ルカ18:18~30「富める指導者」
Ⅰ:一つ欠けていること(18~23)
(18)「また、ある指導者がイエスに質問した。『良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。』」
ある指導者がイエスのところに来て質問しました。若くてお偉い役人または議員でした。またこの人は品行方正で、大変な金持ちでした。若くて人望があってしかも裕福だというのだから、この世的には三拍子そろった、人のうらやむような人でした。しかし、彼はイエスのもとに駆け寄り、御前にひざまずいて非常に真剣な気持ちで「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるのですか」と尋ねたのです。彼は真剣に救いを求めていました。そして、何かをすれば永遠のいのちが得られると思っていたのです。この点について、私たちも何か良いことをすることによって、救われる、天国に行けると感じている人は案外多いのではないでしょうか。この人も何か良いことをすれば永遠のいのちを受け継ぐことができるだろうと考えていたのです。「永遠のいのちを受け継ぐ」とは、「神の国に入る」「救われる」と同じ意味です。
(19)イエスは彼に言われました。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」「良い」とは、神にしか使われない言葉です。この人がイエスのことを主と信じていたわけではなかったので、なぜわたしを「良い」と言うのか、良い方は神おひとりの他誰もいないと諭されました。この指導者の心を神に向けさせようとしたのです。(20)続いてイエスは十戒の後半部分を教えました。「戒めはあなたもよく知っているはずです。姦淫してはならない。殺してはならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。」
イエスはこれによって彼の罪を悟らせ、彼を神に導こうとされたのです。(21)するとその人は「私は少年のころから、そのようなことは守っています。」とためらわずに答えました。ユダヤの子どもは幼い時より、これらを暗唱させられ、それを行なうように教え込まれていたからです。そのような生活をしてきても、永遠のいのちの確信が持てず、イエスのもとに来たのです。
(22)イエスはこれを聞いて次にこう言われました。「まだ一つ、あなたには欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしに従ってきなさい。」しかし、彼はこれを聞いて自分にはできないことを知り非常に悲しみ、イエスのもとから去って行きました。
「欠けていること」とは、何だったでしょうか。それは、神に寄り頼まずに、富により頼んでいたことです。そのことを悟らせるために、持っている物を売り払い、貧しい人に施すように言われました。彼は神様のことを信じてはいたでしょうが、実は神に寄り頼んではいなかったのです。実際は自分の財産、富により頼んでいたのです。イエス様はそのことを指摘されたのでした。この指導者は、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるのか」と尋ねています。人は良い行いやこの世の物によって永遠のいのちを得ることはできません。なぜなら、この世のものは永遠ではなく、いつかは朽ちて滅びてしまうものだからです。ですから、永遠のいのちを得るためには、永遠のいのちであるイエス様につながることであり、イエス様により頼むということです。そのことを、この指導者に伝えようとされました。
Ⅱ:らくだと針と穴(24~27)
(24~25)イエスは彼がとても悲しんだのを見て「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」と言われました。
ラクダが針の穴を通ることができないのですから、富を持つ者が神の国に入ることがどれだけ難しいことでしょうか。しかし、富んでいる者は救われないという意味ではなく、富がしばしば救いの妨げとなることを言っています。
イエス様は隠喩を用いて説明されました。イスラエルでは「針の穴」とは、ある小さな門のことを指していたようです。らくだは動物の中では大きな動物です。そして商人が荷物を運ぶのによく用いられました。商人が町を出入りし、城壁の門を通るときに、夜遅かったりすると、門が閉じられていて通り抜けることができません。その際、大きな門の横には旅行者用に出入りのための小さな門があります。それが「針の穴」と呼ばれているものです。
その小さな門を大きなラクダが通るには、背中に背負っている荷物をすべて下ろし、膝をかがめて這うようにしなければ、針の穴の門を通り抜けられなかったのです。神の国に入るということも同じことが言えるでしょう。針の穴という門を通るには、背負い、身に付けている荷物をすべて下ろし、イエス様の足もとにひざまづいて体を小さくし、謙遜にならなければ、その門に入ることができないのです。このようにイエス様はラクダと針の穴の比喩を用いて、金持ちが神の国に入ることの難しさを言われました。
(26)それを聞いた人々は「それでは、だれが救われることができるでしょう。」と驚きました。当時のユダヤ人にとって、富は神からの祝福であり、富んでいる者は最も神の救いに近いと考えていました。ところが、イエスは逆のことを言われたからです。人々はあのような真面目で立派な指導者でも救われないことを見て、救われることの難しさを感じたのでした。
(27)するとイエスは「人にはできないことが、神にはできるのです。」と言われました。
救いは、人間の良い行いや努力や身分によって得られるものではありません。しかし、神はご自身の愛とあわれみによって、罪人を救うことができるのです。富んでいる者をも富に対する執着から解放し、心を貧しくしお救いになるのです。これは富だけの問題ではなく、この世の権力や地位、快楽、その他どんなものでも、その人の心を満たしているものから解放しお救いになれるのです。
Ⅲ:何倍もの祝福(28~30)
(28)すると話を聞いていたペテロは「このとおり、私たちは自分のものを捨ててあなたに従ってまいりました」と言いました。「自分のもの」とは、「自分の持ち物」という意味です。ペテロは私たちはすべての持ち物を捨ててイエス様に従っているのだから、私たちは神の国に入ることができるだろうと思ってイエス様に告白しました。
(29~30)イエス様は言われました。「まことにあなたがたに言います。だれでも、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は、必ずこの世で、その何倍も受け、来るべき世で、永遠のいのちを受けます。」
弟子たちの場合、確かに家を捨て、仕事を捨て、家族を捨ててイエス様に従って行きました。自分のものを捨てる者は、この世で多くの祝福を受け、新しい天と地において、永遠のいのちを必ず受けるとの約束です。
私はここのみことばを読みながら、確かに献身ということはすべてのものを捨てて、イエス様に従って行くことだなと思いますが、自分の愛する家族を捨てるということはどういうことなのかな、イエス様の真意はどこにあるのかなと考えました。イエス様は決して家族を捨ててないがしろにするということではないようです。捨てるとはどういうことかと言いますと、「リセットする」と言ったらいいでしょうか、一度、肉としての家族関係をリセットすることによって、肉親よりもさらにまさる愛の関係を築いていくことができることを言っているのだと思います。血のつながりだけではなく、主にある愛の関係が築かれていく時に、この世で何倍もの祝福を受け、来世では永遠のいのちを受けるのです。
「自分のもの」とは、「自分の持ち物」、自分が持っている物という意味ですが、自分で離さずに握りしめている物を離す時に、この世の何倍もの祝福を受けて、来るべき新しい世界で、永遠のいのちを受けるのです。これは自分のものなんだ、絶対離さないぞと握りしめている時には、それはそのままですが、一旦それを離す時に、主に明け渡すならば、ただ返って来るだけではなく、何倍もの祝福として返って来るのです。神の国の法則は不思議だと思います。
私たちは多くの物を与えられていますが、すべて神様によって与えられた物です。神様によって与えられずにいただいているものはありません。富や能力、時間、親や肉親、すべて神様から与えられた物です。それを明け渡していく時に、何倍もの祝福として返してくださるのです。どのように用いていくでしょうか。持てる物を捧げることは難しいことですが、「人にはできないことが、神にはできるのです。」