夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

『明月記』を読む(2) 

2013-02-25 22:15:46 | 『明月記』を読む
正治二年(1200)七月 藤原定家三十九歳。

一日。乙卯。天晴る。静闍梨、御社より出でて来臨す。喜び乍(なが)ら、護身を加へしむるの処(ところ)、今日は無為。効験殊勝、感悦極まり無し。今日、出車八条院に献ず。鳥羽殿に御幸。今夜即ち小浴す。心中に所存有り。精進を始め了(おは)んぬ。


この月の『明月記』の記事には、定家の病悩に関する記述が多い。定家は一生を通じて病気がちであった人で、特に咳(がい)病・風病、すなわち呼吸器系の疾患に悩まされていた。

兄の僧、静快(せいかい)阿闍梨(あじゃり)が日吉神社からやって来て、護身の呪法を加えてもらったところ、効き目があり、気分が爽やかになった。この静快と定家は親密であったらしく、特に正治年間にはその名がしばしば見えている。

ちなみに定家の兄弟姉妹は極めて多く、存疑の者も含めると二十人以上(!)に及ぶ。また、定家の姉たちのうちの五人は、この記事に出てくる「八条院」、つまり鳥羽天皇の皇女・子(しょうし)内親王に女房(貴人に仕える女性)としてお仕えしている。定家が、経済的には十分に恵まれていない(絶えず貧乏を嘆いている)にもかかわらず、八条院に出車(いだしぐるま=女房が乗る車)を献上しているのは、この姉たちが八条院の鳥羽殿への御幸(ごこう=おでまし)に従うためである。

出車 (京都金光寺蔵「一遍上人絵巻(宗俊本)」『原色日本の美術第8巻 絵巻物』(小学館))

定家が夜になって身を清め、精進潔斎を始めているのは、翌々日の三日から日吉神社に参詣するためである。当時の貴族たちの心願成就にかける本気度は、現在の私たちの社寺参詣とはまるで違うことに改めて驚く。


日吉大社 (MAPPLE 観光ガイドサイトより転載)
日吉神社は、滋賀県大津市坂本(比叡山の東麓)にあり、平安遷都後は、都の表鬼門(北東)にあたることから王城守護の神として、また天台宗延暦寺の創立とともにその鎮守神として、貴族たちの崇敬を受けた(現在は日吉大社と称する)。後三条天皇をはじめとして、歴代の天皇・上皇や、藤原道長ら摂関家の参詣がたびたびあった。後鳥羽上皇も、日吉社に参詣し、和歌を奉納もしている。

さて、定家が未(ひつじ=午後二時頃)に輿(こし)に乗り出発して、京都を出て日吉社に着くのが夕方になっている。現在では、JR湖西線で京都から比叡山坂本駅まで約20分、そこから徒歩でまた20分ほどで行くことができる距離であるが、当時はそれだけかかったのだ。自分の信仰心の浅はかさを知らされるようで、少し恥ずかしい気持ちになる。