陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

『今だけ、金だけ、自分だけ』の世相

2018-11-23 13:45:49 | Weblog

 今日(11/23)、初雪が降った。凡そ例年通りの冬の訪れだ。

 先週の小春日和を利用して、我が家では雪囲いを頼んだ。男衆3人で2日間、立派な雪備えが出来上がった。西側窓からの日差しは著しく減り、部屋の中は暗くなった。来年4月半ばに雪囲いを撤去するまで、この状態は続く。

 さて、本日は新嘗祭である。新潟市に住む知人が送ってくれた魚沼産コシヒカリの封を切り、丁寧に水伽して炊き上げた。この米を栽培された農家の方々、そして送ってくれた知人に感謝しつつ味わった。

 今夏の猛暑で、私は体力を消耗し、その影響が今も続いている。散歩にも出なくなったし、ベッドで寝ていることが多い。TVは全く見ないし、視力低下で読書も儘(まま)ならぬ。それで、専らネット討論やネット・ニュース解説を聴いている。

 よく聞くのは、桜チャンネルの討論だ。国内外の話題をテーマに、多彩な人物が突っ込んだ議論を行う。多くのメンバーはそれぞれの歴史観と国家観を持ち、自ら海外へ出て情報を収集する能力に溢れているので、議論の内容が濃厚である。毎週土曜日深夜にテーマ更新されるが、桜チャンンルでは数年間データが保存されるので、繰り返し視聴できるのが有り難い。

 最近は、林原チャンネルを聴くこともある。河添恵子さんや馬淵睦夫氏が定期的に登場して、歴史観を語ってくれる。12月からは、田中英道・東北大名誉教授も参加されるとのこと、お話を拝聴するのが楽しみだ。

 このような討論番組の中で、誰が言ったのか覚えていないのだが、最近の世情を反映する言葉として

『今だけ、金だけ、自分だけ』

に触れていた。世相を揶揄した内容だが、中々言い得て妙である。倫理観が欠落し、公概念を忘れた人々が増えている現状を端的に表現していると思う。

 かつてローマ帝国の民衆は、パンとサーカスに現を抜かし、ゲルマン民族に滅ぼされた。そんなことを思い起こさせる迷言かとも感じる。

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西邊先生の日本人への遺言(1) (高橋秀夫)
2018-12-03 21:35:41
最近ぼうっとテレビを見ていたらリベラルvs保守だと、彼奴はリベラルだ此奴は保守だとテレビも新聞もやっている。
一体この国民は何処まで阿保になるつもりだと、それは勿論アメリカのせいなのです。
実はアメリカはリベラルを独特に定義して、元々黒人奴隷がいた社会ですから、奴隷を解放するという所から来て、抑圧からの開放、貧乏からの開放という、開放という意味でリベラルを使って、そのうちに矢張り貧乏人は生活が苦しいから、それに社会保障を配って社会保障充実を主たる政策として掲げてるのをリベラル、まあアメリカも日本もそうなのです。

 私はそれを全面否定はしないのですが、阿保かと思うのは少しは歴史を調べれば、あのリベラル論というのは、実は十五世紀のヨーロッパの宗教論から始まり、宗教改革のときは、かのマルティン・ルターが聖書に戻れという訳です。
それで彼等は自由意志を否定して、神の命令たるバイブルそれに沿って生きろと、其処に人間の自由なんて事は入らないのだと。
これも一利はあるのです。人間の自由なんか放任したら、特に私なんか何をやらかすか分からない。
西邊の自由意思は抑圧せよと、これは解分からぬじゃないけど、それに対してエラスムスという人がこんな感じですが、バイブルも大事だし、それに基づき作られた来た国の規範の様な物も大事だけれども、仮にそれを伝統と言えばバイブルの聖典の教え、それに基本と基づいて作られきた国家の規範それも大事だが、それをどう解釈しどう受け止めて、しかもそれを今という状況、フランス語でいえばSituation、日本語に訳して「状況」というのは独特の意味があって、これまでにない新しい自体、北朝鮮がどうも一発ぶっぱなしそうだとか、あれやこれやの之まで無かったこの新しい状況の中で、自分達のいわば宗教感覚から道徳・意識、習慣・習俗に至るまでをどう生かすか、と考えたら自由意志は当然出て来ざろう得ないだろうと。

 このSituationの中で、中山さんの判断と行動力と、西邊とやらの判断と行動力が必ずしも一致しない。
だから二人で議論する、どうも中山さんの方が説得力が有りそうだなと、じゃあ近づきますはという議論、何時までも議論しても他に何人か居たら取敢えず多数決で決めようとする。
 でもその多数決が絶対正しい保障が無いから、後で間違っていると判ったら、また議論しょうぜという調子の自由意志論、其処から始まっているのです。まあその宗教の話は良いとして、私はどちらかと言ったら、アメリカ的な何か抑圧からの開放の自由だと言うよりも、日本はヨーロッパ以上の歴史を持っている訳ですから、自分達の歴史をどう受け止めて、それを今のSituation状況にどう生かすか、という時の自由だと考えるべきです。新しいSituationが出て来た時に、自分達の長い歴史・文化そういった物も含めて、次にどうしたら良いかというのを・・・。

 この事をホセ・オルテガが一言で、「真の自由主義が歴史主義である事を発見したのはイギリス人である」と、パット言いのけるのです。
この言葉の意味はどういう事かといえば、詰まりイギリスというのは経験論の国で、単なる合理論理屈よりか理屈の大前提とか、理屈の枠組みは、歴史を参考する所から来るのだと。
そしたら自由で結構だが真の自由というのは、自分達の感覚の基礎になつている、自分達の言語活動の基礎になつている、会話の基礎になつている、これを支えているのは歴史じゃないのかとなる訳です。
それを確りと見極めることそれが自由主義だと、それを見極めた上で色んな考えを決めて行く。

 それが分からなくなったのは、アメリカ人を怒らせたくて言えば、歴史なき国アメリカ、そしてアメリカに私はこれを大声で言いたい。
たった一回戦争に負けただけで腰を抜かして、アメリカの真似をする事が進歩だと思い込んで72年も生きている。
この人達を私があるテレビでジャップと遣っていたら、ネット右翼から反発があつて、西邊は反日であると、日本人の事をジャップと言ったと、それで反省してそれからジャップ・ドット・コムと変えたのです。
何んなんだとこの戦後ジャップ・ドット・コムはと、アメリカの教科書に従って日本の歴史はドンドン忘れましょうと、新しく歴史を作りましょうと、お前達にそんな能力どこに有るのじゃと、その証拠に君が使っている日本語、我が発明品かと言われたら、いえ何時とはなしに親、地域、学校、書物その他で、何となく日本語は覚えましたと。じゃあ、お前の発明品じゃないのに、自由だ自由だと偉そうに言うなというと、この戦後ジャップ・ドット・コムでは大体首になる排除されるそんな物です。

 先の話の中で、その民衆主義で物事を決めて行く時に、賛成、反対で決めて行くのが良い様な・・・。
此れに対する解釈なのですけれども、不味いのは日本国憲法もそうだし、日本国民が一番利用しやすいのはまず日本語での「民主主義」でしょう、あの「主」というのは主権という意味です。「主権は国民に存する」とあの馬鹿たれ憲法に書いてある。
ところがアメリカ人の若い軍人が書いた草案でも、主権はサブリン・パワーだと、このサブリンというのは殆ど宗教用語なのです。
サブリンとは、崇高なる、絶対なる、超越的なという意味で、私は中山さんを尊敬しています、とは言えどうして我々は崇高だろうか、絶対だろうか、神にも及ぶ絶対・超越的であろうかと?
嘘コケと、お前も俺もそうだが、ろくな人生を歩んでいないだろうと、何か主権者だと、ですからデモクラシーというのは、然も言葉からしてデモというのは、元々ギリシャ語の民衆と意味で、直訳すればデモクラシーというのは民衆政治の事なのです。
それで止めておけば直ぐ答えが民主政治が具体的にどうなのかと、いや民衆が沢山参加して投票して、その中の多数決で事を決める一つの方式だよと、ああそうかいねと、遣り方、決め方なのです。決め方という意味をもっと言うと、その民衆の多数派は、私は年ですからハッキリ言います。多数派が阿保ならば、それは阿保な代表者が選ばれれば、阿保な決定やる訳でそれは当り前の事です。

 そんな事は古代ギリシャから分かっている事で、しかも皆なデマ、デマと言うでしょう。
これもメディアですが、メディアは朝から晩までデマを振り撒いていますが、日本人に君、「デマという漢字が無いのは知っているだろう」と言うと、「知っています」と、どういう訳か、ひらがなでも書かないカタカナである。
翻訳語だからであり、では何の翻訳語だか知っているのかと問うたら誰も知らない。
あれはデモクラシーのデモス民衆という意味で、そうしたらデマというのは普通、民間に流通している嘘話という意味でしょう。
言葉そのものは、民衆デーモスという者は、世間に広まっている嘘話を、広めたり、誑かされたりし易い者だと、だつてデマゴギー化してアゴーグというのは扇動者です。中山先生が若かりし時見たのが、若かった西邊がやっていたのがあれがデマゴギーです。
凄い早口で良く喋っていました。我が身が恥ずかしくなって来るくらいの、私はデマゴーグだった訳です。
そういう自分を振り返ると、何がデモクラシーじゃいと、ではそうかと言って王様ら任せますとか、少数の貴族に任せますとかいっても、まあ大して立派な王様も貴族もいないから、まあ民衆も良い所もあるのです。
 民衆の良い所は人物判断、これはお世辞じゃなくて、「中山恭子さんはこの前お顔も見たし、話しも聞いたが中々の者だぞと、信頼出来そうな人だったぞ」と、という人格判断、それ位の判断力は民衆は持っている。
政策についてですよ、社会保障費が6兆円が良いのか6兆5千億円が良いのか、そんなことこちらも忙しいし調べた事もない、それは専門家が集まって検討すれは良い話です。

 それでマニフェスト選挙だけは許せなかった、何を此奴ら言っているのかと。
トップに居たのは、あの罪深き東大総長で政治学者である佐々木 毅が先頭に立って、マニフェスト選挙を遣ろう、マニフェスト選挙というのは何か、政策の数値と期限と工程プロセスを選挙民に選んでもらう。
不思議なことに選挙民が政策を決めるのか?、じゃあ議会は何をするのか?、議会がいらないのなら何の為に選挙しているのだと。
それならお役人が、今週のマニフェストは国民諸君A~Zまであるけれども、パソコンでお好きな項目を選んでクリックしなさいと。
そうすると中央のコンピューターが演算して政策決める(暫らく政治家も議会も何もいらない)、これがデモクラシーの成果であると騒いだ朝日新聞~産経新聞、自民党はギリギリ頑張ったけれども、最後にはあんまりマニフェスト・ブームで、マニフェストなんて言い始めた時期もあつたけれどもパッと消えてしまった。

 自分達の言っていたことがまるっきりの馬鹿話である事に気が付いた。でも私から言えば気が付いた分だけ誉めてやるが、それなら一言間違っていましたと言えばよいのに、何と日本の四、五年間を無駄にしたが、ほう被りして消えたのです。
アジェンダも消えました、今でも官僚上りの江田賢治、アジェンダ政治と言いだした渡辺登美、一体こいつら何を言っているのだろうと思った。
教授会といつて東大教授をしていたから分かるのですが、格好をつけて議長が今日の教授会のアジェンダ(議事、議題という意味)は、教授連中は大体その内容を知っている。日本は落ち着いた社会で新しい事は滅多に起こらないそれなら良いのです。
 でも一方でイノベーション、イノベーションで、今日にも明日にも新しい物を持込もうと叫んでいる奴らが、アジェンダ政治、その議題は何だと言われたって、イノベーションの世界ですから、聞いたこと無いから分かりませんでは、でもアジェンダ政治も無くなった。
私が言いたいのは、政治家だけが悪いのじゃないが、政治家がやっぱりそれを鵜呑みにするという、何とかが不足というのが有ると思います。

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西邊先生の日本人への遺言(2) (高橋秀夫)
2018-12-03 21:36:25
 私が最大限強調したいのは経済人の悪です。
これを簡単に言うとイノベーション、あれはノーベルですから新しい物の中で入って行く、新しい物を創り出す事はイノベーションです。
勿論これは旧石器時代から人類は必ず新しい物を造る、でもそれが余りに大規模で急速に進んだら、古い物が急速に壊され大幅に忘れ去られ、そうすると寄る辺ない身になって行く訳です。
普通であれば、新しい物が生まれるのは人類の常ですが、でも人類の常だからといつて、新し気な物に次々と飛びついて行ったら、孰れ国家も人間の人格も、いわば基盤が無くなって底が無くなって沈没する。
新しい物はまずは程々に、石橋を二度、三度叩いて、私なら十回程叩いて、然も私の場合は渡らない、まあ進んでも良いけれども。
 
 私はウズベキスタンの大使をしていた時に、ウズベクの人の諺の中に(ソビエト連邦の中に入っていた国ですがそれでも)、「新しき家今だ建たず、古き良き物壊すまい」と、こういうのが一般の人の中に、だからソ連に占領されて共産主義思想が入って来るのですが、その時でもそういう諺を使って、皆が古い歴史をそのまま引き継いで来ているそういう国なのです。
 それは世界で少なくと勿論、何でも新しければ騒ぎたてる若者のいるのも世界の常ですが、でも世界の各界の指導層に当たる人々は、今言われたウズベキスタン的英知を何処か持っています。それはもうこの日本は、世界で一番駄目な国だと思っているのです。
そういう何て言うか、まあ表はどうであれ国家の核心の部分で、日本という物を失わないという執念が日本の人々に無いのです。
 平凡な話ですが、何度言っても誰も聞いてくれないけれども、大前研一さんという人が「平成維新の会」を作った。
その辺りから「維新政党」というのが出来てきて、良いですよ維新、私は明治維新は起こるべくして起こったと思いますが、あの維新の「維」は、これ又と読むのですが、縦糸・横糸が確り繋がっているという意味で、やはり国家の過去・現在・未来がまあ繋がっている。北海道から沖縄、離島も、まあある秩序を以て繋がっている、それが「維」なのです。
維新の「新」は孔子の言葉に、周という国が紀元前800年頃にあったらしくて、中々孔子はそれを高く評価しているのですが、「周の英知は維(こ)れ新(あらた)なり 」で、維(こ)れ新(あらた)なりが維新で、古き知恵をそのままでは状況が違いますから、そのままではいかないけれども、今の状況にあう様に新たに活かそうという、ですから温故知新と同じです。

 それが日本では維新となると、明治の頃から言葉を変えて「御一新」と言っちゃって全てを新しくする。
まだ明治の頃は真面な武士の残党が居たが、それがドンドン進むにつれて戦争に負けて腰を抜かしてからは、太平洋の向こうから流れて来る新しい物なら何でも飛びつく。
私は「こら失せやがれ」と人々に言ってやりたい、失せやがれという対象は一億何千万人もいる訳で、多勢で無勢でそれは負けるに決まっている。中山先生が最初に言われたように、デモクラシーというのは、手続き、意思決定の手続きで、その手続きから素晴らしい物が出るかどうか確かじゃないから、確りと議論し、そして結果が出たら又再検討しょうなという、何かその手続き自体に崇高さが宿る訳ではないのです。だからデモクラシー = 何か絶対の物だというのはあり得ないという事です。

 まず民主主義という訳語は止めろと、素直に民衆政治と訳せと、ついでにこら日本人よと、デーモスは民衆というギリシャ語だという事は解ったようだが、同時にオクロスというギリシャ語も憶えておけ。オクロスとは何か、衆愚であり、詰まりオクロスを放って置くと衆愚になるのだ。、ローマ帝国で言えば例の「パンとサーカス」のことです。
 民衆なんていうのは、皇帝がパンを配れば喜んで群がり、退屈するから剣闘士で、人の殺し合いとかの余興を見せてサーカスを見せてやれば、興奮する物だけれども、パンとサーカスの時代が遣って来たと言ったのは、詩人ウェルギリウスで、もうあれから二千数十年経ているのに何も変わっていないのです。
 よくもまあそんなこと位、良いんですよ私は、人間社会は良くなると大した期待も持っていませんが、そんな事は昔の人の方が良く解っていたのです。本当にそうで、これは衆愚政治になりそうだとか本能的良く知っていていました。
これは衆遇政治の一環、どこか其処にあるなんて事くらいに認識した上で対応していた筈です。

 全て多数決で決めますから51対49、51が全て決めて、49は全て捨てられる。
これも余程の事が無かったら多数決というのは、決してしない方が良いと思っているのです。
おっしゃる通りであると同時に、私はもつと言いたい。大体小学校、中学校あの頃は人間が多くて、一クラス50人でしたが、私は49対1の1でした。多数決なんて子供の時から、然も不思議ですが自慢して言うのではないですが、大体1であった私の方がどちらかと言うとまあまあ正しい事か多かった。お前ら少々自分の人生を反省しろと、お前ら50分の49は、もう20年、30年、100年経ても間違い続けているじゃないかと、少しはたまに1の奴にも耳を傾けろと。
しかしながら私なんぞのいう事に耳を傾けでいる人は、よっぽど既得な人でまあそんな物なのです。

 私は中山先生にご忠告申し上げたい。
そういう私がいうような、全くマイナスな意味での民主主義政治のど真ん中に、先生は撃って出られて、既に久しいのであるからして私の様な絶望に浸らず・・・。西邊先生は全く絶望に縁のない方の様に見えますが!
まあ笑っては暮らしてはいるんですけどね。
 私は何か根源的に其処から始まっていますから、然も途中で例のアメリカ問題が来るでしょう。
アメリカというのはそういう事の疑いを知らない国なのです。
そうなのです、而も自分は正しいと思い込んでいます。
ヨーロッパ人は今もなおそういう事を遣っているけれども、心の中で何が民主主義だいと思っていて、結構そういう割合が多いのです。アメリカじゃそんな事は考えない、その猿真似をして喜んでいるのは日本人で、中山先生以外はこの国は殆ど猿ですから。

 本当にこの民主主義の問題だけはどうにかしないと、例えば立憲民主党なんて出来ました。
私はよくもまあヌケヌケと自衛隊は合憲ですとほざけるものだ。
何処が合憲だよと、戦力を持つなんて、じゃあ自衛隊は戦力じゃないのかと、もう全て誤魔化している。
それをもう一切の議論もなしに、それで改憲には賛成、地方自治・・・よくもまあ綺麗ごとを鉋屑のようにペラペラと言えるものだ。
それに私は最近は自民党は馬鹿ばかり遣っているから応援してはいない。
どの政党がどうと言うのじゃ無くて、ヌケヌケと然も立憲民主党に反米というインテリが出て来て、おい少しは考えろと、あの憲法を作ったのはアメリカ人の中のアメリカの左翼ソフト・ソーシャリストで、あそこにこそ社会実験国家としてのアメリカの殆ど、かつてのソ連の物と本質的に大差のない国家は人為的・人工的に、ニュー・アイデアとニュー・プランニングで作り上げられる、いってみれは玩具のような物だという、それがこの憲法に集約されているの、少は頭を冷やして考えろと言いたいのです。

 楚の懐王が秦の張儀にざまされさんざな目に合わされる。
斉との盟約を大事にしていた屈原は、歯ぎしりしてくやしがった。
遂に屈原は追放されて洞庭湖のほとりをさまよつたすえ、ついに汨羅の川に身を投げて自殺した。紀元前二二三年、楚は遂に滅亡する。何か草食人種の日本人とよく似ている。
 懐王は秦に何度となく騙される、何か日韓慰安婦合意や一帯一路の誘いに乗る、安倍政権いや日本の暗い未来を示しているようである。西邊先生はかの楚の屈原の如く、堕落した日本人に身を持って奮起を促したといえよう。
それにしても、子供の頃通った塾の先生が、口癖のように国会議事堂に爆弾をもって自爆したいと話していたのを思い出す。
本当に、日本のエスタブリッシュメントにたった一回の敗戦で腰を抜かして、腑抜になつているのである。
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