夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

公開授業レポート

2013-02-19 23:45:47 | 教育
校内公開授業(現代文・評論)は今日の午後にあって、なんとか無事に終えることができた。
公開授業は今週いっぱい続き、金曜日の放課後にお互いの授業への意見交換会がある。

それまでに自分の今日の授業のおさらいをしておこうと、夜になってから就職相談室のテレビを借りて、撮影しておいたビデオを見た。自分の授業の録画を見るのは、はっきりいって苦痛なことが多いのだが、他人の目からはどう見えるのかを知るよい機会になる。

授業用ノートの空きページに、縦線を2本引いて3分割する。左の欄は、授業開始から何分何秒経っているかを書く。真ん中の段は生徒への指示や発問、作業させたことなどを書く。右の欄には、反省点や注意事項やよかった点などを書く。

準備ができたら、テレビの前に机と椅子を用意して座り、ハンディビデオカメラをテレビにコードでつなぎ、再生を開始。録画は、授業が始まる少し前にボタンを押したので、再生してしばらくは休み時間中の生徒の様子が映っていた。(実に楽しそう)。

間もなく、授業開始のチャイムの音が聞こえてきたので、ストップウォッチで時間をはかりはじめ、自分の授業見学が始まった。

授業の流れ
1分。本時の予告から、日付とタイトルを板書し、タイトルの意味を考えさせる。池上嘉彦の『記号論への招待』とあるが、記号論とはどんな学問か、というところですでにつまずく。本文で話題になっていた記号とは、具体的には何のことだったかと質問しても、正しく答えられない生徒が連続する。4人目の生徒でようやく、「言語表現」と答えてくれてホッとした。

4分。形式段落の数を確認し、幾つの意味段落に分かれるかを尋ねる。2、3、4、それ以上、と挙手させていき、最も多くの手が挙がった3が正解と伝える。段落分けの根拠を説明しながら、Ⅰ①~③、Ⅱ④~⑥、Ⅲ⑦・⑧と板書。(見学の先生を意識して、意味段落の見つけ方についてまで説明したため、時間がかかりすぎてしまった)。

9分。第一段落の本文の指名読み、併せて語句の意味の確認。

13分。第一段落の内容を理解できているか、Q&A方式で確認。
(生徒を本文に密着させようというねらいだったが、授業展開としては、ここは生徒に質問に対して答えさせながら、確認した内容を板書して視覚的に定着させた方が効率的だった。後で板書するときにまた同じ質問を繰り返すことになったので、二度手間である。また、この時間に板書がほとんどないのも問題があるし、読み聞き話し書くという生徒の活動が、大半の生徒には聞くだけに偏っているのもよくない)。

17分。第一段落で筆者が言いたい要の部分に線を引かせる。線を引きすぎないように、条件節や修飾語句、程度の副詞の部分は省いて、という指示がくだくだしい説明になってしまった。

19分。「現代の記号論では、(記号が)記号を超える営みに関心が寄せられる」という言い方がなぜ「逆説的に(矛盾して)聞こえる」のか、の発問を考えさせ、答えさせる。

21分。第一段落の内容をまとめて板書。(ここまでが長すぎた。ようやく授業が動き出した感がある。やはり、板書しながら生徒への説明や内容理解を行った方がよい)。

33分。問一の答え合わせと「逆説」の意味の確認。この用語は、一学期の授業で出てきたときに、辞書で調べさせ、板書してノートに、評論ではこういう意味で使われるということを書かせた。にもかかわらず、指名しても、「1.常識に反する真理。2.矛盾」という意味がうろ覚えの生徒ばかりなので、正直がっかりする。だが、評論は言葉がわからないと読めないし、設問も誤答することを教えるよい機会になった。ちなみに正解のイは正答率67%。逆説を「逆接」と取り違えて「否定的な~」という説明のあるウを選んだ生徒が18%であったことも伝える。

37分。板書を使って、第一段落の内容をおさらいした上で、筆者の主張の核心が「現代の記号論では、(記号が)記号を超えていく営みに関心が寄せられる」ことであったことを確認し、これがこのままでは抽象的でわかりにくいから、第二段落で具体例を伴っての考察に移るのだ、ということを説明。この流れはスムーズでよかった。

40分。第二段落前半の音読。語句の意味の確認。
42分。第二段落前半の内容について、Q&A。
44分。問三で、本文中の空欄に何があてはまるか、答え合わせ。選択肢ごとの正答率も併せて伝える。
45分30秒。板書で、第二段落前半の内容をまとめる。
48分。分量がそれほどないと思ってまだ板書しているが、本来なら本時のまとめと次時の予告に入るべき時間。
49分15秒。先に行くのをあきらめ、残りは次の時間に行うことを告げる。この判断を早くせねば。
49分40秒。本時のまとめをしている間にチャイムが鳴り、26秒超過して授業が終了。生徒はもうノートや筆記用具をしまい、話を聞いていない者もいた。生徒にとって休み時間は貴重であり、超過は犯罪的行為なのだ。そのことがよくわかった。

感想と反省点
他人の眼で自分の授業を見たときに一番気になるのは、実は授業の内容や教え方よりも、外面的な印象であることを強く感じた。
つまり、服装や表情や音声、態度・物腰などや、教授者のパーソナリティを通じて、生徒は教えられることになるので、目で見、耳で聞く媒体そのものの方が、直接的な評価の対象になるのだ。

自分が授業で、こんなに笑顔を見せていないのかと思ったのはかなりショックだった。緊張しているせいか、動作がせかせかして落ち着きがなかったのはよくない。もっとゆったりと包み込むような感じであるべきだ。
問いを発するときも、答えを聞くときも、もっと生徒に真剣に向かい合う姿勢がほしい。話し方や声はもっと力強く。生徒の反応をもっとよく見て。
指名がほとんど座席順なので、もっとランダムに当てて、生徒に緊張感を持たせた方がよい。
…「もっと」が多いなあ。よく考えられた授業はしているので、「もっと」自信を持ってやっていいよ、と自分を励ましてやりたい。
板書の見やすさは、以前から生徒にも評価の高いポイントなので(字は下手だが…)、ポインター(指示棒)で指し示しながらの説明はよくわかる。(自分で言うなよ)。自分の長所を自覚し、それを最大限に活かすような授業をすればよいのではないかと思った。

明日は別のクラスで、古文の公開授業を行う。今日の反省を活かしてがんばろう。



リハーサル

2013-02-18 21:03:54 | 教育
明日、公開授業を行うので(現代文・評論)、夕方にホームルーム教室でそのリハーサルを行った。
といっても、まだ教材研究や板書計画も済んでいない状態なので、全体の構成と流れを確認する意味でのリハーサルのリハーサルくらいのものである。

研究授業ほど厳格なものではないけれど、やはり授業の柱を立て、この学習目標を達成するためにこういう手立てでこのように指導する、ということがきちんと説明できるものでなければならない。

リハを行って初めて、頭の中にあるイメージそのままでは、授業の形にならないことがわかることも多い。
生徒にどのような活動や作業を行わせるか、指示は具体的であるべきだ。たとえば、
  タイトルに着目させ、その意味を考えさせる
  形式段落に分けさせる
  意味段落に分けさせる
  段落ごとに見出しをつけさせる
  本文を音読させる(指名読み)
  語句の意味を答えさせる
  その段落の中で、何が話題になっているかを指摘させる
  その話題を通して、筆者が何を主張したいのかを答えさせる
  筆者の主張と対比させられている通念や通説はないか、探させる
  その段落の内容が読み取れているか、質問に答えさせる
  具体例と抽象論とがどう関係しているか、答えさせる
  教師の説明を聞く
  板書に内容をまとめたものを書き写させる

また、授業での時間は不可逆的なので、その作業・活動をどういう順番で行うかの選択・構成も重要である。
特に、質問・発問をなるべく易→難で配列し、順を追って解答していくことにより、最終的に主題の理解につながるように授業を展開するのが理想だろう。

一方で、主題の理解に到達するための手立てを生徒が理解し、次に評論の文章を読解する際にその方法を活用できるように、意識化・自覚化させるための指導も必要である。

…と書いてきて、「教師の一方的な指導や説明ばかりで、生徒の自発的な学びがない」とか、「もっと生徒同士が教え合ったり、意見を発表し合う場を設けたらどうか?」と言われそうな気がしてきた。まあ、言われるだろう。だが、上記のことを生徒が教師の指示なしでも、すべて自ら行えるようなら、指導も説明もする必要はない。残念ながら、模試や入試では、大人が読んでも難しい評論やエッセイが出題され、設問で上記のようなことを理解できているかが問われるのだ。入試に必要な学力をつけさせずに受験させるのは、軍隊にたとえるなら、兵士に武器の使い方も教えずに戦場に送り込むのと同じだと思うので(物騒な発言で申し訳ない)、ジレンマは感じつつ、自分の現時点での最善を尽くすしかない。その上で、実際の生徒の反応を見たり、なるべく多くの方からご意見をいただいて、授業を改善していく。

教師をしている限り、その最大の労力を要する授業では、理想と現実のギャップは必ずあり、悩みは尽きないことを実感する。

珍現象

2013-02-17 18:08:05 | 日記
昨夜は職場の飲み会で、大いに食べ、飲み、語り合い、楽しみ、深夜にまで及び痛飲した。そのため、今日は二日酔い気味…。外出はせず、食事を控えめにして一日ゆっくり過ごした。

先ほどこのブログの編集画面に入り、昨日のアクセス数を見てみたら、「あれ?」
なんと、アクセス数が1,000を超えている。

このブログは、基本的に家族と友人に向けて書いているので、訪問していただいている人の数は限られており、毎日のアクセス数は100前後である。一桁違うのは、何が起こったのかと確認したら、昨年の4月25日の記事「「守株」の新解釈」をどなたかが昨日Twitterで取り上げてくださり、それが瞬く間に拡散したらしいということが分かった。Twitterの伝播力、おそるべし。

該当の記事はいちおう、ここに再掲しておく。

「守株」の新解釈
これは以前の話になるのだが、1年生の古典の実力テストに、漢文で「守株」の文章を出題した。みなさん、ご存じの話である。

昔、宋の国の人が、畑仕事をしていたら、兎が走ってやって来て、木の切り株にぶつかり、首の骨を折って死んでしまった。それ以来、その人は農作業をやめて切り株の見張り番をするようになったが、二度と同じように兎を手に入れることはなく、畑は荒れ放題になり、その人は国中の笑いものになったという。

型のごとく、出典(『韓非子』)や語句や書き下し文や返り点について問うた後で、〈なぜこの人は鋤(農耕具)を捨てて、切り株の番をするようになったのですか〉という問題を出した。

だいたいは、模範解答として用意していたような答えをしていたのだが、一人の生徒だけ、「うさぎが再びやって来て、切り株にぶつかって首の骨を折って死ぬのを防ぐため」と書いてあった。

採点しながら思わず大笑いしてしまった。

後になって、同じく古典を教えているK田先生にその答案を見せたところ、「なんという心優しい…。」と言って笑っていた。


Twitterのコメントを見たら、
「是非、正解!はなまるにしてほしいです!」
「♪ うさぎ ころげた き の ねっこ (^^) RT」
などと書かれていた。ありがとうございます。

私はTwitterは利用しないので、どんなものか知らなかったが(生徒の中には、毎日つぶやいている者もいる)、大きな影響力を秘めたメディアなのだなということを実感した。


レ・ミゼラブル

2013-02-16 13:24:27 | 映画
昨年からずっと行きたいと思っていた映画をようやく観ることができた。



あらすじ(さわりだけ)
妹の子どものためにパン一つを盗んだだけで、19年も囚人として暮らすことになった(盗みは5年の罪、あとは脱獄罪)ジャン・バルジャンの数奇な運命の物語。

1815年。ジャン・バルジャンは仮出獄を許されるが、危険人物として仮釈放は一生続くと言われており、指令があれば出頭しなければならない。ジャンには身分証がないため、仕事も泊まるところもなく、食べ物さえ売ってもらえない。心が荒み、体も疲れ果てて教会の前で倒れていたところを、司教に助けられ、暖をとらせてもらい、食事も与えられる。しかし、その夜、教会の銀器を盗み出して逃亡したところを、尾行していた警官につかまる。銀器は司教からもらったものだと言い張るジャンの嘘にも、司教は警官に「彼の話は本当だ」と言ってくれた上に、忘れ物だと言って銀の燭台まで与えてくれる。
司教は、「私はあなたの魂を救い、神に捧げよう。正しい人になってくれ」とジャンに諭す。

その後、ジャンは心から懺悔する。
「世間を憎み、罪人として生きてきた自分を司教は受け入れ、兄弟と呼び、自由を与えてくれた。自分は、苦しみだけの罪の渦巻く世界から抜け出して、生まれ変わろう。」
ジャンは仮出獄許可証を破り捨て、別の人生を歩むことを決意するが…。

感想
この作品は、小学生の頃、子ども向けの『ああ、無情』を読み、またフランス版の映画も観た(原作は未読)。だから、だいたいの内容は覚えているつもりでいたが、今回この映画を観て、初めて知ったり、昔は気づかなかったことを発見したりも多い。



その一つは、フォンテーヌ(アン・ハサウェイが演じていた)。仮釈放から8年後、名前を変えて成功し、パリ市長となったジャンが経営する工場をクビになったフォンテーヌが、娘のコゼットを育てるために髪を売り、歯を売り、というのは覚えていた。だが、そこから娼婦にまで身を落とすのは知らなかったので、子どもがいながらはした金のために体を売る惨めな境遇の変化に、やりきれない気持ちになった。
(その後、フォンテーヌは客ともめごとを起こし、逮捕されようとするのをジャンが阻止し、病気づいた彼女を救ってやる。また、間もなく彼女が亡くなるときには、ジャンが「コゼットは自分が引き取って幸せにする」と約束する。)
ちなみに、子どもの頃のコゼットは、原作挿絵のイメージそのままなので、驚いてしまった。
 

二つ目は、19世紀のパリの庶民の貧しい、ほとんど悲惨な生活や、革命運動など、当時の世相がふんだんに話の中に盛り込まれていること。三つ目は、信仰がこの作品の主題に大きく関わっていること。この二点は、昔の私はあまり気づいていなかった。



最後の、ジャンが天に召される場面は、内容をすでに知っているはずなのに、やはり涙を誘われる。コゼットとマリウスの結婚式のとき、ふとした出来事がきっかけで、夫のマリウスは、コゼットの育ての父親のジャンが、自分の命の恩人であったことを知る。以前の革命運動の際、瀕死の重傷を負った自分を、ジャンがバリケードから下水道を通って脱出させ、病院に運んでくれたからこそ、今自分は生きている。…修道院で、間もなく息を引き取ろうとしているジャンのもとに、マリウスは式場からコゼットを伴い、急いで駆けつける。ジャンは二人が来てくれたのを知り、
「全ての苦しみから解き放たれ、今、自分の人生は祝福された。」
と言って死んでいく。

この映画は、マッキントッシュ製作の舞台にもとづくミュージカル映画であり、登場人物の台詞は全編、生の歌声(!)。
2時間38分、演出過剰なところもあるけれど、役者達の熱演と、映像と音楽の圧倒的な迫力で、見る者を飽きさせないのはすごい。
前評判通りの内容で、十分に満足して帰ってきた。

N・ヒル『仕事の流儀』(その19)

2013-02-15 23:19:39 | N・ヒル『仕事の流儀』
第18章の続き。

ヒル博士は、今日では、同業者仲間の内での競争が熾烈になっていることを指摘する。どんな職業にも、行われるべき基礎があり、それを理解した者だけが生き残れる。職業での災難の大部分は、主として、多くの職業人たちが体系立てて仕事を行うことの基礎を何も知らないのが原因である。
ヒル博士は若者に、職業に就く前の準備とトレーニングとして、費用はかかっても、ビジネス・カレッジを賢明に選び、そこで学ぶことを勧めている。これは現在では当たり前のことだが、ヒル博士のこの本が出版されたのが1939年であったことを思うと、当時としてはかなり思い切った主張であったのではないかと思う。

また、第18章を閉じるに当たってヒル博士が、どんな職業においても、その人が成功するか失敗するかを決定づける要因であると信ずる法則を挙げているのが印象に残った。それは、とても単純なので、その重要性が多くの、特に働いた経験のない若い人々には低い評価しか得られないかもしれないが、と懸念しつつヒル博士は言う。

The principle may be described as“the failth and persistence to accept defeat as being nothing more than an experience from which something of value may be learned.” Most people give up or let their ambition be killed when serious obstacle are met.
Life is filled with obstacles that must be surmounted. Only those who have the stamina and the willingness to fight can win. Others must take the count. Do not expect that you will be one of the fourtunate who never meet with serious opposition in life, for you will be no exception to the general rule. Everyone meets with opposition. Opposition should be accepted as a signal to put everything you have into its mastery.
(“How to sell your way through life”‘18 How to choose an occupation’)

この原則は、「敗北しても、そこから何か価値を学ぶべき経験にすぎないとして受け入れる信念と粘り強さ」として説明しうる。たいていの人々は、深刻な障害に出会うと、あきらめるか、自分たちの念願を失われるに任せてしまう。
人生は乗り越えるべき障害に満ちている。スタミナと闘う意志を持つ者だけが勝利する。その他の者たちは、10カウントを数え終わるまで起き上がれない。あなたは、自分が人生において深刻な障害に決して遭わない、幸運な人間になりたいと期待してはならない。というのも、あなたは一般的な法則の例外にはなりえないからだ。誰もが障害に出会う。障害は、すべてあなたを成熟に導くためのきっかけとして受け入れるべきなのだ。

信念と持続力。当たり前だが、これを原則として味方にすれば成功し、バカにして省みなければ失敗するだろう。ヒル博士の言葉は厳しいけれど、今の自分には勇気と意欲が湧き、活力のもとになる言葉だった。