自己を欺くという事
人が他人を欺く時、二つのケースがある。一つは他人を欺いても自分は欺かない場合であり、もう一つは、自分をも欺いている場合である。前者は、だれにでもわかる犯罪や、はっきりしたウソをつく時である場合が多い。オレオレ詐欺、振り込み詐欺、などをする人は、間違っても自分が善人だとは思ってないだろう。
ややこしいのは後者である。つまり、他人を欺く時、自分をも欺く人である。これは、大きなウソではなく、小さなウソをつく場合に起こりやすい。こういう人は、大きく見れば基本的に善人である場合が多い。そしてプライドの高い人に多い。
そういう人は性格が基本において善人だから、自分は善人だという自信と誇りを持っている。しかし完全な善人というのはなかなか、いないものである。自分は善人だという自信と誇りを持っているから、自分の悪に対しては目を背けてしまうのである。これはもう、自分でも自分を欺いていることに気づかなくなってしまっている。それが小さな範囲でだけなら、いいが、なかにはもはや、それが日常で当たり前になってしまっている人もいるのである。いわば無意識の偽善者とでも言おうか。まあ、偽善者の多くも自分を欺くから、これは二重表現である。
さて、前者と後者とどちらが、より悪いか、といったら、勿論オレオレ詐欺をする前者の方が悪いに決まっている。こういう人間は人間の善悪を振り切ってしまった人間である。だから自分を欺くケースは少ない。ニーチェの箴言に、「若い時は自分の悪を凝視せよ」というようなものがあったが、それは若者には読むのを勧めた方がいい。純粋な若者の中には、思春期の思想の嵐の中で、偽善を嫌って、偽悪をすることが、自分は偽善者ではない証明だと思ってしまって、それを行動に移してしまう事もあるのである。中学、高校生のいじめ、の中には、こういう心理から起こしたいじめもあるだろう。若い時に本を読まないから、こういう事がおこってしまうのである。いじめをするのは頭の悪い生徒の方が多い。「ツァラトストラはかく語りき」を読んでいれば、いじめは起こらなかったかもしれない。こう書いているうちに、中学、高校生の国語の教科書には、ニーチェの「ツァラトストラ」を載せた方がいいように思えてくる。あの読後の後味の悪い「ツァラトストラ」を。自分の悪を凝視する事が大切なのであって、自分の悪を誠実に行動に移す事は良くない事なのである。
さて、次に後者は、基本的に善人だから、それほど悪い事ではない、と便宜的にいっても間違いではないだろう。しかし、後者は自分の考えが自分の心にしっかりとつなぎとめられていないので、時として、非常に危険な、人を殺してしまうほどの事も起こしかねないのである。軽いから、善人だからといって、けっして安全なものではなく、軽く見ていいものではない。人類の歴史でも、こういう人の心理で、悲惨な事が起こった例はいくらでもある。自分の善に対する無意識のadherenceの危険、とでも言うべきか。
人が他人を欺く時、二つのケースがある。一つは他人を欺いても自分は欺かない場合であり、もう一つは、自分をも欺いている場合である。前者は、だれにでもわかる犯罪や、はっきりしたウソをつく時である場合が多い。オレオレ詐欺、振り込み詐欺、などをする人は、間違っても自分が善人だとは思ってないだろう。
ややこしいのは後者である。つまり、他人を欺く時、自分をも欺く人である。これは、大きなウソではなく、小さなウソをつく場合に起こりやすい。こういう人は、大きく見れば基本的に善人である場合が多い。そしてプライドの高い人に多い。
そういう人は性格が基本において善人だから、自分は善人だという自信と誇りを持っている。しかし完全な善人というのはなかなか、いないものである。自分は善人だという自信と誇りを持っているから、自分の悪に対しては目を背けてしまうのである。これはもう、自分でも自分を欺いていることに気づかなくなってしまっている。それが小さな範囲でだけなら、いいが、なかにはもはや、それが日常で当たり前になってしまっている人もいるのである。いわば無意識の偽善者とでも言おうか。まあ、偽善者の多くも自分を欺くから、これは二重表現である。
さて、前者と後者とどちらが、より悪いか、といったら、勿論オレオレ詐欺をする前者の方が悪いに決まっている。こういう人間は人間の善悪を振り切ってしまった人間である。だから自分を欺くケースは少ない。ニーチェの箴言に、「若い時は自分の悪を凝視せよ」というようなものがあったが、それは若者には読むのを勧めた方がいい。純粋な若者の中には、思春期の思想の嵐の中で、偽善を嫌って、偽悪をすることが、自分は偽善者ではない証明だと思ってしまって、それを行動に移してしまう事もあるのである。中学、高校生のいじめ、の中には、こういう心理から起こしたいじめもあるだろう。若い時に本を読まないから、こういう事がおこってしまうのである。いじめをするのは頭の悪い生徒の方が多い。「ツァラトストラはかく語りき」を読んでいれば、いじめは起こらなかったかもしれない。こう書いているうちに、中学、高校生の国語の教科書には、ニーチェの「ツァラトストラ」を載せた方がいいように思えてくる。あの読後の後味の悪い「ツァラトストラ」を。自分の悪を凝視する事が大切なのであって、自分の悪を誠実に行動に移す事は良くない事なのである。
さて、次に後者は、基本的に善人だから、それほど悪い事ではない、と便宜的にいっても間違いではないだろう。しかし、後者は自分の考えが自分の心にしっかりとつなぎとめられていないので、時として、非常に危険な、人を殺してしまうほどの事も起こしかねないのである。軽いから、善人だからといって、けっして安全なものではなく、軽く見ていいものではない。人類の歴史でも、こういう人の心理で、悲惨な事が起こった例はいくらでもある。自分の善に対する無意識のadherenceの危険、とでも言うべきか。