夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

『明月記』を読む(3)

2013-03-10 23:29:04 | 『明月記』を読む
正治二年(1200)七月 藤原定家三十九歳。

五日 天晴る。子夜甚夜。未(ひつじ)の時許(ばか)り坊門に向ふ。静闍梨来たり午刻に候す。病只同じ事なり。護身を加へ減ずべきの由女院(子)の仰せ有り。毎事貧乏の間、往時に相違するも、猶(なほ)日次を問ひ、又僧を相語らふべきの由、闍梨に示し付け了(おは)んぬ。昏黒八条院(子御所)に参り、女房を以て病者の有様を申す。猶祈るべきの由仰せ事有り。即ち退出す。病気甚だ不快にして、進退輙(たやす)からず。今日漁父の誨(をし)へに随ひ之に追従せられ、或る人に付け此の事を示す。単衣(ひとへ)重ね二領、紅袴二腰、生の小袖二領。

前半は、姉の病気についての記事。前回紹介したように、定家の姉たちのうち五人は、故鳥羽院の皇女・八条院子にお仕えしていたが、この姉は坊門局と呼ばれる女性であろうと見られる。定家は貧窮のため、以前のようには手を尽くせないが、八条院の仰せに従って、兄の静快に護身の修法を依頼している。『明月記』の正治二年の記事には、この姉の病気がしばしば話題になっているが、おそらくこの年の終わり頃までは生きていたものと思われる。

記事の後半は、ある人に託して定家が賄賂を送ったことについて。
この日に先立つ七月三日、心身の不快を押して日吉社へ参詣した定家は、おそらく年来の官途不遇の打開を祈念していたものと思われる。定家は、文治五年(1189)に左近衛権少将となってから、十二年目になるこの年まで昇進がなかった。翌年(建仁元年=1201)十二月には、六日から十二日まで七日間、寒中にもかかわらず日吉社参籠を行って、中将への昇任を祈願している。

だからこの賄賂も、昇進の斡旋依頼であろうが、その宛先は卿二位(きょうのにい)と呼ばれる藤原兼子(けんし)と見られている。兼子は、姉の範子、叔父の範季がそれぞれ、天皇時代の後鳥羽の乳母(めのと)、乳父(めのと)であったことから、天皇の養育係となり、後鳥羽が上皇となってからも、重要案件の取次ぎを独占し、絶大な権勢を誇っていたのだ。

定家が「漁父の誨へ」と言っているのは、高校国語の教科書にも出てくる屈原(くつげん)・楚辞の故事による。
中国の戦国時代、楚の国の三閭大夫(さんりょたいふ)であった屈原は、高潔な人柄が災いして讒言(ざんげん=中傷)に遭い、江南に追放されるが、そこで年老いた漁夫から、世に身を処するには、よく時勢に従って推移すべきことを説かれたという。

こんな故事を引き合いに出して、自己を正当化しているところからも、潔癖な定家が乏しい手持ちを割いて、権勢家とはいえ女性への賄賂に当てるのがどれだけ屈辱的なことだったのかが伝わってくる。実(げ)に、すまじきものは宮仕え。

小袖 (「病草紙」『原色日本の美術第8巻 絵巻物』(小学館))
ちなみに、「単衣」(膚着の上に着る衣)「袴」「小袖」(膚着)は、いずれも女子の衣服。こういうものが贈答品として流通しているのも、なんだかおもしろい。