経堂めぐみ教会

日曜礼拝のメッセージ動画です。

1月27日 「神の選び」

2019-01-28 21:52:23 | 礼拝
Ⅰサムエル16:1~13 「神の選び」


Ⅰ:いつまで悲しんでいるのか(1~3)

(1)「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。」

(1)「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」
 主はサムエルに、あなたはいつまでサウルのことで悲しんでいるのか。悲しんでいてはならない。彼を王から退けている。さあ、ベツレヘム人エッサイのところへ行きなさい。彼の息子の中に新しい王を見つけたと言われます。(2)「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」サムエルはサウルにばれたら恐ろしくてどうしてそのようなことができるのかと答えます。サウルには「主にいけにえをささげに行く」と言いなさい。(3)その時、エッサイを招いて、あなたがなすべきことを私が教えるので、私が示す人に油を注ぐように言われました。

 主はどうしてサウルを退けたのでしょうか?
15章で、サウル王は、「アマレク人を打ち滅ぼし、そのすべての物を滅ぼし尽くせ」という主の命令に対して、サウルはすべての良いものを惜しんで、ただつまらない、値打のないものだけを滅ぼし尽くしました。それは、イスラエルの人々がこの良い物を主に捧げようと主張したからであり、この民の提案を彼は拒むことができなかったからです。しかし、こうした民の思いは主から出たことではなく、彼らの行為は神のことばに背くことになりました。イスラエル人を神の御前に整えるために選ばれたサウルは、その使命を果たせず、神は彼を捨て、イスラエルの王から退けたのです。厳しいさばきですが、神はサウル王を捨て去り、新しく少年ダビデを選んで、イスラエルの王としました。

サムエルは悲しみの中にいました。サウル王はイスラエルの民が望んだ最初の王でした。そしてサムエル自身がサウル王に油を注ぎ王に任命しました。そういう意味で、サムエルのサウルへの思いはひとしおだったはずです。しかし主は早々にサウルに見切りをつけ、次の王を立てていました。サムエルは油注いだ者として責任を感じていました。サムエルは気持ちがついて行けず、サウルへの思いを断ち切ることができずにいたのです。
一方、神の側はこのことをどのように見ていたのでしょうか。主の思いをすべて測り知ることはできませんが、次のように書いてあります。
(15:35)「サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」
主ご自身もサウルを王としたことを残念に思い悲しんでおられたのです。1~3節を読みますと、あまりにも淡々と書かれていますが、神も悲しみ悔やんでおられたのです。サウルがだめなら、次の王ダビデを立てようと事務的に執り行っていたのではないのです。主もサムエルと一緒にサウルのことを悲しんでおられたのです。
私たちもサムエルのように、失敗したり、うまくいかなかったことについて、悲しみ、残念に思い、何日もくよくよしてしまうことがあるかもしれません。あの時、ああしておけばよかった、こうしておけばよかったと後になって悔やむことがあります。しかし、神も私たちと一緒に悔やみ残念に思っているのです。共に悲しんでいてくださるのです。いつまで悲しんでいるのか、いつまでもくよくよしないで行きなさい、前に進んで行きなさいと言われているのです。


Ⅱ:主は心を見る(4~13)

(7)「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

(4)サムエルは主に言われたとおりにベツレヘムへ行きました。すると町の長老たちは、「平和なことでおいでになったのですか。」と恐れながら彼を迎え入れました。普段サムエルは民のためにいけにえを捧げるために町々を巡回していました。しかし、通常いけにえを持ってくる人は、預言者ではなく、礼拝者であったので、今回はサムエル自身が子牛のいけにえを持ってきたので、長老たちは何か特別な理由があって来たのではないかと恐れたようです。エッサイの家に何か特別なことが起こると受け止めたのでしょう。(5)サムエルは「平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。」と答えエッサイと彼の子たちを招きました。
 
子供たちが来た時、サムエルはエリアブを見て、(6)「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし主はその時サムエルに言われました。
(7)「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」私たちは外見を気にしてしまいます。人からどのように見られるか、どのように思われるかと外見を気にします。そして人のことも外見で判断してしまうことがあります。人はうわべを見ますが、主は人の心をご覧になります。

それでは、「主は心を見る」とは、どういうことでしょうか。これはもちろん、ダビデは罪のない、心のきれいな人であったという意味ではありません。これは主は私たちの「心の状態」を見られるということです。主が喜ばれる私たちの心の状態、内側の性質について、聖書には色々なことが示されています。
①貧しい心。マタイ5:3「心の貧しいものは幸いです。」
②悔いた心。詩篇51 :17「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」
③聞き従う心。Ⅰサムエル15:22「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
④お頼りする心。詩篇23:1「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」

 エッサイは次にアビナダブを呼んで、サムエルの前に進ませますが、サムエルは(8)「この者もまた、主は選んでおられない」と言いました。続いてエッサイはシャマを進ませたが、サムエルは(9)「この者もまた、主は選んでおられない」と言いました。こうしてエッサイは7人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルは(10)「主はこの者たちを選んではおられない。」と言いました。
 サムエルはエッサイに(11)「子どもたちはこれで全部ですか。」と尋ねると、エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」と答えます。末の子はまだ祭儀資格の年齢に達しない少年なのでその場に連れて来ませんでした。エッサイは末の子を連れてこさせます。(12)「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」と主は仰せられました。サムエルは油を取り、兄弟たちの真ん中で末の子ダビデの上に油をそそぎました。その日以来、主の霊がダビデの上に激しく下りました。

 主は何人もいる息子の中からダビデを選ばれました。ダビデはサムエルとの会合にも呼ばれず、家族から何ら注意を払われず、羊の番をさせられていました。誰もダビデを認めず、軽視していましたが、主は彼の心を見ておられたのです。私たちもこの世の中では誰かの評価によって生きています。学校であったり、職場であったり、誰かから評価されています。私たちもダビデのように周りの人たちから良く評価されないことがあるかもしれません。日々の生活の中で、人々から低く評価され、軽くあしらわれることがあるかもしれません。しかし主はしっかりと私たちの心を見ておられます。主の前にへりくだり、主に信頼する心を見ておられるのです。人は評価しないかもしれませんが、主はそのような心のあり方を見ておられるのです。主はあなたの心に何を見ているでしょうか。人の目はどうでもよいとは言いませんが、第一に、心を見られる主に喜ばれる歩みを心掛けて行きたいものです。


Ⅲ:行って実を結ぶため(ヨハネ15:16)

(ヨハネ15:16)「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

 イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と言われました。このみことばは何度か教会の指標聖句になったものですが、私たちはこのみことばを読むたびに、本当にその通りだなと神様の恵みを覚えるのではないでしょうか。
 しかし、主のおことばはそれで終わってはいません。「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」と言われています。サウルが王として選ばれたのに目的があったように、私たちの選びにも目的があります。それは「行って実を結ぶ」ということです。このために私たちは選ばれました。大きな神様の期待が掛けられています。この一年宣教の実が結ばれるように、神様の期待にお答えしていきたいと思います。私たちは行って実を結ぶために選ばれました。そのことをもう一度心に留めてまいりましょう。
 またもう一つの選ばれた目的は何でしょうか。
「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」他の聖書の訳ですと、「また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と訳されています。
 私たちが主の名によって祈り求めるものを父なる神様は与えてくださいます。私たちが選ばれ任命されたのは、私たちが神に求めて与えられるためです。祈ることは力です。私たちが自分の力で実を結ばせるのではありません。神様によって実が結ばれるのです。イエス様は言われました。(ヨハネ15:5)「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」枝が幹から離れて実を結ぶことができないように、私たちもイエス様を離れては実を結ぶことができません。神は与えることを、実が結ばれることを望んでおられるのです。主にお頼りし祈り求めていきましょう。豊かな実を結ばせください。
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