動くものを止めたら動くものがそれ限り無くなり、停止しているものが動き出すと停止していることが無くなるのです。
つまり「比較しよう」としても「何れも(動も止も)片付いてしまう」のです。
「比較の仕様が無いように」出来ているのです。
私たち衆生の「一々(一挙、一動、一言、一句)」が「縁」に触れて活動しているのです。
その「活動体(この物、六感)が一々皆そうなのです。
その事自体(今の事実)なのです。
他に有(在)るのではないのです。
それですから「因縁生」というのです。