経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

1月20日 「神に従う」

2019-01-21 13:59:23 | 礼拝
Ⅰサムエル13:5~12、15:17~25 「神に従う」

中心聖句(15:22)「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
 サウル王は失敗を重ねます。王として立てられますが、主の御声に聞き従うことをしませんでした。“神に従う”ことについて、サウル王の失敗を通して考えます。


Ⅰ:サウル王は自分の思いを優先させた(13:5~12)

(11)「あなたは、なんということをしたのか。」

 当時サウルとイスラエル人の主な敵はペリシテ人でした。サウルの子ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を破ったことによって、ペリシテ人はイスラエルを憎むようになり、戦いを挑んできました。ペリシテ人は、戦車3万、騎兵6千、民は海辺の砂のように多くいました。一方サウルの兵は3千人、しかも手にしているのは、鋤やくわ、斧、鎌などの農具でした。イスラエル人はひどく追い込まれ、ほら穴や岩、ため池などに身を隠します。ある者はヨルダンを渡ってガドやギレアデへと逃れて行きました。残ってサウルと共にいる者たちもみな震えおののいていました。
イスラエルはペリシテ人と戦う前に、まずサムエルが戦地に来て犠牲を捧げ、礼拝を捧げることになっていました。サウルは7日間待ちますが、約束の日が来てもサムエルの姿は見えず、民たちは離れて去って行こうとしました。このような切羽詰まった状況の中で、サウルはじっとしておれず、「全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい」(9)と言って、自分で全焼のいけにえを捧げてしまいのです。しかしサウルが全焼のいけにえを捧げ終わったちょうどその時、サムエルが姿を現します。サムエルはサウルに怒って言います。(11)「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えて、(11~12)「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」サウルは弁解して答えました。ところがサムエルは(13)「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。」と言って神の怒りを告げました。

 サウルの行動のどこが愚かだったのでしょうか?
① 越権行為。彼は王として召されていたが、祭司としては召されていませんでした。それにもかかわらず、彼は祭司の働きを執り行ってしまいました。それは祭司にしか許されていないことでした。
② 神に信頼しなかったこと。危機的な状況の中にも神がすべてを治めておられるということを見失っていました。もし彼が本当に神を信頼していれば、最後までサムエルの到着を待つべきでした。
私たちもサウルのように、いざという時、神様に信頼するよりも、自分の思いや判断を優先させてしまうことがないでしょうか。
(箴言3:5~6)「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
(新共同訳)(6)「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」
どのような時でも自分の判断に頼らず、神様に信頼しいつも主を認めるなら、主は行く道筋をまっすぐにされるのです。いつでもイエス様を意識することです。
以前、What would Jesus do? 「イエス様だったらどうする?」というブレスレットが流行りましたが、どうしたらよいか分からず判断を仰ぐとき、自分の思いではなく、イエス様だったらどうするだろうと、イエス様の思いを求めていきたいものです。


Ⅱ:サウル王は民を恐れて彼らの声に従った(15:17~25)

(24)「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。」

 次に、サウルはアマレク人と戦いました。彼は神から(3)「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを滅ぼし尽くせ」という命令を受けて出て行きました。彼はアマレクに勝利しましたが、(9)「肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打のないものだけを聖絶した。」と聖書は記しています。主の命令に従わず、すべてのものを滅ぼし尽くしませんでした。
それでも、サウルは主のことばを守りましたとサムエルに報告しますが、サムエルは、(14)「では、私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」と質問されます。サウルは(15)「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。」と、民が滅ぼすのを惜しんだからと答えます。
再び、サムエルはこのことに対して、(19)「あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」と詰問しますが、サウルは(20~21)「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」と、またイスラエルの民があなたへの捧げものとして取って置いた弁解します。
するとサムエルは(22)「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」とサムエルの考えが違うことを指摘されました。するとサウルは(24)「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。」と自分の罪を告白します。

なぜ、サウルは主の命令に従って、すべてのものを滅ぼさなかったのでしょうか。それはサウルが民を恐れたからです。有力者や戦いで犠牲を払ってくれた人たちが、肥えた牛や羊を惜しんだ時、サウルは拒むことができませんでした。確かに、多くの有力な長老たちの中で若いサウルが指導力を発揮することは難しかったでしょう。しかしそうであったとしても、サウルは主の命令に聞き従わなければならなかったのです。(17)「あなたは、自分では小さい者にすぐないと思っていても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。」サムエルは油注がれた王であることを忘れてはならなかったのです。民を恐れるのではなく、主を恐れて、主のことばに聞き従うべきでした。

私たちもこの世の中でいろいろな圧力やプレッシャーの中に置かれています。人にどう見られるか、人から何と言われるかと気にして恐れてしまいます。人の声であったり、周りの力に押し流されてしまうこともあるかもしれません。しかし、私たちの第一の使命は、神の御声に聞き従うことです。人を恐れていたら真理を曲げることになり神に喜ばれません。人を恐れるのではなく、神を恐れる者とされますように。

 
Ⅲ:キリストの従順に倣う(ピリピ2:1~9)

(ピリピ2:8)「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」

 サウルはこれら二つの過ちを犯し、神に従うことができませんでした。従うことはそれほど容易なことではありません。しかし私たちには神に従う模範を示されたお方がいらっしゃいます。その方は、イエス・キリストです。

(ピリピ2:6~8)「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
イエス様はどのようなお方でしょうか。神の立場を捨てて、人間と同じ姿になられました。そしてご自身を無にしてまで他に仕える者となってくださいました。そして十字架の死にまで従い、尊い犠牲となってくださったのです。私たちはこの方を見つめ続けなければなりません。

(15:22)「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
 神が最も喜ばれることは、私たちが神に従うことです。みことばに聞き従うことです。ご自分を低くし、十字架の死にまでも従われたイエス様の謙遜と服従に倣い、私たちが神を恐れ、神に従う者とされていきますように。
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