小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

自衛隊 憲法九条

2014-03-27 13:46:49 | 政治
三島由紀夫は昭和45年に、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決したが。

あの時、三島由紀夫は、自衛隊を憲法違反と、さかんに訴えた。三島は、そのことに憤りを持っていて、諌死したのであろうか。私は全くそう思っていない。三島の創作は、小説と戯曲がメインだが、エッセイや思想的なことも、たくさん書いている。自分の思っていることは、ほとんど書いている。その中で、自衛隊が憲法違反であることを憤っていることを書いたものは無い。太宰治が嫌いで、太宰治を嫌っていることを憤った文は書いているが。

それに自衛隊が違憲で、自衛隊に対する憤りがあるなら、何で、自衛隊に体験入隊したり、その時に、自衛隊に対して批判をしなかったのか?三島の自衛隊の体験入隊は実に、和やかな雰囲気である。

それに、三島は演説の時、自衛隊員に向かって、「諸君は武士だろう」と、さかんに訴えた。これも、全くおかしい。自衛隊員は武士ではない。武士とは、「葉隠」にある「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあるように、主君のために死ぬ、人間といっていいだろう。

しかし防衛大学の教育理念や自衛隊では、学生に向かって、国家のために死になさい、とは、決して言っていない。それは、戦前の軍部が言っていたことである。アナクロニズムもいいところである。

国防のために、全力を尽くしなさい、とは、言っているが、戦後の平和主義、人権尊重の観点から、無理はしなくてもいい。生命の危険を感じたら敵に投降しなさい、と言っているはずである。

三島由紀夫も、そんなことは知っているはずである。ここに、三島由紀夫の日本人に対する欺きがある。

だからといって、三島の死に諌死の要素が全くなかったわけでもない。三島は、「経済的繁栄にうつつをぬかし、精神はからっぽになった」とも言っている。このことは三島の切実な憤りである。三島は多くの小説を書いているが、そのこと自体をテーマとした小説は無い。(というより、そういうことは小説のテーマになりにくい)しかし、そういうことを皮肉った文章は、小説の中に頻繁に入れている。だから三島は小説の中で、「経済的繁栄にうつつをぬかし、精神はからっぽになった」ということを訴えてきた、と言ってもいい。三島は怠け者を嫌って、彼らを皮肉ってきた。しかし、怠け者が一念発起して超努力人間になってしまったら、三島は喜んだか、といえば、そうでもない。怠け者が全員、一念発起して超努力人間になってしまったら、三島の存在意義が希薄化してしまう。三島は、怠け者を小説の中で徹底的に皮肉ると同時に、怠け者の存在が三島の猛烈なバイタリティーの源泉でもあった。三島も、長く生きていくうちに、その自己矛盾に多少なりとも悩まされただろう。そして、三島は戦争が終わって何年も経っても、心の中に、戦争、特攻隊の存在が残っていた。人間には二つのタイプがある。戦争が終わって、歳月が経つにつれて、戦争の経験が心の中から消えてしまう人間と、歳月が経っても戦争が心の中に居据わっている人間である。残念ながら、ほとんどの人間は前者である。三島は後者であり、そういう人間は非常に稀なのである。

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