聖書:マルコの福音書11章1~11節
イスラエルの民は、過越しの祭りの時期になると、エジプトから救い出された出来事を思い起こし、神に感謝をささげるため各地からエルサレムに集まって来ました。主イエスも弟子たちとオリーブ山のふもとの町にやってくると、二人の弟子に(2~3)「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いてきなさい。もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」と命じました。弟子たちは出かけて行き、ある家の前で子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどきました。するとそこにいた人たちに「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」と聞かれたので、弟子たちはイエスが言われた通りに「主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします」と話しました。すると人々は子ろばを連れて行くのを許してくれました。向こうの村でつながれていたろばの子は、「主がお入り用なのです」と召しだされ、イエス様のもとへ連れて行かれました。
それで弟子たちはその子ろばを引いて行き、自分たちの上着を背に載せ、イエス様はそのろばの子の上に乘られました。このことは、ゼカリヤを通して語られた預言の成就でした(ゼカリヤ9:9)。イスラエルを救う王は軍馬にまたがり権力や武力によって治める王ではなく、柔和なろばの子に乗り、平和の王としてエルサレムに入城されました。すると、多くの人々が自分の上着や葉のついた枝を道に敷き、歓喜の声を上げイエス様をお迎えしました。(9~10)「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」「ホサナ」とは、「お救いください」「ああ、主よお救いください」という意味です。群衆はどんなに喜んでイエスを迎えられたでしょうか。人々はダビデ王国の再建がこのイエスによりなされ、今の窮状から救い出してくれることを期待していました。しかし、この数日後には、イエスが指導者たちに捕まると、群衆の態度は180度変わり「イエスを十字架につけろ」と叫びました。多くの人たちは自分が望んでいたメシヤでないことに失望しました。イエス様は武力で救う王ではなく、自ら十字架にかかり、人々を罪からお救いになる救い主として来られたのです。イエス様はエルサレム入城後、十字架の道へと進んで行かれます。
榎本保郎牧師は、「ちいろば」という本を書きました。その後書きの中でこう述べています。「このろばの子が「向こうの村」につながれていたように、私もまたキリスト教には全く無縁の環境に生まれ育った者であります。私の幼な友だちが、私が牧師になったことを知って、「キリストもえらい損をしたもんじゃのう」と言ったそうですが、その評価の通り、知性の点でも人柄の上からも、およそふさわしくなかった私であります。ですから、同じウマ科の動物でありながら、サラブレッドなどとはおよそけた違いに愚鈍で見ばえのしない「ちいろば」にひとしお共感を覚えるのです。しかし、あの名もないろばの子も、ひとたび「主の用」に召し出されたとき、その背にイエスさまをお乗せする光栄に浴し、おまけに群衆の歓呼に迎えられてエルサレムへ入城することができたのです。私のような者も、キリストの僕とされた日から、身にあまる光栄にひたされ、不思議に導かれて現在に至りました。つまり、あの「ちいろば」が味わったであろう喜びと感動が私にもひしひしと伝わってくるのです。この喜びをなんとかして多くの同胞におつたえしたい、それがこの『ちいろば』を執筆した動機であります。」私たちも向こうの村につながれていた者でしたが、「主がお入り用なのです。」と召し出してくださり、主のものとしてくださいました。そして恵みによってイエス様を背中にお乗せする光栄に預からせていただいています。「ホサナ」と叫ぶ人々のところに主をお乗せして運ばせてください。