経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

1月13日新年聖餐礼拝 「心を尽くして主に仕える」

2019-01-15 22:52:13 | 礼拝
Ⅰサムエル8:1~9;12:19~25「心を尽くして主に仕える」

中心聖句(24)「ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。」


Ⅰ:イスラエルはこの世の王を求める(1~5)
 
(5)「どうか今、ほかのすべての国民のように、わたしたちをさばく王を立ててください。」

 イスラエルの民はサムエルに王と立てるように求めました。
 「どうか今、ほかのすべての国民のように、わたしたちをさばく王を立ててください。」他の国々は国を治める王が立てられていました。これまでのイスラエルは、アブラハム、イサク、ヤコブなどの族長たち、モーセ、ヨシュアのような神から賜物を与えられた指導者によって治められてきましたが、他の国のように私たちにも王を立ててくださいと懇願します。この時、イスラエルの民は神による支配よりも、人による支配を求めたのです。

なぜイスラエルは王を求めたのでしょうか?
①サムエルは年を重ね、二人の息子はさばきつかさとしてふさわしくなかったから。
(1~3)「サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。長男の名はヨエル、次男の名はアビヤである。彼らはベエル・シェバでさばきつかさであった。この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。」
②他の国は王政だったので、自分の国もそうしたかったから。
③国を守る指導者が必要だったから。
 イスラエルの民は、遊牧の生活からカナンに定着し、一つの国家として立っていこうとした時に、彼らを治める王の必要を感じ始めました。国家を形成していこうとする時、軍事、外交、政治など、周りの国々との関わりにおいてどうしても国の意思を代表する王が必要となってきていました。

 イスラエル人にとって一つの国家を形成することは喜ばしいことだったに違いありません。牧草地をさまよい、自然の脅威にさらされながら長い間、遊牧生活を続けてきた彼らにとって、定住の地を得て、家を建て、土地を耕し、収穫を得て生活するということは夢のようなものであったに違いありません。しかし、彼らは生活が安定し始めると、この地への関心が高まり、神への思いが薄くなっていき、神の支配よりも人の支配を求めるようになっていきました。神を恐れる思いが希薄になっていきました。神はイスラエルの民の要求の背後に、彼らが神を軽んじる思いがあることを見過ごしませんでした。
何か問題や困難がある時には神を熱心に求めても、生活が安定し、この世の多くのことに責任を負わされるようになると、だんだんと神を恐れる思いが希薄になってきてしまうことがあります。私たちも同じ轍を踏まないように気をつけなければなりません。


Ⅱ:主は民の声を聞き入れる(6~9)

(6)「彼らが、『私たちをさばく王を与えてください。』と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。」
 民の求めはサムエルにとって気に入らない事でした。他の聖書の訳ですと「そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。」と訳されています。サムエルの目には悪いことでした。イスラエルを治める王は、主なる神ご自身でしたから、そう思うのも当然のことだったでしょう。サムエルは戸惑いながら主に祈ります。すると次のような答えが返ってきました。

(7~9)「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」
①「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。」主からの答えは意外なものでした。聞き入れなさい。サムエルはそのような答えが返ってくるとは思っていなかったはずです。
②「それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」
主はサムエルを気遣います。彼らはエジプトを脱出してから同じことを繰り返しているのです。彼らはサムエルあなたではなく、主であるこの私を退けたのです。
③「彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ」王が立てられるなら、民にふりかかり重荷となる事柄をはっきり伝えなさい(11~18)。戦いのために徴兵されたり、収穫物を捧げたり、くびきを負わされるが、その時助けを求めても主は答えてはくれないと。
それでもイスラエルの民は、サムエルの忠告に耳をかそうとせず、自分たちをさばき戦ってくれる王を立ててほしいと願いました。それで主は民の要求を聞き入れました。

どうして神は民の要求を聞き入れたのでしょうか?なぜ神はそれが罪だとわかっても許されたのでしょうか?それは、失敗して後悔しないと、人間はわからない者だと神は知っていたからです。(8)「わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。」と言われるように、正しい道を示しても、言うことを聞かず、幾度も同じ過ちを繰り返すことを知っていたからです。イスラエルの歴史は神への不信の歴史といっても過言ではありません。人間は本質的には神に従って生きていくことより、自分勝手に好きなように生きていきたいのです。神は人の本質をよくご存じです。
ですから、神のみこころに従って生きる生き方は、やろうと思ってできるようになるものではなく、どうしたらよいかを知っていても、実際にできないのが私たち人間です。自分の意思でみこころに従っていく生き方を体得するには、時には、失敗することで学ぶしかない場合もあります。実際に失敗しないとわからない、失敗を経験して苦しんで初めて分かるのだと言えます。そして悔い改めへと導かれます。
(詩篇119:67)「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(119:71)「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
 私自身も頭でわかっていてもなかなかできないことがあります。実際に失敗したり苦しんでやっとわかり「こうしたほうがいいんだな」「これはやってはいけないんだな。」と分かってくるものだと感じます。


Ⅲ:主がどれほど偉大なことをされたか(12:20~25)
 
イスラエルの民の要求は悪でしたが、しかし神はその要求を聞き入れ、神は彼らの神であり続けました。神はイスラエルの民を見捨てることはありませんでした。
 サムエルはこの時もう年老いていました。罪を告白する民に、サムエルは20節から告別説教をしています。これまで民の罪を指摘してきたサムエルは、ここでは民への祝福を語っています。
(20)「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行なった。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。」
 悪を働いたが恐れてはならない。わきにそれず主に心を尽くして仕えなさいと言われます。
(22)「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。」
 主はご自分の民を見捨てることはありません。「あえて」とありますように、みこころを損なうことをしたとしても、引き続きご自分の民として下さり、なお用いようとされるのです。
 復活された主イエスは、裏切った弟子たちにご自身をあえて現されました。本来なら去って行った者を追わないで、放っておいてもいいのですが、イエス様はそのようにはしませんでした。ふさわしくない者にもかかわらず、あえて用いようとされるのです。主は私たちにもそのように臨んでいてくださり、決して見捨てることなく、あえてご自身の民としてくださいます。
(24)「ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。」
主がどれほどの大いなることをあなたがたにされたのかを、考えるように勧めています。主はどれだけ私たちのことを愛しているでしょうか。

使徒パウロは、クリスチャンであれば男でも女でも見つけ次第縛り上げて、牢に入れ死に至らせました。しかしある時、彼はダマスコ途上で神と出会う体験をしました。突然天から光が照らされ、「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか。」という声を聞きます。「主よ。あなたはどなたですか。」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」パウロは自分が迫害しているイエスに出会い、どんなに大きな愛と赦しが自分に注がれていたかを彼はここで知るのです。その後のパウロの生涯はいつもこの神の恵みに立ち、神の愛に迫られていました。

 パウロにご自身を現されたように、神は私たちにどのような大きなことをしてくださったでしょうか。神は私たち一人ひとりを愛し、ひとり子を世にお与えになりました。それは御子を信じる者が滅びることなく、罪赦され永遠のいのちを持つためです。それほどの大きな神の愛はありません。そして、神は人の過ちを赦してくださるのです。わきへそれてしまうようなことがあっても、決して捨て去ることなく、あえてご自分の民としてくださるのです。この神の愛と赦しを知る時に私たちは変えられていくのです。主が私たちになされた大いなることを覚え、ただ主を恐れ、心を尽くし主に仕えていく者とされますように。
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