活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

諦めると明らめる1

2018年01月11日 | 法理

広辞苑には

㋐諦める(「明らめる」②の意から)思い切る、仕方がないと

断念したり、悪い状態を受け入れたりする

 

㋑明らめる ①明るくさせる ②事情などをはっきりさせる

と、記載されています。

 

「諦める」の語源は今から約二千五百年以上前におシャカ様が最初に

説かれた四つの真理、即ち「四聖諦(ししょうたい)、四諦」に拠るものです。

 

おシャカ様はその中で「因果の道理」を説明し、実践する為に「八正道(はっしょうどう)」を

お示しになられました。

 

「諦める」とは「因果の正体を見極める」ことなのです。


人間(にんげん)と人間(じんかん)3

2018年01月10日 | 法理

私たち衆生は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の働き」そのものが有(在)る

ということだけなのです。

 

「六根の働き」は此の物の機能ではありません。

動植物と同じように、働きそのものの状態だけが有(在)るということです。

 

ですから、私たち衆生は「人間(にんげん)」と「人間(じんかん)」の違いを

はっきり認識して「智慧」を持って、この「娑婆世界」を活かして生きていって

欲しいと思います。


人間(にんげん)と人間(じんかん)2

2018年01月09日 | 法理

私たちは元元、一つの種が有(在)ってそこから生まれて来たものでは

ありません。

ものの実体というのは、色々なものが縁に因って集まって出来たもの

ですから元元有(在)るはずがないのです。

 

私たちの実体は「此の物」というのが、一番適切な表現だと思います。


私たちは「此の物」を「人間(にんげん)」といいますが、「此の物」は

人間ではありません。「衆生」なのです。

 

「衆生」とは「生きとし生けるもの、生命あるもの」なのです。

「人間(にんげん)」と認めようがないのです。

 

何故ならば始終変化し続けているからです。

 


人間(にんげん)と人間(じんかん)1

2018年01月08日 | 法理

広辞苑に拠ると「人間(にんげん)」の項で、①「人の住む所、世の中、世間じんかん」

と記載されています。

 

又、新字源には「人間」①じんかん「人の世、世間」と記載されており、更に

「漢文では原則として人の意と区別して(じんかん)と読む」と記載されています。

 

「人間到処有青山」(じんかんいたるところ せいざんあり)

「人間萬事塞翁馬」(じんかんばんじ さいおうがうま)

と、あり「無門関の平常心是道(びょうじょうしん ぜどう)」では

「人間好時節(じんかんのこうじせつ)」と読みます。


人権2

2018年01月07日 | 仏教

仏教の精神である「十界、六道輪廻」の理(ことわり)がわからないと、

本当の意味での平等とか差別(しゃべつ)とか人権ということはわかりません。

 

人の為に何か善いことをしなければならないような気持ちを起こしている人を

「菩薩」と呼び、どんな様子があろうとそういうことを一切相手にせず

邪魔にしない人を「仏」といっています。

 

※本稿の補足説明には旧稿を参照してくだされば幸いです。

2015/03/10~14 「人の世1~5」

2016/01/26「人間(にんげん・じんかん)」

2017/05/25「十界の分かれ」

2015/04/06「自然(しぜん)と自然(じねん)」

2017/05/23~24「十界とは1~2」

2016/01/27~02/02「差別(しゃべつ)について1~7」

 


人権1

2018年01月06日 | 仏教

「人権」という問題が大きく叫ばれております。

「これが人間(にんげん)だ」と、規定するものは何にもありません。

 

仏教には、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄という

「六道(りくどう)」があります。

 

さらに、一応迷いがなくなった人を、仏・菩薩・声聞(しょうもん)

・縁覚(えんがく)という言葉で表して、それら全部を「十界(じっかい)」

といっています。

 

つまり、私たち衆生の様子は何時も「十界」を巡っているので、

「人の知恵でつくった人権」というものをなくそうと思っても

不可能なことなのです。


象徴

2018年01月05日 | 法理

私たち衆生はいつのまにか知らず識らずに、

「此の物」を自分だと認識(誤認)してきました。

 

しかし、「此の物」は自分ではありません。

「衆生(しゅじょう)」なのです。

 

「衆生」とは「六道(りくどう)を輪廻する存在」なのです。

 

此の物は「象徴」にすぎません。


そこで、「此の物という象徴」と「本来の自己」との隔たりを

無くさなければなりません。

 

問題は、「すでに一体であり、一つのものであった」ということを

「自覚」することです。

 

「私が目醒める」ということではありません。

「此の物が、縁そのものに成る」ということです。

 


本当によく信じる

2018年01月04日 | 仏教

おシャカ様は「我と有情(うじょう)と同時に成道す」ということを

今から二千五百年前にはっきり宣言しておられます。

 

「一つに成った」ということです。

こういうことが「今の私たち衆生の様子」なのです。

 

これからではないのです。

自分と大地といつも成道しているということです。

成道していないものはひとつもないと、おシャカ様が宣言されたのです。


今それが本当に信じられるでしょうか。

 

誰でもそのことは簡単には信じられないと思います。

難しいところですけれども、それを本当によく信じてもらわないと

いけないということです。


丸呑み3

2018年01月03日 | 法理

「坐禅は坐禅なり」とは、坐禅はもとより結果にして、手段・目的

ではありません。

 

即ち、「坐禅が坐禅を教えてくれるのです」。

 

坐禅に師なし。

坐禅の真師は坐禅なのです。

 

しかし、最初から「丸呑み」をしてはいけません。

その間多少の距離と時間とを要することを忘れてはいけません。

 

坐禅は「仏行(ぶつぎょう)」ですから、「悟未悟」にかかわらず

日常茶飯事として生より死に至るまで、坐禅をする事を忘れては

いけません。

 

経に「法喜禅悦を食(じき)となす」ということがあります。

「食なくんば命なかるべし」です。

 

深くこれを思っていただきたいと思います。


丸呑み2

2018年01月02日 | 法理

「特別なことをしても何の利益にもなりませんよ」と、

お示しをなされたお方が居られます。

 

それを聞いた修行者が正直に受け取ってしまい、

「皆が休むから、いっしょに休もう」と理解してしまいました。

 

しかし、お示しを発したお方は、三年間も横にならずに修行された

お方です。

 

そのお方がその結果を踏まえて、「特別なことをしても何の利益にも

なりません」と、お示しになったのです。

 

ですから、「結果」からいえば、

「特別なことをしても何の利益にもなりませんよ」

ということになる訳ですけれども、それまでに成る(そのお言葉を発する迄)

には、大変は努力をなさって修行されたということなのです。

 

こういうことは、よく承知しておいて頂きたく思います。