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夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

山を越える牧水

2015-11-10 22:58:36 | 短歌
今年は若山牧水生誕から130年に当たり、先日私が参加した若山牧水顕彰全国大会も、それを記念する催しの一環として行われた。
会場のまなび広場にいみに行くのは初めてだったが、こんなに立派な建物だったなんて。


以前書いたように、私の所属する短歌結社の先生が基調報告をなさるというので、ずっと楽しみにしていた。以下、先生のお話で印象に残ったところを挙げると、

私事ではあるが、『別離』という歌集を読んだとき、冒頭にある、
  水の音に似て鳴く鳥よ山ざくら松にまじれる深山の昼を
に、ふっと〈死〉が私の頭の中をよぎった。
  幾山河越えさりゆかば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく
もそうだが、優れた文学は常に死を意識している。この歌を詠んだ牧水は若年でありながら、死を傍らに置いている。
  白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
も、明るい風景に見えるが、死を意識した世界。
牧水の歌は、山、死が常に意識にある。

牧水にとって、死んで帰って行く場としての〈山〉は故郷の尾鈴山であり、「幾山河」の歌も、中国山地を旅していながら、どこまで行ったら寂しさから逃れられるのかと歌っている。彼の当時の苦しみは、園田小枝子への恋だったろうが、彼は常に何かに〈あくがれ〉ていた。
酒を飲んで酩酊状態にあることも、旅にさまようこと同様、死の世界への〈あくがれ〉であり、日常とは異なる世界へと心が向かっていたのだ。

先生のお話の中で、いい歌にはどこかに分かりにくい所があったほうがよい、と言われていたのが、心に残った。
牧水の「幾山河」の歌で、「寂しさの終てなむ国」とは何なのか分かりにくいが、その分かりにくさが、この歌を魅力的なものにしていると。
…歌は、一読して直ちに意味が了解されて終わってしまうのではいけない。牧水が、一首の字面の背景にある作者の詠嘆に、読者が共感し共に味わいうるような余情・余韻を大切にし、それがない歌を「そうですか歌」と呼んで人に注意し、自らも戒めていた、というエピソードを思い出した。

先生が基調報告を終えられた後、休憩時間にご挨拶に行った。先生は、「久しぶり。」と笑顔で言われ、「来年は、山陰で(結社の)全国大会があるから、よかったら来てくれ。」と言ってくださった。

幾山河越えさりゆかば

2015-11-09 23:49:55 | 短歌
先日、若山牧水顕彰全国大会に参加する前に、新見市哲西町にある牧水二本松公園を訪れた。
ここには、牧水の代表歌として有名な、

  幾山河越えさりゆかば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

の歌碑があるので、一度行きたいと思っていたのだ。(妻・喜志子、長男・旅人の歌碑もある。)


牧水がこの地を訪れたのは、明治40年夏。みなかみや渓谷が好きな牧水に、友人の有本芳水が、岡山の高梁・新見あたりは渓谷が美しいから、備中・備後を歩いてみてはどうかと勧めたらしい。(詳しくはこちらの記事を参照。

岡山・広島県境の二本松峠で牧水は旅館・熊谷(くまたに)屋に泊まり、その際、有本芳水に絵葉書を書いて送った中にあったのが、「幾山河」の歌だった、ということらしい。


牧水二本松公園には、再建された熊谷屋があった。
名歌の生まれた機縁になったというだけで、すでになくなっていた旅館が復元されてしまうのだから、牧水人気というのはすごいものだと思った。

続 月次の会・十月

2015-10-28 22:25:02 | 短歌
今月も月次の会には参加できなかったが、先日、学会で岡山に滞在していたときに、運動公園(岡山県総合グラウンド)で美しい夕焼けを見た印象を詠んだ歌を送っていた。

(提出歌)
  秋の日の暮れゆくままに空高き鰯雲やや赤く色づく
(添削後)
  秋の日の暮れゆく空に鰯雲高く流れて赤く色づく

(提出歌)
  秋の日ははや入りはてて肌寒く野を吹く風に尾花はなびく
(添削後)
 秋の日ははや入りはてて肌寒し野を吹く風に尾花はなびく

夕陽が沈む頃になっても、東の空はまだ青空のまま、しかし高く広がる鰯雲は、茜色に染まっていく。
日が没して辺りが暗くなると、にわかに肌寒い風が吹き始め、薄の穂がざわざわと風に揺れる様子が寂しさを誘う。

私は昔から、一年のうち秋がもっとも好きで、秋の夕暮れに勝る風情はないと思っている。
暦の上では間もなく秋も終わり、私のこよなく愛する季節が行ってしまうのが悲しい。

伯耆路をゆく 再び

2015-10-20 20:40:34 | 短歌
これは今月初めの話になるが、「吟行短歌集 伯耆路をゆく」が郵送されてきた。
7月の日本歌人クラブ中国ブロック研修会の後で、その時の参加者たちが短歌5首をそれぞれ提出したものを集成した小冊子である。

日本歌人クラブ会長の三枝昂之氏は、「短歌の日記代わりの記録性、永久保存の意義」をよく強調されているとのこと。

確かに、歌詠む者にとっては、なまじの写真より、自分の実感実情に出た歌、思いを凝らして詠んだ歌の方が、はるかにその時、その場を思い出すよすがとなるにちがいない。

頁を繰り、参加者の皆さんたちの詠歌を読んでいると、旅の中で見聞きしたあれこれが脳裡に鮮やかに蘇る。
自分と同じものを見ても全く着眼点が違ったり、私の全く気づいていなかったものを取り上げていたり、グループで吟行する楽しさは、こんなところにもあるのだな、と思った。

先生のお歌も、「大山即時」と題した作があり、その中では特に、

  青山の奥より潺湲(せんかん)と来たる水また青山の中に消えゆく

  みどり濃き木賊(とくさ)の茎に殻を脱ぎゆきし蟬ありいまだ濡れ色

が印象に残った。

先生のお歌を読んでいつも感じるのは、その語彙の豊富さである。
「潺湲」は水がさらさらと流れるさまをいい、清流の形容に用いられる。
恥ずかしながら私は、国語の教員でありながら、辞書を引くまでこの言葉を知らなかった。

私は短歌に漢語を使うのが苦手で、歌の調べを損なうのが嫌なので、なるべくなら和語だけで済まそうとする傾向がある。
しかし、現代短歌では、漢語、俗語、卑語も含めて貪欲に歌に詠むべき言葉を求め、なおかつ格調ある歌を作らなければならない。
自分の知っている範囲の言葉だけにとらわれず、もっと歌言葉を開拓したり、あるいはあえて造語したり、表現の可能性を追求する必要があると思った。

続 月次の会・九月

2015-09-28 23:11:19 | 短歌
今月も、月次の会の当番の方に、手紙を添え、当日の参加者の詠草を送っていただいた。
(当番の方、ありがとうございます。)
みなさんの詠歌も先生の添削も、それぞれにその意図をいろいろと考えながら読んでいくのが面白い。

今回の私の歌は、先月、上野の東京国立博物館に行った帰り、不忍池に寄った時に詠んだもの。

(提出歌)
  不忍の池を埋むる大賀蓮の葉に天よりの雨降りそそぐ
(添削後)
 不忍の池を埋むる大賀蓮の葉に秋雨の降りそそぎをり

(提出歌)
  風吹けば蓮の大葉も雨水を受けとめかねて露のこぼるる
(添削後)
  風吹けば蓮の大葉より雨水のこぼれこぼるる遊びのごとく


先生の添削を見て、今更のように、歌の内容と表現を調和させ、一首の方向性を徹底させることの重要性を感じる。
一首目は叙景に徹して、「天よりの」などとと余計な言葉を入れるべきではなかったし、逆に二首目は、「受けとめかねて」と説明的に捉えるのではなく、蓮の葉から水がダイナミックにこぼれ落ちる躍動感を、誇張するぐらいに詠んでもよかった。
たとえ連作でも、同じような感じで詠んでしまうのでなく、一首一首それぞれの内容に応じて力点を変え、自立した歌になるよう、もっと工夫を凝らさなければよい歌は生み出せないと思った。