「真実は限定されない」とは、ブルース・リーの言葉だが、この意味のわかる人は、まず、1000人に一人もいないと、思う。
真実とは、自己実現、と言ってもいい。だから、
「自己実現は限定されない」
と言ってもいい。
プロ野球で、王貞治は、完全な自己実現をした、人間だと、思って、疑う人が誰一人、いないのが、その証拠である。
世界記録のホームラン王。本塁打記録。打率。打点。三冠王。首位打者。などの、あらゆる記録。さらには、国民栄誉賞。文化功労章。さらには、怪我もなく、20年の現役。さらには、監督。
これほど、優れた成績を残せる野球選手は、これからも、出で来ないだろう。
世間の標準と比べて、いかに優れたことをなしたか、が自己実現の証明ではないのである。
そもそも、自己実現、などという言葉は、便宜的な言葉であり、哲学的に厳密に言えば、存在しない概念なのである。
サルトルが言うように、「人間は自分が作った所の物になる」のであり、人間は、幼児の粘土のような状態から、自分を、あらゆる物につくれる可能性を持っているのである。
そして、人間は、努力すれば、大抵のことは出来てしまうのである。(世界一とか、並はずれたことでなければ)
(努力して)世間的に大成功をおさめた人間=自己実現した人間、という考え方が間違っているのである。
その思考から、抜け出せない以上、「真実は限定されない」という、ブルース・リーの言葉は、理解できるはずがない。
もちろん、私も、その例外ではなく、自己実現など、していない。というより、「自己実現」などということは、人間には、あり得ないのである。
仏教でいえば、「諸法無我」が、これと同じ概念である。つまり、
「真実は限定されない」=「諸法無我」
と言ってもいい。
数学や科学では、たとえば、ピタゴラスの定理、など、あらゆることは、真実である。
しかし、一刻一刻、その人の意志によって、思考や行動を決めていく、人間というに物においては、「その人の真実」というものは、存在しないのである。
また、こうも言える。
「人間は最良の選択肢を選べない」
あるいは、
「人間は、一番いいと思っている行動の、選択肢を選んで行動しているが、それが、最良の選択肢になっているか、どうかは、わからない」
そこで。最後に、ひっくり返すが。何が最高の選択肢かは、わからない、という「認識」をもっている人こそが、どんな行動をとっていても、それは、その人にとって、真実である、ということになる。のである。
つまり。そういう「認識」をもっている人の行動は、全て真実である、ということである。
真実とは、自己実現、と言ってもいい。だから、
「自己実現は限定されない」
と言ってもいい。
プロ野球で、王貞治は、完全な自己実現をした、人間だと、思って、疑う人が誰一人、いないのが、その証拠である。
世界記録のホームラン王。本塁打記録。打率。打点。三冠王。首位打者。などの、あらゆる記録。さらには、国民栄誉賞。文化功労章。さらには、怪我もなく、20年の現役。さらには、監督。
これほど、優れた成績を残せる野球選手は、これからも、出で来ないだろう。
世間の標準と比べて、いかに優れたことをなしたか、が自己実現の証明ではないのである。
そもそも、自己実現、などという言葉は、便宜的な言葉であり、哲学的に厳密に言えば、存在しない概念なのである。
サルトルが言うように、「人間は自分が作った所の物になる」のであり、人間は、幼児の粘土のような状態から、自分を、あらゆる物につくれる可能性を持っているのである。
そして、人間は、努力すれば、大抵のことは出来てしまうのである。(世界一とか、並はずれたことでなければ)
(努力して)世間的に大成功をおさめた人間=自己実現した人間、という考え方が間違っているのである。
その思考から、抜け出せない以上、「真実は限定されない」という、ブルース・リーの言葉は、理解できるはずがない。
もちろん、私も、その例外ではなく、自己実現など、していない。というより、「自己実現」などということは、人間には、あり得ないのである。
仏教でいえば、「諸法無我」が、これと同じ概念である。つまり、
「真実は限定されない」=「諸法無我」
と言ってもいい。
数学や科学では、たとえば、ピタゴラスの定理、など、あらゆることは、真実である。
しかし、一刻一刻、その人の意志によって、思考や行動を決めていく、人間というに物においては、「その人の真実」というものは、存在しないのである。
また、こうも言える。
「人間は最良の選択肢を選べない」
あるいは、
「人間は、一番いいと思っている行動の、選択肢を選んで行動しているが、それが、最良の選択肢になっているか、どうかは、わからない」
そこで。最後に、ひっくり返すが。何が最高の選択肢かは、わからない、という「認識」をもっている人こそが、どんな行動をとっていても、それは、その人にとって、真実である、ということになる。のである。
つまり。そういう「認識」をもっている人の行動は、全て真実である、ということである。