出エジプト16:11~21,17:1~7「岩なるイエス」
イスラエルの民は荒野での旅を続け、ちょうど一か月が経ち、シンの荒野に入りました。しかしその時、新たな問題が起きました。それは、食物が彼らが望んでいたほど十分ではなかったことです。旅の疲れが出始め、持って来た食料もいよいよなくなってきました。イスラエルの民はモーセとアロンに不平をもらしました。(3)「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」彼らは奴隷の身分だったので、実際にはエジプトで肉なべを食べ、パンに満ち足りていたわけではなかったでしょう。むしろむちで打たれながら苦役を課せられていたのです。しかし彼らはそこから救い出されたことを忘れてしまい、早くも不平不満を言うようになっていました。
しかし主は言われました。(4,5)「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」神は彼らをさばくことなく、むしろ恵み深く、これから毎日天からパンを降らせるので、その日の分を集めるように、そして、六日目は二日分集めるようにと言われたのです。不平を言うなら、拒まれても仕方ないことですが、主はその不平を聞いてくださったのです。またこのことは、民が主の教えに従順に従って歩むかどうかを試すためでもありました。朝になると、宿営の周り一面に露(つゆ)が降りて、その露が上がった後に、地面には、白い霜のような細かい物、うろこのような物がありました。彼らはこれをマナと名づけました。味は、蜜を入れた薄焼きのパンのようでした。毎日決まった分を集めて食べるように命じました。このマナは、安息日を除けば、荒野をさまよう40年間、一日たりとも決して止むことはありませんでした。
イスラエルの全会衆は旅を続けて、シンの荒野を旅立ち、次にレフィディムというところに宿営しました。彼らはおそらくそこには水があるのではないかと期待していたのでしょう。しかしそこには水がありませんでした。彼らの心の中の不満は爆発し、「われわれに飲む水を与えよ」とモーセと争い、「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」と不満をぶつけます。主に叫ぶモーセに主は言われました。(5~6)「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」そしてその通りにすると、奇蹟が起こり、その岩から水がほとばしり出たのです。あわれみ深い神は、この時にも一方的な恵みによって、不信仰なイスラエル人の必要を満たしてくださいました。この出来事には、深い霊的な意味が含まれています。この岩はキリストの型であり、岩から流れ出た水は、キリストの昇天後に与えられた聖霊のことを表しています。 (ヨハネ7:38)「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」罪を悔い改め、岩なるイエス・キリストを救い主として信じるなら、私たちのうちに決して尽きることのないいのちの水である聖霊が満ちあふれるのです。御霊に満たされ、主の愛と赦しに生かされ、それぞれの信仰生活がさらに豊かにされていきますように。
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