にとっては、本当に、迷惑ですよね。どうして、こういうイタズラをしたら、山野先生が困る、ということを、慮ることが出来ないのかしら?一体、誰が、皆に、言いふらしたのかしら。順子かしら。久仁子かしら。それとも青木君かしら。青木君は、学生時代から、度の過ぎた、イタズラをしていましたから・・・。ああ。でも、人を疑うのって、本当に、心が痛みますわ」
そう彼女は、嘆息した。
その時、彼女のスマートフォンが、ピピピッと、鳴った。
彼女は、スマートフォンを取り出した。
「あっ。また、イタズラをした人のヤフーメールだわ」
彼女は、そう言って、メールを読んだ。
彼女は、黙って、一心にメールを読んでいた。
「ああ。そういう理由から、だったのね」
しばし、してから、彼女は、深く、ため息をついた。
「どうしたんですか。美奈子さん。今度は、どんな要求ですか?」
僕は聞いた。
彼女は、答えず、
「先生。見て下さい」
と言って、スマートフォンを、僕に渡した。
僕は、すぐに、スマートフォンを受けとり、彼女に来た、ヤフーメールを見た。
それには、こう書かれてあった。
「美奈子。ごめんなさい。あなたが、山野先生と、結婚の真似事をして、一ヶ月間だけ、夫婦になる、という噂を、聞いて知ったのは私です。それを、山野先生と、美奈子は、本当に結婚する、から、立派な、教会と、ホテルで、やって、皆で祝福してやろうと、第一内科の、医局員の数人に、メールを出したのは、私です。町の小さな教会で、二人だけで、結婚式を挙げる、のではなく、皆で、立派な所で、祝福してやろう、と、皆に、メールを送ったのは、私です。本当なら、ちゃんと、名乗り出て、言うべきですが、匿名のメールで、伝えることしか出来ない、私の憶病さを、許して下さい。私の本心を言います。私は、決して、ふざけ半分の、イタズラが動機で、こんなことをしたのでは、ありません。私は、美奈子が、山野先生と、本気で結婚したがっている、ことを、知っていました。私は、美奈子先生に幸せになって、欲しいので、もしかしたら、これが、きっかけで、山野先生の心が、美奈子に動いて、二人が本当に、結婚することに、なってくれは、しないかと、望みを託して、皆に、メールで、送ったのです。皆には、山野先生と、美奈子は、本当に結婚する、と、ウソを告げました。また、山野先生の心が、美奈子に動かなくて、一ヶ月で、別れることになっても、こうすれば、きっと、美奈子も、喜ぶと、思ったからです。美奈子。一ヶ月でも、結婚は結婚です。一ヶ月間の、結婚生活を楽しんで下さい。それと。山野先生。申し訳ありません。心より、お詫び致します。一ヶ月して、別れたら、皆に、二人の結婚の真似事を、知っていながら、あたかも、本当に、二人が、愛しあって、結婚を決めた、と、私が、ウソのメールを、皆に、送った、という、真実を全て、皆のメールに送ります。これも、匿名メールでします。ごめんなさい。離婚後、美奈子と山野先生が、医局で、気まずい仲に、ならないよう、悪いようには、しません。全て、匿名で行なう、憶病な私を許して下さい。美奈子さんの、了解もとらずに悪いことを、してしまいました。言い訳がましいですが、決して、悪意からではなく、美奈子が、幸せになって欲しいという、私の、心からの思いからしたことです」
僕は読み終えて、ため息をついた。
「そうだったのか。そういう理由からだったのか」
僕の、苛立ちは、なくなった。
「ところで。美奈子さん」
「はい。何でしょうか?」
「決めつけるべきでは、ないですけど。もしかして、ヤフーメールを、送ったのは、さっき、友人代表として、祝辞をのべた、伊藤佳子さん、では、ないでしょうか。彼女は、あなたを、すごく敬愛していますから」
「いえ。それは違うと思います。山野さんが、そう考えるのは、無理ないと思いますが。彼女は、そういうことをする性格ではありません。私は、彼女と、六年間、一緒に、大学生活をしてきたから、わかるんです。それに、もし、彼女が、ヤフーメールの、送り主であるのなら、ああいう祝辞は、述べないでしょう。だって、ああいう祝辞を、述べたら、ヤフーメールの、送り主ではないかと、疑われるのは、明らかですから」
「なるほど。確かに、そうですね。では、一体、誰が、送ったのでしょう?」
「それは、わかりません」
「ところで、山野先生。こうと、わかった以上、これから、一ヶ月は、皆の前で、新婚らしく、振舞いませんか。一ヶ月した後、離婚しても、ヤフーメールを送っている人が、本当の事を、皆に告げるのですから」
彼女は、そんな提案をした。
「そうですね。いきなり、昨日の、結婚は、ウソです、などと、皆に言ったら、皆、混乱して、不快になるでしょうし、医局が険悪な雰囲気になってしまうでしょうから。出来るだけ、穏便に、対処しましょう。」
「では。先生は、不本意でしょうが、一ヵ月間は、新婚らしく振舞って下さい。私も、そうします」
「ええ。わかりました」
こんな会話をして、僕と、彼女は、別れた。
僕が、気前よく、彼女の提案に同意したのは、もちろん、彼女の言うように、医局の雰囲気を険悪にしないためには、それが、一番いい、と思ったからだ。
○
翌日は、日曜日だった。
昨日の、緊張と、疲れから、僕は、一日中、寝て過ごした。
○
月曜日になった。
僕は、帝都大学医学部の第一内科に行った。
とても、緊張していた。
僕が、医局室に入ると、皆が、一斉に、僕を見た。
「あっ。山野先生。おはようございます」
皆は、嬉しそうに、挨拶した。
「おはようございます」
僕は、照れくさくて、小さな声で、挨拶を返した。
「先生。一昨日の、結婚式は、素晴らしかったですよ」
「先生。やっぱり結婚式は、町の小さな教会で、するよりも、盛大にやった方が、よかったでしょう?」
「ハネムーンは、どこへ行くんですか?」
「先生が、美奈子先生と、結婚を考えていたなんて、まったく気づきませんでした」
医局員たちは、それぞれに、勝手なことを言った。
僕は、何と言っていいか、わからず、返答に窮した。
その時。
ガチャリと、医局室の戸が開いた。
「みんな。おはよー」
美奈子さんが、元気な声で、入って来た。
「あっ。先生。おはようございます」
「おはよう。美奈子」
皆の関心が、彼女に、移ってくれて、僕は、助かった、思いだった。
「ところで、これからは、姓が、変わって、山野美奈子先生となるんですか。それとも、今まで通り、吉田美奈子先生なのですか?」
一人の医局員が聞いた。
「それは、もちろん、山野美奈子よ」
彼女は、嬉しそうに言った。
「じゃあ、これからは、山野先生は、山野哲也先生と、名前まで、入れて呼ばないとね」
と、医局員が言った。
第一内科の、医局の中で、「山野」の、姓は、僕一人だった。
なので、今までは、僕は、「山野先生」と、苗字だけで呼ばれていた。
でも、これからは、美奈子先生も、「山野」の姓になるので、「山野先生」と、苗字だけで呼ぶことが、出来なくなってしまう。
名前まで、入れられて、呼ばれるとなると、少し、照れくさいな、と僕は思った。
「美奈子先生と、名前で、呼んでもいいんじゃない?」
一人の女医が言った。
「そうね。その方が、呼びやすいかもね」
と、医局員が言った。
「美奈子」の、名前も、医局で、彼女一人だった。
「ところで、美奈子。ハネムーンは、どこへ行くの?」
一人の女医が聞いた。
「そうねえ・・・」
と、彼女は、上を向いて、少し考え込んだ。
その時、医局室の戸が、ガチャリと開いて、第一内科の教授が入って来た。
「おい。お前達。午前の診療は始まっているぞ。早く、外来や病棟へ行け」
と、教授は、急かすように言った。
「はーい」
皆は、ちょっと、残念そうな、口調で、答えた。
「美奈子。じゃあ、また、あとで、哲也先生と、結婚に至った経緯を色々と聞かせてね」
と言いながら。
「じゃあ、みんな。昼休みに、私と哲也さんの、結婚について、記者会見をするわ」
美奈子先生が嬉しそうに言った。
「うわー。ホント。楽しみだわ」
みなは、そう言って、嬉しそうな顔で立ち上がって、医局室を出て行った。
僕も、美奈子先生も、病棟に行った。
「あなた。予想以上の、反響ね。じゃあ、私、記者会見で、聞かれそうな、質問と、その答えを、今から、考えるわ。それを、スマートフォンで、送るから、あなたは、それを答えるだけでいいわ」
彼女は、そう言って、カンファレンス・ルームへ行った。
僕は、助かった思いがした。
所詮は、結婚の、真似事なので、僕には実感が無く、何を聞かれるかも、わからないし、また、聞かれた質問に対し、どう答えればいいのかも、わからない。
彼女は、頭が良いから、適切な、問答集を、つくってくれるだろうと、思った。
僕は、ナースセンターで、患者の病状に変化はないかを、聞いてから、病棟に行って、受け持ち患者を診察し、ナースに、指示を出した。
もう、僕は、ほとんど、一人で、内科患者は、診療できるようになっていた。
しかし、彼女に、「あなた」と呼ばれたのには、何だか、違和感を感じていた。
午前中の診療時間が、終わりに近づいてきた。
僕は、彼女の、結婚の問答集、を早く欲しくて、カンファレンス・ルームに行った。
「美奈子先生。問答集は、出来ましたか?」
僕は聞いた。
「ちょっと、待ってて。理絵がメールを送ってきて、理絵が、クラスを代表して、質問するから、と言って、質問集を、送って来たの。だから、その、答えを、考えているの」
そう言って、彼女は、スマートフォンを、カチャカチャ、操作していた。
○
昼休みになった。
僕と、彼女は、医局室にもどった。
ちょうど、記者会見のように、医局の机が、準備されていた。
「さあ。あなた。座りましょう」
彼女に、言われて、僕と、彼女は、記者会見のように、隣り合わせに、座って、皆と、向き合った。
皆は、もう、席に着いていた。
質問したくて、ウズウズしている、といった様子だった。
「では、これから、哲也先生と、美奈子先生の、結婚記者会見をします」
真ん前に座っている理絵が言った。
「みんなー。勝手に、質問すると、二人も答えにくいわ。ここは、私が、代表して、質問するわ。ねっ。いいでしょ?」
理絵は、後ろを、振り返って、医局員たちに聞いた。
「ああ。いいよ」
皆は、快く答えた。
理絵は、帝都大学医学部の、美奈子のクラスに、美奈子先生に次ぐ二番の成績で入学して、六年間、クラス委員長をしてきたのだった。クラスの、まとめ役だった。
美奈子先生の次に、頭も良かった。
「では、僭越ながら、皆を、代表して私が質問します」
理絵が言った。
その時、僕の、ポケットの中の、スマートフォンが、ピピピッっと、鳴った。
僕は、急いで、スマートフォンを、取り出した。
美奈子が、作ってくれた、結婚問答集だった。
ギリギリで、間に合って、僕は、ほっとした。
僕は、何も考えず、彼女の考えてくれた、答えを言えば、いいだけなのだから。
さっそく、理絵は、僕に質問してきた。
「山野先生。どうして、スマートフォンを、見ているんですか?」
僕は、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、見て、赤面した。
しかし、答えないわけには、いかないし、僕には、何と答えていいか、わからなかった。
なので、美奈子先生が書いた、答えを赤面しながら読んだ。
「それは、結婚式の時の、美奈子のウェディング・ドレス姿が、あまりにも美しいので、一刻たりとも、目が離せないからです」
うわー、すごーい、アツアツなのね、などと、皆が言った。
「ハネムーンは、どこへ行く予定ですか?」
理絵が聞いた。
僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。
「すべて美奈子に任せてあります。美奈子が望むのなら、北極でも南極でも、アマゾンのジャングルへでも、構いません」
また。うわー、すごーい、アツアツなのね、などと、皆が言った。
「プロポーズの言葉は何ですか?」
理絵が聞いた。
僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。
「美奈子さま。あなたは、僕の女神さまです。どうか、僕と結婚して下さい。ダメと、言われたら僕は、間違いなく、今すぐ、高層ビルから飛び降りて死にます」
また、うわー、すごーい、と、歓声が起こった。
「美奈子先生の、チャームポイントはどこですか?」
理絵が聞いた。
僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。
「ふっくらした大きな胸です。太腿です。黒目がちな、つぶらな目です。お尻です。耳です。鼻です。可愛らしく、窪んだ、おヘソです。髪の毛です。首です。つまり、すべてが、好きです」
うわー、すごーい。山野先生って、見かけによらす、大胆で凄いことを言うのね、と、皆が言った。
「初夜は、どんな雰囲気でしたか?」
理絵が聞いた。
僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。
「それはもう、夜が明けるまで、一時たりとも、休むことなく、激しく、燃えつづけました」
うわー、すごーい。山野先生って、見かけによらす、凄いことを言うのね、と、皆が言った。
「出産に関する計画があったら、教えて下さい」
理絵が聞いた。
僕は、また、美奈子先生が、書いた、その質問に対する答えを、赤面しながら、言った。
「一姫二太郎が、欲しいです。もしかすると、初夜に、新しい命が授かったかもしれません」
うわー、山野哲也って、凄いことを、平気で言うのね、と皆が言った。
それ以外にも、理絵の質問と、その答えは、赤面せずには、言えない答え、ばかりだった。
記者会見は、30分くらいで、あらゆることを、根掘り葉掘り、聞かれた。
「では、これで、哲也先生と、美奈子先生の、結婚記者会見を終了します」
真ん前に座っている理絵が言った。
パチパチパチと拍手が起こった。
「じゃあ、みんな。職員食堂に行きましょう。午後の診療に、遅れちゃうわ」
医局員の一人が言った。
「ああ。そうだね」
皆は、席を立ち上がって、職員食堂に向かった。
医局室には、僕と美奈子さんの二人になった。
「美奈子さん。これは、ちょっと、行き過ぎなのでは、ないでしょうか?」
僕は彼女に、聞いた。
「ごめんなさい。私も、今、考えると、熟慮が足りず、一部、不適切な所があったと、反省しています」
彼女は、そう言って、殊勝に、ペコリと頭を下げた。
(一部、不適切、なのではなく、全部、不適切だ)
と、僕は、言いたかったが、彼女に、殊勝に、謝られると、気の小さい僕は、強気に、本心を言うことは、出来なかった。
○
こうして僕は、あと一ヵ月間、彼女と離婚する日まで、帝都大学医学部の第一内科で、研修を続けることになった。
僕の計画では、内科が、しっかり出来れば、それで、アルバイトでの代診や、当直や、どこかの病院で、週一日の、非常勤医師として、やっていけるので、それでいい、と、思っていた。
医師の、アルバイトは、給料が、すごく、いいのである。
それで、アルバイトで、生活費を稼ぎながら、小説を書き、小説家を目指そうと、思った。
というか、小説を書きながら、医師のアルバイトで、生活費を稼いで、小説家を目指そうと、思った。
僕は、後、一ヶ月の、我慢だ、と、自分に言い聞かせながら、研修を、続けた。
医学という、学問は、無限の世界だが、町医者として、患者を、ちゃんと、診療できるようになるには、一年間、否、半年程度の、研修を、みっちり、やれば、出来るようになるのである。
○
彼女と、結婚して、二日くらいした日に、石田君から、電話が来た。
「やあ。久しぶり」
石田君は、元気のいい声で言った。
「やあ。久しぶり」
僕も、返事した。
石田君の声は、やけに嬉しそうだった。
「ところで、電話をかけてきた用は何?」
僕は聞いた。
「いや。どうでも、いいことなんだけれどね。この前の作品とは、別の作品を、集英社に投稿したら、すばる文学賞の、第一次選考に通ってね。それで、つい、嬉しくて、電話したんだ」
と、彼は言った。
「ええっ。ホント。それは、すごいじゃない。おめでとう」
「いや。まだ、第一次選考に、通った、というだけで、受賞したわけでも、ないんだけれど。つい、嬉しくてね」
「いやー。一次選考に、通った、というだけでも、すごいよ」
「山野君。ところで、君は、今、どうしてる?」
石田君が聞いた。
「今、まだ、帝都大学医学部で、毎日、研修をしているんだ。だけど、もう、医者として、一人でやっていける、自信も、ついたし、あと、一ヶ月で、辞めるつもりさ。そうしたら、創作一筋の生活に入るつもりさ」
僕は言った。
「そうかい。それは、よかったね。君も、早く、作家として、世に認められることを、僕も切に願っているよ」
そう言って、石田君は、電話を切った。
おめでとう、とは、社交辞令上、言ったものの、僕は、かなり、石田君に嫉妬していた。
芥川賞に、つづき、今度は、三島由紀夫賞か、と、僕は、石田君を嫉妬した。
着実に、作家としての道を歩んでいる、石田君を、僕は、嫉妬した。
石田君は、文学の、友人であると、同時に、ライバルでも、あった。
正直に言うと、僕は、石田君に対して、文学の、ライバルとして、敵意さえ持った。
もっと、本音を言うと。
(ちくしょう。石田のヤツめ。これみよがしに、自慢してきやがって。鼻持ちならんヤツだ)
と、僕は、石田を憎んだ。
しかし、石田君の、受賞や、第一次選考通過、の、知らせ、というか、事実は、僕の気持ちを、創作へ駆り立てた。
忘れていた、創作へのファイトが、再び、炎のように、僕の心の中で、メラメラと燃え盛ってきた。
僕も、早く、研修医を、辞めて、小説を書かねば、と、僕は、焦った。
(あと、一ヶ月の我慢だ)
と、僕は、自分に言い聞かせた。
僕の、石田に対する、嫉妬が、その日の内に、だんだん憎しみに変わっていった。
(無神経なヤツだ。これみよがしに、自慢してきやがって。鼻持ちならんヤツだ)
という思いが、激しくなっていった。
(あんなイヤミなヤツ、死ねばいいんだ。そうすれば、小説も書けなくなる)
と、僕は思った。
僕は、その夜、丑の刻を待った。
僕は、夕食の後、白装束に身をつつみ、顔も白粉で真っ白にした。
頭にはめる鉄輪と、蝋燭を三本用意した。
そして、藁人形を作って、それに、「石田」とマジックで書き、五寸釘と、金槌を用意した。
僕は、深夜1時に家を出た。
僕のアパートの近くには、神社があった。
僕は、車で、その神社に行った。
神社には御神木が、あった。
僕は、パトカーに、怪しまれないよう、スピードを落として行った。
丑の刻参りの、藁人形の、呪いは、不能犯であって、警察に逮捕されることはないが、職務質問で見つかると、注意され、その後、出来にくくなるからだ。
僕は、白装束に身をつつみ、顔も白粉で真っ白にした。
そして鉄輪を頭にはめると、三本の蝋燭を用意した。
僕は、御神木に、「石田」と書いた、藁人形を押し当てた。
そして、藁人形に五寸釘を垂直に当てて、
「死ねー。死ねー。石田のクソ野郎、死ねー。死ねば、小説も書けないし、小説家にもなれない」
と、憎しみを込めて、金槌で、五寸釘を、何回も、打ち込んだ。
カーン。カーン、という、呪いの音が、しんとした、森の中に響いた。
○
翌日。
僕が、不快な気分で、帝都大学医学部へ行くと。
美奈子先生が、僕を見つけると、血相を変えて、駆け足で、やって来た。
「山野さん。たいへん、申し訳ないのですが、父が、軽い、心筋梗塞で、倒れてしまいました。すぐ、救急車で市民病院に入院しました。医師の話によると、一週間くらいで、退院でき、仕事にも復帰できる、らしいんです。父が退院する、までの、一週間くらいだけ、うちのクリニックで、診療して、頂けないでしょうか。お礼は、はずみます」
と、彼女は、言った。
「そうですか。でも・・・。美奈子先生。あなたが、やっては、どうなんでしょうか?それが一番、いいと思うんですが・・・」
僕は聞いた。
「ええ。もちろん、それが一番、いいんですが・・・。私も、大学病院で、私の、受け持ちの患者の中で、重症患者が、何人もいます。いつ、病状が急変するか、わかりません。患者さん達は、私を頼ってくれているので、昼の診療は、もちろんのこと、ですが。患者さん達は、死ぬ時は、当直医ではなく、私に看取られて死にたい、とまで、言ってくれているんです。ですから、私は、夜も、患者さんの達の病状が悪化した時、急いで、大学病院に駆けつけられるように、大学の近くの、アパートに、引っ越したのです」
と、彼女は、力説した。
彼女の育った実家は、千葉県の市川市にある、彼女の、父親の、吉田内科医院に隣接している、彼女の家、である。
彼女は、そこから、近くの小学校、中学校、高校、大学へと、通った。
しかし、医学部を卒業して、研修医になってからは、彼女は、大学付属病院の近くにある、アパートに、引っ越したのである。
大学付属病院は、東京の都心にあり、彼女の実家の、吉田内科医院は、千葉県の市川市なので、実家から、通おうと思えば、通えないことはない。
しかし、実家から大学付属病院には、1時間30分、かかり、アパートから、大学付属病院までは10分で行ける、のである。
「そうですか」
僕は、腕組みして、考え込んだ。
僕は、彼女の頼みを、断ることが、出来なかった。
なにせ、彼女は、僕に、帝都大学医学部、第一内科への、入局の面倒を見てくれた上、手取り足取り、僕の指導医として、丁寧に、臨床医学を指導してくれて、僕を、一人前の、臨床医にしてくれたのである。
こんな、親切なことをしてくれる人は、彼女の他には、いないだろう。
「わかりました。では、僕は、どうすれば、いいのでしょうか?」
僕は、彼女に聞いた。
「本日の午前中は、休診と、クリニックの前に、貼り紙を、貼っておきました。でも、うちは、田舎な上、うちのクリニックの近くに、別の内科医院は無くて。うちの医院に通っている患者は、多くて、患者さん達が、困ってしまうと思うんです。できれば、今日の午後から、診療して頂けると、助かります」
と、彼女は言った。
「わかりました。では、今から、急いで、吉田内科医院に行きます。そして、お父さんの病状が回復するまで、一週間くらい、代診をします」
と、僕は、答えた。
「わー。助かります。有難うございます。哲也さん」
と、彼女は、言って、嬉しそうに、僕の両手を握った。
「それと、よろしかったら、医院の隣りの私の家に泊まって下さい。藤沢から、市川へ通うのは、たいへんでしょうから」
と、彼女は言った。
「わかりました」
と、僕は答えた。
僕は、急いで、総武線に乗って、市川市の、彼女の、父親の、吉田内科医院に行った。
そして、午後から、僕が、代診ということで、患者を診療した。
午前中、来れなかった患者も来て、その日の、午後は、100人くらい、患者を診察した。
翌日も、午前の診療は、9時から、始まるので、僕は、彼女の言う通り、彼女の実家に泊まることにした。
診療は、午後7時に終わった。
僕は白衣を脱いだ。
腹が減ってきて、
(さあて。夕食は何を食べようかな)
と、思っていた時である。
美奈子先生が、やって来た。
僕はおどろいた。
「山野先生。あの。先生が、一人で、何か困っていることが、ないか、ちょっと、心配になって。来てしまいました。突然、来て、ごめんなさい。夕食も、コンビニ弁当で、済ましてしまうんではないかと、思って・・・。冷凍食品では、体力がつかないと思って、すき焼き、の具材を買ってきました。今すぐ、料理します」
と、彼女は言った。
「あ、あの。美奈子先生。大学病院の、先生の、受け持ちの、患者さんは、大丈夫なんですか?」
僕は聞いた。
「ええ。今のところ、危篤になりそうな、患者さんは、いませんし。当直医を信頼することも、大切だと思ったので・・・」
「そうですか」
「では、腕によりをかけて、すき焼きを、作ります」
そう言って、彼女は、具材の入った、バッグを持って、台所に向かった。
すぐに、ぐつぐつ、具材が煮える音がし出した。
「哲也さん。すき焼き、が、出来ました。どうぞ、召し上がって下さい」
彼女の声が、聞こえてきた。
僕は、食卓に行った。
鍋の上に、すき焼き、が、グツグツ煮えていた。
僕も、腹が減っていたので、腹が、グーと鳴って、鍋を見ると、思わず、ゴクリと、生唾が出てきた。
「さあ。山野先生。お腹が減ったでしょう。すき焼き、を、一緒に食べましょう」
彼女は、僕を見ると、嬉しそうに、そう言った。
照れくさかったが、仕方なく、僕は、食卓についた。
「さあ。山野先生。すき焼き、を、うんと食べて、スタミナをつけて下さい」
そう言って、彼女は、すき焼き、の、具を、どんどん、鍋の中に入れていった。
照れくさかったが、僕は、料理が出来ない。
なので、食事は、いつも、コンビニ弁当だった。
「では。いただきます」
そう言って、僕は、すき焼き、を、食べ始めた。
久しぶりの、手料理は、冷凍食品を、レンジで温めただけの、コンビニ弁当より、確かに、美味かった。
彼女も、僕と向かい合わせに、座って、食べ始めた。
「さあ。お肉を、たくさん、召し上がって下さい」
彼女は、ほとんど、肉を食べず、シラタキや、ネギなど、野菜しか食べなかった。
なので、僕が、肉を、ほとんど一人で食べることになった。
「あなた。美味しいですか?」
と、彼女が聞いたので、僕は、仕方なく、
「ええ」
と、答えた。
「哲也さん。何だか、私たち、本当の夫婦みたいね」
と、言って、彼女は、嬉しそうに微笑んだ。
「あっと。一ヶ月間だけだけど、今は、本当に、籍を入れているんだから、本当の夫婦なのね」
と、言って、彼女は、また、クスッと、微笑んだ。
「美奈子先生。ごちそうさまでした。美味しかったです」
すき焼き、を、食べ終わると、僕は、立ち上がった。
僕は、その夜、彼女の、父親の部屋で寝た。
美奈子先生が、同じ家の中の彼女の部屋にいるので、僕は、緊張して、なかなか寝つけなかった。
夜中の11時を過ぎた頃だった。
僕が、寝室で、ベッドの上に仰向けに寝ていると、戸が、スーと開いた。
バスタオルを一枚だけ、巻いた、彼女が立っていた。
僕は、吃驚した。
彼女は、僕の前にやって来た。
そして、胸の所の、タオルの、結びを、ほどいた。
タオルが、パサリと床に落ちた。
彼女は、全裸だった。
「な、何をするんですか?」
僕は、声を震わせながら聞いた。
「あ、あの。山野さん。私、一度でいいから、初夜というものを体験してみたかったんです。ダメでしょうか?」
彼女が聞いた。
「い、いえ。あ、あの。その。ちょっと。そんな。無茶な。困ったなあ」
「私、みたいな、女じゃダメですよね。無理強いして、ごめんなさい」
そう言って、彼女は、深々と頭を下げた。
「い、いえ。あの。そういうことじゃないんです」
「では、いいんでしょうか?」
彼女が聞いた。
僕は、あまりにも、人間離れして、優しかったので、女に、恥をかかしたり、女の頼みを、キッパリと、断ることが出来なかった。
「い、いえ。つまりですね。あのですね。何というか・・・」
僕は、何と言って、いいか、わからず、返答に窮した。
「では、いいんですね。嬉しいわ」
僕が、へどもどして、キッパリと、拒否のコトバを口に出せないので、彼女は、僕の、布団の中に、入ってきた。
「嬉しいわ。山野さん。抱いて」
そう言って、彼女は、僕に抱きついてきた。
僕は、やむを得ず、彼女を抱いた。彼女は、
「ああ。夢、実現だわ」
とか、
「ああ。何てロマンチックなのかしら」
とか、
「今日は最高の日だわ」
とか、言いながら。
そんなことで、その夜は、更けていった。
○
翌日、彼女は、
「あなた。病院に、行ってくるわ」
と、言って、家を出て、帝都大学医学部付属病院に行った。
僕は、9時から、吉田内科医院の診療を始めた。
その日の午後の診療が終わって、ほっと一息ついている時、彼女の父親が、やって来た。
「やあ。山野君。代診を有難う。病院で検査した、結果、何も異常がない、ということで、退院になったよ。代診、ありがとう」
そう言って、彼女の父親は、僕に、かなりの多額の謝礼をくれた。
○
僕は、また、翌日から、帝都大学医学部付属病院に行くようになった。
僕は、また研修を熱心にやった。
町医者をやっていける程度の、医療技術や知識なら、一年くらいやれば、もう頭打ちになって、もう、それ以上は、何の進歩も、発見もない、同じ事の繰り返しの毎日になる。
つまり、つまらなくなる。
しかし、大学病院は違う。大学病院には、医療器材も、最先端の物ばかりだし、入院してくる患者も、10万人に1とかの、珍しい難病の患者ばかりである。
また、大学病院では、内科だけではなく、外科は、もちろんのこと、眼科、耳鼻科、泌尿器科、麻酔科、救急、など、つまり、医療の、あらゆる科が、そろっている。
僕は、第一内科は、それなりにマスターしたと思っていたので。美奈子先生に、頼んで、救急科を、やりたい旨を伝えた。
「あの。美奈子先生。救急科をやってみたいんですが」
僕は、彼女に言った。
「わかりました。救急科の教授に頼んで、山野先生が、救急科の研修を出来るように頼んでみます」
彼女は、快く、そう答えてくれた。
彼女は、救急科の教授に頼んでくれた。
そのおかげで、僕は、救急科の研修が出来るようになった。
やりだすと面白いのである。
なにせ、新しいことだからである。
それに、救急科が出来ると、アルバイトでも、救急科は、すごく割がよく高収入なのである。
救急科が出来ると、救急病院の当直のアルバイトも出来るようになる。
救急病院の当直のアルバイトも、ものすごく、高収入なのである。
なので身につけておくと、後々、有利なのである。
僕は、一ヶ月で、救急科を、身につけてやろうと思って、入院している、全ての患者を診て、夜、遅くまで、救急医療を勉強した。
もちろん、一ヶ月で、救急科を、完全に、マスターすることは、無理だが、熱心にやれば、かなりの知識や技術は、身につくのである。
医学は無限の世界であり、僕は、勉強好きなので、つい、あれも、やりたい、これも、やりたい、と、医学にハマってしまいそうな誘惑が起こった。
しかし、僕は、「僕の本命は、小説家だ」と、自分に言い聞かせて、面白いからといって、医学に、あまり、深くハマらないように、と、自分を自制した。
○
そして。ようやく、待ちに待った、一ヶ月が経った。
その日。
「美奈子先生。ちょっと、お話しがあるので、午後の診療が終わったら、医局に残って頂けないでしょうか?」
と、僕は言った。
「はい。わかりました」
と、元気よく言った。
午前の診療が終わり、午後の診察も終わった。
医局室は、僕と彼女だけの二人になった。
「山野先生。用は何でしょうか?」
彼女は、陽気な様子で聞いた。
まるで、明日が、約束した、離婚一ヶ月目の日であることなど、知らないような感じだった。
「あ、あの。美奈子さん。たいへん、申し上げにくいんですけど・・・」
「は、はい。なんでしょうか?」
「あ、あの。今日で、結婚して、籍を入れて、ちょうど、一ヶ月になります。たいへん、申し上げにくいんですけど、明日、市役所に、離婚届を出そうと思いますが、いいですね?」
言いにくいことを、僕は、キッパリ言った。
「ああ。そうでしたか。今日で、ちょうど、一ヶ月でしたか。忘れていました。夢のような楽しい日々を、有難うございました。わかりました。約束です。離婚届け、を市役所に提出して下さい。でも・・・はあ・・・山野さんがいなくなると、さびしくなってしまいますね」
と、言って、彼女は、ため息をついた。
「すみません。僕も楽しかったです。また。とても、勉強になりました。どうも、本当に、有難うございました」
「ところで、山野さん。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「はい。何でも」
「山野さんは、一日でも、早く、私と、離婚したがっているように、見受けられますが・・・その理由を、教えていただけないでしょうか?」
彼女が聞いてきた。
「はい。それは、あなたとお会いした時、はっきり、言った通りです。僕の本命は、小説を書きたい、できれば、小説家になりたい、ということです。そして、僕は、医局との、つながりも、なければ、医師の友人も、いません。ですから、医学の世界と、関わりを持った、あなたに、医療に関することを、お聞きしたかった。それが、理由です。医療に関することは、ちょっと、聞くだけでよかったんですが、成り行きで、随分、長く、深くなってしまいました。あなたには、本当に、感謝しています。今回、あなたと、生きた人間関係を、持てたことは、今後、小説を書く上でも、とても、役に立つと思っています。本当に、どうも、有難うございました」
と、僕は、言った。
美奈子は、しばし黙っていたが。
ハア、と、ため息をついた。
「そうですか。山野さんは、優しいから、婉曲な言い方をなされますが・・・本当の理由は・・・私みたいな、ブスで、医学しか、取り得のない女は、嫌だ、ということですよね。わかりました。でも。さびしいですわ。何だか、あまりにも悲しくて、涙が出てきたわ。ごめんなさい」
そう言って、彼女は、ハンカチを取り出して、眼頭の涙を拭いた。
「い、いえ。とんでもありません。決して、そんなことは、ありません。それは、とんでもない誤解です。あなたほど、美しい方が、何で、ブスなんですか?」
僕は、必死に訴えた。
「だって、離婚の日を、はっきり、覚えていて、それを、心待ちにして、約束の日が来たら、即、離婚したい、と言うのは、私のような、女は、身の毛がよだつほど、嫌いで、一刻も早く、別れたい、という、理由いがいに、何があるというのですか。普通の人だったら、約束の日から、一週間か、10日くらい後、に、別れるものですわ。何だか、利用されて、用が済んだら、捨てられる女の気持ち、というものが、よく、わかるような気がします」
そう言って、彼女は、ハンカチを取り出して、とめどなく、溢れ出る涙を、拭いた。
「女って、こういう、つらい、悲しい、経験をすると、それが、一生の、トラウマになってしまうんです。女って、そういう、やりきれない、つらい、悲しい、経験から、一生、男性拒絶症になってしまうんです。あっ。ごめんなさい。つい、愚痴を言ってしまって・・・」
そう言って、彼女は、ハンカチを取り出して、とめどなく、溢れ出る涙を、嗚咽しながら、拭いた。
僕は困った。
「美奈子さん。わ、わかりました。では、離婚の届け出は、もう少し、先に延ばします」
仕方なく、僕は、そう言った。
「本当ですか。嬉しいわ。女って、男の人に、そう言ってもらえる、ことが、何より、嬉しいんです」
「では、あと、何日後なら、よろしいでしょうか?」
「はあ。すぐに、離婚の、日にちの、取り決めですか。悲しいわ。やっぱり、私は、山野さんに、嫌われているんですね」
彼女は、憔悴した表情で言った。
あたかも、人生に、疲れ果てた人間のように。
「み、美奈子さん。わ、わかりました。では、届け出の日は、美奈子さんに、おまかせします」
「有難うございます。女って、男の人に、そう言って、いただけることが、最高に嬉しいんです」
「あ、あの。美奈子さん。たいへん、申し訳なく、言いにくいのですが、大体、大まかな、目安として、どのくらい、先でしょうか?」
「もう、一ヶ月、先、というのは、ダメでしょうか。山野さんに、ご迷惑が、かかるのであれば、もっと、短くても、一週間、でも、かまいません」
「わ、わかりました。一ヶ月、先で、かまいません」
「本当ですか。嬉しいわ。有難う。山野さん」
こうして、離婚の、日にちは、もう、1ヶ月、先に延ばされることになった。
○
僕は、伸びた、一ヶ月を、無駄にしないように、僕は、救急科の研修を、熱心にやった。
しかし、僕は、「僕の本命は、小説家だ」と、自分に言い聞かせて、面白いからといって、医学に、あまり、深くハマらないように、と、自分を自制した。
○
そうして、一ヶ月して、僕が、おそるおそる、彼女に、離婚の話を持ち出すと、彼女は、また、ため息をついて、同じようなことを言った。
僕は、仕方なく、もう一ヶ月、離婚を先延ばしすることにした。
それに、やり始めた救急科の実力も、日に日に身についてきて、救急科を、もう少し、本格的に身につけたいという、思いも僕にはあった。
○
こうして、僕は、ズルズルと、医学の面白さに、ハマっていった。
医学の面白さに、ハマると、創作したい、欲求は、薄れていってしまった。
これは、僕にだけ、当てはまる法則ではなく、人間の心理、一般に、当てはまる法則だと、思う。
スポーツとか、将棋や碁などでも、毎日、熱心にやって、日に日に、自分の技術が上手くなっていくと、その面白さに、ハマって、しまって、他の事は、考えられなくなってしまうものである。
○
そうして、僕は、ズルズルと、医学の面白さに、ハマっていってしまった。
○
そうして、ズルズルと、二年が過ぎてしまった。
ある日の様子である。
いつの間にか、僕は、吉田内科医院の院長となっていた。
僕は、彼女と、本当に結婚して、しまっていた。
彼女は、生後、三ヶ月になる、男の赤ん坊を、抱いて、幸せそうに、乳をやっている。
彼女が、初夜を求めてきた時、断らなかったのが、失敗だったのだ。
あの時、彼女は、妊娠したのである。
それから、彼女は、しばし、大学病院に近いアパートから、大学付属病院に来ていた。
しかし、しばしして、彼女は、体調が、悪くなったので、休みます、と言って、大学病院に来なくなったのである。
彼女は、アパートで、病気療養のため、休養するようになった。
医師の仕事は、激務なので、結構、体調を崩す人は、いるのである。
病気療養している、彼女に、離婚を要求するのは、可哀想な気がして、僕は、彼女との離婚は、彼女の体調が回復してから、言い出そうと、彼女に気を使ったのである。
病気で、落ちこんでいる人に、嫌なことを、要求すると、精神的に、落ちこんで、ますます、病気が悪化するからだ。
しかし、それが、まずかった。
彼女の病気は、悪化して、彼女は、近くの市民病院に入院するようになった。
入院するほどだから、かなりの病気だと思った。
何の病気かは、わからなかったが。
ある時、彼女から、「あなた。来て」、という電話があった。
僕は、もしかすると、彼女が危篤になったのでは、ないかと思って、急いで、市民病院に行った。
てっきり、内科病棟かと、思ったが、僕は、ナースに、産婦人科に案内された。
彼女は、ベッドの中で、生まれたての、男の、赤ん坊を抱いていた。
何でも、妊娠中毒症で、生命の危機のある難産だったらしい。
「あなた。見て。私と、あなたの子よ」
と、彼女は言った。
僕は、ガーンと、頭を金槌で打たれたような、ショックを受けた。
子は、男と女の、かすがい、である。
子供が、いないのなら、離婚は、難しくない。
しかし、子供が出来てしまった以上、離婚は難しい。
世間の人は、そう思わない人もいるが、僕は、そうではない。
子供が産まれてしまった以上、親が離婚したら、子供が、可哀想である。
それに、生まれた、赤ん坊は、紛れもなく、僕の子なのである。
僕は、ショックで、病院を出て、町を彷徨った。
気づくと、僕は、結局、とうとう、彼女のクリニックである、吉田内科医院に住み、クリニックの院長になっていた。
結局、僕は、彼女を孕ませ、彼女に子供を産ませてしまった責任から、彼女と本当に結婚することになってしまったのだ。
彼女も、大学病院の勤務を辞めて、育児に専念することになった。
育児が、一段落したら、吉田内科医院の仕事を一緒にやります、と、彼女は、言っている。
しかし、それも、本当かどうかは、わからない。
僕は、吉田内科医院の、毎日の、超多忙の、患者の診療に煩殺されて、毎日、疲れ果て、とても、小説を書く気力など、なくなっていた。
○
僕は、この頃、ヤフーメールを送って、美奈子さんと僕の結婚を、言いふらしたのは、実は、医局員の誰か、ではなく、もしかすると、美奈子さん自身なのかもとしれない、と疑うようになった。
しかし、僕が、彼女に、それを聞いても、
「なぜ、そんな荒唐無稽なことを考えるんですか?」
と即座に、眉を吊り上げ、鬼面のようになって、怒って言う。彼女は、
「私が、愛する、大切な、哲也さんに、そんなことを、言いふらして、哲也さんに迷惑をかけて、私に何の得にあるんですか?」
と彼女は、ヒステリックに怒鳴りつける。
そう怒鳴られると、気の小さい僕は、黙ってしまう。
しかし、まあ、それも、もう、どうでも、よくなってしまった。
僕は、いつか、石田君が言った、「死ぬまで、小説を書く、情熱をもっている人間だけが本当の作家だ」という言葉の真実さ、を実感している。
詩人の、ライナ・マアリ・リルケも、「もし、あなたが、書くことを、とめられたら、死ななくてはならないか、どうか、よく考えてごらんなさい」と言っている。
至言であり、石田の、言っていることと、意味は、同じである。
何と弁解しようが、僕は、小説を書かなくても、生きていけるのだ。
所詮は、僕には、死ぬ気で、小説を書こうという、情熱がなかったのだ。
小説を書くことが、僕の使命だ、と、僕は、思っていたが、それは、若者が、誰でも、一度くらいは、かかる、麻疹のようなものに、過ぎなかったのだ。
僕はこの間、ヴェルレーヌの伝記を読んでいると、あのデカダンの詩人が晩年に「平凡人としての平和な生活」を痛切に望んだという事実を知って、僕はかなり心を打たれた。
僕のように天分の薄いものは「平凡人としての平和な生活」が、格好の安住地だ。
流行作家! 新進作家! 僕は、そんな空虚の名称に憧れていたのが、この頃では、少し恥かしい。
昭和、平成の文壇で名作クラシックスとして残るものが、一体いくらあると思うのだ。
僕は、いつかアナトール・フランスの作品を読んでいると、こんなことを書いてあるのを見出した。
(太陽の熱がだんだん冷却すると、地球も従って冷却し、ついには人間が死に絶えてしまう。が、地中に住んでいるミミズは、案外生き延びるかも知れない。そうするとシェークスピアの戯曲や、ミケランジェロの彫刻はミミズにわらわれるかも知れない)
なんという痛快な皮肉だろう。
天才の作品だっていつかは蚯蚓にわらわれるのだ。
ましてや石田なんかの作品は今十年もすれば、ミミズにだって笑われなくなるんだ。
平成28年8月5日(金)擱筆